■  8  白と黒の決着


「はい、彼方。焼そばパン、買ってきたわよ」
学園購買部で人気の惣菜パン二つと、紙パックの紅茶を、手渡しながら、綺亜は、言った。
焼そばパンは、紅しょうがたっぷり入った焼そばを挟み込んだ、ボリューム感のあるパンである。
昼休みの屋上は、人影も疎らで、彼方と綺亜を含めた、三つ程のグループが、昼食をとっていた。
「ありがとう、綺亜」
パンと飲み物の分の硬貨を手渡しながら、彼方は、言った。
「私も、今日のお昼は、購買だし、別に感謝されるようなことじゃないわ。七色のお弁当じゃなくて、残念だったわね?」
「や。そんなことないよ」
「ふーん」
少し面白くなさそうに息をついた綺亜は、自分用に買ってきたクリームパンの封を開けながら、ねえと前置きをして、
「私と初めて会った時のこと、彼方は、覚えてる?」
彼方に向ける綺亜の視線は、何気ないようでいて、普段とは違う表情を、湛えていたが、彼方が、それに気付くことはなかった。
「綺亜と初めて会った時のこと?……ええっと、ああ、覚えているよ」
記憶を手繰り寄せながら、彼方が答えると、綺亜の整った眉が、揺れて、緊張していた表情が、柔らかくなった。
「本当……?」
期待と不安を、半分ずつ混ぜ合わせたような声だった。
「綺亜が、転入してきた時のことだよね。良く覚えているよ。綺亜を見た、新谷のテンションが、妙に上がっていたことの方が、正直印象が強いけれどもね」
「……うん」
短い頷きと一緒に、綺亜の唇の微笑が、解かれた。
「綺亜?」
「気にしないで。何でもないわ」
「そう言えば、あの時、綺亜の着ていた服って、晴嵐女子の制服だよね、一貫教育で有名な進学校の」
「まあ、ね」
と、綺亜は、歯切れ悪く答えた。
「思い出した。新谷の奴が、セーラー服ってやけに騒いでいたんだよね、確か」
葉坂学園のブレザーとは異なり、晴嵐女子の制服は、白と紫を基調としたセーラー服だった。ブレザーにはないセーラー服ならではの華やかさが云々と、新谷が言っていたことを思い出して、彼方は、苦笑した。
「あ、あれは、転入当日までに、葉坂の制服の仕立てが、間に合わなかっただけよ!」
綺亜は、顔を真っ赤にして、反駁した。
「そう言えば、どうして、葉坂学園に?晴嵐は一貫教育の学校だし、場所も、葉坂とあまり変わらないよね」
「色々……かな」
と、綺亜は、言った。
その応え方に、彼方も、それ以上、追求はしなかった。
抱えたペットボトルに目を落としながら、綺亜は、実はね、と続けた。
「ずっと晴嵐女子だったけど、登校は、あまりできなかったの。お父様の方針とか、私自身のこととか、理由は色々あるんだけれども」
自嘲気味に、少し寂しそうに、綺亜は、言った。
「……そう」
「だから、人と接するのに、疎いところがあるのは、自分でもわかっているわ。学園の皆は、とっても優しくしてくれるけど、それに、どう応えたら良いのか、時々わからなくなるの。皆に対して、失礼よね」
「少しずつ慣れていけば良いだけだと思うけれどもね」
と、彼方は、言った。
「私ね、小さい頃から、屋敷の外に出たことが、あまりないの」
「ええと。お嬢様、だからね、綺亜は」
執事の時田の顔を思い浮かべながら、彼方は、言った。
「そうかもね。箱入り娘、かな」
と、軽く相槌をうった後、
「本当、匣、の中だったわ」
小さな呟きは、誰に言うという訳でもなく、晴れた青空に吹く風に、溶けていった。


「ここ……なのか」
土曜日の十四時。葉坂学園。
学園の佇まいは、土曜日で学園が休みであることを除けば、いつもと何ら変わりがないように見えた。
グラウンドでは、野球部が、練習試合をしていて、その奥では、サッカー部も、同じように、練習に勤しんでいた。
「学園のどこかに……」
綺亜が囚われているかと思うと、目の前に広がるいつも通りの日常風景が、無性に寒々しく、作り物にすら思えてきた。
体育館に足を運ぶと、部活動は午前中で終わりなのだろうか、バレー部と思われる四・五人の女子生徒が、後片付けをしていた。
冬の体育館は、冬場の冷たい風が流れ込んでいて、寒くて、自然と肩を縮こませてしまった。
「“爛”……か」
この前の騒動、“爛の王”虚影の指揮者、鷲宮イクトのことを思い出した彼方は、頭を振った。
意識はしなくとも、あの時のビジョンが、鮮明に、脳裏のスクリーンに、繰り返して映し出された。
(……この世界の理から外れた存在“爛”……綺亜は、それから世界を護る為の存在“守護者”……)
かつての自分であれば、取るに足らない妄想と切って捨ててしまっていたであろう、もはや非現実的ではなくなった思考は、消せないままに、そのまま、屋上に、足を運んだ。
やはり、青空が、広がるばかりだった。


「職員室は、誰も、いないか」
彼方が、扉を閉じようとすると、
「あら、朝川君?」
聞き覚えのある涼やかな声に、足が止まった。
同級生で、彼方と同じ天文部員の、好峰杏朱だった。
「杏朱?土曜なのに、珍しいね」
と、彼方は、言った。
「ふふ。数学の山本先生に頼まれていた資料が、あってね。それで、仕方なく、土曜登校よ」
「そう……」
彼方は、短く答えた。
「珍しい。朝川君が、そんな無愛想な感じなのは、あまり見たことないのに」
「や。そんなことはないよ」
杏朱には申し訳ないと思いつつも、今は、そういう他愛のない会話でさえ、億劫だった。
「それで、朝川君は?天文部は、土曜日に活動する程、やる気に溢れた部でもなかったように思っていたのだけれども」
と、伏目がちに、からかうように、杏朱は、微笑んだ。
「まあ、その点は、否定しないよ」
彼方は、話を切り上げて、その場を、立ち去ることにした。
(ここも、外れ、か……)
それで、と言われた。
「探し物、は見つかった?」
「……え?」
ざらついた戦慄が、駆け抜けたように、彼方は、感じた。
「大切な愛おしい探し物は、見つかった?」
いつもと変わらない、相手を試すような、悪戯の色に仄かに染まった、その声色、の筈だった。その当たり前の確信すらも、直ぐに、揺らぐような、妙な感覚だった。
「……杏朱。何を言っているの?」
と、彼方は、メガネを触りつつ、言った。
「朝川君。何時から、ここが職員室だって、錯覚していた?」
錯覚という言葉には、違和感を覚えた。
「……ここは、職員室だろ?」
背中から、そっと氷の柱を差し込まれたような、不愉快な緊張が、じんわりと、彼方の身体を、覆っていっていた。
「残念。正解に近くて、限りなく不正解よ」
と、杏朱は、手にしていたコピー用紙の束を、机上にそっと置いて、
「それは、貴方がそう認識しただけ。だけど、お気の毒ね、それは、勘違いよ」
杏朱の細い指が、ぱちんと音を立てた。
そして。
ほんの一瞬の立ち眩みを覚えた後に、視界がぐらりと傾いたかと思うと、世界が、唐突に、白黒に、反転した。
(……な……)
自分の見ている世界を、疑って、眼を見開いても、白と黒の世界は、確かに存在したままだった。
(……どうなっているんだ……)
自問したところで、答えは、出てこなかった。
色を失った世界、だった。
机も、椅子も、窓も、空も、目に映るもの全てが、白と黒の二色で、塗り潰されていた。
白黒の世界の中、囚われた金髪の少女を、見つけた。
「……綺亜……っ!」
綺亜は、上にあげた両手を鎖の枷に囚われていて、純白の薄布を纏うのみで、小ぶりながらも形の良い胸が、見え隠れしていた。
髪は解かれ、その表情は、すっかりと隠れてしまっている。
「ようこそ、私の庭園へ。歓迎するわ、朝川彼方」
邪悪の色に染まった声色に、彼方の身体は、震えていたが、それを何とか押し殺して、声を、絞り出した。
「お前が、“爛の王”蜘蛛、なのか……?」
半信半疑の心に、確信の杭を打ちつけて、眼前の少女に、彼方は、そう聞いた。
信じられないもしくは信じたくない、そんなやるせない思いは、ほんの一瞬で、綺亜の姿を捉えると、直ぐに消えてしまっていた。
見慣れた学生服の同級生の姿はなく、深い赤の装束に身を包んだ魔女が、いた。
「ごきげんよう。“爛の王”蜘蛛、イセリア・アージュ、よ」
杏朱と呼ばれていたその魔女は、妖艶な微笑みを、浮かべていた。
「……」
艶のある黒髪をたゆたわせたイセリアを、鋭く見据えたまま、
「……綺亜に、何をしたんだ?」
と、彼方は、聞いた。
何も、とイセリアは、肩を竦めて、
「いいえ、何もと言うと、嘘になるわね。そうね、少しお喋りをしただけよ」
「綺亜を、解放しろ」
「そんな通りもしない要求を口にして良いのは、お馬鹿さんだけよ?」
大袈裟に目を丸くしたイセリアに、彼方は、
「こっちも問答するつもりはない」
「でも意外だわ。いつも日和見主義で、愛想の良いお利口さんが、そんなに突き刺すような目もできるなんて。このお嬢様を、苛めたら、もっと良い目をしてくれるのかしら?」
「……お前はっ……!」
連結剣を構えた彼方は、イセリアに向かって、駆けていた。
「あら。気が早いのね」
迎撃の姿勢を微塵も見せないイセリアは、ただ微笑んでいた。
「綺亜を、離してもらうっ」
イセリアとの距離を詰めた彼方は、連結剣を振りかぶり、そのままの勢いで、横に薙いだが、その一閃は、何故か途中で勢いを失って、そのまま止まってしまった。
「……剣が、動かない……?」
イセリアが創り出した二本の糸が、連結剣を、易々と受け止めていた。
「せっかちな男の子は、嫌われるわよ?この魔力で生成された糸は、決して切れることはない」
妖艶な笑みを崩さないイセリアは、彼方に向かって、手を広げると、糸が唸りをあげて、彼方に襲いかかった。
「そして、決して切れない糸は、何でも必ず切り裂ける」
糸を剣で受け止めた彼方の身体は、大きく吹き飛んでいた。
「この結界『白黒幻影(モロクロームファンタズマ)』の中で、私と渡り合うことなど、到底無理な話。ましてや、貴方のような普通の人間ではね」
地面に強く打ち付けられた彼方の身体が、痛みの悲鳴をあげていた。
「……っ!」
わかりきっていたこととはいえ、イセリアと渡り合うには、些か力足らずであることを、彼方は、痛感した。
「さて。貴方を、このお茶会に呼んだのには、それなりの訳があるのだけれども」
イセリアは、続けて、綺亜を見やった。
「倉嶋に生まれた女性は、“守護者”として、或る強大な力を持つことになる」
「強大な力……」
「故に、その力の制御も、易くはなく、時として、力の持ち主の命すら脅かすこともある。我々“爛の王”をも畏れさせた、稀代の騎士と謳われた“守護者”倉嶋レイアも、暴走した力に喰われて、その短い命を散らせた……この娘の母親よ」
「……倉嶋、レイア……」
その名前を聞いて、彼方は、覚えのない既視感に、戸惑った。
「倉嶋レイアの忘れ形見である倉嶋綺亜も、例外ではなかったわ。力が暴走しない程度に安定するまでは、現に、葉坂学園に入学する前までは、彼女は、倉嶋の屋敷の外に出ることすら、許されなかったのでしょうね」
「……」
いつかの学園の屋上で綺亜の話を、彼方は、思い出していた。
「そして、これが」
ずぶりとイセリアの掌が、綺亜の胸の中に、溶け入るように差し込まれて、そのまま、何か、が綺亜の体内から引き摺り出された。
「……な……宝石……?」
輝いているのは、眩い琥珀色をした宝石、だった。
「綺麗でしょう?これが、倉嶋の“守護者”たる魔力の根源。“空色琥珀”と、呼ばれているわ」
「……“空色琥珀”」
「この街の“守護者”である倉嶋の女性に引き継がれてきた、魔法の秘術中の秘宝。生み出されるその膨大なエネルギーは、計り知れない。魔術を探求する者として、大いに心惹かれるわ」
イセリアは、慈しむように、両の手で、琥珀の宝石を、包み込んだ。
「朝川彼方。何故、貴方を、この場所に招じたのか、その意味を、まだ良くわかっていないようね」
イセリアは、呆れたような憐れむような、小さな歪な微笑を浮かべて、指を鳴らすと、綺亜の、鎖の戒めが、解かれて、綺亜は、その場にすとんと蹲った。
立ち上がった綺亜が、虚ろな瞳を湛えたまま、ゆっくりと自分の方に歩いてくる姿を視界に捉えながら、イセリアの声が、遅れて届いてくる。
「……綺亜?」
彼方の声に、綺亜は、答える素振りを見せなかった。
彼方は、焦りを覚えている自分を感じていて、手には、厭な汗が、纏わりついていた。
「倉嶋綺亜の自我は、幻想魔術による操心の呪縛によって、ほぼ瓦解しているけれども」
「……」
「後一押しが、欲しいの。完全なる自我の崩壊がね」
と、イセリアは、言った。
「恋した男の子を殺してしまう衝撃。これで、確実に、この娘の自我は、崩壊する。そして、所持者を失った“空色琥珀”は、完全に、私のものとなる」
「イセリア……お前は……」
彼方の鋭い眼光も、つまらない玩具を見るように、軽くあしらったイセリアは、天を仰いだ。
「か……なた……すき……?」
綺亜の声は、宙に向けられたものだった。
「……かなたは……きらい……?」
「素晴らしいでしょう?」
でも、とイセリアは、続けて、
「知らなかった訳ではないでしょう。気付かなかった訳ではないでしょう。倉嶋綺亜から向けられた好意に」
「それは……」
彼方は、言い淀んだ。
「恋は、人であるが故の真理。而して、心を惑わす毒薬。故に、堕ちるのも、早いの」
“空色琥珀”が、一層眩く光り出して、綺亜の華奢な身体が、びくんと跳ねた。
「綺亜っ!」
「あははははははははははっ!さあ、絶望しなさい、倉嶋綺亜!」
白黒の世界に、イセリアの哄笑が、響いた。
「目の前の男を、殺して!そうして、もっと、琥珀の輝きを、見せて頂戴!」
「……綺亜!」
彼方の呼びかけは、届いていないようだった。
虚ろな瞳は、彼方との間の闇を見ているだけのようで、軽く結ばれた唇から、言葉が出ることはなかった。
レイピアを携えた綺亜は、切っ先を、彼方に向けて、その姿勢で、静止した。
「あっははははは!さあ、己が手で、殺しなさい。憐れな哀れな恋する乙女!」
綺亜のレイピアの太刀筋は、彼方が見知っているものに比べて、勢いがなかったが、彼方にとっては、凌ぐことが、精一杯だった。
「綺亜っ。目を覚まして……っ」
レイピアと連結剣が、ぶつかって、鈍い火花が、散った。
衝撃の重さに、彼方は、剣を落としそうになったが、踏み止まって、
(綺亜を無力化することを、第一に考えないと)
彼方は、綺亜を、見据えた。
綺亜の動きは、自失の為か、散漫で、彼方にも、何とか捉えることができた。
手にしたレイピアを、何とか綺亜から、離さなくてはならなかった。
「貴方の声が、この娘に届くことを期待しているのなら、それは大きな過ちよ。この娘の心は、私の幻想魔術によって、完全に掌握されているの」
刹那。綺亜の身体が、ふわりと宙に舞ったかと思うと、一条の光が閃いて、血が跳ねた。
「痛い?痛いでしょうね」
右腕に激痛が走って、彼方の剣が、からからと音を立てて、地に落ちた。
「……っ!」
「思えば、貴方も、不幸な人間ね。『月詠みの巫女』に関わりさえしなければ、“守護者”と出会わなければ、こんな目にも遭わずに済んだでしょうにね」
「かな……た……」
綺亜のレイピアが、真っ直ぐに突き出されて、彼方の腕に、そのまま突き立てられた。
「……っ!」
伝わってくる痛みは、鈍痛が激痛に変わって、声にならない声を、彼方はあげた。
綺亜の羽織る薄布の白に、歪な血の赤が、幾重にも、刻まれた。
「つ……かまえた……」
右腕に奔る痛みは、消えないままに、彼方は、そのまま、右手で、綺亜の左腕に触れて、そのまま、綺亜の身体を、ぐいと引き寄せた。
細い女の子の腕だった。揺れる髪に、花の香りを覚えた。
顔と顔が触れる程に近くなって、綺亜の吐息の存在を、感じた。
そうして。
甦る記憶。


一夜限りの出会いだった。
「こんにちは……いえ、こんばんは……」
その少女は、そう言った。
ブロンドの髪とエメラルドの瞳が目を引く、綺麗な子だった。
整った目鼻立ちは、少女の勝気な性格を表していたが、尋ねる声は、相手を窺うように慎重だった。
「こんな所で、何をしているの……?」
そう尋ねる少女の服装は、立派な仕立ての愛らしい薄桜色のワンピースで、夜空の下の小高い丘には、不釣合いに見えた。
少年は、驚いたが、質問には、答えた。
「星見」
「ほし……み……?」
少年の言っている意味が飲み込めない様子で、少女は、小首を傾げた。
「ほら、星がいっぱい見えるよね」
「わかりにくいわ。もっとわかりやすくお願い」
少し苛立たしげに先を促した少女の仕草に、少年は、苦笑して、
「星見っていうのは、星を見ること。君は、星は、好き?」
「……嫌いじゃないわ」
「僕は、星を観るのが、大好きでね。ほら、此処からなら、良く見えるんだ。それに、今夜は、雲があまり出ていないから」
「そう」
少女は、短くそう言って、少年は、そんな少女に、少し興味を覚えた。
暫く二人でぼんやりと夜空を眺めていた。
少女は、少年の横に腰掛けているだけで喋り出す様子もなかったので、少年は、持てる知識を最大限に披露すること、具体的には、星の名前や位置や由来を説明すること、に腐心した。
少年の熱意が通じたのか、少女の硬く強張っていた表情は、徐々に和らいでいった。
「君は、何しに来たの?」
「何も」
俯いた少女は、続けて、
「ちょっとお屋敷を抜け出したかっただけだから。特に何かしたい訳じゃないの」
お屋敷、言われてみれば、自然と漂う品の良さもあって、どこかの立派な良い家のお嬢様みたいだな、と少年は、思った。
そこで、少年の記憶は、途絶える。
辛うじて覚えているのは、眩い透明の橙色、琥珀の色彩と、少女が突然苦しみだしたのを、必死に抱きとめたことだった。
苦痛に喘ぐ少女の瞳は、明るすぎる鮮やかな琥珀色に、染まりかけていた。
次に、記憶として、再生される場面は、静かに寝息をたてている少女を抱きかかえている自分自身の姿だった。
少年少女の下には、執事風の男性と、少女に良く似た女性、逆に女性に少女が似ているのだろう、の二人の人物がいた。
「お嬢様!お屋敷の外に出てはなりませんと、何度も申し上げたはずですのに!」
と、男性は、言った。
その厳しい態度は、少女を案ずるが故の裏返しなのだということは、幼い少年にも、子供心ながらに、おぼろげにわかった。
「大丈夫です。呼吸は、安定しているし、もう安心でしょう」
少女の髪に優しく触れながら、女性は、諭すように、男性に言った。
「レイア様……この少年は……」
執事の男性の声を柔らかく静止した女性は、屈んで、少年に、微笑みかけた。
「勇敢な男の子。お名前を聞かせてくれる?」
「……かなた。朝川彼方……」
「良い名前ね。彼方君、どうもありがとう」


何故忘れてしまっていたのか、何時の頃の記憶だろうか、はっきりはしなかったが、随分と前に出会っていたことは、確かだった。
「か……なた……すき……だいすき……かなたは……きらい……すき……」
逡巡するような掠れた少女の声に、彼方は、向き直った。
「綺亜」
ゆっくりと、その女の子の名前を、呼んだ。
「初めて会ったのは、きっと、綺麗な夜空の下、だったか」
忘れていた遠い記憶と、今、が重なった。
「……か……なた……」
「綺亜の想いを、見ない振りをしたのは、僕だ」
腕の痛みが強くて、他の部分の感覚が鈍ってきていて、目も霞んでいるのを感じながら、彼方は、
「……僕は……」
突如、“空色琥珀”の光が、迸った。
眩しくて目を開いていられない程で、イセリアは、はっと息をのんで、
「何の光……っ?」
光が、ゆっくりと収束した。
「ばぁか」
彼方の直ぐ前には、困ったような泣き笑いの綺亜の顔が、あった。
「また、彼方に助けられた……」
綺亜は、続けて、
「答えは……まだ聞きたくない」
「綺亜……」
「もう、良いよ」
と、綺亜が、言った。
彼方の腕の中で囁くように聞こえたその声は、弱々しく、それでも、穏やかで、優しい響きを、持っていた。
「彼方の声が、私を、起こしてくれた」
満身創痍にも拘らず、綺亜は、立ち上がっていた。
「そんな子供騙しに……」
と、イセリアは、忌々しげに呻いた。
綺亜の目は、うっすらと開かれていて、その瞳には、はっきりと意志が、宿っていた。
「綺亜……」
ゆっくりと身体を起こした少女は、立てるよ、と小さく笑った。
「あり得ない。この私の幻想魔術を、自力で解くなんて、そんな……違う、この少年の力か……!」
苦々しげに顔を歪めたイセリアに、綺亜は、凛然と言い放った。
「倉嶋が、稀代の魔法使い、そう言ったのは、貴女……よ。侮らないで……!」
綺亜の足元から、琥珀の魔力の奔流が、ぼうっと膨れ上がり、舞い上がり、ブロンドの髪が、ふわりと揺れた。
「馬鹿な……魔力は、殆ど残っていない筈……」
イセリアの言は、続かなかった。
「倉嶋を、甘くみないことね」
それに呼応するかのように、“空色琥珀”の光が、一層強くなった。
「……くっ。制御を、受け付けない?」
“空色琥珀”を包んでいたイセリアの手が、光に弾かれた。
魔力の光に包まれた薄布一つ纏わない綺亜の姿を見て、イセリアは、狼狽の色を、隠せなかった。
「これが、“空色琥珀”本来の力、だと言うの……!」
「この力が嫌いだった……怖かった……お母様の命を奪っていった、この力が……でも……」
無数の光の欠片が、綺亜を、包み込んだ。
綺亜の瞳は、琥珀色に燃え上がり、琥珀色の髪が、揺れた。
綺亜の手に、明るく橙に輝く光の粒子の剣が、握られていた。
「魔力の具現化、魔力剣か……!」
「ああああっ!」
綺亜の渾身の突撃に対して、イセリアは、糸を振るったが、糸は、瞬く間に霧散した。
「……な……」
「消滅しなさい、“爛の王”!」
と、綺亜は、叫んだ。
「そんなものは……!」
イセリアが編み込んだ魔力の糸の網は、琥珀の剣に触れた途端に、蒸発していた。
「この私の魔力容量を超える出力……!」
ふわりと跳躍したイセリアの下で、綺亜の一撃が、空を切った。
綺亜を真下に捉えたイセリアは、そのまま背後を取ろうとしたが、振り向き様の横薙ぎに、また距離を取らざるをえなかった。
「応えなさい……“空色琥珀”……!私に、護れる力があるというのなら……その輝きをもって、私の声に、応えて……!」
“空色琥珀”の光が弾けて、その衝動か、イセリアの体勢が、大きく崩れた。
綺亜を包み込むように、綺亜に良く似た女性の影が、あった。
「倉嶋の……亡霊が……っ……!」
イセリアの激高をかき消して、琥珀の剣は、そのまま、放たれた。
轟音が、鳴り響いて、やがて、静寂が、訪れた。
光の粒子が、散っていって、立ち尽くす人影は、二つだった。
「さすがは、“守護者”といったところかしら……」
イセリアの胸を、光の剣が、貫いていた。
「三神官の一柱であるこの私が……膝をつくなんて……滑稽だわ」
口元から伝う紅い血をそのままにして、イセリアは、微笑んでいた。
「己が慢心が、招いた敗北……悪くない結末といったところね」
「終わりよ、“爛の王”、イセリア・アージュ……」
綺亜の声は、掠れていた。
「小娘が、賢しいことを言うじゃない……」
イセリアは、そのままゆっくりと後ずさって、ずるずると背後の壁にもたれかかって、
「……さて」
と、息をついた。
「私を斃したところで、『星天審判』の運命は、何ら変わることはないけれども、どうする……?」
「さよなら……杏朱」
「……」
綺亜の声に、イセリアは、言葉を噤んだ。
「……飄々として、それでも、誰よりも、周りも見ていて、そんな貴女は、嫌いじゃなかったわ……」
「ふふ……そうね、さようなら、倉嶋さん……」
イセリアの身体が、“爛”の光に包み込まれた。
後に残ったのは、壁に残った血の流れだけだった。


「これは、予想外だったな」
黒の仮面の男は、静かに、そう言った。
男の羽織る黒のマントが、ゆらゆらと揺れていた。
天宮殿の眺望の間には、少女と、漆黒の仮面の男が、いるのみだった。
「蜘蛛、が斃された」
「……」
花飾りをつけた少女は、無表情だった。
「我らが天宮殿を司りし三神官の一柱が欠けたこととなるが、『尽き詠みの巫女』よ、どうする?」
「どうもしない」
問われた少女は、抑揚なく答えた。
それにしても、と仮面の男は、続けて、
「“空色琥珀”の力、この眼で見るのは、久しいが、やはり看過できないものがある、か」
「イセリアは、魔法使いとして、申し分のない……いえ、魔法という資質の一点のみに則して言えば、私とて敵うべきもないものを……申し分ない魔法使いが故に、魔法の探求に固辞しすぎた。それが、彼女の、敗因です」
「では、“空色琥珀”は、どうする。放っておくのか?」
「……何れ相まみえることになるでしょう」
ルトワの持つ杓状が、微かに揺れた。
「ならば、今は、捨て置こう」
と、男が、言った。
ルトワは、ガラス張りの床一面に広がる、夜空を見下ろしながら、
「バンナウト。三神官が一柱として、為すべきことを、為しなさい」
「巫女の仰せのままに」
漆黒の仮面から覗かせる赤い瞳が、鈍く光った。
世界を揺るがす事象、『星天審判』の刻が、近付いていた。