MONTY PYTHON とは   

 英国で69年に結成されたコメディ・グループ。
 ジョン・レノンが、「加入し直すとしたらビートルズよりもパイソンの一員になりたい」と言ったグループでもあります。

 のちにエリック・アイドルが語るところによると、番組のロケで行った先にいた上品なご婦人から、「あら、モンティ・パイソンだわ! 私はあなた方を心から憎んでいるの!」と言われたそうで、「それを聞いた我々は、とても誇らしげで幸せな気分になったよ」。
 つまり彼らは、そういう存在なのです。ビートルズが出てきた当初は、不良の集まりと言わたのに、今や音楽史に名前が出てこなかったらおかしい存在であるような。

 結成以前、一番有名だったのは、ジョン・クリーズ。
 BBCが番組を作らないかとジョンに声を掛けたことが、結成のきっかけになったそうです。
 声をかけられるずっと以前にジョンとグレアムは、のちにメンバーとなるあとの4人がやっていた子供向け番組「ドント・アジャスト・ユア・セット」(子供向け番組ながら、丁度大人の帰宅する夕方に放映していたこと、製作する彼らの側が、なにも子供向けを意識して作る必要はない、と思っていたことなどから、大人たちのカルト的人気番組となっていた)を見ていて、一緒に仕事をしたいと考えていたそう。 

 BBCからはジョン一人に対してオファーが来ていましたが、ジョンは自分の名前が冠になった番組をやりたいとは思っていなかったそう。誰か一人に焦点を当てない番組の作りは、その考えに基づいているそうです。もちろん相方のグレアムは一緒に出ることになって、ジョンはマイケルを気に入っていていたので、一緒にやろうとマイケルに電話を掛けます。

 番組に関っていたバリー・トゥックによれば、コメディアンのマーティ・フェルドマンとインド料理店で食事中に、自分がプロデューサーだった番組に出ていたマイケルとテリー・Jのオックスフォード卒業コンビと、フェルドマンと仕事をしていたジョンとグレアムのケンブリッジ卒業コンビを対決させるような番組を作りたい、という話をしていて、ジョンやBBCに話をしたのだそう。それが結局、ジョンへのオファーになったのか定かではありませんが、BBCとしては群を抜いて実力を発揮していたジョンを看板にして、番組作りを考えていたようです。

 ちなみに、アメリカ人のテリー・G以外の5人は、歴史も格調もあるオックスブリッジ卒業生(オックスフォード大学設立は1170年。日本では武士の台頭なんかのあった頃、ケンブリッジ大学設立は1226年、日本ではその8年前に源氏の正統断絶があり、北条家が国を収めはじめていた頃)ですが、当時、オックスブリッジ卒業生のコメディアンはすでに英国の業界に多く存在していました。まずケンブリッジからピーター・クックが頭角を現し、さらに両校から人材を集めたビヨンド・ザ・フリンジという4人グループ、さらにダドリー・ムーア、ジョナサン・ミラー、アラン・ベネットといったコメディアンを輩出します。

 ちなみに、イギリス人の5人はパブリックスクール出身、と言われていることが多いですが、エリックに言わせると、「ケッ」なのだそうで、実際のところパブリックスクールと言える学校出身は、マイケルのシューズベリーとジョンのクリフトンだけで、テリー・Jとグレアムはグラマー・スクール、エリックはといえば寄宿学校ながらパブリックスクールではなかったようです。
 
 しばらくしてクックの後輩にあたるディビット・フロストが、コメディ界の流れを変える勢いで、オックスブリッジ卒業生をコメディの脚本家やコメディアンとしてどんどん斡旋していったので、60年代の中ごろになると、コメディ界はそれまでの労働者階級出身者ではなく、中流階級出身のエリートが中心となって行き、パイソンズの面々もその流れの中で、職に就く手掛かりを得ています。ちなみにMr.ビーンのローワン・アトキンソンもオックスフォード卒業生で、ジョン・クリーズが見つけた人材らしいです。
 
 というわけで、彼らのように輝かしい学歴でコメディアンになるのは、英国ではひどく珍しいことではありません。彼ら以前にすでにあったものだそうです。
 今ではオックスブリッジ・マフィアと呼ばれる一大勢力として、高学歴集団が存在するそうです。つまり、知性を人以上に持ち合わせた人間に、さらに笑いの才能までもが与えられていたからこそであり、オックスブリッジを出ていることはプラスになっているものの、卒業生であることだけがブランドになっているわけではない人たち、というわけです。

 さて、ジョンから誘いを受けたマイケルは、ズバ抜けた実力を見せているジョンと仕事をするという話は「正直ビビッた」そうだけれども、結局、相方のテリー・Jと、エリック、テリー・Gも一緒にやるということで、グループは誕生。当時、4人には民放局から『ドント〜』の大人向け番組を作って欲しいというオファーも来ていたけれども、スタジオやらの関係で立ち上がりは来年になると言われていて、ジョンの申し出はその年の秋には立ち上がるものだったので、グループ結成に至ります。

 グループ結成後、まずは番組タイトルを決めなければなりませんでしたが、最初の台本を仕上げた時にも、まだタイトルは決定していませんでした。いくつかの番組名候補の一つを提出していましたが、BBCからもっとましな名前をつけろと言われ、且つ、すでに番組のことを「フライング・サーカス(空飛ぶ、と訳されている部分)」と呼んで予定を組んでいるから、名前としてどこかに入れて欲しいと要請されたそうです。
 
 なぜ、フライング・サーカスなのか、というと、番組制作を強く押していたバリー・トゥックへの風当りは強かったものの、トゥックの上司が彼を支持する言葉の中で、「おまえら、撃墜王リヒトフォーヘン男爵と彼のフライング・サーカスみたいだな」と言ったことから、予定の番組をBBC内では、『トゥック男爵のフライング・サーカス』と呼ぶようになったからとのこと。

 で、誰のフライング・サーカスにすればいいか、を考えることに。マイケルが奥さんの実家で見た新聞に載っていた女性の名前から、『グゥエン・ディブリーズ・フライング・サーカス』という案が出したり、果ては『シンシア・フェラチオズ・フライング・サーカス』(にしても、こんなタイトルって使えるんでしょうか?)などという案も出たものの、最終的に、ネバっこくてマッチョで胡散臭い業界人の名前のイメージから『パイソン』が良いとジョンが思い付き、次に『モンティ』というのを誰かが言い出して、決定。 『モンティ』にもマッチョなイメージ(英国の有名な軍人、英国人ならば誰もがマッチョな豪傑を思いだすというモンゴメリー元帥。番組放映中はまだ存命)があるそうです。
 男性的で且つ少々性的な含みを持ったその名前で、次々とコメディの歴史を塗り替えて行きます。

 1969年10月5日の深夜ワクでも一番最後の時間帯に、『空飛ぶモンティ・パイソン』の第1回放送がはじまり、13回で第1シリーズを終了。コントとアニメで出来上がった30分番組は非常に斬新で、じょじょに若者たちから支持を得ていきます。ちなみにジョージ・ハリソン(のちに映画へ出資、カメオ出演もします)は、第1回放映に興奮して、すぐにBBCへ電報を打ったそうです。
 
 それまでのコント番組とは違い、進行の司会を入れず、バックバンドやダンスチームを入れず、有名人を安易に出さないことを決め、脚本も配役も全て自分たちの手でこなしていくこと、オチをつけることでせっかくの笑いが半減することも多いので、オチをつけないでいく、先輩コメディアンへの尊敬を捨ててでも面白いものを優先する、という規則を自らに課した6人は、司会進行をなくしたこととオチにこだわらなかったことで、コントとコントをスムーズに繋ぐ手法や、最初に出たコントを後からのコントに繋いでいくコントの手法を編み出し、のちのちの番組に影響を与えていきます。
   
 彼らの会議はそれぞれ、基本的にはジョンとグレアムのコンビ、マイケルとテリー・Jのコンビ、ピンのエリックが、書き上げた台本を持ち寄って、それぞれが批評をし、あのコントとそのコントをつなげば良くなる、というような試行錯誤を重ねて行われました。アニメ担当のテリー・Gは、出来上がったものを「好きか嫌いか言ってくれ」と出し、台本会議で誰かに意見されることなく参加していました。アメリカ人でオックスブリッジ卒業生ではないテリー・Gの意見は、他の面々には新鮮なものだったそうです。
 
 時々、コンビを交換したりエリックが誰かと組んだりしながら様々な台本を書き、会議は普通の会社員の仕事をする時間帯と同じ時間に設定、自信のネタをそれぞれが読み上げて、さらにそれを批評や意見で上・中・下で分けて行き、テレビ局や視聴者にコビるものではなく、あくまでもお互いがお互いを笑わせてやろうと精進していったそうです。お互いの演技に対しては批評しあわなかったようですが、台本に関しては様々な攻防戦を繰り広げていたそうです。配役は、非常に民主的に行うことになっていて、誰かが「俺がやりたい」と言っても、「これは誰々のほうがあっている」というように話合って、多数決だったそうです。
  
 検閲の目に止まることはあったものの、検閲でカットや差し替えをくらったのは、全シリーズ中2箇所。BBC内に自由な空気があったことと、彼ら自身も検閲と戦ったから。
 ちなみに検閲にあった2ネタは、テリー・Gのアニメ、黒子のある王子のネタで、黒子が「癌」になって死んだと言ったものを、あとからアナウンサーの声で、「壊疽」に取り替えられた、というもの(再放送時に差し替え)と、プルースト要約選手権のネタに出てきた出場者が趣味を問われ、「趣味は動物の絞殺とゴルフ、そしてマスターベーションだ」と答えた台詞の、「マスターベーション」のカット。
 他にもカットは免れたものの、かなり際どい葬儀屋のネタをする時にディレクターがやりたがらず、観客がネタに怒り出す展開に変更したとか、いろいろとあったそうです。

 自分たちで葬ったネタもあるのだけれども、『ウィ・ウィ・スケッチ』と呼ばれるおっしっこを飲むネタは、テリー・Gによればジョンが葬ってしまった、というのだけれども、ジョンによれば、放映するネタではないと思ったからBBCの検閲の味方だっただけ、とのこと。
 エリックはジョンと検閲について、「当時のジョンは何でも自分の思い通りにするヤツだった。彼にしてみれば、1つのシーンを切るくらいは不可能ではなかった。(中略)だけどいとも簡単に切ってしまったってことはないよ。(中略)パイソンズの拒否権は、ほとんどの場合、ビジネス的な理由で発動されたからね。個人の権利を大勢で邪魔することは避けられていたし、国連のように運営されていたんだ」と、ギリアムの考えを否定しています。

 第2シリーズ(1970年9月15日から)が13回、これのはじまる前に、テレビシリーズのネタを撮り直して作った映画の1作目(1971年)の製作します。映画には放映前の第2シリーズのネタも含まれています。
 第1シリーズではまだお互いを良く知らなかったこともあって遠慮があったものの、第二シリーズに突入する頃になると、元々違いのある、ケンブリッジとオックスフォードの校風の違いからくる衝突、仕事が終わればすぐに私生活へ戻るクールなタイプのケンブリッジ(ジョンとグレアム、エリック)と、仕事の時間が終わっても夜中まで仕事を続けるオックスフォード(テリー・Jとマイケル)という違いのせいでぶつかることも起きはじめていたようです。アメリカ人のテリー・Gは自らも夜中まで仕事をするタイプで、オックスフォード派。
 
 第3シリーズ(1972年10月19日から)も13回続きますが、第3シリーズ終了と共に、ジョン・クリーズは番組のマンネリ化を理由に番組を去ります。ジョンは第2シリーズの途中で、すでに番組を降りることを考えていましたが、みんなに強く止められて、第3シリーズには残りました。しかしそれ以上は残る気持ちにならず、降りてしまいます。
 ジョンが抜けてしまったことで、グレアムは乗り気ではなくなりエリックも存続に懐疑的だったものの、テリー・Jとマイケルのコンビの強い熱意で、第4シリーズは1974年10月31日から6回放映されます。
 
 すでに不動の人気を得ていた彼らの番組は、開始当初の深夜ワクから、このシリーズにはゴールデンへ進出していましたが、にもかかわらず実験的な作品が多いシリーズとなっています。テリー・Gは、「コントロールするジョンがいなくなって極端から極端に走った」から実験的なのだ、と言っていますが、マイケルとテリー・Jのオックスフォードコンビのシュールな感覚が前面に出たから、という説もあります。ジョンもいくつかのネタを提供しています。

 ちなみに、1971年には本でネタを再現する試みとして、『MONTY PYTHON'S BIG RED BOOK』が発売。本に関しては、ほとんどエリックが手掛けたそうです。音でのコントの再現は、『MONTY PYTHON'S FLIYING CIRCUS』(1970年)で、ライブを収録したものが第1作目アルバム。その後、本もレコードも多数出版されています。

 1974年12月5日、『空飛ぶモンティ・パイソン』は最終回を放映。ちなみに6回だったのは彼らの選択であり、番組のクリオティを保つための選択でした。番組は高視聴率のまま幕を下ろします。
 パイソンズと仕事をしたイアン・マクノートン(番組監督)は、「パイソンが終わってみると、私は普通のシチュエーション・コメディ番組を普通のコメディ俳優を使って作ることに苦痛を感じるようになった。理由は、どれもパイソンズほどは笑えないからだ」と当時を振り返っています。
 
 それだけ惜しまれた彼ら、解散をしたわけではありませんからTV終了後はジョンも戻ってきて、映画製作に入ります。まだ『空飛ぶ』放映時に製作したアメリカの市場を当てこんだ1作目は、当時はアメリカに受け入れられませんでしたが、映画第2弾、監督も2人のテリーがこなした実質上の第1弾映画、『モンティ・パイソンとホーリー・グレイル』(1975)年は低予算製作で大ヒットを飛ばします。

 さらに1979年、宗教を題材にしたためにキリスト教会から叩かれることとなり、地域によっては上映禁止処分まで受けた『ライフ・オブ・ブライアン』を製作、1980年にハリウッド・ボウルでの4日間のライブ公演を行い、1982年、メンバー全員で揃っての最後の映画、『人生狂騒曲』を製作。

 1989年10月4日、『空飛ぶモンティ・パイソン』初回放映日から20年目を迎える前日、グレアム・チャップマンが癌のため死去。全員が揃うことがなくなってしまいましたが、この頃すでにグループとしての活動は再放送かレコードの再編集をしたCDなどになっており、みんなソロの仕事をしていました。残りの5人が全員で揃うことは、30年を迎える前年にアメリカ・コロラド州で行われた、『US・コメディ・アーツ・フェスティバル』までありませんでした。

 アメリカのテレビ番組、『サタデー・ナイト・ライブ』は、『空飛ぶモンティ・パイソン』のような番組作りを目指して製作されたもの。アメリカのアニメ、『サウス・パーク』の作者もモンティ・パイソンに影響を受けたと言い、30周年記念番組ではリスペクトとして「死んだオウム」スケッチのパロディを製作しています。
 モンティ・パイソン以降、彼らから影響を受けたコメディアンは数多くいます。

 さて、冒頭に書いたエリックの語った言葉には続きがあります。
 「最近、私は、我々を嫌う人がいなくなって寂しいくらいなんだ。悲しいことに我々は、今やナイスで、安全で、受け入れ易い存在に成り下がってしまった。その事実は、体制側ってものが、いかにズル賢いかを示している。どんなものでも内側に取り込んで、毒を抜いてしまうんだ」

 しかし、エリックが「毒を抜かれた」と思っていても、未だ色あせない毒を有した彼らの笑い、是非、皆さんもご覧下さい。

参考資料
「モンティ・パイソン大全」
「モンティ・パイソン・スピークス!」
「パイソン・ナイト」
「テリーギリアム映像大全」  など