IPS_JpStar.(日本語)

『星の図像学』、あるいは日本における天文習俗の概要

Stellar Iconology and Astronomical Folklore in Japan

 

茨木 孝雄
Takao Ibaraki

杉並区立科学教育センター
Suginami Science Education Center

 

要約

 

  日本における恒星や星座の和名、七夕や十五夜などの天文に関連する習俗、天文考古学的可能性を秘めた古代の建造物などを概説した。一般的にこれらの多くは、中国大陸からの移入を経た文化の特質を示しているものであるか、さもなくば、日本固有の起源を持つもの、と見なされている。しかし、天体あるいは天文現象と人類との根元的な関わりを考えると、事物の名称や習俗の起源の問題は、より氾世界的な文化の関連性を考慮しつつ諸領域にわたる知的作業の成果をもとに整理・分析していかねばならない。

 

I. 序

 

11世紀初頭に活躍した日本の有名な女流随筆作家、清少納言Sei-Shonagonの『枕草子』中に記載された以下の一節は、天文関係者にもよく知られている。

 『星は、すばる。ひこぼし。(みょうじょう)。ゆうづつ。よばいぼし、すこしをかし。尾だになからましかば(、まして)。』

ここには、順にプレアデスPleiades、アルタイルAltair、金星Venus ( Lucifer& Hesperus)、流星Meteorの4つの天体が取り上げられている。清少納言の事物に対する嗜好や独特の選択眼を考慮しても、当時の知識階級の天体に関する知識は多くはなかったであろう。星に限れば、他に織女(Vega)、北斗七星(Big Dipper)、北極星(Pole star)、三つ星(Three stars of Orion's belt) などが、よく知られていたのみである。この事情は近世にいたるまで変わることはない。日本には、星空に一大絵巻を繰り広げたアラトスAratusのような詩人は存在しなかったし、中国大陸系占星術にちなむ星名も一般に普及するまでは到らなかった。しかしながら、20世紀に入ってから今日まで、多くの研究者と調査者の努力によって、公式文献には現れていない多種多様な和名が日本各地で収集された。他国でこのような研究・調査がなされているかどうか筆者は知らないが、その厖大な数の星名が、農耕民・漁業民の天体に対する関心の高さを示している。また、ドグマ化されていないだけに、命名の背後にある人と星との関係が原初的な形で保存されているとみなすこともできよう。このような古名は、当時の習俗が失われていくにつれ、現在ではほとんど忘れ去られてしまった。

幸いにも、星祭りの七夕Tanabata と月祭りの十五夜 Jyu-go-yaは、今も各地で行われるポピュラーな年中行事になった。商業主義の影響によって変質したとはいえ、古代から受け継いだ様式は随所に残されているのである。

天文に関係する建造物の調査〜天文考古学Archeoastronomyは古代人の天体への関心を明らかにする興味ある分野であるが、現在までのところ、ストーンヒンジStonehengeやピラミッドPyramidに匹敵する天文指向性をもった建造物は確認されていない。ここではいくつかの可能性のある遺跡を紹介するにとどめ、今後の調査、研究を待ちたい。

II. 星の図像学

 

  『黄道帯は幼年期の人類に与えられたロールシャッハ・テストである。』(ガストン・バシュラールGaston -Bachelard 1943)星と星座に与えられた名称の分布と変遷をたどる時、人は、そこに生きてきた人類の精神史・文化史をかいま見ることになる。無数の星々の中で、民族・時代を問わず共通に注目されてきた星々の種類は限られている。その中の代表的天体であるプレアデスPleiadesを例に採ると、日本名は、すばる、 むつらぼし、 はごいたぼし、農ぼしなど方言を含めると100種を超える様々な名称が報告されている。それぞれの名称は以下のようなカテゴリーで分類できよう。(凡例は省略。)もちろん、この分類は他の星・星座にも適用することが可能である。

 

(i) 数 (ii) 単純な数学図形 (iii) 星の色や明るさ

(iv) 出没方向 (v) 季節 (vi) 出没の順番

(vii)伝説 (viii) 日常生活道具 (ix) 人・動物

(x) 地名(特に出没方向に関連する)

(xi)中国起源 (xii) 形容語句 (xiii) その他

 

 散在する点群を個々に意識するのではなく、まとまりのある単純図形として認識しようとする傾向は、すでに幼児期からみられる人間の生得的な認知能力である、と考えられている。(この段階では、4つの星は四角形か菱形であって、十字架に見立てることはない。)また、光点の数を数え、色や明るさといった物理的特徴を視覚によってとらえようとする欲求もまた、(科学の誕生にもつながっていく)人間本来の能力であったに違いない。たとえば、シリウスの和名におおぼし (big-star)、あおぼし(blue-star)、いろじろ(white-star)がある。(シリウスの語源もまた“焼き焦がすような光輝 scorching brilliance”という意味。)筆者は、(i)-(iii)のような基本的認知に基づくものに、季節・時刻認識の必要性から(iv)-(vi)の観察力が加わり、さらに高度な想像力を要するものに変貌してていったと考えている。そこには、共同体としての共通の理解と長年にわたる観察経験の蓄積がなければ、星名の継承はあり得なかったであろう。

 文字の発明に先立ち、身近な道具、動物や人物、神話の神々が図像iconとして定着するようになる。とりわけ獣帯星座 に関して、それらが共同体(部族)のシンボルsymbolあるいはトーテムtotemに関連づけられた後、原始的な暦の指標としても使われたのであろう、とホグベンHogben(1949)は推察した。日本にこのような痕跡はないが、季節、時刻の認識に使われたと思われる星名や俚諺は多数見いだすことができる。これらが農作物の播種時期や魚の採取期を知るために重要であったのはいうまでもない。例えば、ヘシオドスHesiodが『仕事と日々』で歌ったように、古代ギリシャではアークトゥルスArcturusのヘリアカル・ライジングheliacal risingが葡萄の収穫時期に結びつけられたが、同様に日本ではこの星に、麦ぼし (barley-star)、 五月雨ぼし (rainy season's star)の名を冠している。

他にも自然暦、自然時計として使われた多数の星が知られているが、星名自体がその事実を暗示する例は少なく、用途に適した星の中で、より親しみやすい図像を有する星が利用された。星の出没や南中が、特徴ある山なみなどそれぞれの地方の景観を目印に観測された、と思われる俚諺を多数見出すことができる。星の和名を分類整理すると、この第二の範疇に属する名称は、圧倒的に多い。

 その後、ギリシャでは、詩人たちによって神々の壮大な物語が天空に投影され、また、学者たちの手で黄道帯が体系化されることとなる。中国においても国家機構(官僚制度)が天空へ投影され、その未来を予測しようとする占星家たちによって、星々は、一層ドグマチックな“書物の空”と化していった。その名称に、以前の段階の名残りをとどめている場合が多いとはいえ、空の星はその本来の座を喪失し、ことさら人の頭の中で煌めくことになったのだ。星名の歴史にとって、これが、天文学の観測対象として整理される以前の最終段階であった。日本においては、星々が詩人たちに讃えられることは少なかったが、そのような抽象化と体系化が徹底されなかったがために、かえって素朴な星名が残存しているのだ、とみなすこともできる。

 以上に述べた星座の起源と変遷を要約すると次のようになる。

 

(1) 素朴な視覚認識 Simple, Visual ( Sight ) Recognition … (i), (ii), (iii), (xii)

(2) 図像認識(時空認識も含む)Iconographic View…(iv), (v), (vi) & (vii),(viii),(ix),(x)

(3) 教義的認識 Dogmatic View …(xi)

 

 このような観点をふまえ、いくつかの主要な日本の星を挙げておく。

 

まず、100種を超える星名が採集されているもの。

 

[プレアデスPleiades] すばる(1)(集まり連なる意の古語)、いっしょうぼし2)(一升星。下記の俚諺に由来)、むつらぼし(1)(六連星) 、くようのほし(2)(九曜〜時刻又は数に由来)、 農ぼし(2)、等。 よく知られた俚諺に“すばる まんどき 粉八合”があり、夜明け方にすばるの南中を見て蕎麦を蒔く時期を決めていた。この時期に蒔けば、一升の実から粉が八合採れるという意。現在でも、日本名“すばる”はよく知られ、ハワイに建設中の望遠鏡名にも採用された。

[おおぐまUrsa Major] おおぐまの尻尾に相当する星の配列は ななつぼし(1)ひしゃくぼし(2)しそうのほし (1)はぐんのほし(3)、等。 破軍星は元々ηUMa の中国名であったが、後に はひしゃく 全体の名として武家の信仰を集めた。剣先ぼし (2)の異名もあり、星時計としても使われた。 現在では、北斗七星(3)が一般的。北斗の名も中国起源である。

[オリオンOrion] みつぼし(1)酒桝ぼし (2)親担いぼし(2)からすきぼし(2)、等。 現行名はみつぼしまたはオリオン。 リゲルRigel には源氏ぼし、ベテルギュースBetelgeuse には平家ぼしの名がある。これらは、それぞれの部族の旗の色(白と赤)に由来する。

[北極星Pole-star] ねのほし(1)ひとつぼし(1)北辰(3)妙見(3)しんぼし(1)等。 現行名は北極星(3)

 

 その他の代表的・特徴的な星。

 

[わしAquila] 主星アルタイルAltairの和名は、七夕伝説に由来する彦ぼし (“彦”は男子の敬称)(2)または中国名“牽牛”が、現在でも一般的呼称。犬飼ぼし(2)、等。

[カノープスCanopus] めらぼし (“めら”は地名または南の方角の意)(2)老人星(3)、等。

[カシオペアCassiopeia] いかりぼし(2)さんかく(1)、やまがたぼし(2)。現在では、慣例的にカシオペア座の "W"。

[ヒアデスHyades] つりがねぼし(2) 箕ぼし(箕は古来より使われている代表的農具。穀類を入れ、動かしながら殻やごみを除去するための主として竹で作った容器。神が宿るものとして儀式にも使用された。)(2)、等。なお、箕ぼしの名は射手座Sagittarius の4星(ζ-τ-σ-φ)にも当てられている。興味深いことに中国では、その近くの別星Sgr. γ-δ-ε-ηを箕宿と命名している。アルデバランAldebaran にはあとぼし(すばるの後に出る)等の名がある。

[木星Jupiter] 現行名は木星(3)。金星が多種多様な名称で呼ばれたのに対し、木星は、さほど注目されなかった。文献上、“歳星(3)の名があり、一部では“夜中の明星”(midnight Venus)とも呼ばれた。古代中国では約12年の公転周期を観測することで占星術の体系化が行われたが、歳を数えるという緩やかな変化は、一般大衆には無縁のことであった。だが現代日本人は、今もその名残りともいえる12年単位の年令の数え方を意識し続けている。

[ベガVega] 七夕(2)、等。この名は、棚機女(たなばたつめ)〜水辺の小屋で神衣を織って、年に一度訪れる神を迎える、古代日本神話の巫女または女神の名に由来する。中国名“織女”も一般に流布し、近代以降は織姫星おりひめぼし(2)の名も使われている。

[さそりScorpius] うおつりぼし(2)かごかつぎぼし(2)。アンタレスAntares には、酒酔いぼしあかぼし等の名がある。

III. 天文民俗

  沖縄県・宮古島の人々に伝わる話によれば、月の中には2つの水桶を天秤棒でかついでいるアカリアザガマ(Akara-zzagama)という神様の使者の姿が見えるという。月の中に水くみ人を見る民族の分布は、ユーラシア北半部から北アメリカ西北沿岸部を経て西南太平洋に及んでいる。また、月の中に不死の薬を挽いているウサギの姿(現在では、モチつきウサギの姿)を見る伝説は、おそらくはインドに起源を発し、中国を経て日本に伝わった伝説がもとになっているのだが、はるか南アフリカやメキシコ民族の一部でも、月の中にウサギを見ている。まさしく、月の斑点模様もまた、人類に与えられたロールシャッハ・テストであった。本稿では紙面の都合で、多様な伝説、行事、神話を網羅することなどはできないが、天体との関わりについてのみ、その概略を述べたい。

1. 古代日本神話

  文字によって記録された日本神話には、『古事記』、『日本書紀』を始めとして『出雲国風土記』など各地方の伝承記録がある。これらは、中央政府の要請によって8世紀の前半に完成した。

神話は、その冒頭で必ず天地創造のいきさつを語る。日本神話もその例外ではないが、抽象化されすぎた記述の故に解釈の別れる部分でもある。よく知られているように、日本神話には天体の属性をもつ神の記述が極端に少ない。太陽神アマテラスも最高権力をもつ皇祖神としての性格が濃厚であり、太陽信仰の痕跡をとどめる記述は“天の岩屋戸神話”(太陽の復活を願う冬至の儀式と考えられる。)位である。月は、昼と夜の分割統治のいわれに関して、月神ツクヨミが登場する程度。星神にいたっては、“天津甕星”(あまつみかぼし)別名“天香香背男”(あめのかがせお=輝ける男、金星神か?)という神が尊称すら与えられていない悪神として記述されているにすぎない。天孫降臨神話の中では、天神(あまつかみ)の命令に従わなかった唯一の存在であった。しかし、このことから、当時の日本人は天体を重要視していなかった、とみるのは早計で、縄文期以来の先住海洋民の信仰は隠されてしまったのであろう。例えば、天地創造後、最初に現れた神の一人、天之御中主神(あめのみなかぬし)は“天の中心”、つまり北極星の象徴である、等々。様々な解釈は尽きることがない。

 また、各地には、それぞれの古い形の太陽神(アマテル)や月神を祭っている小さな神社も散在する。それらが人々の信仰を集めていた頃、どのような祭典が行われていたのだろうか?

2. 七夕と十五夜

[七夕 Tanabata]

牽牛織女の悲恋物語とこの2星を祭る『乞功奠』の風習は、奈良時代に中国から伝わった。祭の日には、二人の年に1度の逢う瀬を祝うと共に、織女に因んで手芸の上達を祈った。当初は宮廷行事の色彩が濃く、宴の最中には多くの詩歌が創作された。庶民の祭りとして隆盛を極めたのは、江戸時代末期(19世紀初頭)になってからである。この頃から、笹竹に願い事を記した短冊などをつるすようになり、テレビアンテナが立ち並ぶ現代日本の光景のように、家々には笹竹が林立したという。

現在も、年中行事の一つに定着し、仙台市、平塚市など多くの都市では盛大な商業的祭りが開かれている。明治時代以前の暦で7月7日に行なうのが正統的なのだが、現行暦7月7日、1月遅れの8月7日など、開催日は様々である。7日の夕べと書いて“たなばた”とよむが、その語源たなばたつめは、ベガの項で述べた日本古来の巫女の名であり、この女性を神として祭っている神社もある。織姫的性質をもつ神の伝説は、日本のアマテルをはじめとして、環太平洋諸国を中心に広く分布している。さらに、地方に残る7月7日の風習(笹竹かざりや七夕人形は、祭りが終わると川へ流す。その他、女性の洗髪、水浴、井戸の掃除などを行った。)、牛が活躍する市来(九州)の七夕、京都の祇園祭を代表とした各地の祇園社系の祭り、東日本各地のねぶた系祭りなどから総合的に判断すれば、農耕民特有の水神祭祀の色彩が濃いと思われる。元来は、川辺で行われた祭りであった。中国の二星交会伝説も、織女=西王母とみなせることから、同様の起源をもつであろう。

 なお、この祭典がベガに結びつけられた根拠は明らかではない。天の川のほとりに位置する輝星だからであろうか?私見によれば、ベガの出没時期から考えて、温帯モンスーン地帯の雨期を告げる星であったかもしれない。 

[十五夜 Jyu-go-ya]

古代人にとって、夜を照らし海を支配する月は、畏怖すべきもの、むしろ恐怖の対象であった。その名残りは、例えば9世紀末の『竹取物語』にみる“月の顔見るは忌む事”とある一文や、三日月をみると不幸になるという伝承によっても明らかであり、世界共通の観念であった。 さて、旧暦8月15日の十五夜 (Full Moon Festival) は、平安時代(10世紀中頃)に中国の“中秋節”(Midautumn Moon Festival) を模倣したものであり、月に秋の収穫物を供えて観賞し、詩歌を読み音楽を演奏する、典型的な宮廷行事であった。以後、月は美的観賞を尊ぶ“雪月花”の思想にとって格好の対象になった。一方、民間では秋の収穫物を月に供えることが主になっている。いわゆる“月見団子”を供えるようになったのは江戸時代になってからであり、今日、お月見といえば団子を連想するほど一般化した風習になった。

七夕同様に地方には様々な習俗が知られているが、特に南九州一帯で行なわれている、この日の“綱引き”と“相撲”が興味深い。また、祭礼時の仮面の図柄は、はるか南島、ミクロネシアのものに酷似し、芋を主役にした儀式は東南アジアからの影響も匂わせている。

 なお、日本では、旧暦9月13日の月も“十三夜Jyu-san-ya”と呼んで観賞する。これは平安時代に始まったもので、日本だけの行事である。さらに、日本人は別の位相の月も重視していた。

現在では廃れてしまったが、“月待ち”といわれる行事である。十三夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など、月の出を崇拝する行事は、江戸時代を中心に隆盛をきわめた。本来は仏教的儀式である。今日、各地の路傍にたたずむ石塔にその面影を偲ぶことができる。因みに十三日は月あるいは金星の化身である“虚空蔵菩薩”の縁日に当たる。これが、十三夜の流行を促した。

 

月の中にいる織姫神話の世界的分布、水神と牛との関わり、月神のシンボルとしての牛、年に一度、竜や蛇の姿に変身して訪れる神を迎える、十五夜や七夕の行事。中国のみならず、シベリアやポリネシアの風俗との関連性を考慮すると、これら二つの行事は同じものであったといえよう。それは、海や大地の恵みを天に願う、共通の営みなのである。

 

3.その他の星祭り

  第II章で述べた星座の起源の第3段階<教義的認識 Dogmatic View>によって、10-12世紀頃、日本版ホロスコープが完成された。“宿曜師”と呼ばれる占星術師が宮廷人の運命を占い、“星曼陀羅”(一種の仏教的宇宙図)をかかげ星祭を行ったが、民間に普及するまでには到らなかった。インドに起源を発し、すでに中国で複雑に融合・分化した仏教系宗教は、日本に入ってから独特の発展を遂げた。その中のひとつに“北辰妙見信仰”がある。北極星あるいは北斗七星と、その化身である“妙見菩薩”を信奉する宗教で、江戸時代、武家の信仰から民間へ広まり、各地に“妙見堂” が建てられている。日本史上有名な、幾たびかの仏教と神道との政治的争いのために、“妙見堂”の多くが“妙見社”、あるいは“星神社 ”と名を変えて現在に到った。100社を超える栃木県をはじめ、千葉県、高知県などに多数残存している。星が降臨したと言い伝えられる巨石を祭っている所が見受けられるのが、興味深い。

 

IV. 日本における天文考古学の試み

 

  紀元前1万年前後から始まった日本の縄文時代 Jomon Periodは、世界的に見て最も古い文化の一つである。近年、青森県三内丸山遺跡、北海道函館空港遺跡群の発掘によって、単純な狩猟・採集文化という従来の縄文観は覆されつつある。直径約1m、高さ10〜20mと予測される6本の木柱の跡が発見され、話題を呼んだ。“あなたは、これについてどのように考えるか?”、遺跡調査機関がインターネットを通じて公開質問したところ、その中には、“天文学的方位を調べよ”との答えがあった。N.ロッキャーN.Lockyerを先駆とし、 G. ホーキンズG.HawkinsによるストーンヘンジStonehengeの研究によって開花した天文考古学的手法は、新たな学問領域として確立しつつあるようだ。ところで、日本にも縄文期のストーン・サークルが日本の北部一帯に数多く存在している。秋田県大湯の径50mのストーン・サークルとその中心にある“日時計 Sundial”と呼ばれる立石Menhilを除けば、ほとんどが小規模の石組み遺構であって、天文指向性を調べるまでもなく関連性がないと考えられていた。ただ、1994年、栃木県の寺野東遺跡(径165m,縄文期最大の環状盛り土遺構)において、中心部の特に石を敷きつめてある台座と環状盛り土内部のある部分との延長線が、筑波山頂に昇る冬至の日の出を指していることが指摘されている。同様の天文指向性は、大湯環状列石の中心と日時計との間にもあるようで、今後の検証を期待したい。

 縄文期の日本が、未だ深いヴェールに包まれているのに対し、3世紀以降の古墳や神社に関しては、多くの研究例がある。特に古代大和地方の古墳、神社、およびこの地方を象徴する二つの聖なる山〜二上山 と三輪山、これら相互の方位上の関連性が調査されている。(5) 例えば、太陽神アマテルを祭る鏡作神社からは三輪山の山頂から昇る冬至の太陽を見ることができる。これらは、古代の太陽信仰を反映したものと考えられ、大和盆地のような諸条件が整った場所だけでなく、各地の神社や古墳に関しても同様な設計がなされたのだった。神社の“鳥居”は、天文考古学からは、太陽と神社あるいは遠景の山なみなどをあわせてみるための目印(照準)であるといえよう。遠景上に出没する太陽の位置が季節毎に記憶、あるいは記録され、ローカルだけれども実用的なカレンダーとして活用されたのであろう。

 時代が下ると、このような太陽指向に替わって、南北軸、東西軸を基調とする中国思想の影響を受けて多くの都が造営されるようになった。

V. 結語

 

  星座の図像化が地域・民族の文化史的背景に依存すること、それらの中で、主要な星ぼしが季節・時刻認識の指標たり得たことを明らかにした。人類にとって月の光や星の輝きは、心に訴えるという個人的な作用力を有するのも事実だが、この、心理的な力と文学上の影響力に関しては“星の図像学”の別章が必要となろう。

 記載することができなかった、多くの星名がある。月を歌った西行、星を歌った建礼門院右京大夫など、数え切れない詩人や歌人達がいる。紹介できなかった多くの民話・伝承・遺跡がある。この小論は概要の記述に徹しつつ、それぞれの事例が、日本という狭い空間に限定してしまっては、その意味を語り尽くせぬことも示した。だが、見られる対象物が普遍的であっても、それを見てきた人々の間には言語や習慣の厚い障壁が存在する。それを乗り越えて、隠された構造を解き明かした時、初めて古代人の世界観という共通項が理解できるのである。本稿が、そのための、小さな手がかりになることを願うと共に、各分野の研究者による“世界的に比較検討できる”日本の天文習俗資料の出版を期待したい。

参考文献

[1] 『枕草子』には多くの写本が存在する。本文は『能因本』にしたがった。
   別の写本では、( )内の語句はなし。

[2] 本稿の星の和名は、主として以下の文献によった。
(*)印の著作は現在でも入手可能である。
越谷吾山『物類称呼』(1775)*
幸田露伴『水上語彙』(1897)*
新村 出『南蛮更紗』(1900 -1923)*
野尻抱影『日本の星』(1936, 1957*)、『日本星名辞典』(1973)*
内田武志『日本星座方言資料』(1949 )『星の方言と民俗』(1973)
桑原昭二『星の和名伝説集』(1963)

[3] ホグベンL. Hogben :『洞窟絵画から連載漫画へ』 (1949)
[4]ネフスキーN. Nevskii『月と不死』 (1928)
石田英一郎『月と不死』(1950)
[5] 山岡義典『古代大和の空間構成』(1966)など

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