戸惑う夜

名を呼んで、頬を撫でる。
その甘ったるい手順は今までと変わらない。

それなのに、妙に何かが不安だった。

口付けを誘っているのだと分かってしまうから、半屋は瞳を閉じて。
いつものように彼の口付けを受け入れたけれど、やはり何かが違う。
長く深く交わされるその口付けに息苦しさを感じながら、それでも半屋は抵抗をせずに。
梧桐が何を思うのかを、ただひたすらに探ろうとしていた。

きっと、また何かが梧桐を苦しめている。
そう半屋には分かるから。

梧桐の熱い手が半屋の胸に触れる。
薄いシャツの上から触れるその手の動きは緩やかで優しい。
だが半屋は顔を顰めた。
「ここか?」
そう問いながら何度も摩られる。
酷く痛む、青い痣を。
痛みに息を詰まらせる半屋は、それでも抵抗を示さない。
梧桐は半屋のシャツのボタンをゆっくりと外し、その胸の青い痣に再び触れた。
「酷いな…。」
そう呟きながら、執拗なまでに何度も、何度も。

多分、怒っているのだろう。

昨日、久し振りに相当な人数に囲まれて、半屋は一人でケンカをした。
全く相手になりはせず、数十分で片は付いた。
残った怪我はこの痣だけ。
半屋にとっては何ともない痛みだった。

梧桐は多分この出来事を知っているのだろう。
何故か半屋の行動はいつも梧桐に知れてしまう。
しかも昨日、半屋は梧桐に呼び出されていた。
その場所へ向かう途中に、絡まれてしまったのだ。
弱い相手ではあったが、それでも人数の多さに疲れてしまい、結局梧桐の元へ辿り着けはしなかった。

「ケンカをするな」「怪我をするな」
梧桐がいつも半屋を叱る台詞だ。
だから今日も傷を負った事に関しては怒っているのだと思う。
そして梧桐の元へ行けなかったことに対しても、多少は怒っているだろう。

ただ、今日の梧桐から感じられるのは…。
半屋への怒り、というよりは…。

「待て…。」
触れる梧桐の手が胸から次第に下りてゆくのを感じ、半屋は初めて抵抗をする。
これ以上行為が進むと、頭が働かなくなるからだ。
もう既に呼吸は乱れていて、それを整える余裕もない。
このままでは感情が流されてしまう。

「ここまできて止めるのか?」
そうからかいながら、梧桐は少し笑った。
今日初めて見る、笑顔。
あまりの弱々しさに半屋の方が笑いたい気持ちになる。

「てめぇが…そのままなら止める。」
その言葉に梧桐は眉を顰めた。
自分の変化を見抜いた半屋への驚きと、知られたくない事に触れられた焦りと不安。
普段は鈍感な半屋が、今日のように時々梧桐の僅かな変化に気が付くことがある。
自分を意識しているからこそ分かるのだと、いつもは嬉しく思う梧桐だが、今日だけはそう思えない。

今日のこの不安だけは。
半屋に気付かれてはならない。

「また何か下らない事に悩んで…」
その言葉を遮るように、梧桐は半屋に口付けた。
今度は抵抗する半屋を、無理に押え付けて。
口付けをそのままに、ベルトが外される小さな金属音に、半屋は抵抗を強めた。
微かに抱いていた不安の意味が分かり始める。
押え付ける力が強い。
抵抗に応える事もない。
名を呼ぶ事も、視線を合わせる事さえ。

今日の梧桐はただ
自身の為だけに半屋を抱くつもりなのだと。
そう、解ってしまった。



あたたかい。
半屋の肌。
通常よりもその肌を薄赤く染めた半屋の体温は、むしろ熱い程で。
触れていると何故だろうか、安心した。

体内を熱い血が流れ、生きている証。
半屋は強い。
容易く死んでしまう事など無いと信じている。
それでも。
その色の白い肌を真っ赤に染める生ぬるい血を。
その流れていく様を見る度に。
訳も分からず不安になる。

何度言い聞かせても、半屋は独りで何処かへ行ってしまう。
梧桐の手を離れて、その目の届かない場所で自分の身体を傷つける。
死への恐怖など存在しない。
ただあるのはその時々の感情だけ。
それに素直に従って、何も考えずに行動する。
それが、半屋の生き方。
半屋の自由。

梧桐は必死でその半屋を自分の手の内へ閉じ込めようとしていた。
そうして傷つかないように、自分より弱い半屋から自由を奪えば、あの赤く流れる血を、その色に染まる半屋の姿を、見る事もなくなると思っていたから。
それは半屋の為ではなく、明らかに自分の為。
半屋の傷ついた姿を見なければ、もう不安など感じる事もなくなるだろうと思っていた。

それなのに、この不安は何なのだろう。
この信じがたい感情は。
自分の身勝手な感情に、梧桐は苛立っている。
何故、こんな人間になった?
今、その苛立つ心のままに、半屋を抱いているのは。
一体誰なのか。



「やっ…あ……。」
その自身を握る力の強さに短く拒絶の声を上げる。
半屋の目が潤んだまま、真っ直ぐに梧桐を睨む。
その瞳が、梧桐は好きだった。
「嫌なのか?優しくするのも嫌がるくせに。」
そう笑うと、半屋は分かりやすく頬を染めた。
優しくすれば、涙を流して嫌がる事を知っている。
だからといって、梧桐は半屋を傷つけたくてこうして触れているのではない。
その熱に浮かされて。
半屋が快楽の波の中、目の前にいる自分だけを見てくれる事。
例えその感情が憎しみであっても。
そうして半屋の中を支配する事が梧桐の欲望だった。

快楽を引き出そうと緩やかに身体をなぞると、半屋の体が敏感な反応を返す。
一層上がる体温にまた拒絶の声が上がる。
逃げようと必死でシーツを掻く、その腕をとり、手の甲に口付ける。
半屋は首を振りその甘い感覚を振り払おうとする。
そうすることで溜まっていた涙は頬を流れ、その表情は梧桐の目にやけに煽情的に映った。

「痛てぇ…方…が…マシだって……。」
そう、いつもと同じように人の優しさを、梧桐の優しさを拒む半屋。
そう言われたからといって、梧桐には乱暴に人を犯す趣味などなく。
何より、半屋に苦痛を与える事が出来ず。
どうすれば良いのか分からなくなる。



何故苦痛を望むのか。
その態度は苛立ちに拍車をかけた。
何故自分を傷つける?
その事で、自分を思う人間が、このオレが、どんな気持ちを味わうのかなど、考えた事もないのだろう。
人の気持ちを分かれなどと、そんな幼稚な事は言わない。
そんな望みは愚かしい。
だが、どうすれば良い?
どうすれば、この気持ちを晴らす事が出来る?

呼び出した時間になっても現れない半屋がいる場所など、容易く想像が出来た。
あの場所は絡まれやすい場所だから。
いつものように半屋は見知らぬ学生に囲まれ、一人で戦っていた。
相手は数十人。
また怪我を負うだろう事など、誰が見ても明白だった。
だが、半屋が。
半屋が負ったのは、たった一箇所。
胸に残る青い痣だけだった。

何故、その事を不安に思う?
半屋は強かった。
思っていたよりもずっと、ずっと強くなっていた。
オレはただそれを見ていただけ。
その強さの前で、人の助けなど不要に思えて。
自分の力など、不要に思えて。
争いの中へ。
半屋の前へ、出て行く事が出来なかった。

半屋の弱さに、その傷付く姿に不安を感じ。
半屋の強さに、その傷付かない姿に不安を感じ。

オレは一体何を望む?
オレは、半屋の何が欲しいのだろう。

知りたくなどなかったその答え。

半屋と出会ったあの日から、求めていたもの。
オレの事をただひたすらに。
必要だと。
そう伸ばされる腕。
そう名前を呼ぶ声。
そう向けられる瞳。
オレだけを、必要としてくれる存在。
必要とされる、自分の姿。

家族の愛情をどこか必死に求めていた頃。
半屋と出会った。
自分と同じように、独りにみえたその子供。
手を伸ばす事で、容易く自分のものになると思ったのだ。
弱い半屋を守っているという意識に、自分の存在価値を感じ。
救っているという優越感に酔っていた。


孤独な半屋に自分の存在を埋め込む事で、誰からも与えられなかった愛情が手に入るのではないかと。
そんな見返りをどこか期待していた。

そして成長した今も、その幼稚さはあの頃と何も変わらない。
子供の身勝手さで。
梧桐は半屋の自由を奪っては。
傷付け、汚し、笑っていた。
その心地良さに。
その思うがままに変えた半屋の姿に。

それが、正体。
今、半屋を抱いている、最低な人間の。
梧桐という人間の。
半屋への思い。



「ひっ……あぁ………。」
いつもなら、こんな乱暴な抱き方はしない。
いくら嫌だと訴えても、梧桐の手は別人のように優しく半屋に触れる。
感じたくなどない。
梧桐に与えられる感覚など。
触れられる事で喜ぶ自分の身体など。
梧桐と自分との間に何の隔たりも無くなったような。
溶けて混ざり合ってしまったような感覚が、半屋はたまらなく嫌だった。

思わず漏れた嬌声に、羞恥で顔が熱くなる。
感じた事の無い神経質な痛みが走って、無意識に身体が震える。
梧桐との、甘い行為に慣れてしまっていた事に気が付いて、自分が気持ち悪くなった。
慣れてしまっていたからこそ、今日のこの先の行為が恐いのだろう。
身体が強張っている事を感じていても、それをどうする事も出来ずにいる。

「…くっ……っ……。」
慣らされる事もなかったそこは、中へ押し入ってくるものを過剰に拒む。
あまりの痛みに上がりそうになった声を唇を噛み締めて殺すと、発せられなかった声の変わりに一筋血が流れた。
梧桐の動きが一瞬固まる。
その理由が自分にある事など、半屋は気付くはずもない。
それでも。
力の弱まった腕や、泣き出しそうな色に変わった表情に。
半屋はその震える腕を伸ばして、梧桐の首に回した。

「半屋…?」
抵抗が感じられなくなった半屋に、梧桐は視線を向ける。
そして息を吐いて、力を抜こうと努力し始めた半屋に、梧桐は困惑する。
繋がった場所からは梧桐が動く度に湿った音が響き、息を吐く事で襲ってくる快楽に甘ったるい声まで上がる。
その羞恥心に目を潤ませながらも、それでも半屋は別人のように素直に梧桐に翻弄されていた。

半屋の変化をおかしいと思いながらも、その声を聞きたい欲に動く事を止められない。
耐えるように背けられた半屋のその表情にも、浅ましいほど性欲を煽られる。
それと同時に浮かび上がる、罪悪感。
自分の白い欲で汚れた半屋の身体が目に映る度に、内に積もるその感情を無視しながら。
半屋を快楽の淵へと追い詰める事の楽しさに没頭しようとする。

「やっ……ああ……!」
半屋が、絶頂を迎える間際の耐えきれない嬌声を上げる。
そしてその口が、音も無く動く。
救いを求めるかのように、梧桐の名前を呼ぼうとする。
その瞬間。
「目を閉じろ。」
そう梧桐は強い口調で半屋に命じた。

何かで深く口を塞がれる。
感覚だけで理解する、梧桐との口付け。
繋がった下肢から襲うこの上ない程の快感と、その声を漏らすことも許されないほどの深い口付けの息苦しさに。
梧桐の腕の中、半屋はその意識を手放した。







目を覚ますと、やはり何処にも行為の痕など残されていない。
整然とした部屋の様子に、昨夜の出来事が夢だったのではないかと、半屋はいつも思ってしまう。
それが夢であった事など、一度も無いのに。

椅子の背に丁寧に折って掛けられた制服のブレザーから、煙草を取り出そうと腕を伸ばすと、全身が痛みを訴える。
そして煙草を銜えたその唇の端が、気が付かないほど小さく痛んだ。
そっと指で触れると、傷口が少し腫れている。
ただ、それだけで。
血が流れるほどの傷であった事が嘘のようだった。

「バカ…。」
誰もいない部屋で、半屋は一人そう口に出してみる。
胸の痣もしっかりと治療されている。
こんな小さな傷にまで、梧桐は何かをしていったのだろう。
半屋の怪我を、梧桐が嫌っている事は知っていた。
だからといって自分を守ろうなどと思った事もなかったが。

本当は気が付いているのかもしれない。
昨夜の梧桐のあの荒々しさも、その行為が嘘のようなあの表情も。
全て自分の存在が引き出してしまっているという事。
それがこんな小さな傷であったり。
些細な日常の出来事であったり。
何によるものかは理解できないが。
それでもあの梧桐の弱さは、自分だけが垣間見られるものなのだろう、と。

「辛いなら、こんな事しなきゃいいじゃねーか…。」
そう煙と共に吐き出された言葉は、そのまま部屋の空気に消えていく。
行為の最中に、梧桐が何かを求めているといつも気が付く。
半屋から、貪欲に何かを求めている事。
でもそれが何なのか。
どうすれば梧桐が満足するのか。
そんな事、分かるはずもない。

ただ一つ分かる事は。
梧桐に言われるがままに目を閉じて、口付けられたその瞬間に。
頬に感じた、水滴の感触。
ぽつりと落ちて、流れていったその水の。
その正体を梧桐が知られたくないと思っていること。

だから、その閉ざされた瞳の向こうにきっと存在したはずの、梧桐の本当の姿など気が付かなかった事にする。
今、半屋が梧桐の為に出来る事は、ただそれだけ。
そんな、ささやかな事だけだった。











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