狂気の国
−花の下にて君と笑う−
人はその池を「龍神の住む池」と呼び、恐れていた。 神の住む池を恐れるとは、失礼極まりない話である。 だが、この治世において、人の心はそれほどまでに汚れていたのだ。 龍神の住む池。 そこは、心清き者の願いを叶え。 心醜き者を罰する、と伝えられていた。 オレはそんな話は信じていなかった。 だが、母に先立たれたその夜、オレはその池の前にいた。 何を願うつもりも無かった。 恐れられ、誰も近寄る事のない。 その池は何時でも静かで、オレにとっては心休まる場所であったから。 オレは、ただ。 泣きたかったのかもしれない。 父の記憶など、オレの中の何処を探しても存在しない。 それは父が、母を。 オレを産んですぐに捨てたからだった。 この国で、父の権力は絶対であって、女を一人捨てたところで決して誰も父を責める事はない。 当人である、母でさえも。 オレには父と過ごした記憶など存在しない。 だが、その姿は国の中心に常に存在し。 オレはその男を、この国でただ一人。 誰よりも深く憎んでいた。 もしオレの心が清らかであって。 龍神が願いを叶えると今言えば。 オレはきっと「父を殺せ」と、そう頼むだろう。 だが、そんな事は有り得ない。 こうして息が詰まるほど、父への憎しみばかりに支配されているオレは。 心醜き者だろうから。 もし龍神が存在するのなら、オレは罰を与えられる。 それは死であるのか、死よりも辛い苦しみであるのか。 そんな事は知る由もないが。 構わない。 オレの命など、どうなろうとも。 どんな苦痛を受ける事になろうとも。 唯一愛していた母親は死んでしまったのだから。 もう何も、オレには残されていないのだから。 いっそ、この水に沈んでしまおうか? 足を浸すと、不思議とその水は温かく。 人の体温に包み込まれているようだった。 悪くない。 このまま心地良い水に沈み、怒りや、憎しみや、悲しみや。 そういった消える事の無い苦しみを、全て忘れてしまうのも。 この世に独り生きていくよりも、ずっと楽な事なのではないか。 そのまま水に身体を横たえると、分厚い着物に水は染み込み、重くなったオレの体はあっという間に沈んだ。 最後に見たのは、揺れる月。 水の中、水面を通してもなお、その光は美しく。 白く白く、清らかだった。 |
「梧桐!何時まで寝てんだよ。客が来たみてぇだぞ!」 その声と共に頭に走る激痛。 相変わらず、何という乱暴な起こし方をするのか…。 オレの頭を足蹴にする。 その失礼な足を掴むと、驚いたように反応を返す。 「てめぇ!離せこのバカ!!起きたなら、さっさと支度……!!」 オレがその足を掴んだまま、つま先を軽く舌で舐めると、その感触に身震いした体がひっくり返る。 派手な音と共に苦痛の声。 相当可笑しな倒れ方をしたのだろう。 その様子が見られなかった事が非常に残念だ。 「何だ?そんなに腰を抜かすほど感じたのか?覚えておこう。」 そう笑うと、また足蹴にされた。 そして、どすどすと離れていく足音。 オレは何故か笑いが止まらない。 この乱暴者の名を、半屋という。 水に沈んだあの日。 記憶はそこで途切れ、何も覚えていない。 とにかくオレは生きていた。 そもそも、あの池に行った事自体が夢であったのかもしれない。 目を覚ますと、そこは母と住んでいた見慣れた屋敷の中で。 半屋が、いた。 眠っていたらしいオレを今日のように起こしに来た。 色の白い肌に、人間とは思えない透けるような色のない髪。 オレを見下ろす金色の瞳も、獣のようで到底人間とは思えない。 だが、その見知らぬ男を。 オレは「半屋」と呼んだ。 昔から共に生きてきた者の様に、 極自然に「半屋」と呼んだのだ。 |
客が来ると、半屋はいつも何処かへ消える。 今日もまたオレを起こした半屋は何処かへ消え、それと入れ変わりに客が現れた。 つまらぬ客であった。 その用件はいつもと同じ。 「帝がお呼びです」というものである。 その帝とやらは、オレの笛が聴きたいらしい。 母から教わった、笛。 オレはその音色も、それを吹く事も心地良く、好きであった。 だが。 帝と呼ばれる、あの男にだけは、決して聴かせたくはない。 母の音。 オレのその音を、一度だけ偶然耳にした男は、大層美しいと誉めた。 そして何度でも使いを寄越す。 もう一度聴きたいと。 オレの何倍も美しい音を、母は幾度となく捧げた。 その母を、自ら捨てたくせに。 欲しい物は何でも手に入ると、そう思っている。 あの男にだけは。 聴かせてやるものか、と思う。 苛立ちが晴れない。 使いの者に罪はない。 そう思うと心苦しくもあったが、頑なに断り続け追い返した。 そして静まり返る空間。 人の気配は全く存在しない。 それでも。 「半屋!」 そう、呼ぶ。 いつも声を荒げて呼んでしまうのは、恐れからだろう。 もしかしたら、もう現れないのかもしれないと。 この屋敷には、やはり自分しか存在していないのかもしれないと。 いつだって、そう思う。 半屋が傍にいなくなると。 ただそれだけで、こんなにも。 静かな空間をぶち壊すかのように、派手な足音を立てて現れる。 「半屋」という、存在。 「んだよ!そんな大声で呼ばなくたって聞こえ…ってオイ!!」 半屋に凭れ掛かると、殴られた。 殴られたが、それだけだった。 オレの重みで半屋はよろけてしまったらしく。 柱に頭をぶつけたらしい、何だか鈍い音がした。 痛そうな音だった。 それでも、それだけ。 「痛てぇ」だの「離れろ」だの、何だか聞こえているような気はするが、それだけ。 半屋からは、いつだって。 拒まれているという不快感が伝わってこない。 怒鳴られていても、殴られていても。 オレはここにいても良いのだと。 そう、感じる。 温かい。 人とは思えぬ、その存在は。 それでも温かいのだ。 「嫌な客だった。」 そう言うと、半屋は「だから何だ」と返す。 何でもない。 自分でも訳が分からない。 ただ、半屋に寄りかかりたいと思っただけ。 可笑しな話だ。 オレは何だか笑ってしまう。 半屋が訝しげな目でオレを見ていた。 「嫌な客だったから、寝る。」 オレは目を閉じる。 半屋はまた何か怒っているが、聞こえない。 水の音。 温かい半屋の胸元に耳を付け、目を閉じると。 聞こえるのは、水の音。 鼓動ではない、鼓動のように規則的な水の落ちる音。 ああ、眠い。 何故だろう。 眠い。 何も考えられなくなる。 |
目を開くと、白い色。 少しして、それが半屋の顔だと気が付く。 しかも怒っている。 相当、怒っているようだ。 「やっとお目覚めかよ…。」 怒りに震えたその声。 オレは状況が把握できずに辺りを見回す。 それでも訳が分からなかったので、 「おはよう。」 と、言ってみた。 殴られた。 そしてぎゃんぎゃんと喚かれた。 オレは半屋に寄りかかってそのまま何時間も眠ってしまっていたらしい。 重みに耐えられずその場に座り込んでしまった半屋は、そのまま動けなかったそうな。 膝枕、という状況に陥ってしまって。 しかもオレの手は、がっちりと半屋の膝で布地を掴んでいたらしく、逃れる事が出来なかったそうだ。 「てめぇは子供か!」と怒鳴られたので、「子供だ」と頷いてみたら、更に強く殴られた。 だが、しかし。 「もう手も離しているのだから、逃れれば良かろう?」 オレは体を起こして、そう問うてみる。 半屋の顔がさぁっと赤く染まる。 そして、そのまま俯いてしまう。 ああ、なるほど。 足が痺れてしまったのか。 オレはまた笑ってしまった。 「逃げられないのだな?」 そう言うと、悔しく思ったらしい半屋は無理に立ち上がろうとする。 そして、失敗する。 そのままへたり込んでしまう半屋に近付く。 近付いて、口付ける。 触れた唇はやはり温かく。 柔らかで心地良かった。 そのまま、永遠に触れ合わせていたいと思うほど。 半屋に殴られて、顔を離す。 「ああ、すまない。」 オレはそう、短く謝罪する。 何故口付けなどしてしまったのか。 自分でも分からないので、このようにしか謝りようがない。 ふと顔を上げると、半屋の目が潤んでいる事に気が付く。 「何故、泣きそうな顔をする?」 その問いに、半屋は首を横に振る。 そのまま、俯いた半屋の頬を伝う涙。 「どうした?」 もう一度問いかけると、また首を横に振る。 そして。 「痺れた足が痛ぇだけだ。」 などと、見え透いた嘘を付く。 オレは半屋を抱きしめてやりたくなった。 その思いに従って、半屋の頭に手を添え、そのまま胸元へと引き寄せる。 半屋はやはり逃れようと暴れ出したが、オレは決して離したくないという強い思いに駆られ。 離さない、と力を込めた。 「半屋。今度はお前が眠ると良い。」 子供をあやす様に頭をゆっくりと撫でると、やがて抵抗は止み、半屋の呼吸が規則的になる。 その体温は更に温かくなり、オレは心地良さに目を閉じる。 ああ、また眠ってしまいそうだ。 何故こんなにも、半屋の傍は心地が良いのだろう。 まるで母親に抱かれているような、温かな。 安らぎ。 |
ふと気が付くと、また眠ってしまっていたようで、空の色が違っている。 その時。 腕の中の温もりに、半屋をまだ抱いているのだと気付く。 もう起きているらしいが、オレが起きた事には気が付かない様子。 何故なら、オレの腕の中、また肩を震わせて泣いているからだ。 オレは眠っている振りをした。 半屋をこのまま泣かせてやりたく思い。 そして、こうして抱いていたいと思い。 「……んでだよ………。」 胸元から、小さく聞こえる半屋の声。 消え入りそうなその声に耳を澄ます。 「なんで…こんなに傍にいんのに、分かんねぇんだよ……っ!」 そう掠れた声を発し、オレの胸元を力無く殴る。 全く衝撃を感じなかったその一撃が、妙に痛く感じた。 オレを責めていると、そう感じたから。 「半屋。」 名を呼ぶと、その身体が過剰に反応する。 オレを恐る恐る見上げる顔。 青ざめているその半屋の顔に、言葉がつまる。 だが、聞くべきだろうと思う。 今まで問わなかった全ての事を。 半屋と生きている、この心地良い世界が壊れる事になる気がして。 それを恐れていたけれども。 心地良いのは自分だけで、半屋は苦しんでいるのだと。 知ってしまったのだから。 「半屋。何を泣く?もう話しても良いぞ。」 涙で濡れている半屋の頬を撫でながら、オレは笑った。 こうして穏やかに笑えるようになったのも、半屋の存在があったから。 今度は、オレが何かをしなくては。 もうオレは、十分与えられたのだから。 「記憶を、戻してくれ。オレは半屋の泣く理由を知りたい。お前の全てを…。」 オレは知っていた。 あの夜の事が夢ではなかったと。 水に沈んで、オレは死んだはずなのだと。 だが、その先を思い出す勇気がなかった。 半屋を、失いたくなくて。 目を閉じて、半屋の額に自分のそれを当てる。 記憶を取り戻す方法だと、何となく分かった。 止めようと半屋が身じろぐ気配を感じる。 その腕を掴んで、一度だけ目を開く。 これほど傍で、その金色の瞳を見たことはなかった。 深く透けるその中へ吸い込まれていくようだ。 「もう良いから」ともう一度。 拒む半屋のその瞳から。 触れ合わせたその額から。 伝わっていくようにと、想いを込める。 その潤む瞳に、光がゆっくりと揺れて。 震えながら閉ざされて。 背中に温かさを感じる。 半屋が背中に手をまわしてくれたのだと分かった。 そのまま、意識が沈んでいく。 半屋の額から流れこんでくる、水の音。 あの鼓動の音ではなく、もっとゆったりとした…。 ああ、これは。 水に沈んだ時に聞いた音だ。 |
水の中で、たゆとう感覚。 これから死んでしまうのだろうに、息苦しさは感じなかった。 ゆらゆらと揺れる心地良さの中、たった一つだけ。 何となく、それが欲しいと思った。 もう届かない水面に向って、手を伸ばす。 手に入るはずもない。 遠い月に。 その時。 「何故、死のうとするのですか。」 そう、頭の中に声が響く。 これが噂に聞く、龍神という存在か。 出会ってみると、それほど驚きはなかった。 居るはずなど無いと、そう思いながら、何処か信じていたのかもしれない。 どんな願いも叶うなどという、絵空事を。 「疲れた。」 ふと発せられたのは、そんな言葉だった。 生きる事に疲れたなどと思うほど、長い間生きてきた訳ではない。 そうではなくて。 父親への憎しみや、母を失った絶望や。 生きていく限り消えない、様々な感情を。 感じ続ける事に疲れたのだ。 もう、誰かと接する事も。 言葉を発する事も。 考える事も、思う事も。 何一つしたくはない。 何一つ、望むものがない。 「それは、嘘ですね。」 揺らぐ事の無い、深い声。 オレが眉を顰めると、笑った気配がした。 「あなたには、望むものがあるはずです。さぁ、教えなさい。」 そう問われても、願いなど無い。 こうして死を前にして、「父を殺せ」などという言葉は出なかった。 自分が死ぬのなら、誰がどうなろうと関係ないからだ。 本当に何も無いのだと告げると、龍神は言う。 「ではあなたは何故、死のうとしているのかを考えてご覧なさい。」 それは苦しいから。 生きて感じる事の全てが苦しみばかりで。 楽しい事、幸せな事など何もない。 いや、そう感じられなくなったのか? 昔は笑った事もあったかもしれない。 母が生きていた頃。 小さな出来事、一つ一つに何かしら感動して。 その世界は違っていたのかもしれない。 母の苦しみを知るようになってからは、その苦しみばかりを共有している気になって。 その笑顔を見ても、それが痛々しいものに感じられて。 いつしか、笑えなくなっていた。 時は流れ。 季節は移ろい。 美しく花々は咲き。 眩しいほどに日差しは地を照らし。 葉は赤や黄に色を変え。 冷たく死んだような世界でさえ、白く柔らかなものに覆われて。 目まぐるしく移りゆく全ての中で、オレの内面だけが死んでいって。 冷たくて。 その内面のように、肉体も朽ちてしまえば良いと。 だが、考えてみれば。 そんな事は望んでいない。 冷たくなってしまった内面を。 与えられる苦しみを、好んでいるのではない。 オレは人間で。 人間なら、苦痛よりも、心地良さを好むのだ。 それを感じられる日など、もう訪れないと思っていた。 望む事を忘れていた。 「寂しいのです…。」 そう、単純な事。 この苦しさは「寂しい」という感覚だったのだ。 「誰もいない。誰も傍にいなくなってしまった。」 母の事は愛していたけれども、だからこそ苦しかった。 傍にいると、父を憎んでいなければならないようで。 同じ苦しみを感じていなければならないようで。 でも、その存在を失えば、やはりオレは一人きりで。 オレは、子供の頃。 何も知らずに、母から感じていた安らぎを。 そして、思い出せない大切な何かを。 もう一度、手に入れたいと思った。 「手が届かないのです。あの懐かしいものに。」 もう一度手を伸ばす。 水面に揺らぐ、月の光に。 美しいだけではなく、何故か懐かしいその光。 その揺らめきを見ていると、心地良い。 いつまでも見ていたい。 あの頃のような安らぎを覚える、この清らかな月の光を。 「あの月が、欲しいのです。」 |
「起きろ!また客が来たみてぇだぞ!」 頭に走った痛みに目を覚ます。 オレの頭上には、やはり白い足があった。 また足蹴にされたらしい。 その足を素早く掴むと、今度は思い切り引き寄せた。 「なっ…!?」 また鈍い音がした。 こう何度も頭を打っていては、本当の馬鹿になってしまうのではなかろうか。 そのまま掴んだ足を引き、ずるずると傍に寄せる。 「てめぇ!寝起きからよくそんな馬鹿力が…っ!」 転がったまま傍に寄せた半屋の上に跨り、その煩い口を封じる。 唇を触れ合わせているその隙間から、抗議をするような声が漏れ聞える。 それを無視して深く口付けると、段々と抵抗が弱まっていく。 半屋と口付けをするのが好きだと、そう思うようになった。 半屋が自分に触れられる事によって熱くなっていく様が好きだ。 そのまま、もっと半屋に触れたくなって首筋に手を滑らせると、びくりと身体が揺れる。 再び漏れ聞えた抗議の声に、今度は口付けから半屋を解放する。 呼吸を整えるのに時間がかかってまともに言葉を発せられない半屋に、先に意地の悪い言葉を吐く。 「死人に触れられるのは、冷たくて嫌か?」 半屋の瞳が辛そうに一瞬揺れる。 そして、その視線は恨みがましいものに変わった。 「信じらんねぇ…。」 そう不機嫌そうに呟いた半屋は。 それでも、それだけで。 抵抗する事も、抗議の声を上げる事も無かった。 確かに、こんな卑怯で、無神経な事を言うのはオレくらいのものだろう。 半屋と額を触れ合わせたあの日から、恐らく3日程の時が流れたのだろう。 半屋から得た記憶はあそこで途切れて、それ以上は何も分からなかった。 オレが何を手に入れたのか。 何故、月の光を懐かしいなどと思ったのか。 結局は何故半屋が苦しんでいるのかも、何もかもが分からないままだった。 確かになったのは、オレがあの日、池に沈んだ記憶は事実だったということ。 そして、もう一つ。 半屋が触れられるたび、口付けられる度に悲しそうな表情をした理由は分かった。 ずっと半屋の体温を、熱いほど温かいと感じていた。 だが、本当はそうではなくて。 オレが、冷たかったのだ。 あの後何があって、どうしてオレはここで生きているのだろうと不思議に思い。 ふと、自分の全身に触れてみて気が付いた。 何処を触っても体温が同じだ。 温かいはずの場所にさえ、熱がない。 血が通っていない。 動いていて、五感も全て働くが、生きてはいない。 だから、半屋に触れるとこんなにも温かく感じるのだ。 それは逆に、半屋にとっては冷たいという事。 口付けても、抱きしめても。 その行為から伝わってくるのはオレが死人だという冷たさだけで。 それが、辛かったのだろう。 「オレは、ここに居て良いのだな?」 途切れた記憶の中から目覚めたオレは、半屋にそう問うた。 半屋は少しの沈黙の後、分からないほど浅く、頷いた。 それだけで十分だと思った。 何が半屋を苦しめているのかはまだ分からない。 だが、それを半屋は知られたくないと思っていて。 その苦しみを抱え続ける事になっても、構わないと。 オレが傍にいても構わないのだと、許してくれたのだと感じた。 それが、オレには嬉しかったから。 何より。 オレがまだ、半屋の傍にいたかったから。 「半屋。お前はオレのものだ。」 そう囁くと、さぁっと白い頬が染まる。 「変な事言うな、馬鹿」と悪態を吐いたその口は、そのまま引き結ばれて。 触れられた場所から湧き上がってくる甘い感覚で声が上がらないようにと、懸命に閉ざされた。 まだ何も思い出せはしないけれども、オレの傍には半屋がいる。 きっとオレは、願いが叶うというその池で、半屋を手に入れたのだろう。 何故なら、寂しさに潰されそうだった事が嘘の様に。 今は生きている事が幸せに思える。 あの時の望みが。 半屋によって叶えられているのだから。 ふわりと、薄桃色の花びらが半屋の白い胸元に落ちる。 そのまま伝い落ちていく様は、オレの目にやけに扇情的に映った。 風の吹き込む方へ目を向ければ、外は暖かそうな日差しに満ちていて。 その明るい庭を、更に美しい色に染める、桜の木の存在を知る。 母の庭にあれほど立派な桜があった事も、今日までオレは忘れていた。 更に下へと手を滑らせると、半屋の体温が更に上がって。 その肌は先程の花びらのように、ほの赤く染まっていった。 オレは、初めて。 誰にも言った事の無い言葉を口にする。 「好きだ、半屋。」 驚いたように一瞬見開かれた半屋の瞳が、戸惑うように揺れて。 そのまま、背けられる。 また「馬鹿」だと言われてしまう。 あまりの恥ずかしさにそれ以上は何も言えない様子の半屋に。 オレは繰り返し、その言葉を囁く。 「好きだ。」 そう口にすればするほど、心地良くて。 オレは何故だろうかまた、笑ってしまった。 |
「この馬鹿!客だって起こしてんのに何すんだよ、変態!!」 乱れていた呼吸を整えた半屋は、開口一番こうオレを罵った。 何度も「馬鹿」だと言われているが、半屋には言われたくないものだ、と思う。 「何を言うか。貴様が大層気持ち良さそうに、あられもない声を上げるからいかんのだぞ。」 そう言うと、半屋はすさまじい勢いで赤面して。 オレに渾身の力で蹴りを入れた。 「ブッ殺す!!」 そう怒鳴っている半屋の表情さえ、どうも愛しく思えるから不思議だ。 殴りにかかったその腕を取り、胸元へ引き寄せると「いい加減にしろ」と怒られる。 だが、沸いてくる欲に「加減」などない。 離せともがいている半屋をそのまま強く抱きしめて。 抗う声など聞えないかのように、半屋に語りかける。 「不思議だな。桜の花を見ていると、懐かしい気がする。お前に好きだと言う事も。」 そう言うと、半屋はまた驚いた表情を見せる。 そのまま言葉を次げないでいる半屋を、オレはそのまま押し倒した。 「オレの意味深な言葉に油断したな、半屋。」 そう意地悪く笑うと、身の危険に気付いた半屋がオレの下で暴れ始める。 思い出したように必死で抵抗をし始めた半屋を、オレは全く逃す気は無かった。 桜の花の下で、いつかお前に「好きだ」と言った。 そして、オレは笑っていた。 今日のように、その白い頬はほの赤く染まって。 そんな映像が、ふと浮かんで消えた。 風に揺れる、その花を見て。 何だか多くのものがオレの中で欠けていて。 結局何も思い出せてはいないけれども。 今は、それでもいい。 その思い出せない「いつか」のように、オレは美しい花の季節に笑っている。 半屋の傍で、その愛しい存在に触れて。 例え明日この身体が朽ちてしまうのだとしても。 今、この一瞬に感じている幸せが、オレを満たせばそれで良い。 半屋。 お前が傍にいてくれるのなら、ただそれだけで。 |