それは雨の降る、肌寒いある日。
向かいの校舎の廊下を歩く半屋の姿。
まさか凝視する訳にもいかず、ほんの一瞬だけ見たその姿は、別に特筆すべき点の無い。
いつもの、見慣れた。
だらしのない姿だった。

寒いんだか熱いんだか。

一人でいると広い生徒会室。
その静かな室内で、何も考えずに仕事をするのが好きだった。
気心の知れた人間と、共に過ごす時間は勿論好ましい。
賑やかな場も嫌いではない。
ただ、今の自分には、こうして一人になる時間が必要である事も分かる。

今日は、雨の音がする。
静かな室内では、激しさも無くただ降り続ける雨の音が、やけに鮮明に聞こえた。
その音は決して不快なものではなく、苛立ちを誘う事もない。
ただ、今日は。

「寒い…。」

誰もいないのに、意味も無く声を出す。
雨に濡れた制服が、まだ体温を奪っていた。
だからといって、脱ぐわけにもいかないし、一人きりの室内で暖房を入れるなど、そんな甘えた事も出来ずにいた。
初めてだ。
こんな風に寒さを辛く感じるのは。
傘を忘れた事など無い。
だからこれほど雨に濡れたことも無い。
ただ、今日は。

雨の音は寒さを助長する。
冷たい音なのだと、初めて知る。
寒さで手が強張るのも初めて。
パソコンを打つ指も、思うようには動かせない。
捗らない仕事に溜息をついて、せめて制服が乾くまで、手を休める事にする。

何をするでもなく、ただ居るだけの生徒会室は、静かすぎて思考を暴走させる。
余計な事は考えたくない。
そう思うのに、やはり無心でいるというのも難しいものだった。
何となく、雨に濡れた原因について考えた。
誰が悪いのかといえば、自分が悪い。
半屋をからかった自分が悪い。



登校中の半屋を見付けた。
いつものように湧いた、構いたい衝動。
だからといって、今日は抑えるべきだった。
雨は、突然降り始めたのではない。
昨夜からずっと、降っていた。
土がすっかり柔らかくぬかるむほど。
ずっとずっと降っていた。
それなのに、声を掛けた。
いつもと同じ展開で、後はあまり覚えていない。

子供のようにケンカをしていた時。
雨が降っている事など忘れていた。
ただ自分に挑んでくる半屋の事だけ。
馬鹿みたいに思っていた。

耳に入ってきた予鈴の音。
何事も無かったように、半屋にケンカの終わりを告げて。
そして、歩き出す。
振り返らないようにしようと思った。
いつも、そう思っていた。
だが今日は、数メートル歩いたところで、足が止まる。
雨で濡れた道に一度半屋を倒してしまったから、制服は大丈夫だろうか、とか。
そもそもこんな雨の中、相当半屋も濡れてしまっただろうから。
昔は身体の弱かった記憶が甦ったり。
寒がっているのなら、もう少しからかおうか、などと思ったり。
そんな、心配だか好奇心だか、よく分からない感情が無意識に身体を動かしていた。



仕事の手を休めてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
深い思考の中からふと室内に意識が戻る。
時計を見ると、約20分経っていた。
無駄な時間を過ごしてしまった、そう思う。
何をそんなに深く考え込んでいたのだろうか。
今思い返すと、分からなかった。
ただの雨の日。
ただのケンカ。
いつもの道と、いつもの風景。
そこには沢山の生徒が歩いていて、それもいつもと変わらぬ風景の一部だった。
そして、何も変わらない、いつもと同じように半屋と接した。
ほんの数十分の出来事。
何が特別だったというのだろう。
20分も無駄にするほど。

最近、自分は馬鹿だと思う。
昔はもう少し、賢くなかっただろうか。
自分の事を自分で把握しきれていたし、行動も抑制できていた。
言動に迷いなどなかったし、斯くあるべきという自分を演じきれていた。
でも、今は違う。
今がそうであるように、時々自分が分からなくなる。
授業の内容があまり思い出せないのは何故だろう。
これくらいの肌寒さで気が散るほど軟な人間でもないはずなのに。
こうして作業を中断しているのも、本当に寒さの為だけだろうか?
今日、雨が降っていなければ。
雨に濡れることも、寒さを感じる事もなければ。
以前のように、自分らしくいられたのだろうか。
こうして何かを思うことも無く、無駄のない行動をとれたのだろうか。

「寒いぞ…。あのサルのせいで。」

今までの思考を全て無かったことにしたかった。
声に出して、意味の無い言葉を発してみる。
寒さのせい。
全ては雨のせい。
でも、結局責任を転嫁した相手も半屋であったり。
本当に馬鹿だと思う。

そういえば。
ふと、廊下を歩いていた半屋の姿を思い出す。
いつもの姿。
そう、半屋だってあれほど濡れて、同じ肌寒さを感じていたはずなのに。

「サルは…馬鹿だから寒くないのか?」

後に思えば、本当に下らない思考回路だが。
襟が、開いていた。
ボタンを二つほどだらしなく開けて、何ともない顔で歩いていた。
ネクタイを緩めて、ボタンを開けて、刺青を少し覗かせている。
それがいつもの半屋の姿。
肌を露出して、自分よりも寒いのではなかろうか?
考えてみれば、ネクタイを緩めたことも、襟元をくつろげた事も、一度も無い。
常識で正しくない事だと半屋を叱るだけで、経験はなかった。

ネクタイの結び目をいじって緩めてみると、確かに楽だった。
多くの生徒がそうする理由も頷ける。
ボタンも、一つくらいは外しているのが一般的だ。
きっちりと留めたボタンを、試しに一つ外してみる。
もっと楽になったように感じた。
鏡などない室内で、姿など勿論見えないけれども、きっと今の自分は相当だらしのない姿だろう。
だが、締め付けられる感じの無いこの楽さは、確かに利に適った着こなしであるように感じた。

やはり少し肌寒さが増したか、などと思った瞬間。
風で窓が音を立てた。
意識を引き戻すのに十分なほど、大きな音。

全身の血が一気に沸いた。

自分が何をしていたのか。
状況に困惑する。
すぐに襟元を正してはみても、湧いた羞恥心だけは拭い去る事が出来ず。
誰もいない部屋だと分かっていても、心拍数は上がったまま。

耐え難い事実に居た堪れなくなり、生徒会室を出て帰ってしまった。
本当に馬鹿だ。
これほどまでに自分が重症だとは思わなかった。



振り返るのではなかった。
あの時、振り返らなければ。
終わらせるはずだった書類を放棄することも、寒かったり熱かったり、翻弄される事も無かった。
いつものように、半屋を置き去りにすれば。
あの降り続く、雨の中。

振り返ったその先で、半屋が視線を逸らさずにいたこと。
向けられていた、壊れそうな表情。

あんな表情をいつもさせていたのだろうか。
自分だけ満足して立ち去る時、その背中をいつも。
いつも、いつも。

何故、気付いてやらなかったのだろう。

やはり制服は汚れていた。
そして、半屋に注ぐ雨。
頬を涙のように幾筋も伝って落ちた。
一瞬だけのその情景。
今朝からずっと、忘れられない。

予想外に振り向かれて、驚いたのは半屋も同じで。
暫く動揺した様子で悪態を吐いていた。
半屋らしさに安心して、からかい混じりに歩み寄り。
傘を差し掛けた。
いらないと拒まれても。
それでも、壊れた傘の代わりにと、置いていった黒い傘。
無遠慮に半屋を冷やす、その雨からだけでもせめて守ってやろうと。



傘も差さずに雨の中、俯いてただ足早に歩く。
いつまでも引かない熱。
今はまだ、こんな自分を認めたくない。
知られたくない。

雨が止んだら、もう一度考えてみようと思う。
熱で朦朧としている今ではなく、もっと冷静になってから。
それでもまだ、半屋への思いが変わらないのなら。
その時は、会いに行こうと思う。
自分の感情を偽る事無く。





久しぶりに書いた文章がこれってどうよ…。
思いきり半梧ちっくなんですけど…一応梧半として書いたんです…よ?
ちなみに書こうと思ったのは「ネクタイを緩めてみたりする梧桐さん」だったのでこのタイトルなのですが、
そこらへんはあまりメインっぽく感じられないのは何故?
梧桐さんが半屋妄想に浸りすぎたからでしょうか(笑)