『茶碗の湯』から学ぶ物理学

  茨木孝雄(杉並区立科学館)
 来て、XX、たぶんあなたなら、まだ何かができるわ、その気になれば。あなたの大きなBMW500のオートバイで町をよぎって、それとも平野や山をよぎって走ってもいい。名前という名前を絶滅しようとしてみてもいい。たぶんまだ、戦争のない場所があるんだわ、つまりあたしの言うのはね、内部の場所が。…もし一度、たった一度だけでいい、あたしが、なぜ雨は降りどうやって風は吹くのか知ることができたら、たぶん戦争は止むでしょうよ。それにあたしは戦争が好きじゃない。あたしは平和が好き。 XY
   ル・クレジオ『戦争』(豊崎光一訳) 

『はじまり』

1938年夏、越前大野で暮らす旧制中学2年の少年が一編の随筆に出会った。その内容に深く感銘した少年は、将来随筆の著者と同じ職場で同じ仕事をしたいという願いを抱き勉学に励んだ。以後、夜の八時に寝て朝四時に起床する生活は死の直前まで続いたという…。少年の名は竹内均。先年(2004年)逝去された理論地球物理学者、雑誌『ニュートン』編集長である。彼が読んだ随筆は寺田寅彦作『茶碗の湯』、時として人間の運命を決定づけてしまうほどの書物の力には驚嘆するほかはないが、それはさておき、竹内少年は夢を叶えることができたのだろうか?彼が東京帝国大学に入学したとき、寺田寅彦は既に亡かったが、地球潮汐・振動論の研究で成果を上げ寅彦の弟子坪井忠二の下で助教授となった。当時は今ほど重要性が認知されていなかった科学普及・啓蒙活動の面にも精力的に取り組んだ。とりわけ、新しい大陸移動説〜黎明期のプレートテクトニクス理論をいち早く紹介した『地球の科学』(上田誠也との共著1964)の出版は寅彦の直弟子、中谷宇吉郎の『雪』に匹敵する仕事であったと思う。数々の科学随筆を残した寺田寅彦だが、自身の研究を一般向けに解説した書物は残していないのだから、この面に関して弟子たちは師を越えた、といえるだろう。
 「こゝに茶碗が一つあります。中には熱い湯が一ぱい這入っています。たゞそれだけでは何の面白味もなく不思議もないやうですが、よく氣をつけて見てゐると、段々に色々の微細なことが目につき、さまざまの疑問が起つて来る筈です。…」(『寺田寅彦全随筆・二』岩波)という書き出しで始まる『茶碗の湯』は、鈴木三重吉が主幹する童話雑誌『赤い鳥』の大正11年5月号(1922)に八條年也の変名で掲載された。『赤い鳥』には、毎号一編、当時の若手研究者による科学読み物が変名で連載されていたが、中でも『茶碗の湯』は秀逸であり後年中谷はすぐにその著者が自分の師であることを見抜いたという。
話題は、一杯の茶碗の湯から立ちのぼる湯気の観察に始まり、月の暈、雲や霧の凝結核、湯気の渦から竜巻や雷雲、モンスーンへと広がっていく。湯の中に見られる模様の観察では、当時彼の研究テーマの一つだったシュリーレン法に触れ、弾丸の瞬間写真が挿入されている。『茶碗の湯』は、小学校国語の教科書にも載った名作の一つと評価されている反面、話題があちこちに飛びすぎるという意見もある。(もちろんそれこそが魅力、と支持する方々の方が圧倒的に多い。)今回の講座ではまず全体の構成を整理し、記述されたいくつかの自然現象を解説、あるいは実験によって示したい。予定する講座内容は以下の通りだ。

(1)『茶碗の湯』黙読 ― 原典(掲載資料)または青空文庫版(WEB閲覧)
(2) 湯気を観察しよう(雲の発生と凝結核)
(3) 湯気が色づくとき 〜 彩雲、光冠など散乱光による現象
(4) 渦の観察〜トルネードと低気圧の構造
(5) 熱対流と流れの可視化
(6) 地球流体のアナロジーとしての “茶碗の湯”
(7) 『茶碗の湯』をどう見るか? 〜科学普及論・序章

 限られた時間の中で『茶碗の湯』の概要を理解していただくことは必須として、その他諸実験は環境に応じて取捨選択していく予定。
 さて、『茶碗の湯』を考えるにあたって、中谷宇吉郎の随筆『「茶碗の湯」のことなど』(1942)は無視できない。直弟子による丁寧な解説文の体裁をとっているのだが、わたしは末尾の一節がどうしても気になった。
『この頃のように、急に科学普及が叫ばれ、生活の科学化,家庭の科学化が論ぜられる時になると、私たちは、今更のように寺田先生の亡くなられたことを感ずるのである。今生きておられてもまだ六十五歳のはずである。「僕は今に停年になったら、本を書いて、物理学というものはどういうものであるかということを、物理学者に教えてやるんだ」と、いつか先生がこっそり気焔をあげておられたことがあった。』
中谷はここで未完の草稿『物理学序説』にふれているが、戦争に突入したこの時期に“急に”科学振興が声高に叫ばれたという記述に注目したい。明治末から大正にかけての最初の科学振興期と戦後すぐの復興期との間にも、一つのエポックがあったようだ。『茶碗の湯』を契機に、古くて新しい科学普及の問題に少しだけ踏み込んでみよう。
 寺田寅彦による数百の随筆は文芸・思想・科学等の様々な雑誌に掲載された。だがなんと、彼および中谷が一度も投稿しなかったメジャーな科学啓蒙誌があったのだ。原田三夫が編集する科学誌、『子供の科学』と『科学画報』である。大衆や子供たちへの科学普及の熱意は本来研究者である寺田、中谷以上に強く、その目的や信条も似通っていたにもかかわらず、である。寺田、中谷、原田の科学普及論を比較し、現代の状況と対比したい。
 人々が学校や自治体、ジャーナリズムに求めるものは何か?教える側にとって『理科』の役割は何か?いずれも本館のような施設の行く末に関わる難問に違いない。

(中略)

[7]『茶碗の湯』をどう見るか? 〜科学普及論・序章

 自然科学が扱うさまざまな自然現象を、仮に次のように分けてみよう。
(a) ありふれた現象。見えているもの、起こった事象を大多数の人が同じように言い表すことができる。
(b) 見えてはいても特に意識していないため、大多数の人は教えられなければ分からないもの。
(c) 珍しい見慣れない現象。多くの人の五感におどろきを与えるもの。
(d) ヒトの五感以外の機器を介在してはじめて認識できるもの。


未だこなれていない分類だが、この講座に関連する内容から例をあげると、(a) は“熱い茶碗の湯からゆげがでている”“白い雲がもくもくと広がっている”、(b) 虹の色の順序、ゆげの渦の動き方、(c) 竜巻や落雷、蜃気楼など、(d) 台風の全体構造、水滴やエアロゾルの粒の大きさ、などの例が当てはめられる。
本来、自然現象に優劣などなく、たとえ(a)の現象であっても、科学的解釈を突き詰めていくために新たな理論や高度な観測・分析機器が必要となるだろう。また、自然科学も人間の営みである以上、社会的流行あるいは政治・経済的な制約もある。ウィルス、DNA、銀河、…21世紀の今日、新聞紙上を賑わす科学記事が扱う事象のほとんどは(d)に属している。

“茶碗の湯”という現象 ― 寺田寅彦(1878-1935)


 80年以上前とはいえ、明らかに(a)に属する“茶碗の湯”という素材は、当時の子供たちにとっても地味なものであったに違いない。ところがそのありふれた茶碗の湯が、寺田寅彦によって地球的規模の現象に拡大する。中谷宇吉郎は「茶碗の湯に宇宙を見た人」と評し、『茶碗の湯』を収めた天文学者池内了の編纂による随筆集のタイトルは『椿の花に宇宙を見る』であった。湯気の虹色や湯面の亀裂、底のゆらぎ模様は(b)、竜巻や雷を引き合いに出し(c)、弾丸の衝撃波の研究法(d)にまで拡げているのだから、謎解きの魅力は充分である。また実際、私たちが思うほどこれらの話題は古くさいものではなかった。アインシュタインの相対性理論に世間が騒ぎ、量子力学や原子核物理学の勃興期にあたる20世紀初頭において、凝結核や散乱理論は最新の、あるいは英独の学会誌に目を通していた寺田だからこその最先端の話題でもあった。(年表参照)
 しかし、寺田寅彦が啓蒙普及とりわけ青少年のための科学振興に熱心であったかというと、そうでもないようだ。科学普及についてダイレクトに論じた文章は見当たらない。彼が投稿した雑誌は多岐にわたっているが、科学分野では『理学界』、『科学知識』、『科学』などどちらかというと高レベルの科学誌に限られる。また、大勢の聴衆を前にした講演は苦手だったらしい。
科学の愉しみをふんだんに盛り込んだ幾多の随筆は明らかに大人向け、というより、読者に媚びることのない気ままな筆、とすら思える。もちろん、題材となる現象自体は単なる思いつきなどではなく、透徹した研究眼によって相応の熟成期間を経たものである。(わたしは寺田研究者でも寺田フリークでもないので、調査不足かもしれないが)
『アインシュタインの教育観』と題する随筆の中で、理論家としては意外と思われるようなアインシュタインのことばを一般向けの英書を通して紹介している。〜純粋な科学研究は実用に無縁だが、学校の理科は実用的興味があるものでなければならぬこと。物理学の初歩なら、公式などもってのほか、実験や目に見えて面白い事だけでよい。映像を活用し「眼に浮かぶようにする」ことなど、現代日本の理科教育観ともいえるような意見に、寅彦はとくに賛同も反論もしていない。どうにも飄々漠々。そこで愛弟子、中谷宇吉郎に登場してもらおう。

科学と文化 ― 中谷宇吉郎(1900-1962)
 


 中谷の科学振興普及論は『比較科学論』(昭34)、『科学と文化』(昭12)『テレビの科学番組』(昭34)などでうかがい知ることができる。彼は『雪の結晶』という映画を作ったのをきっかけとして、学術研究、科学教育の両面で映像の重要性を主張した。多くの科学映画を製作しその拠点が後の岩波映画社につながる。理化分野での映像表現では説明的な線画の多用は避け、実験室や器械を撮し“雰囲気”を伝えることを主眼とする当時としては先進的な手法を採用した。説明で分からせるようなやり方は科学振興につながらないと考えたのだ。また教育テレビの演示実験でのパイオニアでもあった。(テレビ局のスタジオには設備がまったくなく、その扱いは料理番組以下の体制だ、と酷評している。)
彼は、科学知識と科学の考え方の普及のために、四つの方法があると述べた。
(1) 知識の普及は教科書等に譲り、科学的考え方とはどのようなものかを主体とする、寺田寅彦の随筆のような文章を書く。(ムリ、書ける人がいない。)
(2) 通俗科学雑誌に頼る。(困難。現在の雑誌の経営方針を批判。目新しく珍しい科学知識ばかり取り上げるのは、“天勝の奇術に対する興味を起こさすのと同じ”で、動機付けになるかも疑問。)
(3) 欧米の例にあるように世界的に見て一流の学者に通俗科学の本を書いてもらう。(最良の方法だが、無い物ねだり。)
そこで、
(4) “中の上の”科学者に研究の過程やあるテーマに沿った知識や疑問をわかりやすくすなおに書いてもらう。まずは文化の一部門としての科学の美は<芸術とは違い>事実の羅列の中にあることをわかってもらえばよい。
 かなり具体的である。たしかに伝統の浅い日本で(3)は難しい。寺田寅彦と同じ研究テーマ(X線結晶解析)でノーベル賞を受けたW. ヘンリー・ブラッグは、ファラデーとならんで、王立研究所の名講演者としても有名だ。そのクリスマス講演『音の世界』(1919)、『物とは何か』(1923)などはすぐに書籍となって普及した。またその演示実験のすごさは今日でも色褪せない魅力がある。たとえば『音の世界』の冒頭で、50年前にティンダル(ティンダル現象の発見者。ファラデーと同時代の名講演者としても有名)によって使われたという装置が示される。それは地下室から講演会場の2階へ貫通する金属棒で、地下室にはオルゴールが設置されている。聴衆は金属棒の先端に付けられた共鳴板によって地下のオルゴールの音を聞くのである。この種のさまざまな装置が、研究ではなく科学振興のために作られていた。「科学とは何か、その大切さを人々が知らないことを科学者は嘆く、とくに彼らが研究のために金を得ようとするときは。しかしその責任は科学者自身にある」と、ブラッグは書いている。(これもまた、現代の状況に通じるものがある?)
(4)の中谷自らの実践として発刊された岩波新書の一冊『雪』は今日まで多くの読者を惹きつけているが、これこそは正しく、(3)であろう。

“面白い”科学 ― 原田三夫(1890-1977)


 「同じ事を聞くにしても本当に分かっている人の口から聞くということは格別な佳さのあるものである。」と、ブラッグ卿の『音の世界』を訳した音響学者・栗原嘉名芽が序文の冒頭で記している。実にその通り、私などは穴に入るしかない。だが、専門家の講演を直接聞ける人は限られ、多くは、とりわけ子供たちにとって学校の先生と科学雑誌の意義は大きい。よい教師とは何か、という議論はおいて、ここでは一般科学誌について述べる。中谷の(2)の批判が正当かどうかは異論あるところだが、大正期以降科学雑誌の浮き沈みは激しかった。戦前に発刊された雑誌の中で現在も生き残っているものは、『子供の科学』(1924-誠文堂新光社)と『科学』(1931-岩波)しかない。戦中〜戦後間もない頃の科学雑誌過多、悪質化も指摘されているが、中谷が『科学と文化』を書いた1930年代では『子供の科学』あるいは『科学画報』(1923-誠文堂新光社)を指していたと見るべきだろう。両誌は札幌農学校および東京帝大生物学科出身のジャーナリスト、原田三夫によって創刊された。これらの雑誌を読み、その影響で後年科学者になった人々は数多い。私も“コモドドラゴン”や“ブロッケン山の怪”など見たこともない生物や不思議な現象の絵や写真に胸をおどらせた記憶がある。
原田は終戦後札幌に移ってラジオ等での科学普及をはじめたが北大の中谷に協力を断られている。かつて『科学知識』創刊(科学知識普及協会1921)に関わった原田は、大学研究者を中心とする協会の編集方針で対立し、以降アカデミズムに取り入ろうとはしなかった。一方中谷は、師寺田寅彦が字義通りの“その日主義”ジャーナリズムやそれに関わる著述家の自然科学への無理解に対し「かえって科学の本質を歪めて表現している」、「読者の一時的の興味のためにすべての永久的なものが犠牲にされ易い。」と批判(『ジャーナリズムと科学』および『通俗科学と文学』)したのと同様に科学ジャーナリスト・原田三夫の派手なやり方を嫌った。両者は、残念ながらウマが合わなかったらしい。
 ここに『子供の科学』創刊号に載った原田主幹の言明の要旨(全文は資料参照)を揚げておこう。まず以下の三つの役目が述べられる。
○自然は不思議やおもしろさに満ちているが、それを知っている学者は研究に忙しいので、代わりにうかがってみなさんに伝えること。
○学校の理科の内容をよりおもしろくするために関係ある写真や絵をそろえること。
○身の回りの道具や器械のしくみ、かんたんな作り方を伝え、発明の才能をのばしたり、おもしろい理科遊びができること。
しかし、一番大切な目的は、と続く。
○ほんとうの科学とは何かを知ること、である。
 科学は自然の法則性を明らかにして、人間はその自然にしたがって生き、楽しく暮らすことができる。科学の応用が文明の礎になるのだ、と高らかに述べている。科学の啓蒙普及に少しでも関心のある者なら、現代に置き換えても「この雑誌の役目」にまず異論はないだろう。原田の目的は次のように書き直すこともできる。

1. 最新の科学をわかりやすく伝えること。
2. 理科の授業を充実させるため、実験や教材を整備すること。
3. 低学年児童への“ものづくり”、“理科あそび”を実施すること。高学年〜一般市民向けに、身の回りの新しい機器(電子レンジ、携帯電話、パソコン、ロボット、その他電子機器)のしくみを学習する機会を設けること。
4. 科学の意味、歴史、その探究の方法を知り、人間と自然(あるいは環境)との関係を考えること。
以上は、科学振興施設、たとえば杉並区立科学館の設置目的と言い換えてもまったく違和感がない。(もちろん条例・規則にそんな記載はない)
 『子供の科学』の4つの役目あるいは1.〜4.は、どれも同じように大切な要素である。科学を伝える側の施設や人の理念にもとづいて、どれに重きをおくか考えればよい。ただし、受け手の年齢や興味、科学的素養のレベルによっても違ってくるだろう。また、幼児や低学年生に対しては“科学を教える”必要はなく、つくることや遊ぶこと、現象の美しさやおもしろさを与えてやればよい、という意見は常にあり、大衆に対しても同様だとすると、おもしろさを科学につなげるにはどうすればよいか?という点が科学教育振興にとって最大の課題といえるだろう。

『茶碗の湯』を継ぐ者 ― 竹内均(1920-2004)


 1981年、日本の『ナショナル・ジオグラフィック』をめざし美しい絵と写真を満載した科学誌『ニュートン』が竹内均によって創刊された。企画段階では“ジュニアサイエンス”といった誌名も考えていたらしいが、発刊後の主な読者層は高校生以上。竹内の思いは実を結び、『ニュートン』は大成功を収め現在にいたっている。当時、第3次科学誌ブームと呼ばれるさまざまな雑誌(『COSMO』、『OMNI』、『UTAN』、『QUARK』等)が誕生するが、今はない。
この雑誌のもう一つの重要な特徴は“評論を排したこと”にある。事実の報告こそが迫力をもつ、という信念は、中谷の科学普及論につながるものだ。はじめに書いたように、竹内均は『茶碗の湯』の正統な後継者である。地球大に拡大した茶碗の湯面に生じる亀裂は、プレートの割れ目となった。プレートテクトニクス、ビッグバン宇宙の進化、脳や出産をはじめとする人体の驚異、古代遺跡を探る考古学、…世界を駆けて収集した写真と美しいコンピューター・グラフィックス画像が現代科学を印象づけている。
“情報の視覚化”は、普及分野のみならず研究現場においても常套手段となり、その効用は計り知れない。中谷が手がけた理化分野の映像表現は、デジタル技術の進歩によって立体映像へと発展している。“視覚に頼りすぎる”弊害もなくはないが、近い将来、『ニュートン』を読んで科学を志したんだ、と述懐する大科学者が輩出するだろうか?
90年代以降、科学技術は知らなくても“利用できる”時代となり科学・技術への関心は薄れたという。科学の専門化・細分化によって科学者や技術者の科学全般に対する関心の低下という傾向が加速される。この影響は現行の雑誌でいうと『科学』や『日経サイエンス』といった高レベル総合科学誌の出版部数の低下となってあらわれる。また、インターネット情報の増加、書籍や知離れと呼ばれる現象と相まって、科学雑誌の未来も予断は許されない状況となっている

回転する茶碗の湯 ― 木村龍治(1941-)


 地球内部の熱い鉄の核、内部の多くを占めるマントル、地表面をおおう海洋、地球全体を包む大気、これらはすべて“流れて”いる。
それまで、飛行機の機体やプロペラ、船のスクリューなど、物体の周囲の水や空気の流れを扱うことが中心だった流体力学を地球の研究に応用した「地球流体力学」の推進者である木村竜治は、初めて“茶碗の湯”を回した人でもある。地上にいる私たちは地面や海や大気とともに自転している。まわりのすべてが回っているため通常は自分が回っているとは思わない。レコード盤(CD)のような回転を剛体回転と呼ぶが、海水も大気もそれとよく似た回り方をしているのだ。しかし気体は自由に動くことができ、液体も気体ほどではなくても自由に形を変える。自転の効果によって生まれる流体運動の“ずれ”が渦を生み、海流や低気圧となる。彼は、茶碗の湯を回すことが、流体がもつ「流れの相似性」によって、海洋や大気運動のアナロジー(類推)になることを学会等で発表している。身近なものから出発して、スケールが大きく、通常は人間の感覚でつかみにくい自然現象へと拡げていく解説の手法は、まさに寺田の随筆の意匠を継ぐものである。「茶碗の湯に地球をみる」(『自然をつかむ7話』2004所収)は、他の6話と共に映画や小説などの文芸分野の話題を絡めて織りなした作品であり、近年の優れた啓蒙書の一つであると思う。(彼はもともと教育普及分野への熱意と関心も高く、過去に『うずまきがいっぱい』、『たのしい気象の実験室』等の児童書、『流れの科学』等の著作がある。)

 寺田ー中谷の時代を中心に20世紀前半期における科学普及の状況をみてきた。そして、この時代の声が時と共に消え去ったのではなく、今日まで色褪せることなく響き渡るものであることを、いくつかの例で示した。もちろん、終戦後の混乱と復興、より高度な技術社会や環境との共生を唱う現代に到るまでには幾多の起伏がある。これからも、自然科学と工学技術、社会との関係はより緊密に絡み合っていくだろう。


 これらの話題は、『すればまだいくらでもありますが、今度はこれ位にしておきませう。  寅彦』

*文中の人名は、失礼ながらすべて敬称を略しました。参考文献は以下の通り。
寺田寅彦:『茶碗の湯』(赤い鳥社1922 日本近代文学館による復刻版)
寺田寅彦:『科学と文学』(角川書店1948)
『寺田寅彦全随筆』(岩波書店1992)
樋口敬二編『中谷宇吉郎随筆集』(岩波文庫1988)
中谷宇吉郎『樹氷の世界』(甲鳥書林1943)
荒俣宏『大東亜科学綺譚』(筑摩書房1996)
竹内均『学問への憧憬』(佼成出版社1985)
『ニュートン』2004年7月号(ニュートンプレス)
ブラッグ『音の世界』(創元社1941)
ブラッグ『物とは何か』(世界教養全集29 平凡社1961)
島尾永康『ファラデー』(岩波書店2000)
木村龍治『大規模な大気海洋現象の実験室モデル』(『ながれ』vol. 20 , 2001)
木村龍治『自然をつかむ7話』(岩波ジュニア選書2004)
高田誠二『科学雑誌の戦前と戦後』(『Butsuri』第51巻3号 日本物理学会1996)

『茶碗の湯』の時代の科学

1735 ハドレー循環
1856 フェレル循環
1871 レーリー散乱
1897 J.J.トムソン 電子の発見(1906 ノーベル物理学賞)
1897 水蒸気の凝結には相対湿度数百%の過飽和度が必要(C.T.R.ウィルソン)
1908 ミー散乱理論(球状粒子による散乱を電磁気学的に解く)
1911 C.T.R.ウィルソン霧箱発明(1927 ノーベル物理学賞)
1912 ブラッグ父子、X線回折理論。結晶格子の配列を説明(1915 ノーベル物理学賞)
1913 寺田寅彦 X線回折に成功
1913 ボーアの原子模型
1921 アインシュタイン光電効果の理論によりノーベル物理学賞受賞
1922 寺田寅彦『茶碗の湯』、『塵埃と光』。アインシュタイン来日
1923 コンプトン効果
1926 シュレジンガー、波動力学
1927 ハイゼンベルグ 不確定性原理
1927 スコベルツィン 霧箱により宇宙線(ヘス1912)の軌跡を観測
1932 アンダーソン、霧箱によって陽電子(ディラック予言)を発見
1935 ベルシェロン 氷晶説
1938 竹内均『茶碗の湯』を読む
1938 ハーン、ストラスマンらウラニウムの核分裂発見
1939 大気大循環での惑星波(ロスビー、偏西風の蛇行を説明)
1942 中谷宇吉郎『茶碗の湯のことなど』
1947 ストリートおよびスティーブンソン 霧箱でπ中間子(湯川秀樹予言)発見

(土曜科学講座資料より)


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