第1章 シンガポールの民族構成

シンガポールの民族構成は華人77%、マレー人15%、インド人7%、その他1%となっている。しかし、これは政府による公式の分類であって、シンガポール人が全員所有しているIDカードにChinese Malay Indian Othersのいずれかが記載されているが、実際にはシンガポールの民族構成はより多様で複雑である。植民地時代の1957年に行われたセンサス(表1)によると、シンガポールには実に33もの言語が存在している。これら33の言語を話す人々が政府によって、一応の言語学的、人類学的、地域的な根拠のもとに、四つに分類されたのが実状である。四つのカテゴリーに分類された民族はそのカテゴリー内においてもそれぞれ微妙に異なったアイデンティティーを保ち続け、そのアイデンティティーも時代や世代によって変化を見せ、さらには教育言語の違いによっても差違が生じるというきわめて複雑な状況となったのである。第一章にでは、四つに分類された民族の複雑さを概観することによって、国民統合の難しさを考察する。一つ忘れてはならないことは、シンガポールには土着の民族というものが存在せず、ほとんど全てが移民の子孫である。このことは隣国のマレーシアとは決定的に異なる点であり、言語政策を困難にした大きな要因である。

備考:上記のほかに1000人以下の話者を持つ13種の言語があり、シンハラ語(898人)、グルカ語(775人)、テルグ語(549人)、アラビア語(504人)、ブギス語(317人)、タイ語(221人)、広西語(173人)、日本語(158人)、タガログ語(145人)、ヘブライ語(118人)バンジャルマシン語(93人)、ビルマ語(57人)、ミナンカバウ語(47人)となっている。
出典 藤田剛正編『ASEAN諸国の言語政策』、98ページ

   第1節 華人
華人は東南アジアの全ての国に多数居住しており、例えばマレーシアの華人人口は約600万人で、人口の約30%を占めている。東南アジアの華人の歴史はかなり古く、マラヤにおいても15,6世紀頃から多くの中国人が移り住んでいたものと思われる。だがマラヤ、及びシンガポールに本格的に、大量に出稼ぎのために移住するようになったのは1819年にイギリスがシンガポールを領有したのがきっかけである。
1819年にスタンフォード・ラッフルズが上陸した頃のシンガポールには約30人(人口の約20%)の中国人がいたという記録が残っている1。イギリスがこの島を領有すると主にマラッカからたくさんの中国人が移住し、1821年には始めて中国大陸からの移民が流入してきている。1836年には中国人がシンガポールで最大の民族集団となり、1840年には早くも人口の過半数を占め、20世紀の前半には、現在の民族構成とほぼ同じ状況になっている。彼らは出稼ぎのために一時的にシンガポールに移住し、イギリスの植民地開発のために働いたが、彼らの多くは祖国に帰ることがないまま当地に住み着くこととなった。現在のシンガポールでは華人の比率が77%と圧倒的多数を占めており、そのためにシンガポールは中国、台湾に次ぐ第三の中国とまで言われることもある。また、同国が現在東南アジアで圧倒的な豊かさを誇っているのも、華人が圧倒的多数を占めていることが大きな理由の一つであることは間違いないであろう。
シンガポール華人の祖先の殆どは中国南部の出身であり、彼らは出身地域による方言集団に分類することが可能である。一番多いのは福建人であり、以下、潮洲人、広東人、客家人、海南人、福州人、三江人、興化人、福清人、広西人という順番になっている2(表2)。福建人であれば福建語、潮洲人であれば潮洲語を母語としているわけだが、異なった方言同士での相互理解はほとんど不可能であるし、シンガポールで
は標準華語を母語としている人はごくまれである。
福建人は華人の43.1%、シンガポール全体の約31.2%を占めており、マレー人の15%を上回り、福建人だけでシンガポール最大の民族集団となっている。福建人は長い間シンガポールの経済の中枢を握ってきた存在である。また、福建人の影響力は経済だけでなく言語にまで及び、福建人以外の華人でも福建語を話せる人がかなり多数いるのである。1972年の統計によると、シンガポール華人の間で福建語を話せる人の割合は95%にも及んでいる。さすがにマレー人、インド人の間では一桁の割合であるが、シンガポール全体でも77%の人が福建語を話せるという結果となっている。この当時福建語は事実上シンガポールで最も流通していた言語なのである。

 出典 山下晴海『シンガポールの華人社会』45ページ

潮洲人は華人全体の約22%、シンガポール人全体の17%を占め、やはり潮洲人だけでシンガポールで二番目の民族集団となっている。経済活動においても福建人に次いで有力であり、とくにタイからの米の輸入・販売は潮州人の専門的職業であった。潮州人がタイの華人社会において最大の方言集団であることはよく知られている3。
広東人は華人全体の16.5%、シンガポール全体の12.7%である。広東人は人口もやや少なめであるが、シンガポールへの移住そのものが遅れ、福建人や潮洲人と比べて経済活動において立ちおくれてきたと言われている。また、広東人は華人の中でも独特な文化を持っており、自分たちの文化、言語、伝統を守ろうとする傾向が強いと言われている。広東語はその文法構造においてさえも標準中国語や他の中国語とやや異なっており、「タイ系言語説」まで存在している。広東人の場合、とくに香港、マカオの存在は心強いであろう。
客家人は華人全体の7.4%にすぎない。客家人は質店や漢方薬店の経営のほか、教師、医師、弁護士、政治家など専門的知識を必要とする職業への進出が目立っていた。そのため、同じ方言集団同士で固まる傾向が比較的弱かったといわれる4。リー・クアンユー元首相が客家であることはよく知られている。さらに海南人を含めた五大グループで華人全体の96.1%を占めている。福清人や広西人などは1957年以降、統計から消滅している。
現在では方言集団による分類はそれほど重要なものではなくなっているが、かつてのシンガポールでは同じ華人同士でも、異なった方言集団との交流は少なかったといわれる。端的な例としては19世紀から20世紀の前半にかけて、華人の間では方言集団別の「棲み分け」が見られていた。これはそもそもが、スタンフォード・ラッフルズが中国人の出身地域別による差異に注目し、彼らを別々に居住させる政策をとったといわれている5。その後も方言集団別の棲み分けは20世紀後半まで続いた。また、華人社会は地縁的、血縁的な結びつきが強く、様々な社会組織が見られる。それらは一般に「会館(huiguan)」あるいは「廟(miao)」という形態をとっている。会館は主に地縁的組織である同郷会館、血縁的組織である同姓会館、同業的組織である同業会館の三種類からなっている。華人にとって会館は自衛機関であると共に、重要な相互扶助機関としての機能を果たしていた。現在でもチャイナタウンを中心に多くの会館が存続している。
だが、1960年代以降のHDP(住宅開発庁)による公団住宅の大量建設は1世紀以上かけて形成された華人方言集団の棲み分けをわずか30年ほどで概ね崩壊させた。また、経済構造の変化とそれに伴う急速な経済成長、言語環境や教育制度などによって、現在では方言集団の分類も以前ほど重要なものではなくなりつつある。
またこのほかにも第2章で詳述するが、英語系華人や華語系華人といった教育言語による分類も可能であり、状況をより一層複雑にしている。
   
   第2節 マレー人
マレー人はシンガポールの人口の15%を占め、公式的にはシンガポールで二番目の民族集団である。一般的にシンガポールにおいてマレー人は、華人やインド人と比べると単一的であるといわれるが、それでも複数の民族が政府によって"Malay"というというカテゴリーに収められたことは間違いない。表1を見ると、マレー語、ジャワ語、ボヤネーズ語、さらにはブギス語、バンジャルマシン語、ミナンカバウ語などが存在することがわかる。これらの民族が単一のカテゴリーに収められた根拠は、東南アジア島嶼部の土着民族で、イスラム教徒ということになるであろう。その中でもマレー語を母語とする民族が存在することから、シンガポールにおいては広義のマレー人と狭義のマレー人が存在しており、ジャワ、ブギスなどの民族は狭義のマレー人に吸収されたかたちになっている。なお、マレーシアでもマレー人には複数の定義が可能である。狭義のマレー人が存在すると同時に、1948年に施行されたマラヤ連邦協定の市民権条項の中で法律的に「マレー人」が定義されている。それによると、マレー人とはマレー語を日常的に話し、イスラムを信仰し、マレーの慣習(アダット)に従う人々である6。この定義によるとオラン・アスリやイバン族、カダサン族は含まれなくなり、統計的にはマレー人と区別される。ただしマレーシアではいわゆるブミプトラ(原住民)が便宜的にマレー人と呼ばれることも多く、「より広義」のマレー人が存在することになる。             
ではまず狭義のマレー人とはどのような民族なのであろうか。文化人類学では「民族」とは「言語、血統、帰属意識」などに基づくとされているので、本論文でもこの観点から見ていくが、特に「言語」を中心に見ていくこととする。オーストロネシア語族に属するマレー語はもともと7世紀頃に誕生したスマトラ島のムラユ国の言語と言われている。その後、パレンバンに拠点を置くシュリーヴィジャヤ王国の発展によってマレー語は広く東南アジア島嶼部に行き渡る。さらに1403年にマレー半島に誕生したマラッカ王国と、1511年にマラッカの王統を受け継いだジョホール王国がマレー語の発展を促すこととなる。こうして15世紀以降、マレー語はマラヤの土着言語とになると同時に、広大な東南アジア島嶼部で活躍する貿易商の共通語としての役割をも果たすのである。17世紀以降、オランダが東南アジア島嶼部を徐々に植民地化していくと、オランダ語と並んでジョホールで使われているマレー語がオランダ領東インドの公用語に指定された7。20世紀前半になるとオランダ領東インドの民族主義者はマレー語をモデルにしたインドネシア語を考案し、1945年のインドネシア共和国独立と同時に国語に指定された。イギリスの植民地となったマラヤでも1957年の独立の際にマラッカの王統を受け継ぐジョホール州の言葉を標準語とするマレー語が国語に指定された。1965年独立のシンガポール、および1984年独立のブルネイでもマレー語は国語に指定された。現在ではこのマレー語を母語とする民族は、スマトラ島のリアウ、ジャンビ地方、タイ南端を含むマレー半島、カリマンタン島沿岸地域に分布しているが、当然ながら地域差が存在するものと思われる。また、国語に指定されているマレー語とインドネシア語では、若干ではあるものの、はっきりとした差違が認められている。マレーシアでは、1969年の種族暴動(五・一三事件)をきっかけに翌年、国語の名称をマレー語からマレーシア語へ変更し、単にマレー人の言葉ではなく、広くマレーシア国民の言葉であることを強調したが、1992年に政府は再びマレーシア語の名称をマレー語に戻してしまった8。このようにマレー語は古くから広大な地域で用いられてきた由緒ある言語である。
狭義のマレー人を主に言語の観点から見てきたが、今度はその祖先の出自から見ていくことにする。1819年にラッフルズがシンガポールに到着した時には約120人のマレー人がいたことが確認されている。彼らは主に漁民か海賊であった。その後にシンガポールに移住したマレー人たちは主にマレー・リアウ地域出身者とジャワ島出身者とにわけられる。ラッフルズ到着後、すぐにマレー半島のマラッカからたくさんの人たちがシンガポールに移住し、その後もリアウ、ペナン、マラッカ、ジョホールなどから次々と移住して来るようになった。1931年の記録によると、11290人のマラヤ・リアウ地域出身のマレー人男性が職に就いており、このうち3439人(30%)が農林水産業に従事しており、70%は都市部で働いていた。マレー人は昔から非都市部の仕事(農業、漁業)に従事していたと思われがちであるが、必ずしもそうではなかったようだ。また、1930年代から1950年代にかけてマラヤからイギリスの兵役に服するために多くのマレー人たちがシンガポールに渡ってきている。しかし彼らの大半は退役後にマラヤに帰っている9。
広義のマレー人についても見ていくこととする。マラヤ・リアウ地域出身者の他にジャワ島出身者もかなりの数に登る。1931年の調査では16063人を数えている。1980年の調査ではマレー系シンガポール人のうち、自らをジャワ人であるといったのは6%にすぎない。しかしリー(Li,1990)調査によると、現在のマレー系シンガポール人の50〜60%は祖先がジャワ人であるという。出稼ぎのために移住したジャワ人のほかに、「巡礼周旋人」の存在も重要である。当時ジャワ島からメッカへの巡礼に行くために、毎年2000〜7000人の人がシンガポールに立ち寄り、必要な資金を蓄えるためにしばらくの間働くことになった。彼らの多くは結局そのままシンガポールに永住し、現在シンガポールの都市部で教養あるイスラム教徒の核となっている。第2時世界大戦後も、マラヤを経てシンガポールへ移住した間接移民の子孫がたくさんいる。彼らは都市部で仕事を見つけるためにジョホールを経由してきた。彼らのほとんどが教育を受けておらず、手に技術もなく、戦後のシンガポールにおけるマレー系社会の低い経済力、そして低い地位へと結びつく結果となった10。
ジャワ人の他にバウェ人(もしくはボヤン人)と言われる人たちもシンガポールに多数移住している。バウェ島は豊かな米の農作地であり、決して彼らの生活が貧しかったとは思えないが、それでもシンガポールへ移住したのは現金収入を求めてのことであろう。
ブギス人はスラウェシ島南部の民族であるが、もともと航海術に優れていたうえに、18世紀にオランダが本格的にスラウェシ島に進出すると、マラヤに多数移住した。現在のマレーシアのジョホールとスランゴールの王室にはブギス人の血が深く入り込んでいるといわれている。シンガポールでは極めて少数派であるものの、ブギス・ストリートやブギス・ステーションなどの名称に彼らの痕跡が残されている。ミナンカバウはスマトラ島出身の民族で、マラヤのヌグリ・スンビラン王国を築いたことで知られている。バンジャルマシンはカリマンタン島出身の民族である。
マレー系シンガポール人の一般的なイメージは土着で非都市部の仕事をしているというものだが、実際には必ずしもそうではない。移住前は非都市部で育ったものが多いが、いずれも都市部での仕事を求め、主に給仕、運転手、造園業などを好んだと言われる。

   第3節 インド人
インド人は人口の約7%であり、シンガポールで3番目の民族集団である。インド人も華人ほどではないが近代に入ってから海外への移民が非常に多い。現在、1200〜1500万人のインド人が世界中のさまざまなところに居住している。華人移民の大半が東南アジアに集中しているのに対し、インド人移民の東南アジアに占める割合は20%程度であり、南米やヨーロッパにも数多く渡っているのが特長である。中でもパラオ共和国とガイアナ協同共和国ではインド人が人口の過半数を占めている。東南アジアのインド人は、2世、3世になると政治家や公務員などになっている人も多い。マレーシアではMIC(マラヤインド人会議)が連立政権の一翼を担うまでになっている。
インド人は華人よりもさらに多種多様である。彼らはただ単にインド亜大陸出身であるということのみにおいて共通しているのであって、それぞれの民族はまったく異なっている。そもそもここで述べているインド人というのはインドのほかにパキスタン、バングラデシュ、スリランカ、出身者をも含んでいる。今では「インド」という国が存在するが、英領時代はパキスタンやバングラデシュといった地域を含めてインドといっていたのである。
シンガポールに住むインド人たちの言語はタミール語、マラヤラム語、パンジャブ語、ヒンディー語、ベンガル語、グジャラティー語、シンハラ語、グルカ語、テルグ語などがある。タミール語とマラヤラム語はドラヴィダ語族であるが、それ以外はインド・ヨーロッパ語族である。その中でもタミール語が圧倒的に多く、シンガポールに住むインド人の2/3を占めている。そのため、タミール語はシンガポールの公用語の一つとなっており、インド人の間の共通語に指定されている。華人の間では華語が公用語となっているが、タミール語と華語では公用語に選ばれる理由が根本的に異なる。タミール語はインド人の間でもっとも多く使われているという理由で選ばれた。しかし華語の場合はそうではない。華人の間の言語をタミール語と同じような理由で選ぶとしたら福建語を選ぶべきであった。華語を選んだ理由は、その国際的地位を考えてのことであろう。単に国内での便宜のみを考えるのであれば福建語でも良かったはずである。ただし、タミール語は必ずしもインド人の共通語としての機能を果たしきれてはいないのが現状である。福建人や広東人が華語を学ぶのと比べたら、パンジャブ人やベンガル人がタミール語を学ぶのは非常に困難である。また、現実的な問題として、華人全員が華語をマスターすればシンガポールの人口の77%と意志疎通ができるのに対して、インド人全員がタミール語をマスターしてもシンガポールの人口の7%としか意志疎通ができないということがある。現在、インド人の36%が小学校の第二言語にタミール語ではなくでマレー語を選択している。また、1970年代の調査によると、インド人の90%以上の人がマレー語の能力を有し、タミール語の割合よりも高くなっているのである。
インド人を複雑にしているのは圧倒的多数を占めるタミール人と非タミール人に分類できると同時に、ドラヴィダ系とアーリア系に分類できることである。表1に基づいて計算すると、インド人におけるタミール人の割合は65.4%、さらにドラヴィダ語族全体では82.8%にのぼる。つまりアーリア系では17.2%である。だが初期のインド人の政治運動を率いたのは少数派のアーリア系であり、ドラヴィダ系、とくにタミール人はやや遅れるかたちでインド人社会の中核となるのである。マラヤではわずか0.88%のアーリア系がMIC(マラヤインド人会議)の初期の主要メンバーとなり、初代から4代目まで党首はアーリア系であった。
インド人の間では当然ながらヒンドゥー教が最もさかんである。シンガポール国内にはヒンドゥー教の寺院もたくさんあり、スリ・ヴィラ・マリアマン寺院などが有名である。ヒンドゥー教というと真っ先にカースト制度が思いだされるが、シンガポールでは、もともと下層カースト出身者が多いこともあり、ほとんど重要視されていない。また、ヒンドゥー教特有の花嫁持参金制度も時代遅れと見なされている11。ヒンドゥー教のほかにはイスラム教、キリスト教、シーク教などがいる。イスラム教は主にバングラデシュやパキスタン出身者の間で信仰されている。
1948年〜1955年まで、シンガポールの立法議会の有権者は英国臣民(英国国籍)に限られていたので公選議員の多くがインド人で占められていた12。その後もインド人はデバン・ナイヤー、ラジャラトナム、ジェヤラトナム、ジャヤクマール、タナバランなどの著名な政治家を多数輩出し、政治的にはマレー人よりも優位にたっている。

   第4節 その他の民族
シンガポールの4番目の民族集団として、ユーラシア人が挙げられる。ユーラシア人とはアジア人とヨーロッパ人の混血の事であり、シンガポールの人口の1%程度にも満たない。シンガポール政府は公式的にはEurasianというカテゴリーを設けていないが、シンガポールについて書かれた多くの文献では、シンガポールの民族構成について、4番目の民族集団としてユーラシア人を挙げている。ユーラシア人のヨーロッパ側の祖先は主にイギリス、オランダ、ポルトガルであり、アジア人の祖先は華人、マレー人、アラブ人、インド人が挙げられる。宗教は主にカトリックが多い。言葉に関しては彼らの生まれ育った環境から、英語が母語となるものが多い。ユーラシア人がシンガポールで最も英語に精通した民族であることはよく知られている。しかしユーラシア人は曖昧な概念であり、彼らの共通点というのはただ一つ、欧亜混血ということにすぎない。当然ながら彼らにはかなりの多様性があり、ユーラシア人を代表する文化や特徴といったものは見当たらない。そのため、ユーラシア人の中にはアイデンティティーに悩む人も少なくない。
さらにそのほかにはアラブ人、ユダヤ人、アルメニア人などが確認できる。彼らは植民地時代のシンガポールでは比較的重要な役割を担ってきた13。アラブ人は古くから東南アジア島嶼部で商業に従事し、植民地時代のシンガポールでもさかんに商業活動を行っていた。現在でも中心部にアラブ・ストリートが残されているが、アラブ人の住民はごくわずかである。ユダヤ人といえば初代主席大臣であるデヴィット・マーシャルが思い出されるであろう。アルメニア人は現存するシンガポール最古の建築であるアルメニア教会や、ラッフルズホテルを建設したことで知られている。しかし、これらの民族は、現在ではあまりにも人口が少ないことから、同国の構成民族の一つに数えるには無理があるといえる。その他の民族はわずか1%にすぎないが、シンガポールへの移民、定住を経た結果、少なくとも以下の特徴が見いだせる。英語に堪能であること、キリスト教徒が多いこと、小学校の第2言語でマレー語を選択する者が圧倒的多数であることなどである。


 このような民族構成の多様さから、四つの民族というのは政府によって便宜的に分類されたものであることが分かるであろう。四つのカテゴリーのうち、最も単一的なのはマレー人であるが、言語学的、人類学的観点から厳密に見ていくと、それぞれのカテゴリーによりすんなりと当てはまるのはむしろ華人であることがわかる。これら多民族の統合に取り組む場合、一つの共通語の導入が困難であることはもちろんであるが、四つに分類したそれぞれの民族に一つの共通語を取り入れることさえも困難と言わざるをえない。例えば華人の場合、標準華語さえもできない場合が多く、選挙などの際に華人全般の支持を得るためには福建語の修得が不可欠であった。また、当然ながら1人の国民が一つの言葉のみを修得していては、国民統合は不可能であり、言語政策は紆余屈折を経ながら実施されていくことになる。