三渓園は原三渓(本名 富太郎)という明治の実業家によって作られ、明治39年(1906年)に一般公開されるようになりました。園内には、京都や鎌倉からたくさんの建築物が移築されました。現在17.5万uの広大な敷地に15の建築物があります。そのうち、国指定重要文化財が10、横浜市指定歴史的建築物が2あります。 三渓園にはひとつ欠点があります。あまりにも木がたくさん生い茂っていて写真が撮りにくいことです。ほかの三渓園を紹介するホームページでもうまく写真が撮れているとは言いがたいものがあります。

 

 

上海横浜友好公園

三渓園は、本牧市民公園の中にあります。市民公園に入って、三渓園のほうに向かうと、まず最初にあるのが上海横浜友好公園です。横浜市民でもほとんど知らないことですが、横浜と上海は姉妹都市です。ほんとに以外ですね。だぶん上海市民はもっとしらないことでしょう。

横浜の友好姉妹都市にはほかにサンディエゴ(アメリカ)、リヨン(フランス)、ムンバイ(インド)、オデッサ(ウクライナ)、バンクーバー(カナダ)、マニラ(フィリピン)、コンスタンツァ(ルーマニア)などがあります。友好姉妹都市のほかに友好姉妹港というのがありますが、ここでは省略します。

 

重文  臨春閣

三渓園の内苑に入ってまず目に入る建物です。この建物は幸いなことに木が立ちはだかっていないので全体の写真をとることができます。

 

 

重文 旧天瑞寺寿当覆堂

寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。豊臣秀吉の母、大政所が大病を患ったとき、

その平癒を祈願するため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。その後、回復したことを喜び、

母の長寿を祝って天正20年(1592)この寿塔を建てました。明治35年(1902年)覆堂のみ三溪園に

移築し、寿塔は大徳寺内、竜翔寺(りゅうしょうじ)内にあります。近年の修理で(ときょう)の中から

天正19年の墨書名発見され、寿塔創建の年代と一致、これにより秀吉の建立したことが明らかと

なりました。今日秀吉建立と確認できる建物がほとんどないので、その価値は極めて高いものとなります。

 

重文 天授院

慶安4年(1651年)建立。鎌倉の建長寺から移築されました。

 

 

 

重文 月華殿

この建物は徳川家康が慶長8年(1603)将軍宣下をするために伏見城中に建立、諸大名伺候の際の

控え室に当てられていたました。元和6年(1620)伏見城取こわしに際して宇治の茶匠上林三入に賜り、

後に上林家から黄檗宗の三室戸寺金蔵院に寄贈され、その客殿として使用されました。荒廃が甚だしかった

ものを大正7年同建物に付属していた九窓亭と共に三渓園に移築されました。欄間の意匠には見るべきものが

あり、長押上の欄間窓などに古拙な風を残しいます。

 

 

 

重文 聴秋閣

 

聴秋閣は元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛した際に、佐久間将監に命じて京都二条城内に

建立されました。当初は三笠閣という名前でした。その後これを乳母春日局に賜り、局はそれを夫の

稲葉候の江戸邸内に移しましたが、明治14年(1881)には更に牛込若松町の二条公邸に移築、

大正11年、三溪園に移築されました。

 

 


重文 春草廬

 

春草廬は三畳台目の茶室で、後掲の月華殿と共に宇治三室戸寺の金蔵院にあり、当時は九窓亭と呼ばれていました。織田信長の弟・織田有楽斉の作と伝えられています。躍り口脇の刀掛けの踏石は稲葉と名づけ、岐阜県稲葉山より持ち来たもの、庭前の手洗石は京都嵯峨天竜寺にあったもので、夢窓国師が使用されたものだそうです。

 

 

 

蓮華院

 

 

 

市指定有形文化財 白雲邸

 

この建物は大正9年、原三溪が建てた数寄屋風建築で、亡くなるまでの約二十年間ここに住んでいたそうです。

 

 

重文 旧東慶寺仏殿

東慶寺は弘安8年(1285年)、北条時宗の妻覚山尼の創建。仏殿の建立年代は明らかではありませんが、寺は永正6年(1509)に火災にかかり、その直後再興され、当仏殿の形式手法は室町時代に属するので、永正の火災後に再建されたものと推定されています。もともと鎌倉の東慶寺にあった仏殿で、明治40年(1907年)に三溪園内に移築されました。

 

 

 

重文 旧燈明寺三重塔

 

三溪園のシンボルのように中央の山上に建つ三重塔は、京都府相楽郡加茂町燈明寺にあったものを、大正3年3月に移築したものです。1485年の建立で、関東地方では最古の塔であると同時に、移築されたものとはいえ、横浜市最古の建築物です。