H22 高速道路1000円なので、第六弾春日山城跡!

平成22年10月24日(日)
前日に天気予報では晴れになっていたので、念願の上杉謙信ツーリングを決定。

朝5時に自宅を出発し、外環道〜関越自動車道の上里SAで、バイクには給油、自分には朝飯を吉野家。

その時の朝焼けがすごく綺麗!

関越自動車道〜上信越道〜東部湯の丸SAで給油して、上越高田インターで下り、春日山へ向かった。
そして、春日山の入り口に大手道があって、そこから昔の人達は、春日山城に歩いたらしい。

春日山到着!

上の銅像が上杉謙信像。

上杉謙信公の居城として知られる春日山城は今から600年前に南北朝時代に築城される。
謙信の父、為景、謙信、景勝と三代にわたり普請に努め、大城になった。

春日山城前の春日山神社。
山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀った神社です。明治23(1890)年に、童話作家・小川未明の父小川晴明によって創建されました。日本近代郵便の父・前島密も援助したといわれています。

直線的でがっしりとした神明造の社殿は見応えがあり、境内に隣接する春日山神社記念館には、謙信公の遺品・資料などが展示されています。また、小川未明の『雲のごとく』の詩が刻まれた石碑や、童話をモチーフにした石像なども見ることができます。


NHKドラマ 天地人で、有名な直江兼続屋敷跡。

直江家は謙信の父・長尾為景の時からの重臣で、山城守兼続は謙信の子・景勝に仕え、上杉家が会津に移った際に米沢30万石の城主となった。直江屋敷はお花畑下と千貫門の間に3段の曲輪にまたがっている。




「毘沙門堂(跡)」には上杉謙信が信仰した毘沙門天の尊像(青銅製、約50センチ)が安置されています。 尊像は上杉景勝の時会津を経て山形県米沢に移りましたが、嘉永2年の火災で傷んだと云われ、昭和3年に第十五代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼。 この時「高村光雲」氏が一年余を費して修理を担当。 「高村光雲」氏は毘沙門天の分身を造り、尊像の欠け損じたものを腹部に納入して、昭和5年3月に完成。 上越市(当時春日村)に寄進しています。


春日山城 本丸跡!

謙信の酒好きは有名で、上洛しては足利義輝や関白、近衛前嗣と京風の酒宴を開いています。酒豪であったこと、一方で関節炎を患った形跡もあり、死因の脳卒中も酒が原因と云われています。 謙信は、また信仰に篤く、天台・真言・日蓮など、各派を受け入れていますが、その軍旗は「毘」の一字旗で、毘沙門天に誓いを立て、城内の敷地に毘沙門堂を立てて時折篭り、戦勝祈願をしたことに依ります。 誓いの内容には、女性不犯(生涯妻を娶(めと)らない)とあり、武将としては異例であり、側室はもとより正室も持たなかったと云われています。 その理由としては、年少時の仏門生活による所もあったと云われていますが、謙信自身は婚姻外交などを考慮の外においていたのが最大の理由でしょうか。 ゆえに謙信には実子がなく、死後、二人の養子の間に後継問題(景勝・景虎)が起き、家臣団を二手に分けての内乱に発展した御館の乱。


本丸跡、春日山頂上からの眺め。

その当時は謙信も、見ていた景色でしょう。
また、越後国絵図に描かれた中世の景観とほとんど変わりがないらしいです。

本丸跡の後方、一段低い所には大井戸があって夏でも水の枯れることが無かったと云われます。 廃城後四百年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれています。 当時どのようにして、水が湧く地点を調べたかは定かではありませんが、地質学的には、西方の山々と礫層で繋がっていて、サイフォンの原理が働いて、水が湧くようです。

上杉景勝屋敷跡。

本丸の左側を守っていたと思われる。

「三郎景虎屋敷跡」は、三の丸の後方に位置し、上杉謙信の死後、跡目を争った「御館(おだて)の乱」で破れた悲劇の武将です。
元小田原城主北条氏康(うじやす)の七男で、人質として春日山城に来ておりました。 謙信から景虎の名を与えられたことでも判るように、人質としては破格の待遇であったのです。
 跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えています。

林泉寺

新潟県上越市にある曹洞宗春日山林泉寺は、戦国時代を代表する名将上杉謙信公ゆかりのお寺として知られております。
その入り口にある、惣門。
上杉謙信公によって春日山城から移築された。
その当時を今に伝える唯一の門。

山門
上杉謙信公建立の山門は江戸末に地震によって焼失。
大正時代に再建される。


山門に描かれている龍。

林泉寺 本堂。
平成9年開創500年を記念して建立。

また、林泉寺を菩提寺とされた歴代城主ゆかりの品々を多数収蔵展示する歴史資料館があり、謙信生前に描かれたものとして唯一現存する肖像画、、また、「春日山」、「第一義」大額などの品々がある。

発掘調査によって確認できた土塁や堀、道などを復元し、中世の春日山城を体感できるよう整備した春日山城史跡広場。その一角にあるのが春日山城跡ものがたり館で本丸跡を望みながら、春日山城の大城郭のスケールや歴史を学ぶことができる。ワイドスクリーンで上映される上杉謙信と春日山城の歴史を解説するビデオや川中島合戦屏風(複製)の展示は必見だ。また展望室からは本丸跡を一望にする。

謙信公と春日山城展

・・この地に生きる義の心 すべてはここから始まった・・・
戦国の名将・上杉謙信公の生き様を伝える「義の心」。「義の心」が育まれた春日山城。
謙信公や春日山城を中心に、越後上越の地で繰り広げられた戦国時代の歴史を現代に伝える企画展です。

大河ドラマ特別展示展で撮影。

御舘の乱跡地

今では公園になっている。

謙信が春日山城内の厠で突然倒れ、意識の回復を見ぬまま四日後に歿したのである。遺言も何もなかった。このため家中が景勝方・景虎方の二派に分かれ、いわゆる跡目争い「御館の乱」が起こった。


そして、帰り道で昼飯と給油をしようと、上越インターまで走っていると、いつの間にか高速に乗ってしまって、バイクがリザーブに入ってもなかなかカソリンスタンドPAなく、3Lを残して、やっとの事で松代PAに到着。

バイクに給油し、自分にもスタミナ丼を!

そして、関越では本庄から川越まで渋滞し、所沢では雨になって、三芳SAでカッパ隊になる。

まあ〜〜これもツーリングです。