■  5  影のパーティー


大きな窓の向こうに広がる、広大な庭園には、手入れの行き届いた色彩豊かな見事なバラが、咲き乱れていた。
「お外には、出られないの?」
と、少女は、残念そうに、言った。
小さなエメラルドグリーンの瞳が、同じ色をした母親の瞳を、じっと見つめていた。
答えは、わかりきっているのに、それでも、諦めきれずに淡い期待をかけて訊いている、そんな感じだった。
「ごめんなさいね、綺亜」
と、少女の母親は、柔らかく言った。
ううん、と少女は、首を横に振った。
「パパは、今日は、お家に帰ってくるの?」
「パパは、お仕事が忙しくてね……」
母親は、ごめんね、と静かに笑った。
「パパは、この街のシュゴシャのお仕事で忙しいんだよね」
「そう……ね」
真っ直ぐな少女の瞳から逃げるように、母親は、寂しそうに笑った。
「私、頑張るから。そうしたら、パパも、遊んでくれるかな?」
母親は、それには答えずに、少女の頬を優しく撫でた。


カーテン越しの淡い光で、綺亜は、ゆっくりと目を開いた。
「……夢……か」
コツコツと正確に時を刻む時計の針の音が、やけに気になって、白い天井をぼんやりと見つめた。
「おはようございます」
ドアのノックで、完全に目を覚ました綺亜は、
「もう起きているわ」
と、面倒そうに言った。
着替えを済ませて、食堂で朝食をとって、食後の紅茶に口をつけた綺亜は、
「それで、『影法師』の魔法を使う“爛”の足取りは、つかめたのかしら?」
「よろしいでしょうか、お嬢様」
と、時田が、言った。
「何よ」
綺亜は、不機嫌の色を、隠さなかった。
「かの“月詠みの巫女”は、“爛”の光、即ちその所在を、ある程度感知しうると、聞き及んでいます」
「御月七色……のことを言ってるの?」
時田は、目を細めた。
「倉嶋は、この街、樋野川の守護者として、表からそして影から護ってきた。今までずっとそうしてきたし、これからもそう」
と、綺亜は、続けて、
「私では不足って……!そう言いたいの、時田」
「そうではありません。何事も、お一人の力で為すことには、限界があることを、知っていただきたいのです」
「……もう行くわ。車を出して」
承知しました、と時田が、言った。


昼休みになった。
「綺亜」
「……何か用?」
中庭のベンチに座っていた綺亜は、彼方に気付いて、顔をあげた。
「少し良いかな?」
綺亜の横に腰掛けた彼方は、
「何か見ていたのかな?」
「覗き見?趣味が悪いわね」
「今来たのだから、内容はわからないよ」
と、彼方は、苦笑した。
「ま、そうね」
綺亜は、ため息をついた。
「別に、あんたには、関係のないことよ」
開いていた手帳をぱたんと閉じた綺亜は、もう話すことはないと言いたげに、突き放すような声で、言った。
「……わかった。こうしよう」
綺亜が、訝しげに向き直って、彼方と相対する恰好になった。
「綺亜」
と、彼方が、言った。
綺亜は、整った目を細めて、彼方を見た。
「僕は、護衛される者、なんだろう?」
「……そうよ」
彼方が何故そんなことを言い出したのか、その意図がわからなくて、綺亜は戸惑い気味に応えた。
「だったら、護衛してくれる人のことを知っておかないと。何も知らない依頼者なんて、みっともないからね」
「……っ」
頬を苛立ちで赤らめた綺亜は、弾けたように叫んだ。
「ふざけないで!」
「ふざけていないよ」
突き刺さる視線はそのままに、彼方は、そう言っただけだった。
「……」
お互いが無言になって、沈黙を先に破ったのは、綺亜の方だった。
綺亜は、閉じていたいた手帳を開いて、彼方に見せた。地図があって、所々に赤い丸印が記されていた。
「その地図の印だけれども、もしかして、この前の“爛”……『影法師』の……」
「ここのところ、突然一時的な意識不明に陥る人が、続出しているの。これは、そのマッピングよ」
「確かに、地図上で追っていって、何か手掛かりが、つかめるかもしれない」
「倉嶋の家は、代々、この街の守護者として、樋野川の地を護ってきたわ」
と、綺亜が、言った。
「私は、倉嶋の名にかけて、“守護者”として、その任を全うしなくちゃいけないの。だから、この間の“爛”、『影法師』のやつを討つ……それだけよ」
それきり綺亜は、黙ってしまった。


「ったく。六時限目の授業が、体育ってのも、かったるいよな」
新谷は、気だるそうに首を回しながら、言った。
「しかも、種目が、ドッジボールって、どういうことだよ」
「新谷の場合は、どの科目でも、そんな感じだよね」
「ま、否定はしないわ」
五組との合同授業だったので、七色の姿もあった。
(御月さんも、一緒か)
七色が、横の女子生徒と話していて、一見何の表情もみせていないようにも見えるのだが、彼方には、それが少し楽しんでいる表情なのだということが、わかって、それが、彼方には嬉しかった。
「しかしまあ、男女合同ってのが、せめてもの救いだぜ」
新谷は、続けて、
「体操服。そして、ブルマ……白い服とのコントラスト、黒の布地の波!どこを見渡しても、ブルマだらけ!眩しすぎる、至福の時を、俺は今、確かに感じている!」
女子生徒が、ブルマの端を直しているのを見て、
「うおおおおお」
新谷が、感動の声をあげた。
「い、生きてて良かったー!」
「……そんなに体操服が良いの?」
「最っ高だね。太もも、さいこー」
「そう、それは、良かったわね」
「……って、委員長?」
新谷の前には、委員長が、仁王立ちになっていた。
「良い心構えね。真っ先に、撃墜してあげるわ」
新谷の顔は、既に青ざめていた。
試合開始の笛が鳴って、赤組対白組で、試合が始まった。
「ふふっ……見せてやるぜ、俺の必殺ボールをな……ぐはぁっ!」
開幕に、委員長の鋭い一撃が、新谷を直撃して、その出番は、あっという間に終わった。


「強いな、倉嶋さん」
「良いぞ、いけー、綺亜ちゃーん!」
試合は、最後半戦に、突入していた。
赤組の内野に残っているのは、綺亜と級友の松本という男子生徒の二人で、白組の内野に残っているのは、彼方の七色の二人、になっていた。
「ちょっと!」
ばしゅ ぱしっ
「何でしょうか?」
ばしゅ ぱっしゅ
「七色、あんたじゃなくて、彼方に話しかけてるのよっ」
「な、何、綺亜」
綺亜の気迫のある呼びかけに、少し躊躇気味になった彼方だった。
「男子なのに、七色ばっかりにボールを取らせて、恥ずかしくないのっ!」
ばしゅ ぱっしゅ
「それは、違います。私が、率先して取っているだけです」
ばしゅ ぱしっ
「彼方のナイト気取りって訳?彼方の、護衛者は、私よっ」
ばしゅ ぱっしゅ
「そうですか」
「そうですか、って!何とか言いなさいよっ!」
「そうですか、と答えましたが」
ばしゅ ぱしっ
「……か、会話のドッジボールだぁ」
と、外野の声が、漏れた。
撃ち合うこと数分。
「制限時間は、後三分にするからな」
決着がつきそうにないからか、教師が、そう宣言した。
「……はぁ……はぁ……けりをつけてあげる。覚悟は良いわね、七色」
「望むところです」
綺亜が、随分と息が上がっているのに対して、七色は、涼しい顔のままだった。
「……っ」
七色が、投球モーションに入った途端、
「うわああああああああああああああああああああああああっ!」
か細い叫び声が、上がった。
全く目立つことのなかった松本が、綺亜の前に、躍り出たのだった。
「せめて最後ぐらい、この僕が、格好良く決めてみせ……」
言い終わらない内に、七色のボールに当たって、崩れ落ちた松本だった。
両組の外野が、沈黙した。
ストップウォッチの電子音のタイマーが、試合終了を告げた。
「……意外な結末だったな」
と、新谷が、呟くように言った。
「白組の勝ち!」
体育の教師が、高らかに宣言した。
こうして、白熱したようなしなかったような紅白合戦が、終了したのだった。
不意に。
ざざああああああっ
削り取るような無機質な音が、辺りを包み込んだ。
がしゃりと鈍く重たい音が、響いた。
体育館の扉が、何者かによって、閉められたようだった。
水を打ったような静けさが、ふわりと巨大なベールとなって、建物全体を覆った。
異変に気付いた彼方は、綺亜を見た。
「……これ……」
綺亜も、言葉を失っていた。
見渡せば、誰もが、直立していた。無言で、である。
重苦しい空気に、彼方は、覚えがあった。それは、七色も、同じだったようで、
「『影法師』……」
彼方が、見回すと、生気のない目が、向けられていた。
生徒達の足元には、本来あるはずのない二つ目の影が、ゆらゆらと揺れていた。
そうして、一人の男子生徒が、不安定に左右に身体を揺らしながら、歩を進めたのにあわせるように、二人三人と動き出した。
「まさか……『影法師』、これだけの人数を一度に……?」
「おい、新谷。大丈夫……」
彼方が、言い終らない内に、新谷の振り上げた腕に押される恰好になって、彼方は、よろめいた。
「ああああああ」
言葉にならない声をあげて、男子生徒の一人が、七色に向かってきた。
七色は、屈んで、その拳撃をやりすごすと、手刃で、昏倒させた。
「綺亜さん」
「わかってるわ。怪我をさせないようにって」
「ああああ」
綺亜も、向かってくる女子生徒を、転倒させた。
ぱちぱちと手を鳴らす音がして、ステージの奥から現れたのは、コートを羽織った、一人の男性だった。
「……こいつが……」
「私の出し物は、楽しんで頂けましたか?」
と、男は、言った。
その声に、綺亜は、確かに聞き覚えがあった。
「同じ学び舎で苦楽を共にする友人達からの無慈悲な制裁。中々にそそられるシチュエーションじゃありませんか?」
「悪趣味すぎる出し物ね」
「お気に召さないと仰られる?」
「小細工抜きで、正々堂々と勝負しなさい」
と、綺亜は、相手を睨みつけた。
「この方が、お互いに楽しめると思ったんですがねぇ」
男は、大袈裟に肩をすくめてみせて、
「やれやれ。折角用意してあげたステージなんですがね。興を感じ取るには、まだまだ幼いお嬢様、という訳ですか」
「真正面からかかってきなさいよ。臆病者」
男の眉が、不愉快そうに顰められて、
「ぴーちくうるせーぞ、このガキ共が」
怒気をはらんだ低い声に、綺亜は、
「……そっちが、本性って訳ね?」
と、言った。
「わざわざ、手を抜いてやってるんだから、もうちっと楽しませろや」
男が、ゆっくりと右手を真横に振るうと、生徒達の動きが、ぴたりと止まった。
「こいつは、ハンデだよ、ハンデ。俺とサシでやるにゃあ、てめぇらじゃ弱すぎるんだよ」
七色は、連結剣を、取り出していた。
「俺様は、“爛の王”虚影の指揮者、鷲宮イクト」
「“爛の王”……?」
と、彼方が、言った。
「……“爛”の中でも、特に強大な力を持つといわれる高位存在の“爛”です」
七色が、“爛”を見据えたまま、言った。
「さすがは、“月詠みの巫女”。良く御存知ですねぇ」
鷲宮が、右手を軽く振るうと、生徒達の向きが、一斉に七色達に向けられた。
「だが、この俺が、倒せるのかな」
「……」
空ろな瞳のままの委員長が、無言で、七色に向かって奔り込んで行った。
委員長の鋭い蹴りが、七色の胸の辺りを捉えていて、ちっと僅かな音を立てて掠った。
七色の体操服が切り裂かれて、白い肌が、あらわになった。
七色は、委員長の腕を掴むと、その身体を回転させた。
「圧倒的な差だ。お前らは、そいつら人形共に手は出せない。けどよ……」
突如、委員長の影が震えた。
「……!」
細い縦長の影が、突然がばりと隆起して、黒の針の群れとなった。
「っ!」
針の先端が触れた七色の左太腿から、血が線をつくって落ちた。
「俺様は、遠慮はしないぜ」
「七色!」
大丈夫です、と七色が、言った。
「迂闊に手が出せない、わね」
「迷っている暇はないです」
「七色……?」
「敵は、確実に前に存在している。ならば、躊躇している訳にはいかないでしょう」
前方を見据える七色。
「くは……くははははっはははははは!どーよ、お友達に、良いようにやられるってのは!最高に気持ち良いだろう」
七色と綺亜は、二つ目の影を斬り付けていくと、ばたばたと倒れる人影の音。
「綺亜、影を!」
と、七色が、言った。
「わかった!」
綺亜は、青の導火線を、生成して、
「スティングレイ、起動!」
瞬く間に、二つ目の影だけを正確に狙っていく。
次々にばたばたと倒れ込む生徒達。
「こざかしい真似を……!」
七色の前に迫っていた生徒の影が、震えて、影の針が、生成された。
影の針は、七色のビーム・ブーメランに壊されて、黒煙が、舞い上がった。
七色は、剣を連結させて、薙刀状にした。
「ハウリング……ストライク……!」
爆風の中に、七色の影が浮かび上がって、鷲宮の顔が、歪んだ。
「があああっ」
七色の剣に貫かれた鷲宮の身体は、灰色の波となって、掻き消えた。
「……やった?」
ざあああああああああああああああああっ
「残念!外れでしたぁっ」
鷲宮の声が、響いた。
「本物は、この場にはいないようですね」
「卑怯なやつ……!」
でも、と綺亜は、続けた。
「これだけの人間を一遍に操る魔法の力、そんなに遠くからでは、使うことはできないはずよ」
「……そうですね」
七色は、こくんと頷いた。
「見つけて、墜としてくる」
言うや、綺亜は、飛び出していった。
と、先程まで倒れ込んでいた生徒達が、ゆっくりと起き上がってきた。
「……な」
影に操られたままの生徒達は、虚ろな挙動のまま、迫ってきていた。
「やはり、本体を叩かなければ」
かしゃりと七色の剣が、音を立てた。
「行ってあげて下さい」
と、七色が、言った。
「七色……?」
「この場は、私が何とかします」
彼方に向き直った七色は、片方の剣を差し出した。
「……」
「今の綺亜さんには、彼方さんが、必要だと思います」
「……うん」
彼方は、体育館から出て行ったのを見届けた後、七色は、人影の群れに対峙した。


「これはこれは、ようこそおいでなさいました、お嬢さん」
学園の屋上を覆う空は、夜の色に染まりつつあった。
冷たい風を頬に感じながら、綺亜は、レイピアを構えた。
「決闘としゃれこもうぜ」
鷲宮のコートが、ばたばたと揺れた。
屋上には、フェンスと階下に続く扉があるのみで、綺亜と鷲宮を阻むものは、なかった。
(影は……フェンス、それとも、雲……どこから、攻撃がくるのか……)
相手を睨みつけたまま、綺亜は、迎撃の態勢をとった。
「なんだぁ、そっちから来ねぇなら、こっちから行くぜ」
ゆっくりと歩を進める鷲宮を、視界に捉えながら、綺亜も、レイピアを構えた。
「くくっ。お前は、あの倉嶋の娘か」
「だったら何よ」
「いやね、どのくらいやるのかと、少し楽しみにしていたんだけどよ。全然たりねーわ」
気付けば、鷲宮の影が、綺亜のところまで、伸びていた。
「しまっ……」
突如影から生成された黒の縄が、綺亜の、脚を絡めとって、
「あぅ……っ!」
ぶうんっ
綺亜の身体が、強引に引っ張られて、距離が、一遍に狭まった。
「……!くっ」
レイピアを前に突き出した綺亜だが、それよりも速く、鷲宮の影から創られた剛拳が、綺亜の腹に突き刺さっていた。
「……ぐ……」
息がつまって声も出ない、綺亜の身体が、かたかたと揺れていた。
「よえーな、おい」
何とか放った綺亜の一撃をかわした鷲宮が、すれ違いざまに言った。
「“守護者”、どれ程のものかと思えば、この程度かよ」
下からの薙ぎ払いも難なくかわした鷲宮は、ぐっと綺亜の腕を掴んだ。
「娘がこの様じゃあ、倉嶋レイアも浮かばれねぇよなぁ、くくっ」
「!」
「へえ、反抗的な目だけは、一丁前だな、おい!」
新たに作られた影の拳が、綺亜の身体にめり込んだ。
「……がっ……!」
膝をついた綺亜の顔を突き出させた鷲宮が、笑った。
「稀代の騎士“守護者”倉嶋レイアの残り滓ってか」
「お母様を……侮辱……するな!」
苦痛に顔を歪めながらも、声を絞り出した綺亜に、再び拳撃が、加えられた。
「っ!」
「侮辱じゃねーよ!思いっきり小馬鹿にしてんだよっ!」
握っているのがやっとだったレイピアが、かしゃりと落ちた。
「かはっ……」
「ぎゃははははははははははははははははは!」
そのまま蹴り飛ばされた綺亜の身体が、ごろごろとコンクリリートの地面を転がった。
「……ぅ」
レイピアを頼りに、何とか上半身を起こした綺亜。
不意に、肩の辺りが軽くなった感覚がして、綺亜は、はっとした。
見れば、後ろから支えられる格好になっていた。
「かなた……?」
彼方だった。
「……何をしに来たのよ」
何とか立ち上がった綺亜は、レイピアを構え、鷲宮に向いたままで、言った。
「この敵は……私が片付ける」
「綺亜。今から僕の言う通りにしてほしい」
「何を言って……!」
「綺亜の作ってくれた、サンドイッチ、とっても美味しかったよ」
綺亜の瞳が、揺れた。
「綺亜に教えてもらった、ダンス、とっても楽しかった」
彼方の柔らかな笑みに、綺亜の口元が、揺れた。
「“守護者”だとかそういう話は、僕にはわからない」
と、彼方が、言った。
「綺亜は、綺亜だよ」
「……」
「綺亜」
彼方の強い口調に、綺亜は、押されたように、戸惑ってしまった。
「僕を信じて」
言うや、彼方は、飛び出していた。
彼方の影が、屋上のフェンスの影と、重なった。
「彼方……!」
綺亜は、叫んだ。
影の針が、彼方を襲うことは、なかった。
「この特攻馬鹿がっ……死ねよっ!」
鷲宮の影から、針の莚が生成されて、彼方を覆った。
そのまま、鷲宮に向かって駆け込んでいく彼方は、
「今だ……綺亜!」
「っ!」
綺亜の放ったスティングレイが、起動して、ストロボのような激しい閃光が、一帯を包み込んだ。
「なっ!」
彼方を囲うように敷かれていた影の針の蓆が、ぐにゃりと歪んで、影の軌道が、大きく揺らいだ。
不意をつかれた形になった鷲宮が、吼えた。
影の針が、彼方と重なり、血飛沫があがった。
「この……自爆野郎が……っ!」
鷲宮の腕を、影の針が貫いていた。
「お前は、弱い」
「……!」
鷲宮が、目を見開いた。
「お前自体、は恐らく弱い」
「……てめぇ……」
「だから、影を頼るんだ」
彼方は、痛みを忘れるかのように、大きく息をつきてから、続けた。
「お前は、手を抜いて遊んでやっている、と言ったけれども、そうじゃない。それが、お前の採れる最上の戦法だったからだ」
鷲宮の顔が、忌々しそうに歪んだ。
「そして、わざわざ人目につく……人が大勢いる空間で襲ってきたのも、その方が楽しめる、からじゃない。用意してやったステージ、なんかじゃない。それが、お前が、最も効率的に闘える場だったからだ」
彼方の握った剣と、それを受け止める鷲宮の影の腕が、ぎりぎりと音を立てた。
「そして、お前が扱える影には、本来、制限がある」
「……てめぇ……」
「有機体のみだってことだ。だから、お前が作れる影の針は、お前自身の影からだけ。攻撃のタイミングは、わかりやすい」
鷲宮が、歯軋りしていた。
「屋上。こんな人気のないところで待ち構えたのは、失敗だったな。“爛の王”鷲宮イクト」
「……ちくしょぉおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「終わりだ」
刹那。
「はああああああっ」
彼方の握った連結剣が、暗闇を薙いだ。
「馬鹿な……あああああああああああああああああああああっ!」
鷲宮の身体が、ゆっくりと崩れ落ちていった。
イチョウを思わせる黄金色の輝きが、鷲宮の身体を包み込んで、その像が、はらはらと夜の闇に溶け込んでいく。
鷲宮は、立ち上がって、光に焼かれながら、
「……俺の勝ちみてーだな」
鷲宮は、言った。
「何を言って……」
「俺の最後は、俺の手で決めるって……そう言ってんだよ」
鷲宮は、狂気に引きつった笑みを張り付かせたまま、
「あばよ」
そのままふらふらと後退していった。
屋上の端の先には、ただ闇が、広がっている。
鷲宮の身体が、一瞬宙に踊って、直ぐに見えなくなった。
今までのことがなかったようにも思わせる、静寂が、辺りを包み込んだ。
「何とか……なった、か」
そして、彼方は、ふらりと倒れ込んだ。
(身体が……重い……な……)
そう感じるのが、やっとだった。
気付くと、背が冷たい。
「バカッ」
綺亜の膝を枕に、自分が、横たわっているのは、わかった。
「無茶しすぎよ」
彼方は、頬に冷たいものを、感じた。
掠れた目で見上げると、月の光に照らされた綺亜の顔が、あった。
綺亜の泣き顔が、あった。
「ばか……ばか……!」
泣いているの、と彼方は、聞こうとしたが、声にならなかった。


「……ぐっ……は……」
呼吸を何とか搾り出すと、びちゃりと赤黒い血が、口から零れた。
「ちぃっ。まさか……この俺が、こんなところで……厭になるぜ」
這いずる肢体は、奇妙だった。
右腕と左脚が、半透明に輝いていた。
“月詠みの巫女”の剣から受けた一太刀は、確かに、鷲宮という“爛”の消失に足りる威力は、あった。
だが、自分という存在は、消えていなかった。
鷲宮自身にも、予想外だったが、己の悪運の強さに、自嘲気味の笑みが、漏れていた。
「……っ……」
力の恢復には時間がかかりそうだが、あくまで、時間がかかるだけ、だ。
「……あのガキども……たっぷりと……ぐっ……後悔させてやる……」
「随分と滑稽な芝居ね」
ふと前方からかかった声に、鷲宮は、顔を上げた。
暗闇のせいか、相手は良く見えない。
「……」
不愉快な感覚が、鷲宮を、包み込んでいた。
「……誰だ、てめぇ」
と、鷲宮は、言った。
くすりという微笑みがして、
「“蜘蛛”、と言えばわかるかしら」
「……な……」
鷲宮は、己の耳を疑い、そして言葉を失った。
「天宮殿の三神官……だと!馬鹿な……何でこんなところに?」
「さあ、何ででしょうかね」
「……」
風が、吹いた。
「ああああああああああああああ!」
鷲宮が吼えると、相手を、黒い影がざっくりと貫いた。
「……ああ」
相手は、全くの無傷だった。
「第八位と言っても、所詮この程度なのね」
「……ぁ……」
「さて、私がここにいる意味が、もう貴方にもわかるでしょう?」
「……やめ……ろ」
「貴方の、顕現の理の残滓、残り滓だけれども、奪ってあげるわ。感謝なさい」
「……やめ……」
鷲宮が、最後に見たもの。それは、自分に静かに伸びてくる、細い糸、だった。


「止血はしておいたし、安静にしていれば、大丈夫だと思うわ」
綺亜に膝枕で、彼方は眠っていた。
「そうですか」
と、七色が、言った。
「嬉しそうに言うのね」
「……そう、ですか」
「ふふ。まあ良いわ」
七色、と呼びかけられた。
「ありがとう」
ただ一言、綺亜は、言った。
彼方がいなければ、七色がいなければ、今こうして夜空を眺めている自分はいないに違いない。
自分は、ただ怖がりな小鳥で、“守護者”の使命という籠から、怯えて出てこなかったのかも知れない。
共に闘ってくれる仲間として、それ以上に、友達として、自分と向かい合ってくれている七色と、真正面から向かい合いたい。綺亜は、強く願った。
(……だからこそ……)
月を見上げながら、綺亜は、
「七色は」
と、言った。
「七色は、彼方のこと、どう思ってるの?」
その問いかけは、突然だった。
七色が、はっと顔を上げると、綺亜の真剣な眼差しがあった。
「私は……」
七色が、言いかけて、そこで止まってしまったのを見て、綺亜は、少し困ったように笑って、ううんと首を振った。
「この言い方は、フェアじゃないわね」
改めて、七色に向かい合った綺亜は、
「私は、彼方のことが好き」
その告白は、突然だった。
「……」
七色は、綺亜の肩が少し震えているのが、わかった。
「七色の答えは……今は良いわ」
これから私の言うことが間違っていなければ聞いていて、と綺亜は、続けた。
「今、この街で、樋野川市で、何かが起こりつつある」
「……」
「七色は“月詠みの巫女”として、私は“守護者”として、やるべきことがある」
「……」
だから、と綺亜は、続けた。
「この闘い……決着がつくまでは、フライングは禁止、でどうかしら?」
「……」
「その後からは、真剣勝負、なんだから」
迷いのない、綺亜の微笑みに、七色は、応えられずに、ただ黙っていることしかできなかった。