|
ACミラン(MILAN ASSOCIAZIONE CALCIO) | |||||||
|
1899年12月16日 | |||||||
|
|
サン・シーロ(85,700人収容) |
||||||
|
シルヴィオ・ベルルスコーニ (フィニンベスト・グループ総帥、ミラン会長) |
アドリアーノ・ガリアーニ (ミラン副会長) |
||||||
|
スクデット(セリエA優勝) 17回 UEFAチャンピオンズリーグ 7回 コッパ・イタリア 4回 インターコンチネンタルカップ 3回 カップウィナーズカップ 2回 ヨーロッパスーパーカップ 4回 イタリアスーパーカップ 5回 |
|||||||
|
ハーバート・キルピン・・・ミラン創生期からプレーイングマネージャーとして活躍し、戦前のスクデット3回獲得において多大な貢献を果たした。 ラヨス・セズラー・・・スウェーデン人監督でグレ・ノ・リトリオの誕生を生んだ。スクデットは1度だけ獲得。 ベラ・グットマン・・・スキアフィーノが加入した1954-55シーズンにスクデットを獲得した。 ジュゼッペ・ヴィアーニ(1956-65)、(58-65は総監督)・・・9シーズンに渡ってミランを現場で支え続けた。監督として1回、総監督として2回、スクデットを獲得。後に続くロッコの黄金時代の基礎を作った。 ルイジ・ボニッツォーニ(1958-60)・・・総監督のヴィアーニの指示を仰ぎながら、就任1年目にしてスクデットを獲得した。翌シーズンも3位の成績を残すもユベントスと勝点差11をつけられたことから解任。 パオロ・トデスキーニ(1960-61) ネーレオ・ロッコ(1961-63)、(1967-74〜シーズン途中に辞任〜)、(1977)・・・「ミランの20世紀最優秀監督」に選ばれた名将。1961年から3年間指揮をとり、その後4シーズン、トリノに移るものの1967年にミランの監督に復帰し、74年シーズン途中に辞任するまで7シーズンもの間、指揮し続けた。ミランが10度目のスクデットを勝ち取った1979年、それを見届けるように息を引き取った。 ルイス・カニージャ(1963-64) ニリス・リードホルム(1964-66)、(1977-79)、(1984-87〜シーズン途中に辞任〜)・・・1949年から10年間ミランの名選手として活躍し、64-65シーズンから2シーズンチームを指揮し、その後チームを離れるも、77年に監督に復帰。77-78シーズンこそ4位だったものの、78-79シーズンにはチームを10度目の優勝に導いた。84年に3度、ミランを率いることになり以後3シーズン指揮をとるも折しも暗黒の時代を抜け出したばかりのチームを上位に導くことはできなかった。 アルトゥーロ・シルベストリ(1966-67)・・・現役時代はミランのSBとして活躍。監督としては1シーズンだけだったがチームを初のコッパ・イタリア優勝に導いた(リーグでは8位と振るわなかった)。 ジョバンニ・トラパットーニ(1974)、(1975-76)・・・12シーズンミランに在籍し、守備的MFとして名声を得た後72年に現役を引退。1974年、ロッコの後を受けミランを指揮する。翌74-75シーズンは助監督を務め、75-76シーズンは正監督のポストにつく。ミランの監督として実績を残すことはできなかったもののユーベ、インテル、バイエルンなどを優勝に導く。 グスタボ・ジアニョーニ(1974-75) ジュゼッペ・マルキオーロ(1976-77〜シーズン途中に解任〜)
マッシモ・ジャコミーニ(1979-81) ルイジ・ラディーチェ(1981-82〜シーズン途中に解任〜) エリオ・ガルビアーティ(1982)、(1984) イラリオ・カスタニェル(1982-84〜シーズン途中に解任〜) ファビオ・カペッロ(1987)、(1991-96)、(1997-98)・・・1976年からミランに加入。5年間選手として活躍した後、現役を引退。しばらくミランの組織に入りコーチング理論を学び、85-86シーズンにユースの監督としてキャリアをスタート。翌シーズンはリードホルムの後任として監督代理を務める。サッキ時代の4年間は再びユースの監督となり、サッキがチームを離れると入れ替わってトップチームの監督に昇格した。獲得したタイトルはスクデット4度(無敗優勝含む)、チャンピオンズ・リーグ1度、ヨーロッパ・スーパーカップ1度、イタリア・スーパーカップ3度の計9個。96-97シーズンにレアル・マドリーでスペインリーグ優勝を味わった後、ミランの監督に復帰するもサッキと同じ轍を踏む結果となる。 アリーゴ・サッキ(1987-91)、(1996-97)・・・父親の経営する靴屋で働く一方、チェゼーナのユースでキャリアを始めリミニ、フィオレンティーナを経て1985年、パルマの監督に就任。チームをセリエCからBに昇格させた86-87シーズン、コッパ・イタリアでミランを破り、その手腕にベルルスコーニ会長が目をつけ、翌シーズンからミランの指揮官に抜擢される。4シーズンで得たタイトルはスクデット1度、チャンピオンズ・カップ2度、インターコンチネンタルカップ2度、ヨーロッパ・スーパーカップ2度、イタリア・スーパーカップ1度の計8個。その後はイタリア代表、アトレチコ・マドリーの監督を歴任し96年に急遽ミランに復帰するも現場の空気を乱すだけに終わった。徹底した戦術依存主義を貫き「マニアック・サッキ」とも評され、有名選手との軋轢も多かったが実績を残し「ゾーンプレス」を確立し、スペクタクルなサッカーを目指した姿勢は賞賛される。 オスカル・ワシントン・タバレス(1996〜シーズン途中に解任〜)・・・ボカ・ジュニアーズやペニャロールで実績を残した後、カリアリの監督を1シーズン経験し96年にカペッロの後を継ぎミランに招かれる。しかし、チームをまとめる力に欠け、わずか11試合で解任される。 アルベルト・ザッケローニ(1998-2001〜シーズン途中に解任〜)・・・ウディネーゼを指揮した3シーズンの間、チームを10、5、3位の好成績に導き98-99シーズンにミランの監督としてチームを率いることになる。就任1年目でチームを16度目の優勝に導く手腕を見せたが、ベルルスコーニとの不和により2000-01シーズンに解任させられた。 チェーザレ・マルディーニ(2001)・・・60年代、ミランのキャプテンとしてチームの黄金時代に大きく貢献し、引退後はイタリア代表監督やフロントでスカウトの仕事をしていたが、ザッケローニ解任後監督に就任した。パオロ・マルディーニの父親としても知られ、今で尚語り継がれる6-0の勝利を収めたミラノダービーの監督であった。 ファティフ・テリム(2001〜シーズン途中に解任〜)・・・トルコ代表監督やガラタサライで実績をあげた後、フィオレンティーナの監督を経て2001年にミランの監督に選ばれる。攻撃的なサッカーに見るべきものはあったがフロント陣と対立。同年に解任の憂き目にあった。 カルロ・アンチェロッティ(2001-)・・・選手時代はサッキ時代のミランで欠かせない存在の選手であり、92-93シーズンを最後に現役引退。当時イタリア代表監督をしていたサッキのアシスタントを務めつつ、95-96シーズン、レッジアーナで監督業を始め、翌96-97シーズンから2シーズンパルマで、98-99シーズンから3シーズンはユベントスで指揮をとり、テリムの後任としてミランの監督に就任、02-03シーズンにチャンピオンズ・リーグ、コッパ・イタリアの2冠、翌03-04シーズンにスクデット、06-07シーズンに再びチャンピオンズ・リーグを獲得し現在に至る。 |
|||||||
|
100年を超える長いミランの歴史の中でキャプテンと言われるのは、 ・チェーザレ・マルディーニ(一番右) ・ジャンニ・リベラ(右から2番目) ・フランコ・バレージ(右から3番目) ・パオロ・マルディーニ(一番左) の4人だけ(次に続くのは誰か?)。 |
|||||||
|
グンナー・ノルダール(スウェーデン)、ニルス・リードホルム(スウェーデン)、グンナー・グレン(スウェーデン) ジャンニ・リベラ(イタリア)、フランコ・バレージ(イタリア)、マルコ・ファンバステン(オランダ) ルート・フリット(オランダ)、フランク・ライカールト(オランダ)、マウロ・タソッティ(イタリア) ジャン・ピエール・パパン(フランス)、ロベルト・ドナドーニ(イタリア)、デヤン・サビチェビッチ(ユーゴスラビア) ズボニミール・ボバン(クロアチア)、マルセル・デサイー(フランス)、ロベルト・バッジョ(イタリア) ジョージ・ウェア(イタリア)、レオナルド(ブラジル)、オリバー・ビアホフ(ドイツ) デメトリオ・アルベルティーニ(イタリア)、リバウド(ブラジル)、エルナン・クレスポ(アルゼンチン) クリスチャン・ヴィエリ(イタリア)、アンドリー・シェフチェンコ(ウクライナ) |
1899年12月18日、 “ミラン・クリケット&フットボール・クラブ” として創設される。 翌年から実際の活動を開始するが、その年は選手権を勝ち抜くことはできなかった。 1901年に初めてのスクデットを獲得する。 2回目のスクデットは ”ミランFC” と名前を変更した翌年の1906年に獲得。 1907年にも優勝して連覇を果たし、選手達は早くも手にした3度の国内タイトル(スクデット)に誇りに思った。 選手権の形態が変わると、ミランは良い成績を挙げられなってしまった。 最高順位は1937/38年の3位で、上には今でもお馴染みのユベントス、インテルがいた。翌年の1938/39年 “ミラン・サッカー協会(Associazione Calcio Milan)” に名称を変更した。 1950/51年に4度目のスクデットを獲得すると、その後55年、57年、59年にもリーグ優勝を果たした。 1960年代に入ると、ミランの快進撃は止まらなくなる。(第一次黄金期を迎える。当時の主力は グレン、リードホルム、ノルダールの通称グレ・リ・ノのスウェーデントリオが中心であった。) 62年に8度目のスクデットを獲得し、63年にイタリアのチームでは初めてチャンピオンズ・カップに優勝する。67年にコッパ・イタリア優勝。翌年には、スクデットとコッパ・イタリアの2冠を達成した。 1968/69年には熱狂的なファンには忘れられない年になった。 チャンピオンズ・カップに優勝し、インターコンチネンタル・カップで世界の頂点に立ったのだった。 1970年代に入ると以前ほどの強さは影を潜めるが、ミランのオフィスには価値あるトロフィーが届いた。そこには3つのコッパ・イタリア、カップ・ウィナーズ・カップ、1978/79年のスクデットなどが持ちこまれた。 1980年代初め、ミランは球団史上最悪の年月を過ごすことになる。 セリエBに2度も降格という屈辱を味あうことになる(最初は1978/79年、次が1981/82年)。 しかし、1985/86年に停滞していたミランが復調する出来事がおこる。メディア王の “シルヴィオ・ベルルスコーニ(現在のイタリア首相)” が会長の座に就いたのだった。 ベルルスコーニはサッカー界に新しいメンタリティを取り入れた。 その1つとして当時は無名に近かった “アリーゴ・サッキ“ という人物を新監督に迎えたのだが、周囲はこの選手経験がない無名監督がミランの監督として果たしてどこまでやれるのかという疑問符を前晩のように投げかけていた。 しかしサッキはその周囲の雑音を見事吹き飛ばした。11度目のスクデットを獲得したのである。 その後、サッキのミランは第二次黄金期の到来を予感させる大活躍をする。チャンピオンズ・カップ、インターコンチネンタル・カップ、その他様々な欧州カップ戦のトロフィーを立て続けに持ち帰ったのである。この時のミランの強さは今でも語り継がれ、歴代最強チームの1つとして認知されている。その強さは今で尚、キラ星の如く輝くレアル・マドリードの当時選手達が戦う前に十字をきって神に祈ったぐらいである。(当時のミランのウリはフリットやライカールト、ファンバステンの魅惑のオランダ人トリオ+バレージを中心としたマルディーニ、タソッティ、コスタクルタの強固なDF陣)。 その後、ファビオ・カペッロが監督に就任するが依然としてミランは強く、短期間で4つのスクデットを獲得する(その中には今では実現不可能とも言える無敗優勝も含んでいる)。さらにアテネで当時ドリームチームと言われたクライフ率いるバルセロナをバレージとファンバステンを抜きで4−0で破り、チャンピオンズ・カップを獲得する快挙も成し遂げた。 しかし、このサッキからカペッロにかけての第二次黄金期は着実に終焉に向かって(主力の高齢化と移籍、そしてチーム内外での様々な問題)いったのだった。 そして案の定、カペッロが去った後のミランは2年もの間、欧州のトップクラブの争いから取り残されることになってしまう。それはサッキを呼び戻しても強いミランに戻ることはなかった。 98/99年にアルベルト・ザッケローニが監督に就任し、一年目で誰もが予想だにしなかったチームに奇跡的なスクデット獲得をもたらすも、強かったサッキやカペッロのミランのような絶対的な強さはまったく感じられなかった。 その後も低迷の時期は続きタイトルから遠のいていった。 01/02年の途中にサッキ政権下でコーチ業を学んだカルロ・アンチェロッティが監督に就任。つまらないサッカーと言われながらも確実に結果を残し、02/03年にチャンピオンズ・リーグとコッパ・イタリアの2冠、翌03/04年に5シーズンぶりのスクデットをそれぞれ獲得するという大きな目標を達成し、第三次のミラン黄金期の再来を予感させるものとなった。そして、06/07年、開幕前にカルチョスキャンダルというイタリアサッカーの負の部分が明るみになり、カルチョの失墜の中、再びチャンピオンズ・リーグを獲得し、イタリアカルチョが再び欧州の頂点に立った。 |
トップにいい選手が多いので4-3-3を仕様。選ぶ人により異論はあると思いますが・・・ |
Back |