雪は消える 手のひらの中

 

降りてくる雪を手の中にそっと掴まえる。
開いて覗くその手のひらには、何も残ってはいなかった。


 

雪を、ただずっと見ていた。

「寒いでしょう?」
優しく問う声。
顔を上げてオレは首を横に振る。
「寒くはない」
そう言うと、母は屈んで、座りこむオレにショールを掛けてくれた。
「帰りましょう?家の中は暖かいわ。」
オレの手を握った母の手は、オレの手よりもずっと冷たかった。

家の中は暖かい。
それは嘘だ、とオレは思う。
あの家に帰り、あの張り詰めた空気の中で過ごすよりは…。
この静けさの中、ただじっとしている方が何倍も心が休まる、そう思う。
それは母にとっても同じ事のはずなのに。
何故母はオレの手を引くのだろう。
「帰りましょう」と微笑むのだろう。

オレは立ち上がらなかった。
「母さんは帰った方がいい。身体に悪いから…。」
顔を背け、オレはまた空を見上げた。

母はそれでも帰らなかった。
オレと一緒に帰るのだと、そう言った。

 

冷たい物が顔に触れ、滑り落ちていった。

何かと思って目を開くと、それは細い指先。
隣に眠る、半屋のものだった。
「寝相の悪いサルめ…。痛いではないか。」
そう言っても半屋は寝息をたてるだけ。
独り言を言ってしまった自分が何だか可笑しくて、少し笑う。

外は雪が降っている。
昔の事を思い出したのは、この雪と、半屋のせいだろう。
半屋の冷たい指先は、いつも母を思い出させるから。

 

雪を掴んでは手を開く。
何も残りはしないのに、何度も何度も繰り返した。

「勢十郎、帰りましょう?」
ずっと静かに傍にいた母が口を開いた。
「オレは帰らないから…。母さんは早く帰ったほうがいい。」
そう言ってもやはり母は帰らない。
また、雪を掴んだ。

「そんな事をしては可哀相よ…。」
母がそう、思いがけない事を言った。

「手のひらの雪、消えてしまっているでしょう?温かい人の手の中では、雪は消えてしまうのよ。」
そう言うと、母は手を開いた。
その冷たい手のひらの上でも、やはり雪は解けて消えた。

「雪は消えて水になるでしょう?雪はね、水の家族なの。こうして空から降ってきて、地面へ帰っていくの。」

「帰る?」

「そうよ。だから掴まえてはいけないわ。地面にいる沢山の家族の元へ早く行きたくて、一生懸命空から降りてくるのだもの。家族の傍に帰りたくて…。」
そこまで言って、母は口を閉ざした。
その意味にオレは気が付かない振りをした。

「帰りましょう?」
もう一度そう言って、母はオレの手を取った。
オレの手のひらから、掴まえていた水が流れていった。

オレの手から逃れて、帰っていったのだ。

「キレイね。」
一面の雪景色に、母はそう言った。
オレは頷いて、「だから掴まえたかったのだ」と言った。

 

1年後、母は土へ埋められた。

その日も雪が降っていて、オレが手向けた花にも、母の眠るその土の上にも、白い雪は積もった。

解けずに積もるその雪が、母がもう人で無くなってしまった事を告げていた。

オレには帰る場所が無くなったというのに。
頬を伝った水も、やはり土へと帰っていった。

 

隣りで眠る半屋の、その冷たい指先に口付ける。

「何故、お前は逃げないのだ…。」
そう、口に出してみた。

雪の日になると、いつも俺は半屋に会いに行く。
そして、自分の為に、掴まえて抱きしめる。
何故か半屋は抵抗しない。
雪の日だけは抵抗しない。
俺がどんなに好き勝手なことをしても、黙って抱かれていた。

「逃げないと、本当にオレのものになってしまうのだぞ。」

このままでは。
俺は半屋に帰る場所を求めてしまいそうなのだ。
初めて見付けた心の休まる場所。
ありのままの自分でいられる場所。
傍にいたい。
もう離したくない。
そう、自分勝手に思ってしまう。

何て愚かな事だろう。
また俺は、帰る場所のあるものを掴まえようとしているのだ。

「半屋…。」

傍にいたいと思う俺を、許してくれるだろうか。
いつかきっとお前は誰か別の人間の元を、帰る場所に選ぶのだろう。
その日が来たら、俺はお前を逃がさなくてはならない。
明日かもしれないその日を恐れて、俺は弱くなっている。
こんな俺を、許してくれるだろうか。

「梧桐。」
立ち上がろうとした俺の手を、冷たい手が掴んだ。
「何処へ行く。」
寝起きとはいえ、力の無い声。
あまりの半屋らしくない声にからかいたくなる。
「寂しいのか、半屋。安心しろ、まだ傍にいてやるぞ。」
そう言って笑っても半屋はおとなしかった。
雪の日の半屋はどうもいつもと違うので調子が狂う。
などと思っていると、掴まれていた手を強く引かれた。
油断していたせいで、半屋の方へ倒れ込む。
思わず顔が熱くなった。
「何をするのだ!このバカザルめが!!」
「バカはお前だろ…。」
半屋は倒れた俺に掛け布団を掛けた。
全くもって理解できない半屋に珍しく困る。
「寂しがってんのはてめぇの方だろ。」
そう、言われた。

驚いて更に顔が熱くなった。
部屋が暗くて良かったなどと、間抜けな事まで頭に浮かんだ。
混乱して、半屋の上から退くことすら忘れていた。

半屋が少し笑った、気がした。

「寒いんだから離れんなよ。ほら、いい加減寝ろよ。」
そう相変わらずの眠たそうな声で、半屋が言った。


外は雪が降っている。
その雪をやはり俺はキレイだと思った。
そして、そう思える今日の自分を幸せだと思った。


抱きしめても消えないお前に安心する。
弱い俺のまま、眠りにつく。

明日は強い自分に戻ると、お前に誓いながら。
幸せな眠りにつく、冬の夜。