七夕と天の河伝承 |
杉並区立科学館主催 天文の夕べ・七夕講演会 2002年7月6日(土) |
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| 茨木 孝雄 | ||||||||||
皆さん こんばんは。
詩人・吉増剛造さんによるポラロイド写真展に立ち寄った時のことですが、「天の河は地上の石狩川が空に映ったもので、その証拠に鮭の姿なども見える。」という石狩アイヌの言い伝えを書いたメモに目が留まりました。北海道の石狩川は有名な川ですが、その名称の起源はよくわかっていないのです。一番有力な説は、“蛇行する川”“屈曲する川”という意味です。しかし、石狩川を“地上の銀河”とする説があるのを知ってわたしは内心うれしくなりました。天上の川と地上の川という、わたしにとってはお馴染みの照合が七夕習俗からほど遠い北海道の地にあったからです。
そんな訳で今回のお話は、七夕の星々と七夕行事についてご紹介した後に「七夕と天の河」をメインにお話ししたいと思います。
七夕の話といいますと、定番になっているいくつかの話題がありますね。
例えば7月7日の夜に実際に夜空を見ていると織姫さんと彦星さんが段々動いてきて、天の河の真ん中、または、どちらかの星の側で出逢うと思っている方がいらっしゃいます。プラネタリウムに来ている方の中には多分いないとは思いますが、実は七夕のことを書いた文学者、歴史学者、その他諸々の著作(*1)を見ますと、この著者は本当にそう思っているのではないか、と読みとれる記述がかなりあります。特に昔の著作ほど、そういった傾向が強く見られます。もちろん、恒星が宇宙空間をすいす
い動いていったりはしません。
また、7月7日が、どうして七夕の日なのだろうかという疑問があります。これはどうしてかといいますと、ごく一般的な話では五節供のひとつに組み入れられたため、といわれています。五節供というのは1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき)、9月9日の重陽(ちょうよう)のことです。1月の人日は別としまして奇数が連なるというのは「おめでたい」ということで、中国から伝わった五節句は日本でも断続的に行われていましたが、正式には江戸時代の初めから行われており明治6年の改暦で廃止されました。でもこれだけでは、牽牛・織女が出会うのがなぜ7月7日なのかという理由にはなりません。2つの星が見やすい時期でなければなりませんし、とりわけ、7月の上弦の日は1週間後に盂蘭盆(うらぼん)の満月の日を控えていることから、その事情はかなりこみいっているのです。
七夕(しちせき、あるいは、なぬかのよ)と書いて“タナバタ”と読むのはなぜだろう、といった疑問もふくめて、これまで何度もお話ししたことがありますが、今回は省略させていただきます。
民俗学の視点から申しますと、対になっている年中行事がいくつか指摘されています。1月と7月というのが、わりと同じような行事が行われておりますし、七夕とお盆、それと七夕と十五夜にもよく似た風習があります。
それから、陰暦の7月7日の十月十日(とつきとうか)後は4月上旬で、4月8日にはお釈迦様の誕生日があります。7月7日に天の河で出逢うというのは神聖なる結婚、婚姻という意味があるわけです。その結果が4月の上旬に表れると考えられたのです。(*2)この二つは別の行事ですから、単なる偶然なのでしょうか?このことも、詳しくはまたお話しする機会があるかもしれません。
「こと座」ベガを織姫、それから中国では「わし座」のアルタイルの周辺にある3つの星を、河の中にある太鼓という意味で河鼓(かこ)といいます。それから「はくちょう座」のあたりの星々が“天津”、船着場を表して
います。ベガとアルタイルとはかなり離れておりますので逢おうとしても光のスピードで15年もかかります。「それでは逢えませんね」と話しております。どちらも地球から割りと近い星です。ベガは北天で一番明るい星で、距離は25光年。白鳥座61番星に次いで2番目に距離が測られた星としても知られております。
地球は回転するコマのように首振り運動をしています。地球の自転方向と首振り運動とは反対の方向に動いています。その歳差(さいさ)運動と呼ばれている地球の首振り運動は一回転するのに2万6千年かかります。現在、自転軸の方向に輝いていますのが北極星(こぐま座α星:ポラリス)です。昔はそうではなく、ベガも歳差運動のサークルの近いところにありました。1万何千年か後には、ベガが北極星になることも考えられます。現在のベガは自転軸よりかなり遠い位置にありますが…。ポラリス、「こぐま座」ベータ星のコカブ、「こと座」のベガ、「りゅう座」のツバーンを結ぶ、そのラインが歳差運動のサークルとなっています。チャールズ・ロスという建築家がニューメキシコ州の砂漠に「星の軸点」という芸術的な建造物を作っています。歳差運動の中心〜天の北極に向けられた長大な階段付きのトンネルが掘られました。トンネルから空を覗くと、丸い視野の外周が、2万6千年間のそれぞれの時代に対応するポラリスの日周運動を表現しているそうです。
【北斗七星】
今日のお話は中国のお話が多いのですが、古代中国では星々の回転の中心となる方向、あるいは一番近くに輝いている星を「北辰」といいまして最も重視されました。天の星すべてを従える皇帝を表す星です。こぐま座ベータ星が「帝星」と呼ばれましたが、歳差によってポラリスがそれに替わりました。皇帝を表した北極星の周りを色々な強い大臣の星が取り囲んでいます。北斗七星は皇帝が乗る帝車ですが、帝車の先(ひしゃくの柄の先端)にある星は搖光(ようこう)と呼ばれ、時刻を知る星としても特に重要視されていました。破軍星という名もあって、鎌倉時代からは戦の神として人気がありました。 搖光は太陽観測衛星「ようこう」の名前の元になった星でもあります。皇帝から遠い南へ行くほどに、余り重要でない星々が配置されているのです。例えば「オリオン座」の所、南には天厠(てんそく)=天のトイレがあって、その下には天屎(てんし)=天のウンコがあります。このように、中国人は色々な星座を考えました。
さて、全国各地で色々な七夕祭りが行われます。新暦の7月7日に行うところ、月遅れの8月7日に行うところ、旧暦の7月7日に行うところ、これはまちまちです。七夕祭りが行われている地域をほんのいくつかご紹介したいと思います。まず、東京では地元、阿佐ヶ谷を取り上げましょう。阿佐ヶ谷も地域をあげて一生懸命に七夕祭りを行っています。
それから、七夕祭りといえば仙台や平塚の七夕祭りが有名です。今では、全国どこの町や家々でも七夕行事を行うなどということはなくなりましたが、それでも色々な地域で特色ある七夕祭りが行われています。

【杉並区阿佐谷の七夕】
【仙台七夕】椎野友夫さん提供
【平塚七夕】椎野友夫さん提供
【入間川七夕】
【不謹慎?】
七夕といいますと短冊に願い事を書きます。大人の七夕飾りは内容がちょっと不謹慎で「土地を下さい」とか「背が高くなれるように」でしたら、まだ良いほうです。何でも織姫さん、彦星さんが願い事をかなえてくれるというわけではありません。
関東地方には昔から、七夕馬というマコモのような水辺に生える草を使って馬を作って供える地域が多くあります。鹿児島県の市来(いちき)町の七夕祭りは島津藩の島津公を讃えるお祭りです。朝鮮出兵の武功を讃えて行われたのが始まりといわれています。巨大な動物の張りぼてが踊りに登場します。その張りぼての中で一番有名なものは牛です。神奈川県大磯の七夕祭りでは、子供たちが七夕飾りの笹竹を持って町内を練り歩くのですが、神社の境内では笹竹で円を描きながら地面を叩くのです、それはこの土地の霊を呼び覚ますというような意味があります。そして、その笹竹を刺した長い龍の神輿を海辺に運んでいきます。昔は海に流していましたが現在では海が汚れますので、海には行きますが実際には流してはいません。杉並区には、大宮八幡宮で乞巧奠(きっこうでん)という平安朝の七夕を再現する行事が4年くらい前から行われています。棚の上に色々な筆硯・短冊・五色の布や糸・野菜などをお供えして2つの星に捧げています。乞巧は裁縫であるとか、書道であるとか、そういった技芸の上達を願って行われた、婦女子のお祭りでした。大宮八幡では雅楽の演奏などもありまして、私も見に行きましたが、優雅な雰囲気の、とても良いものでした。
(鹿児島県立博物館提供)
【杉並区・大宮八幡宮門前】
【大宮八幡宮・乞巧奠1】
【大宮八幡宮・乞巧奠2】
【大磯の七夕1】神奈川県大磯町西小磯。子供組が中心になって行う。県の無形民俗文化財にしていされている。
【大磯の七夕2】海辺に運んだ龍の竹神輿と記念撮影
【鹿児島県・市来の七夕踊】
代表的な七夕の風習をご紹介したいと思います。今回は建礼門院右京大夫という方の歌集を題材に、お話をさせて頂きたいと思います。建礼門院右京大夫とは、平清盛の娘で高倉天皇の中宮だった徳子に仕えた女房で平資盛(たいらのすけもり)という年下の男性への想いや平家の盛衰を書き記した人です。たくさんの歌人、詩人の中で、月をめでた歌人としては芭蕉や西行が有名ですが、星を詠った人は余りいないのです。数少ない歌の中で、新村出(広辞苑の編者)が絶賛(*3)したのが、建礼門院右京太夫の「月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる」という歌です。七夕にかけて、資盛への恋い焦がれ、別れの悲しみを歌ったたくさんの歌があります。
「世々経(ふ)とも 絶えむものかは 七夕に 麻ひく糸の ながき契りは」その他2歌 -
【芋の葉の朝露】
笹竹に五色の糸を飾りますのは、唐の時代の流行が日本へ入ってものです。古代中国の五行説では木、火、土、金、水に対応する色が青、赤、黄、白、黒になっています。しかし、黒の代わりに緑を使ったりします。
それから、「おしなべて 草叢(くさむら)ごとに 置く露の いもの葉しもの けふにあふらむ」。〜朝早く起きて、いもの葉に結んだ露を取っておき、それで墨をすって歌を書いたということです。
「思ふこと 書けどつきせぬ 梶の葉に けふにあひぬる ゆゑを知らばや」。〜宮廷では7枚の梶(かじ)の葉に歌を書いて捧げたという記録が残っております。植物学的には梶と楮(こうぞ)は違うのですが、昔は梶のことを楮と書いていました。梶の葉は奇妙な形をしていまして、葉っぱの裏側に細い毛がたくさん生えています。この葉を毛氈(もうせん)の上に置きますと据わりが良いということで文字を書くのに使われたといわれております。梶の葉の形は色々な形状のものがあります。
梶は『古語拾遺』(こごしゅうい)(*4)という平安初期の書物の中に布の原料として書かれています。古代の布『木綿』(ゆふ)の原料ではと思われます。日本神話の中でも有名なお話ですが、天照(アマテラス)が洞窟の中に隠れてしまいました。アマテラスを引き出そうと神様たちが様々なことをしましたが、その神々の中で天羽槌雄神(あめのはづちをのかみ)が文布(しつ)を織り、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)が神
衣(かみむそ)を織ったと伝えています。アメノハヅチは倭文氏の祖先神です。葛城地方、二上(にじょう)山の麓に葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎしとりにますあめのはづちじんじゃ)、加守(かもり)または蟹守(かにもり)神社、葛木二上神社があります。しかし、葛木倭文神社が本来は一体何処に在ったのかというのが、ちょっとした謎になっております。現在の葛木倭文神社の場所ではなく、元々は何処にあったのかといいますと、いくつかの候補があります。(*5)私が行ったのは山の中にある小さな祠ですが、七夕の森という所に七夕神社というのがありました。
【梶】市川市万葉植物園にて
【葛木倭文坐天羽雷命神社】
ところで、この近辺では二上山の麓にある當麻寺(たいまでら)が有名です。當麻中将姫が一夜にして観音の助けで曼荼羅を織ったと伝えられています。日本古代の織物の女神は天棚機姫神で、この機織の神様を奉った神社として文献の中で最も古い記録があるのが、名古屋市にある多奈波太(たなばた)神社です。この神社は平安時代に書かれた神社の格式別台帳の『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)という書物にもその名前が書かれている御社です。残念ながら空襲で焼けてしまいましたので余り大した社(やしろ)は残っていませんで、町中にひっそりとたたずんでいる感じです。
全国には七夕の神様を祭ってある神社がいくつかあって文献にも良く出ていますが、七夕の姫神を奉った神社としては大阪の交野市(かたのし)にある機物神社(はたものじんじゃ)が知られております。
また、北九州の小郡市(おごおりし)では、七夕神社を中心に市をあげて七夕行事が賑やかに行われています。

枚方市・交野市の郊外に広がる交野が原は、在原業平(ありわらのなりひら)が「狩り暮らし棚機つ女に宿からむ 天の河原にわれは来にけり」と詠った古くからの七夕の伝承地です。『枕草子』(まくらのそうし)には、天の川という川に鵲橋(かささぎばし)があるとか、天の河に因んだ実在の地名が出ておりまして(65段および222段)非常に古くから七夕に縁のある土地なのです。一方、小郡市の七夕神社は媛社神社(ひめこそじんじゃ)と本来はいいます。『肥前国風土記』に書かれている縁起によりますと、この地方に道行く人の半数を殺してしまうという恐ろしい神がいまして、筑前国宗像の珂是古(かぜこ)は、夢に織物の器具がでてきたため女神であることがわかり、これを祀ったそうです。古くから織物の伝承がある土地です。こういった神社の近くには川が流れていることが多いのです。

【牽牛石】大阪府枚方市中山観音寺跡。七夕の日に天野川の逢々橋で倉治の織姫と会うという。
いくつかの七夕にちなむ川を集めてみました。

奈良県明日香村の初瀬(泊瀬)川(はつせがわ)は、「隠国(こもりく)の 泊瀬河ゆ 流れくる竹の い組竹世竹」(『日本書紀』)など、いくつかの万葉期の歌に詠われている川です。


【白瀧神社境内の降臨石】7月7日に空から落ちてきて、岩に耳をつけると、機音が聞こえるという伝承がある。
【山田川】白瀧社のあるこの辺りは山田郷と呼ばれた。
【白瀧神社】桐生市営おりひめバスのバスストップ
群馬県桐生市の白瀧神社の近くを流れている山田川。この白瀧神社は、先ほどお話しした中将姫の腹違いの妹ともいわれる白瀧姫の伝説で知られております。桐生織物の縁起を伝えているものです。
大坂の枚方、交野を流れる天野川には、逢合橋(あいあいばし)・鵲橋とか色々な名前の橋がかかっております。福岡県の大島という玄界灘に浮かぶ小さな島に天の川があります。ここは、沖の島の沖津宮、大島の中津宮、九州本土の辺津宮(宗像大社)にそれぞれ祀られている宗像三女神伝説の舞台です。天の川は中津宮のそばを流れている非常に小さな小川で、両岸には織女宮と牽牛宮という小さな祠(ほこら)があります。明治時代までは古い形の七夕(*6)を伝えていたようですが、今でも月遅れの8月7日の夜には盆踊りに似た七夕祭があり、島を離れていった若者たちも戻ってきて愉しいひとときを過ごします。
小郡市の大崎には媛社神社、近くの稲吉(いなよし)には犬飼(いぬかい)神を祀った老松宮がありますが、この2つの神社をはさんで流れているのが宝満川です。牽牛星のことを犬飼星という地方があります。何か忘れられてしまった伝説が埋もれているに違いありません。他にもそれぞれの伝承をもった七夕にちなんだ川が各地にあります。宝満川が有明海を経由して北九州に織物の技術を運んだように、川は文化を運ぶ大切なルートだったのです。



【天野川】淀川の支流。上流には巨石を祀った磐船神社がある。
【天津橋】左の二つを含めすべて交野、枚方を流れる天野川にかけられた橋の名称
【逢々橋(写真上)と鵲橋(下)】
【宗像大社中津宮】福岡県大島村。宗像三女神の一人、湍津(たぎつ)姫 を祀る
七夕のお話には色々な切り口があります。私は今までに織姫を中心にお話したことがありますし、牽牛について探ったこともあります。今回は、牽牛のお話を少しだけご紹介しましょう。牽牛というのは、本来は人のことではなくて生贄の牛であったのです。日本でも平安時代に牛を贄(にえ)としまして7年続けて捧げていたということが『日本霊異記』という文献に書かれてあります。そういったことは世界中で行われていたらしいのです。牛の神話で真っ先に思い出すのは、ミノス王とその妻パーシパエの物語です。生け贄の白牛を惜しんだばかりに海神ポセイドンの怒りに触れ、その結果生まれたのが牛頭の怪人ミノタウロスでした。ついでにいうと、全国の祇園社(八坂神社)に祀られている神様は、やはり頭が牛の牛頭(ごず)天王です。八坂神社でも七夕祭りがありますし、祇園祭の起源にも通じているでしょう。もう一つギリシャ神話から挙げれば、ゼウスが変身した牛でしょうか。ゼウスは、エウロパという女王をフェニキアからさらって行く時に白い牛に変身して、その背中に乗せてギリシャのクレタ島へ運んだというギリシャ神話があります。ヨーロッパという地名の起源譚です。
中国ではかなり古い時代から二十八宿の中に牛(牽牛)という星座がありましたが、現在の彦星、はじめにお話しした河鼓とは別の星座でした。それがいつの頃からか、たぶん七夕の物語が知られてきた後漢の頃でしょうか、河鼓のことを牽牛と呼ぶようになりました。まだまだたくさんの七夕のお話がありますが、この辺で次の話題、天の河のお話に移りたいと思います。
天の河ってなんでしょうか?プラネタリウムや天文の話としては、ガリレオという科学者が望遠鏡を天の河に向けると砂粒をまいたような星々が見え、雲のように見える光が実はたくさんの恒星の集まりだということを発見します。私たちの銀河系の発見に繋がるわけですが、その後多くの天文学者が様々な銀河系モデルを作っております。天動説から地動説への変換と、銀河系の発見、20世紀の膨張宇宙の発見、この3つの出来事は天文学のみならず人類の歴史の中で非常に大きな出来事でした。つまり、私たち人類は宇宙の中心から、どんどん端っこへ追いやられていったわけです。 “私たちは一体どこにいるのか”というテーマに繋がる非常に重要な出来事ですが、今回の天の河の正体というのとは違います。
【天上の川と地上の川】ちょっと遊んでみました。写真上はオーストラリアにて撮影。下は、賢治にとっての地上の銀河である北上川。
天の河は「天上を流れる川だ」と考えていると思われる記録があり、日本にもその記録があります。ヨーロッパでは天の河のことをミルキーウェイといいます。ヘーラーの乳を吸おうとした赤子のヘラクレスの力があまりにも強いので、おっぱいを噛みちぎってしまい、その乳が流れたものが天の河であるというギリシャ神話に由来いたします。また、天の河は道であるという伝承を持った民族もたくさんいます。中国の江南地方の伝承では、天の河は豚が通る道であるとされています。そういえば、西遊記に出てくる猪八戒が豚の姿です。猪八戒は元々銀河水軍のかなり偉い人だったのです。ところで、銀河という表現をしておりますが、天文学で銀河というと、我々の銀河系と同じようなシステムのことを指していますので、今は天の河と呼ぶ方がよいでしょう。北欧の方では死んだ人の霊魂が天上に昇って星になるという言い伝えもあります。天の河は天上への架け橋あるいは天国へと続く道なのです。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』という童話は、天の河に沿って空を走る列車を舞台にした物語ですが、これも死出の旅をイメージしたものでした。また、巨大な蛇、あるいは龍であるという伝説もありますし、天上の柱である霧である、などなど、いろんなことを考えた民族が世界中にいます。しかし、代表的なのはやはり道と川でしょう。銀河は川であると考えられていますのは、中国、日本、アラビア、インドのガンジス地方です。天の河の化身、ガンガーという下半身が蛇の女神が地上に降りた姿がガンジス川だ、というふうに考えられています。しかし、世界的には銀河は道であると考えている地域のほうが多いようです。(*7)
その天の河はどうして出来たのでしょう?もちろん、天文学のお話ではなく伝承ですよ!日本では七夕がらみのお話ですが、天上に昇って行った男が天上の畑の瓜を切ってはいけない、または瓜の切り方を誤ってはい
けないと王様からいわれたのですが、どうしても喉が渇いて瓜を食べたくなって切ってしまった、または瓜の切り方を間違えたといわれています。一番多い伝承は縦に切ってしまったというお話です。瓜を縦に切ったら水が溢れ出てしまって川になってしまったというお話が日本では一番広がっております。中国では、多くは七夕がらみですが、一説には西王母(せいおうぼ)がかんざしで天の織姫星と彦星の間を切り裂くと、そこから水が溢れて川になってしまったというお話が広まっております。

【西王母は頭のかんざしを抜いて、サッと宙に線を描きました。すると…】伊東和美さん・画
天の河は中国では、どんな風な名前で呼ばれていたかといいますと「天漢」「銀漢」というような、何々漢という名前で呼ばれていました。日本語の「天の河」は中国語の「天河」(てんが)を訳したものです。(現代用語ではふつう、“天の川”が使われますが、今回は、その語源も含めたお話ですので、“天の河”を使います。)中国には長江と黄河という二つの大きな川があります。長江の下流の方は揚子江と呼ばれていますね。大きな川はそれぞれの流域によって名前が変わります。長江の支流、湖北省を流れる川は漢水と呼ばれていまして、「天漢」は天上の漢水という意味なのです。
一方、「天河」という語の、さんずいに可と書く河は天上の黄河という意味です。銀河も、銀色の黄河という意味です。中国で川のことは、河(黄河とその支流)、さんずいにエと書く江(こう)(長江とその支流)、小さめの河ですと何々水(すい)と書きます。日本で使われている普通の川という字は余り使いません。この両者を合わせた河漢という言葉も天の河に見立てられています。色々な名前があって、人によって、地方によって、時代によって使い方が違っています。地上の川が天に通じているというお話があります。例を挙げますと、李白の歌に「君見ずや 黄河の水 天上より来たる 奔流して海に至り 復(また)廻(かえ)らず」黄河の水は天上より来て海に注いで行って二度と帰らないという意味の詩があります。別の伝承では、海からまた天の河に戻ってゆくといい伝えられております。天の河の呼称としては、歴史的には「天漢」「雲漢」という字が一番古い(*8)のかも知れません。現在では天河、あるいは銀河の字を使う方が多いです。河は上流の方へ行くと、その先は天の河に通じているといういい伝えを表す川の名もあります。例えば長江の源流は通天河(つうてんが)という名の川です。そして、長江の支流である漢水の上流には天河という川もある(*9)そうです。たぶん昔は、どちらも黄河の支流と考えられていたのでしょう。
漢から唐の時代を通じて一番大きな謎だったのが、黄河の水源はどこかという問題です。
チベットにオリンノール、チャリンノールという2つの双子の湖があります。それぞれ、青色湖、灰青色湖という意味だそうです。一説では、この2つの湖から黄河は発していると考えられていました。昔の地図を見ますとオリンノール・チャリンノールが瓢箪の形に描かれています。瓢箪の形のところに星宿海(せいしゅくかい: 星宿る海!)と書かれています。現在も湖の西側の湿地帯にその名前があります。瓢箪の話を民俗学的にしますと色々ありますけれども、まぁ、無限の水が出て来る容器と考えられていたのです。また、地下には龍脈(別名:地脈)が通っていて、その龍脈に沿って川は流れているというようないい伝えもあります。いずれにしても黄河の水源は一説では星宿海、別の一説では黄河は崑崙山から発すと考えられていました。現在の崑崙山脈ではありません。西の彼方に崑崙山があって、そこには西王母という女王が住んでいると考えられていました。その土地にはあたり一面に玉(ぎょく:今日ネフライトと呼ばれる軟玉。広義の翡翠)があったといわれています。玉は中国ではとても好まれて、さかんに使われていた宝石です。西王母は崑崙山に住んでいましたが、洞窟にかくれていて、元々は虎の歯と豹の尾をもつ非常に恐ろしい姿の神様だったのです。しかし、後世になりますと見目麗しい女神に変身します。漢の武帝が西王母に会見したのも7月7日であるといわれています。その西王母を訪ねて東王公が船に乗ってやって来るといわれていました。西の女王と東の王、男神と女神が出逢うというお話です。七夕の原形に近い話が昔の画象石に刻まれています。
黄河は東の彼方で渤海に注ぎますが、(『列子』湯問篇によると)渤海の彼方、幾億万里とも知れない遥か彼方に大きな底なしの谷があり、その奥の深みは帰墟(ききょ)と呼ばれ、そこには世界中のすべての川だけでなく天上の川、天の河の水も流れ注いでいるそうです。その中から、五つの大きな山がそびえ立っていると考えられていました。一番有名なのは蓬莱山(ほうらいさん)です。その頂上は仙人が住む地上の楽園であると信じられ、蓬莱山を求めて色々な人が探検したのです。秦の始皇帝の命を受けた徐市(じょふつ)、通称:徐福(じょふく)は、不老不死の薬を求めて日本にも来たと伝えられている人物で、たくさんの徐福伝説が日本にも残っております。秦、あるいは漢の時代には、東の彼方、または西の彼方にあるとされた、すばらしい世界を訪ねようと旅だった冒険者たちが大勢いたのです。また、別の一説ではアルタンガタスチロが水源であるとされています。(*10)アルタンガタスチロとは、黄金の北極星石という意味です。某議員が貰ったモンゴルの勲章がアルタンガタス(北極星勲章)でした。金の石から水が湧き出ているという説があります。昔の中国の五行説では水が生じるのは金からです。水が上昇して天上に昇って流れたのが天の河であるということも書かれております。そして、黄河の水源も長江の水源も同じようなところから出ていると考えられていました。タクラマカン砂漠という広大な砂漠がありますが唐の時代の初めまで中国で信じられていたのは、タクラマカン砂漠を東へ流れるタリム川がロプ・ノール(塩湖)に注ぎ、そこから現在の崑崙山脈の地下を延々と伏流して星宿海に流れ込んでいる、という考えです。タリム川は、カシュガル川、ヤルカンド川、コータン川の三つが合流した川ですから、これらの川の水源こそが西王母の住む伝説の地、崑崙であったわけです。
その説を唱えたのは張騫(ちょうけん)という人物です。張騫は漢の時代の実在人物です。生まれたのは何年か分かりませんが没年は紀元前114年です。張騫はシルクロードを開拓した人としても知られております。当時の漢は匈奴という北方の騎馬民族に悩まされていました。匈奴は大月氏国の国王の首を跳ねてドクロの酒盃にしたということで、漢は大変に匈奴を怖れました。漢の武帝は大月氏国と同盟して匈奴を滅ぼそうと考えていました。そして張騫を大月氏国への使者として派遣したのですが、張騫は途中で匈奴に捕まってしまいます。やっと逃げ出して大月氏国まで行くのには13年かかりました。張騫は漢への帰りも匈奴に捕まって、さらに1、2年かがりで漢の武帝のところへ戻ったのです。その為に西の方の色々な文物と情報をもたらしたといわれています。武帝が一番喜んだのは葡萄酒だそうです。胡椒(こしょう)、胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)など、胡という字が付くものは全部張騫が持って来たと、事実ではないのですがいわれています。それくらい大変重要な役割を果しました。その張騫がなんと、天の河へ行ったという話が伝わっているのです。『俊頼髄脳』(としよりずいのう)という日本の古典にも載っています。『源氏物語』、『大和物語』、『今昔物語』、その他諸々の中にあるお話で、かつては大変ポピュラーな話だったようです。これには2つの説があります。黄河を遡り河源に辿り着いたところ、そこは天の河のほとりで、牽牛・織女に出会ったという説と、『博物志』の説では、海辺にいた人(後に張騫となる)が、毎年8月になると流れて来る筏(いかだ)に乗って旅立つと、最初のうちは月や星や太陽が巡るのが見えたけれども、そのうち轟々(ごうごう)として昼夜の区別がつかなくなり、ある時、天の河のほとりに辿り着いたといいます。そこには、牽牛と織女という人がいて、牽牛は牛に水を飲ませ、織女は機を織っていました。そこにいた老人に「ここは何処でしょう」と尋ねると「ここは天の河です。詳しいことは帰ってから成都(せいと: 蜀の都)の厳君平という高名な占い師に聞きなさい。」との答えが返ってきました。のちに君平に聞いたところ、ある日見知らぬ星が牽牛星に近づくのが見えた、と答えたのです。どちらの説にしても天の河に辿り着いて牽牛・織女に出逢ったというお話です。そして織女から織り機の土台になる支機石を貰ってきたといいます。その石は水を司る石で、洪水の時には水を鎮め、水が足りない時はその石から水が湧き出ます。そういうお話が伝わっております。黄河の河源を究めた人、張騫が(これも史実ではなく、張騫伝説の一つですが)、天の河まで行ったというお話になってしまいました。
さて、数ある川の中で、七夕説話誕生の舞台とされているのが長江の支流である漢水です。何故かと申しますと、中国の川は大体が東西を流れているのに、漢水はほぼ南北方向に流れているからです。といった説明が一般にいわれていることです。これは、七夕の頃の晩に見える天の河の流れと重なるからでしょう。別の話ですと漢水流域に生息している鵲(かささぎ)の頭の毛が抜けるのがこの頃であるから、という説もあります。天の河が見える方向は、月日や時刻によって変わりますので、七夕の起源を漢水流域に求めるならば、湖北一帯の歴史や文化史的な環境を考えなければならないと思います。最近では長江文明が盛んに研究されております。黄河の文明よりさらに古い時代に長江流域に優れた文明が発展していたのです。黄河文明のシンボルは馬や蛇がもとになった龍ですが、こちらの長江文明は鳥であるといわれております。元来ニワトリや水鳥だったのでしょうが、後に鳳凰(ほうおう)や朱雀(すざく)といった想像上の獣にシン
ボル化されます。龍と鳳凰は王権の象徴として使われます。
例えば明治時代の日本硬貨や紙幣にも描かれております。長江流域、とりわけ漢水が合流する湖北の湿地帯は最古の稲作起源地とも考えられていて、古い時代から水田耕作、水稲が行われていたらしいのです。
日本では、明日香村の飛鳥川を遡っていきますと、稲渕という集落があり、そこの神所橋では、川の両岸に綱が架けられています。綱の真ん中に男性器をかたどった飾りをつけた「男綱」です。さらに上流の栢森(かやのもり)には女性器をかたどった「女綱」があります。綱で村の結界をつくっているのです。村の境界に張る綱、神社のしめ縄などの起源につながるものが、湖北地方でも見つかっております。
黄河流域、秦の都・咸陽(かんよう)、隋の都・洛陽、こういった都が川の近くにあります。当時の皇帝は川の両側に宮殿を造りました。川を天の河に見立てたわけです。天上の配置と、地上の配置を対比させたのです。日本でも、聖武天皇が遷都を計画した恭仁京(くにきょう:京都府加茂町)は洛陽をモデルにしたものです。洛陽城の天津橋にならって、木津川の流域に恭仁大橋という橋が造られました。木津川を天漢にかたどって都を造ったのです。(*11)
中国文明の発祥について少し付け足したい思います。黄河文明は世界四大文明のひとつとして有名ですが、先にお話ししたように、最近になってから長江流域の文明も注目されています。中でも、三星堆というのはとくに有名になった奇妙な遺跡です。三星堆遺跡からは「神樹」と呼ばれる青銅像が発見されています。東の果てにあるという扶桑(ふそう)の木をイメージしたものですが、扶桑の木に宿る太陽を烏が運んで来ると考えられていたことは『山海経』にも書かれています。この遺跡で一番有名なのは、直目(または縦目)仮面です。これなどは、南の海洋文明の影響を匂わせますし、その他にも黄金の人頭像など、中国とは思えないような数々の遺物が発見されています。
それでは、今日の講演会のまとめに入りたいと思います。
今回は、織女と牽牛という七夕の要素に天の河も加えてみました。星宿海、アルタンガタスチロ、織女の支機石、そして天上の河と地上の河の照合、星と水をつなぐ新たな糸口が見えたようです。そのような視点から、細かなお話までできませんでしたが、今まで民俗学では農耕の儀礼とくくられてきた七夕の風習を、もう一度読みなおすこともできそうです。
七夕に関連すると思われる行事はアジア大陸全般に渡っています。もしかすると七夕の発祥地は漢水ではなく、もう少し、色々な地域で行われていたものかも知れません。中国の湖北省に伝わる爪紅(つまべに)という鳳仙花の花汁を使ったマニキュアがあります。これは通過儀礼であり、成人になった女性の儀式ですが七夕の日に行われていました。(*12)先程も出てきた画象石には織姫星らしき西王母の姿と、彦星らしき東王公が天の河を渡って西王母に逢いにゆく姿が描かれています。ヒッタイトの画象石のようなものには女神と牛を連れた神様が並んで描かれていて、その間に星があり天の河であるといわれております。クレタ島の銀貨に描かれた図ではエウロパが柳の木に腰掛けています。柳は水辺に生えるということで水の神様と豊かな土地の象徴です。裏側の牛の絵を含めて考えると、ギリシャ神話のエウロパとゼウスが変身した牛のお話を彷彿させる図柄です。(*1)こういったことから考えますと、七夕というのは漢水流域で発生したというのが通説で、最近の長江文化の研究からも支持されてはおりますが、その原型はさら
【木嶋座天照御魂神社】(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)京都市右京区太秦。境内の養蚕(こかい)神社は「蚕の社」とよばれ、ふしぎな三柱鳥居(右写真)を有する。
に西域の習俗にあって、日本にも、かなり早い時期に七夕の色々な習俗の元になるようなものが伝わって来ていたのでしょう。正式には奈良朝時代に派遣された遣唐使が七夕信仰を持ち帰ったとされておりますが、それ以前にも大陸と日本の間には多くの人々の出入りがあったのです。鉄工や織物の技術が、おもに朝鮮半島を渡ってきた人々によってもたらされたのはいわゆる倭の五王の時代、5世紀で、北九州の宗像氏、京都・太秦の秦氏、それに葛城の倭文氏などが活躍いたしました。彼らはその後、全国へ散らばっていったのです。こういった人々によって、七夕に関わる色々な話や風習もまた、日本に入って来ていた可能性は十分にあるといえるでしょう。(●七夕伝来史参照)
【元糺(もとただす)の池と三鳥居】
それから天の河を七夕の要素として考えますと織姫・彦星のロマンは悲恋物語とはな
らないのです。織姫・彦星の説話は、悲しい恋の物語といっても、それは例えばオルフェウスの物語に比べますと余り出来が良くないなと思います。七夕は神婚譚ですから、再生儀礼であるともいえます。相撲の起源も七夕とのセットで考えることができます。葛城當麻の里で7月7日、當麻蹶速(たいまのけはや)と出雲の野見宿禰(のみのすくね)が相撲をとったという『日本書紀』の一節が相撲の起源です。蹶速は腰を砕かれて殺されてしまいました。これにちなんで7月7日に相撲会が宮廷で行われました。相撲はお葬式の儀礼で古墳の中には相撲の壁画がよく見られます。年に一度殺されることによって再生するという願いが込められているのでしょう。すでに高句麗時代(400年頃)の古墳から相撲図や牽牛織女図の壁画が発掘されています。織女が犬を連れているのが興味深いところです。七夕習俗が意味しているもの、人々が七夕の伝説にこめた願いは単純なものではないようです。しかし天文をやっている者としては、二つの神様が星であると考えられていたのは今のところ、私の知る限り中国でしか例がありませんので、この点から他の民俗行事よりも特別興味深く感じるのです。『古事記』その他の文献に棚機津女(たなばたつめ)のお話があります。年に一度訪れる神を迎えるために、水辺近くの社に籠もって神の衣を織る乙女がいました。アマテラスをはじめとする日本の女神の多くが棚機津女の性格をもっているといわれます。これを祀ったのが今日のお話にでてきた七夕の神社なのです。ですが残念ながら、星である証拠はどこにもありません。中国から七夕伝説が伝わってきた時に日本の棚機津女伝説と習合したといわれております。どういった経緯で棚機津女が織女とみなされたのかはかなり複雑ですので、またの機会にお話できればと思います。
【蹶速塚】すぐ横に当麻町相撲館がある。
ご静聴どうも有難うございました。
[本篇は、『知の市庭』東島信明様による収録・元原稿を私(茨木)が加筆・修正し、当日使用した写真を加えたたものです。]
●以下の文献は本文中に付記した番号個所に関連するものです。その他ここには収録しませんでしたが多くの文献・図版を参考にさせていただきました。
[1]和歌森太郎『年中行事』1966(史文堂)
[2]井本英一『当麻寺の伝承』1979(『東アジアの古代文化』21号 大和書房)
[3]新村出『南蛮更紗』1923(新村出全集・筑摩書房に収録)
[4]斎部広成撰『古語拾遺』1985(岩波文庫)
[5]平林章仁『七夕と相撲の古代史』1998(白水社)
[6]屋代弘賢編『古今要覧稿・巻第62・時令部七夕』(原書房)
[7]大林太良『銀河の道 虹の架け橋』1999(小学館)
[8]佐藤保『銀河伝説』(大修館・月刊『しにか』1994年7月号)
[9]魚住孝義『万葉集天の川伝説』1992(花伝社)
[10]武田雅哉『星への筏』1997(角川春樹事務所)
[11]瀧川政次郎『京制並に都城制の研究』1967(法制史論叢第2冊・角川書店)
[12]鈴木満男『七夕姫の爪紅』1994(環東シナ海の古代儀礼・第一書房)
[13]土居光知『神話・伝説の研究』1973(岩波書店)
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【足利市織姫神社例大祭にて】