随分と長い間、この色を見ていなかった気がする。 目を覚ましたオレの目に飛び込んできたのは、一面の白。 一瞬目が眩んだほどの真っ白な世界。 やがて慣れてきた目で見回すと、そこは見たことのない広々とした部屋だった。 汚れ一つない白い壁、軽やかに揺れる白いカーテン。 清潔感溢れるベットから起き、立ち上がると絨毯の柔らかな感触が足を包む。 何処なのだろう、ここは。 少なくとも今まで生活してきたどの場所にも、こんな部屋はなかった。 「あ、良かった〜。やっと目が覚めたんだね、半屋君。」 ドアの開く音と共に、聞こえたその声。 遠い昔に聞いた事のあるような気がする声だった。 暫くしてその近付いて来た男が外人だと分かると、薄れていた昔の記憶とどうにか繋がる。 「梧桐んとこの外人…。」 名前が思い出せずに小さく呟くと、外人は大きな目を驚いたように瞬かせて、そして何故か笑った。 「もう、酷いなぁ半屋君ってば。でもそうだよね〜。ボクそういえば名前呼ばれた事なんてなかった気がするよ。」 外人は怒るでもなく、オレに話し掛け続ける。 クリフォード・ローヤーという名前だそうだ。 梧桐がよく「クリフ」と呼んでいた事を思い出す。 記憶を辿れば、多分高校時代に梧桐と一番仲の良かったやつだと思う。 整った顔立ちに笑顔を乗せて、気さくに話し掛けてくる。 不思議だ。 梧桐の事を思い出す事があれほど苦しかったのに。 クリフと話す事は全く不快ではなかった。 「ビックリしたよ!彼女と夜道を歩いてたら偶然ベンチで寝ている半屋君を見つけてさ〜。あのままじゃ危ないと思って連れて帰ってきたのにそのまま全然目を覚ましてくれないし!」 べらべらと話し続けて満足したのか、ゆっくり休むようにと促し、クリフは部屋を出ていった。 ドアの閉まる音を最後に、部屋は静まり返る。 ベットに横たわってみるが、眠る事が出来ない。 整った部屋。 清潔すぎる空気。 あまりに違う環境に、どうも落ち着けない。 「死ななかったか…。」 何となく発せられた呟きは、静かすぎる部屋のせいで妙に大きく響いた。 これからどうしようかと思う。 帰る場所はあそこしかない。 だが、折角出たのに自ら好んで帰るような場所でもない気がする。 このまま、戻らずに生きてみようか。 長続きしなくても、その場凌ぎのバイトでもして。 貧しさを辛く思う性質でもなし、それでも良いのではないか。 ただ、そうやって生きていて何になるのだろう。 生きている意味があるのか。 また情けない思いを味わうだけではないのか。 考えれば考えるほど、生きる意味のない人間だと思えるのに。 それでも、あの時のような絶望した気持ちにならない。 死んでしまおうと思わない。 気分が良い。 何故なのだろう、どれだけ自分を卑下しても苦しくない。 心が不思議なほど軽い。 いくら考えても答えなど無いのだろう。 眠れないのなら、転がっていても意味が無い。 オレは立ち上がって部屋を出た。 ホテルのようにゆったりと広い廊下。 赤い絨毯のひかれた道を、裸足で歩いて行く。 今更、自分が肌触りの良いバスローブのようなものを着せられていた事に気が付く。 光沢のある布が、動くたびにシュルシュルと布の擦れる音を出す。 数え切れない程のドア。 迷いそうな程の建物の広さに呆然とする。 「あ!ダメだよ、半屋君。ちゃんと寝てなよ〜。」 階段を上がってきたクリフが駆け寄ってくる。 改めて見ると、そういえばこいつも高そうな服を着ている。 あまり意識した事がなかったが、金持ちなのか。 こんな城みたいな家に住んでいる人間が近くにいたなんて知らなかった。 「寝られねぇ…。」 目を合わせずに言うと、クリフが「半屋君って枕が変わると寝られないタイプ?」などと暢気な事を言う。 こういう人間とは上手くいかないと思っていたが、接してみると不思議なほど悪くない。 勝手に話し続けるので間が持たないという事もないし、その言葉にも毒がなく、冗談も憎めない。 そういえば、梧桐も人付き合いがあまり得意ではなかった。 何処かオレと似ている部分があって。 クリフが、梧桐と上手くいっていたのも分かる気がした。 明るい人柄に圧倒されて、接している間は自分の事を忘れている。 過去の事や、これからの事や、何に悩んでいたのか思い出せない。 また先程のように、心が軽くなっている事に気が付いた。 「まぁ寝られないのに無理に横になってる事ないよね。お腹すいてる?良かったらボクと一緒にランチでもどう?」 空腹という事もなかったが何もすることが浮かばなかったので、クリフの誘いに頷く。 何故か嬉しそうに笑うと、クリフはオレの手をひいて歩き始めた。 妙な気恥ずかしさに顔が火照る。 手を繋ぐ、なんて何年ぶりだろう。 母親に手をひかれていた事もあったが、幼稚園の頃くらいまでだった気がする。 大人の男とは思えない手だ。 大きさはオレよりも大きいのに、子供の手のひらのような柔らかさ。 もう男になど触られたくないと思っていたのに、クリフの手の感触は何となく心地良かった。 「あれ?半屋君、顔赤いよ?ああ!もしかして手を繋いでるから?なんてね〜。」 まさにその通りなのだが、クリフは冗談で言ったらしい。 冗談ついでに繋いだ手を子供のように振って歩き始める。 いつもなら苛立って振り払うところなのに、そんな気になれなかった。 自分が自分ではなくなったようで、おかしい。 手をひかれたまま、長い廊下を俯いて歩いた。 連れて行かれた部屋は、大きな机が中央にある部屋だった。 その大きな机を椅子が20脚ほど囲んでいるが、促されて座ったオレとクリフ以外には誰が座っている訳でもない。 ランチと呼ぶには豪華すぎる食事を運んできた家政婦達もクリフに人払いされ、今は恐ろしく広い部屋に2人きり。 食事をしながらも、延々と喋り続けるクリフの声だけが部屋に響く。 その声が無ければ、この部屋は。 「何?ボクの顔に何か付いてる?もしかしてケチャップとか??」 オレの視線に気が付いたクリフが、そう言って口を擦っている。 暫く口を擦っていたクリフが、オレを見て嬉しそうに笑った。 「良かった。半屋君やっと笑ってくれたね。」 笑っていたのかと、指摘されて自分に驚く。 オレの思考に反してあまりにもクリフが暢気なので、その様子に表情が和らいでいたらしい。 恥かしくなってしまったオレの表情に、クリフは「可愛い」などと言った。 そういえば昔から、こいつはオレの事も梧桐の事も、全く恐れずに話す。 「可愛い」なんて初めて言われた。 「本当はボクの事、可哀想…とか思ってた?」 目を細めたまま、穏やかな声でクリフがオレに言う。 表情を覗き込まれる。 隠し事が下手な事くらい、自分でも分かっている。 特にクリフには、嘘を吐いても見抜かれそうな気がして、オレは黙って頷いた。 「昔はボクもそう思ってたよ。こんな広い部屋で一人座って食事、なんて寂しい〜とか。両親と食事をする事なんて無くて、いつもこうだからね。でもね、今はそんな風に思ってないよ。恵まれた生活をしていると思うし、傍にいなくても両親はボクを大事に思ってくれている。それに良い友達だっているし。ボクは一人じゃないから。」 明るくオレの同情を否定していたクリフの顔が、急に曇る。 寂しそうにオレを見て、続きを口にした。 「全部ね、気付かせてくれたのはセージだよ。」 何故かオレの目をじっと見る。 その視線の意図が分からずに、オレは目を逸らした。 それでもクリフは視線を向けていたが、そのうち溜息を吐いて机に突っ伏す。 「やっぱりね〜。半屋君もセージと会ってないんだよね〜。もう何処行っちゃったのかなぁ…。」 クリフの不可解な言葉に疑問の表情を向けると、オレなら居場所を告げられているのではないかと少し思っていたのだと言う。 「梧桐なら…まだ海外にいるんじゃ…。」 オレが当然知っているものとしてクリフにそう言うと、クリフがまた驚いたように大きな目を瞬かせて。 「海外!?」 そう、大声を上げた。 誰も知らないとは思わなかった。 梧桐が日本にはいない事。 きっとオレ以外の人間とは交流があって、別れを告げて日本を離れたのだろうと思っていた。 梧桐が行方不明になって。 親しかった誰を訪ねても居場所が分からずに。 クリフは相当探し続けていたらしい。 オレの携帯を見ていたクリフが、突然涙を流した。 「何だ…そっか…。ブラジルだね、きっと。薄情だよ…セージ。教えてくれないから、ボク…。」 どれほど、クリフが梧桐を心配していたのか、真意を掴めずに不安に思っていたのか、悲しんでいたのか。 伝わってくるようで、痛かった。 きっと、別れを告げられたオレよりも。 訳も分からずにいたクリフの方が辛かったのだろうと思う。 「そうだ。半屋君、ボクの家で一緒に暮らさない?部屋なら余ってるし、本当はずっと寂しかったんだ。分かってはいても、やっぱり誰かが傍にいてくれる方が楽しいからさ。」 思い立ったように顔を上げて、突然クリフはそんな誘いを始めた。 涙を拭いて懸命に笑顔を作る様子が、まだ痛々しく映る。 ここで誘いを断れば、もっと悲しませる気がして。 オレは頷いた。 この先どう生きていこうかと迷っていたが。 クリフが望んでいるのなら、この場所に居ても良いような気がして。 その時、オレは突然の誘いに疑問を抱きつつも。 その誘いの真意には全く気が付けなかった。 あれほど他人に抱いていた、警戒心がまるで薄れていて。 そうだ、この腑抜けた状態は高校の頃の。 梧桐と妙に馴れ合ってしまっていた頃のオレと同じ。 クリフと出会い接している内に、そんなオレにいつしか戻ってしまっていた。 結局オレは、いつでも梧桐の手の内で、一人もがいて生きている。 例えその存在が傍に無くとも。 何も変わらないのだと。 まだこの時は気付かずに。 「案内する」と嬉しそうにまたオレの手を引いたクリフに、ただ黙って連れられて行った。 |