H22 高速道路1000円なので、第四弾岐阜ツーリング!
H22 4月24日〜25日
朝4時出発!
一人旅なので、起きた時からのスタート!
首都高速(新井宿)〜中央自動車道〜名神高速道路(小牧東)
朝の双葉SAで朝カレーから走って、阿智PAで給油とコーヒタイムから、昼飯の内津峠PAで、牛丼!そして、ここから、二日間牛丼屋で、全ての食事をすます。
小牧東インターで下りて、尾張パークウェイ(無料)を走り、犬山城に向かっていると、桃太郎神社の看板が〜〜もう〜〜ウインカーが自然に出してる。
桃太郎神社の桃鳥居をくぐれば、悪は去る(猿)、病いは去ぬ(犬)、災いは来じ(雉)と言う「桃」が持っている神秘の言い伝えが--。
ってなってるけどね〜〜〜(裏画面あり)
桃太郎神社から、少し走って、本日の目的地、犬山城到着!
ここで、かなり暑くなってきて、装備を脱ぎ始める。
国宝 犬山城
天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築いたといわれています。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、以後、中仙道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、以後戦国時代の攻防の要となりました。
平成16年まで、成瀬家個人所有だったって、すごい事!
城下町の散策も楽しく、犬山市文化資料館やからくり展示場なども、犬山城のチケットで入場が出来る。
しかも、城で結婚式もやってるし〜〜
犬山城から、岐阜城(稲葉山城)へ向かう途中に、岐阜駅まえで、気になるものが!
黄金 織田信長像!
あとから知ったけれど、去年出来たらしく、駅前で、大きなイベントが開催されてました。
斉藤道三公・織田信長公のゆかりの城 岐阜城(稲葉山城)到着!
天文8年、山城山崎の油売りから身を起こした斎藤道三が入城する。 道三は、天正10年には土岐頼芸を追放して、美濃一国を手に入れた。
弘治2年、道三は子の義龍と争い討ち死にしてしまう。
その義龍も5年後の急死。 道三の孫龍興が城主となるが、永禄10年に織田信長によって滅ぼされ、信長が尾張小牧山から移り、岐阜と改称した。
岐阜金華山ロープウェー
金華山の頂上に岐阜城(稲葉城)がある。
往復券で1050円で、コレを買わないと、かなりキツイ散策になると思われる!
金華山の下は、岐阜公園になっていて、そこには、板垣退助像や、織田信長の居館跡や、楽市楽座、加藤栄三・東一記念美術館、名和昆虫博物館などがある。
岐阜市歴史博物館!
ここで歴史を感じようってコーナーで戦国時代の着物って所があって、そこでだれも、着ないから、一番に登場!
織田信長のうつけ時代の着物!
下は虎の皮とヒョウの皮で出来ていたらしく、腰にはひょうたんの水筒と火打石がある。
足には織田信長も、家臣団にこの “ 足半(あしなか)
” を採用し、履かせたと言われています。(裏画面)
そして、近くにいた家族には、ここの演出の人と間違えられた!
そして、岐阜城を出て走ると、すぐに岐阜大仏って看板が!
走り出した瞬間なのに、予定変更する。
日本三大大仏 岐阜大仏殿!
奈良、鎌倉、岐阜となっているらしく、高岡も三大大仏になっていて、三番目は実際決まっていないらしい。。
そして、本日のディナーは、吉野家のカルビ定食大盛!
今回の宿泊所の東洋健康ランド!
夕方4時から入館料700円!
深夜割増800円追加で合計1500円で素泊まりが出来ます。
一人旅には、格安で助かります(まあ〜〜それを探して行ったのですがね)
中では芝居やイべントもやっていたけれど、風呂(さすが健康ランドです)入ってビールを飲んで、仮眠室入ると、速攻熟睡!
朝起きて、一番風呂に入って、地図を見てると、関が原が近いことに気が付き、考えもせずに、出発!
しかし、朝飯は吉野家の朝定食!
国道21号で、関が原まで走り、関が原の戦いの激戦地に到着!
西軍総大将 石田三成陣跡 笹尾山
島左近陣跡、蒲生郷舎陣跡や竹矢来があり、旗指物のたなびく山頂に石田三成の陣跡、、松尾山がある。昭和12年建立の記念碑や東屋がある。そしてボタンを押すと合戦の説明をしてくれる関ケ原合戦陣形図があり、関ケ原の全体を見渡せる。
東軍総大将 徳川家康最後の陣地
ここで陣頭指揮に当たった。
西軍 宇喜多秀家陣跡
豊臣政権の五大老で、西軍最大の一万七千の兵を引き連れて陣をひいた。
脇坂安治陣跡
大谷吉継の指揮下に入っていた脇坂・小川・朽木・赤座の四将は、九月三日に来着し(朽木の到着は翌四日)、藤川と黒血川の間に陣を置いた。小早川秀秋の寝返りに続いて彼らも一斉に矛先を大谷勢に向けたため、さすがの吉継もどうすることもできずに壊滅してしまう。
そして、関が原で一番気になっていた、松尾山の小早川秀秋陣跡!
ここが一番離れていて、歴史的に見てもかなり重要な場所なので、地元の人に何回も聞いて何とか、たどり着いた。
そして、駐車場でこの看板が出る。
そして、40分は楽勝と革パンなど、バイク装備で気合で登山道に入ったが、急勾配の激しさと、帰りの事を考えて、15分位登山したが、汗でビショビショになりながら、松尾山陣跡までたどり着かず、退散する。
登る人を見ると、登山完全装備でした!
そして、次の目的地の大垣城に向かうと、なんと、徳川家康公の最初の陣跡、桃配山が有った!
慶長5年(1600)9月15日未明、家康の配下3万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂で馬印を掲げ、指揮をとった。最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、しきりと作戦会議が開かれたと思われる。
大垣城!
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守閣を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなりました。
しかし、大垣城天守の改修工事が行われていて、外観は見れなかった!
最後の目的地!墨俣の一夜城!
禄9(1566)年美濃の斎藤勢がいる長良川べりの稲葉山城(後の岐阜城)の攻略の前線基地とするため、織田信長の命を受けた木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)は、このあたりに精通した川並衆を集め三昼夜半でこの低湿地に城を築いた。これが墨俣一夜城である。
実際は、川の流れの変わった事などで、この付近ではないかという事らしい。
在の城は「ふるさと創生一億円」を基に立てられた金鯱がまぶしい歴史資料館である。天守閣の一対のシャチは雄が高さ120a、雌が同115a。計27`の大蔵省造幣局製の純金が使われている。5階は展望台になっており、犀川沿いの1000本の桜並木が一望でき、ここからの眺めは抜群である。
気になる、墨俣ギャラリー室!
ここから、帰りは岐阜羽鳥インターで乗り、東名高速道路は突っ走り、帰宅する!