■  3  雷光のお嬢様


白いリムジンが、減速した。
「時田、車を停めて」
と、後部座席に座っている少女が、言った。
腰までかかる柔らかなブロンドの髪と、エメラルドグリーンの瞳が、ハーフを思わせる、美しい少女である。
「ご用命のショップまでは、まだありますが」
ハンドルを握る、執事服の老紳士は、ミラー越しに、少女に聞いた。
「良いから、停めなさいって言ってるの」
「は」
リムジンが、路地で停まった。
「決めたわ、時田」
少女は、前を歩いている学生服の少年を指して、
「あの男子生徒にする」
「あの少年、ですか?」
時田と呼ばれた男性が、言った。
「何か問題でもあるのかしら?」
「いえ。お嬢様が、お決めになったことです」
「なら決まりね」
と、少女が、言った。
「かしこまりました」


「あー、いきなりだが、転校生を紹介する」
朝のHRで、担任の青島が、いつもと変わらない調子で、ぶっきらぼうに言った。
どよどよ
ざわざわ
教室内が、少し騒がしくなる。
「彼方よ。フラグが立ったかもな」
「フラグ……?」
「野郎かそれとも女の子か、どっちかな。野郎だと、盛り上がらねえしな。俺は、断然、女の子を期待するぜ」
「すぐにわかるんだから、落ち着きなよ」
苦笑する彼方に、新谷は、肩を竦めた。
「彼方は、淡白すぎるんだよ、そういうところ」
「少しうるさいぞ。おい、転校生、入って、自己紹介してくれ」
教室の扉が、開いて、一人の少女が、すっと入ってきた。
うおおおっ
男子生徒の静かなしかし確かな歓声が、響き渡った。
ほんのりのウェーブのかかった金髪が、エキゾチックな感じで、端整な顔立ちの中でも特に印象深い釣り目が、可憐さを思わせて、同時に意志が強そうな印象を受ける。
「はじめまして、倉嶋綺亜と言います。どうぞよろしくお願いします」
うおおおおおおおおおっ
転校生の美少女に感激した男子生徒の溜息にも似たどよめきが、渦巻くように起こった。
「席の方は、どうするかな」
と、担任が言うと、少女は、
「先生。あそこの席で、よろしいでしょうか?」
少女が、指したのは、窓に近い、彼方の席の隣だった。
「朝川の隣か。構わないぞ。朝川、予備の机と椅子、隣に置いてやってくれ。ああ、それと、昼休み辺りにでも、倉嶋に、学校を案内してやってくれ。」
彼方の近くまで歩み寄った少女は、
「よろしく、朝川君」
「あ、うん。こちらこそよろしくね、倉嶋さん」


倉嶋綺亜は、その整った容姿のためであろう、次の休み時間には、早速級友達からの質問攻めにあっていた。
「こんにちは、倉嶋さん。俺は……」
「綺麗なブロンドの髪だね。もしかして、ハーフとか?」
「俺が、先に訊いてるんだから、少し黙ってろ。ねー、倉嶋さん……」
「あのさ。学校の中とか、まだ不案内だよね。もし良かったら……」
主に、男子生徒に囲まれるかたちになっている綺亜を、新谷は、見て、
「良いねー。良家のお嬢様って感じでさ。彼方。お前は、加わらなくて良いの?」
「新谷こそどうしたの?」
「良いんだよ。良い男は遅れてくるもの、ってな。後で、じっくりと攻略させてもらうぜ」
「いつも通り撃沈、じゃないのかな」
「やってみなけりゃわかんねーよ」
「でも。倉嶋って苗字、どこかで……」
ふと気付くと、当の綺亜が、彼方と新谷の前に立っていた。
「おっ、倉嶋さん。はじめまして。俺は、乃木新谷。俺のところまで来てくれたのかな?ま、俺ってイケメンだから仕方がないよなー」
「次の授業は、教室移動なんでしょう?」
「……って、俺のことは、スルー?」
がっくり肩をおとした新谷だったが、すぐに気を取り直したようで、
「流石に、お嬢様攻略は、一筋縄ではいかなそうだぜ。だが、ここでへこたれる俺ではない」
「……」
露骨にじと目の綺亜を前にしても、次の授業が行われる教室に向かいながら、新谷は、自己アピールを続けていた。
ふう、と息をついた綺亜に、彼方は、
「はは。それだけ、倉嶋さんが、魅力的ってことだよ」
「……ふーん」
と、綺亜は、彼方の顔を覗き込むようにして、
「本当にそう思っているのなら、軽々しく口には出さないわよね」
「や。そんなことは……」
まあ良いわ、と綺亜は、言って、
「朝川君に言っておきたいことがあるの」
唐突に、大きなエメラルドグリーンの瞳にまっすぐに見つめられた彼方は、どきっとして、思わず目を逸らしそうになったが、その真摯な視線に、そのまま見つめ合う形になった。
「あ、うん」
少しの沈黙、そして凛とした少女の宣言。
「朝川君、貴方のことは、私が、護衛するわ」


昼食を取った後、彼方は、綺亜に話しかけられた。
「学校内を、案内してもらおうと思って」
と、綺亜に言われて、彼方は、学校案内を、担任の青島に頼まれていたことを、思い出した。
「体育館とか視聴覚室とかの場所が、今一わからないのよね」
「わかった。僕でよければ、案内するよ。教室からだと、視聴覚室とか音楽室の方が近いから、そっちから先に見ていこう」
「助かるわ、朝川君」
彼方と綺亜の二人は、主だった学校の施設を、歩いて回っていった。
綺亜が転校生ということもあるのだろうが、何よりもその洗練された容姿のためであろう、通り過ぎる生徒達の物珍しげな視線を感じながら、彼方は、案内していった。
体育館まで来ると、昼休みなので、バスケットボールやバレーに興じる生徒が、疎らにいた。
「あっちの、向こうの扉は?」
綺亜は、体育館の右手の奥にある扉まで歩いていって、
「ここは?」
窓もなく電灯が点いていないので、真っ暗だった。
「ああ、色々な用具の置いてある倉庫だね」
「ふーん。そうね、確かに、ネットとかボールとかが、あるわ」
言いながら、歩いていた綺亜は、あっ、と声をあげて、体勢を崩した。何かの用具に、足をとられたらしい。
思わず、抱きとめた彼方だったが、間に合わず、
「わっ」
ばふっ
マットの上に、二人とも倒れこむ形となる。
「いつつ……」
「だ、大丈夫、倉嶋さん」
と、視界がきかない中で、彼方が、言った。
「ひあっ!」
綺亜は、素っ頓狂な声をあげた。
「ちょ、ちょっと!ど、どこ触ってんのよ!」
「え?暗くて、良く見えなくて。どこって……?」
暗くて良く見ないが、彼方の手が触れているのは、薄い布地のような感触だった。
「……良いから、早く、どいて……!」
「あ、ごめ……」
ふにっ
「……ふぁっ!」
長い綺亜の髪が、ふわりと彼方の顔をくすぐった。
「く、倉嶋さん?ご、ごめん、跳び縄が絡まっていて……ちょっと待って……」
慌ていて、どうも上手くいかなかった。
「……何も見えないわよね?」
何故か乞う様な問いかけに、彼方は、
「ピンクかな……うっすらと、それくらいはわかるんだけれども……」
「!わ、わかるなっ!」
鳩尾に、鋭い痛みがはしった。綺亜の蹴りが、飛んできたらしかった。
数分後に用具部屋から出た二人だったが、綺亜は、
「……さっきのことは、忘れてあげる」
と、言った。
「えっと……」
どうやら、少し大変なことになりそうだ。何となく、彼方は、そう思った。


昼下がりの駅前のアーケード街。
灰色のトレンチコートを羽織り、帽子を目深に被った男は、カフェテラスで、コーヒーを楽しんでいた。
通りを行きかう買い物客を眺めていた男は、
「長閑でいいですねぇ」
ウェイトレスの少女が、パンケーキの乗ったプレートを運んできた。
「以上で、ご注文お揃いでしょうか?」
「ええ、ありがとうございます」
伝票を置いていこうとする少女に、男は、微笑みかけて、
「ああ、面倒だから、この場で払っちゃいますよ」
男は、長財布から折り目の無い一万円札を抜いて、少女に差し出した。
「あの、お客様?」
えっ、という表情で固まる少女に、男は、柔らかく微笑みかけた。
「お釣りは、良いですよ」
「でも……」
コーヒーとパンケーキのセットの値段と受け取った金額の違いに、少女の戸惑いは、もっともだった。
「こんなにいただく訳には……」
「うるせえな」
男は、冷たく、吐き捨てるように言った。
「え?」
男の態度の豹変ぶりに、少女は、戸惑いを隠せなかった。
「折角の紳士の施しが、台無しになるでしょう」
ざしゅっ
少女は、自分の足元で、鋭い雑音を聞いたような気がして、
「は……い……」
ウェイトレスの少女の声は、掠れていた。
「大丈夫ですよ」
と、男は、言った。
「その影、後三分もすれば、消えますから」
少女の影は、二つあった。
男が、立ち去った後、間もなくして、少女が突如倒れ込んで、その異変に周囲の人間が気付いて、騒がしくなった。


「ちょっと、朝川君、待ちなさいよ」
彼方が、下校しようと、廊下を下駄箱に向かって歩いていたところで、後ろから呼ばれた。
息を少し切らせた綺亜は、怒ったような声で、
「何で、先に帰ろうとしてるの?」
まるで一緒に帰るのが当たり前のような、そんな物言いに、少し疑問を抱きつつも、彼方は、
「えーと、買い物だけれども」
と、答えた。
夕食の材料等の買出しに、駅前のアーケード街に寄るつもりだった。
「買い物?」
オウム返しに聞いた綺亜だったが、考え込むような仕草をした後で、
「面倒だけど、付き合ってあげるわ」
「え?」
「一緒に行ってあげるって言ったの。貴方の護衛が、私の仕事なんだから」
護衛。その言葉が、今ひとつ要領をえていないと感じる彼方に、綺亜は、
「護衛、よ」
「えっと……」
「この前に、きちんと宣言したはずよ」
護衛というそれ自体は、確かに、初対面の時に、聞いた言葉だった。
「倉嶋さん、それって……」
「課せられた護衛だから、それをやってるだけ。それ以上の意味はないわ」
先に行って校門で待っていて、と言うだけ言って、綺亜は足早に教室の方に歩いていった。
(はぁ……強引だな)
苦笑した彼方だったが、不思議と悪い気もしなかった。
下駄箱で靴を履き替えて、校門まで出た。
帰宅の途につく生徒もいれば、ランニングに勤しむ生徒、談笑する生徒、と色々だ。
校門の前に、白い立派なリムジンが、停まっていた。
どうにも場違いな感のある車から、すっと降りてきた老紳士は、彼方の前まで来て、止まった。
「朝川彼方君、ですね」
「あ、はい」
きっちりした執事服と威厳のある風格に、彼方は、少し気後れした返事になった。
老紳士は、時田だ、と名乗ってから、
「お嬢様、綺亜様、のことで少し話があるのだが、良いかね」
「あ、はい」
倉嶋綺亜の関係者だとすぐにわかった。
立派なリムジンと執事といい、新谷のお嬢様という評は、冗談などではなくて、そのまま事実として、当てはまってしまっているらしかった。
「お嬢様は、護衛、と言われたと思うが、恐らく、君に、具体的な説明はされていないと思ってね」
「そう、ですね」
彼方は、頷いた。
「倉嶋財閥は、知っているかね?綺亜お嬢様は、現会長のご息女だ」
やっぱりそうだったのか、と彼方は、思った。
倉嶋グループは、都内の一大オフィス街に拠点を構える、世界有数の巨塔である。
倉嶋商事、倉嶋重化学、倉嶋電機、といったグループ企業は、いずれも有名で、その数は、枚挙に暇がない。
「グループの母体企業は、倉嶋警備でね。倉嶋家は、元々用心棒で財を成した家系で、そのルーツは、平安末期まで遡る」
「用心棒?」
「まあ、そうだな。現代風に言えば、ボディーガードということになるかな」
と、時田が、言った。
「綺亜お嬢様は、グループの時期トップとなられる御方だから、色々と勉強していただかなければならない」
少し話が見えてきた、と彼方は、思った。
「護衛というのも……」
彼方の言に、時田は、軽く頷いて、
「今回の件も、その後継者教育の一環という訳だ。そして、不本意ながら、君に付き合ってもらうことになった。よろしく頼む」
時田の言葉から、彼方は、この老紳士には、歓迎されていない様子だった。
「君は、ただ黙って、お嬢様に、護衛されてくれていれば、それで良い。ありないが、仮に有事の際には、我々が、対応する」
息を少し切らせた綺亜が、やって来た。
「朝川君……って、時田、来ていたの。迎えは必要ないと言ったはずよ」
「そうはいきません」
「とにかく。知らないわ」
髪を靡かせた綺亜は、彼方に向かって、言った。
「行くわよ、朝川君」
彼方の腕を半ば強引につかんで、綺亜は、もう歩き始めていた。


駅前のアーケード街を抜けた、商店街の一角にあるスーパーマーケットに、入った。
「随分と混んでるのね」
「まあ、夕方だし、それと、タイムセールでもやっているのかもね」
それ程買うものがあった訳ではないので、買い物そのものは、比較的短時間で終わった。
会計の間、綺亜に待っていてもらっていたが、当の綺亜は、何だか終始落ち着かない様子だった。
「何か買いたいものでも見つけたの?」
綺亜は、落ち着かない様子で、商品の陳列棚をきょろきょろと見ていた。
「別に。スーパーマーケットなんて滅多にこないから、ちょっと緊張しちゃってるとか、そういう訳じゃないわ」
「そう」
「な、何よ?」
「や。倉嶋さんのことが、少しわかって良かったな、って」
二人で、店の外に出た。
「はい、倉嶋さん」
彼方は、買ってあった缶コーヒーを、綺亜に手渡した。
「……ありがとう」
あの、と綺亜は、小さな声で言った。
「さっきの、話」
「え?」
「校門で、時田から、色々と聞かされたんでしょう?その、倉嶋の家のこととか……」
そうだね、と彼方は、応えた。
「倉嶋さんって、お嬢様だったんだね」
綺亜の瞳が、びくっと一瞬揺らめいたようになって、
「……だから?」
消え入りそうな、先を促す声だった。
「……え?それだけ、だけれど」
「……」
「……倉嶋さん?」
「……ううん、何でもないわ。ごめんなさい」
綺亜は、感情を押し殺すかのように、それでも少しほっとしたように、コーヒーに口をつけた。
ふと、ワッという叫び声があがった。
彼方と綺亜の少し前を歩いていた少年二人組の片方の少年と、男性が、ぶつかり、少年が、バランスを崩して、倒れこんでいた。
「おい、どこ見て歩いてるんだ」
と、柄の悪い男性が、言った。
(言いがかりだな)
周囲の人間も、騒動に気付いたのか、緊迫した空気が、漂いはじめていた。
男は、肩を痛めたと言って、少年達に、治療費を出せ、と凄みをきかせていた。
「すみません」
少年は、頭を下げ続けていたが、男は、まだ怒鳴り散らしていた。
「ちょっと、きちんと誤ってるんだから、もう良いでしょ」
綺亜が、少年を庇うように、男の前に立っていた。
「ああ?」
男は、割って入ってきた金髪の少女に苛立ちを隠すこともなく、
「部外者が口を出すんじゃねえよ。俺は、こっちの兄ちゃん達と話してるんだ」
「そもそもぶつかってきたのは、そっちなんだから、謝る必要なんてないじゃない」
「てめぇっ!」
男性は、苛立たしげに言うと、拳を振り上げていたが、唐突に、アスファルトの地面に倒れた。
「……あ?」
「女の子に手をあげるなんて、なってないわよ」
綺亜の脚に、ひっかけられたようだった。
呻いた男性は、更に怒気を強めて、
「このアマっ!」
「もう止めておきなさい」
再度返り討ちに遭った男は、捨て台詞を残して、去った。
辺りの不安げな喧騒も、収まって、元通りの街の賑わいが、戻ってきた。
少年達は、何度も綺亜にお礼を言って、角を曲がっていった。
「……す、凄いな、倉嶋さん」
素直に感動した彼方は、そう口にしていた。
「護衛に必要な体術、初歩的な技よ」
ぽっ
彼方と綺亜は、頭に、冷たさを感じた。
ぽつぽつという雨の音は、あっという間に、激しいものに変わってしまった。
「降ってきちゃったね」
「ええ。通り雨だと良いんだけど」
「ちょっとここで待ってて。コンビニで、傘を買ってくるから」
「えっ、今行ったら、濡れちゃうわよ」
「走れば、大丈夫だよ」
彼方は、そのまま走って行ってしまった。
ぽつんと一人残された綺亜は、暫くの間、立ちすくんでいた。
「もうバカなんだから。あいかわらずのバカなんだから……」
遠い目で、誰にでもなくそう呟いた綺亜は、控えめに柔くはにかんでいた。


「すっかり暗くなっちゃったわね」
「時期も時期だから、日が落ちるのも早いからね」
コンビニで買ったビニール傘に、雨の雫が写り込んでいて、黒い空を背景に、幾重もの線になって流れている。
「ごめんね、店に傘が一本しか残っていなかったから」
「別に構わないわよ、濡れなければ」
さして大きくない一つの傘に二人で入っているので、自然と、服と服とが触れ合って、時々衣擦れの音が立つが、雨の音が、それよりも大きい。
「途中までで良いから。時田に、迎えにきてもらうわ」
暗いので、表情は見えないが、綺亜の声色は、何故か嬉しそうだった。
「さっきは、世話になったな、ねーちゃん」
と、前方から、声がかかった。
商店街で会った男だった。
男が歩を進めると、からからと鈍い音が、たった。鉄パイプが、男の右手に、握られていた。
男の左右には、屈強そうな男が、二人控えていた。
お礼参りって訳ね、と綺亜は、つまらなそうに呟いた。
「倉嶋さん」
「何よ」
「気をつけて……」
暗闇に乗じて、学生二人を襲おうというのだから、既に正常ではないのだが、男達の目に、言いようのない不安定さを、彼方は、感じた。
「だから、何を気をつけろって言うのよ?」
「……こいつら、少し変だ」
彼方にも、確信があった訳ではない、ただ何となく違和感が、濁った水面から水底を覗くような感覚で、ふらふらと漂う。
「人数が、増えただけでしょ。どうということはないわ」
綺亜は、臨戦態勢をとった。
左右の男達が、無言で近付いてきて、いきなり殴りかかろうとするところに、
「しつこいんだってっ!」
綺亜の蹴りが、男を捉えていた。
その動作のフォロスルーを見逃すまいと、もう一人の男が、綺亜に襲いかかるが、
「えあっ!」
綺亜の華奢な身体が、くるりと回転し、二人目の男が、倒れ込んだ。
「たいしたことない。見掛け倒しじゃない」
と、綺亜は、言った。
「そいつは、どうかな」
中央の男が、不敵な笑みを浮かべたかと思うと、次の瞬間には、
「っ!」
眼前に男の姿を捉えた綺亜が、声にならない声をあげていた。
ぐぁしゃっ
男の力強い一振りを何とか避けた綺亜は、
「何……こいつっ!」
「倉嶋さんっ」
「……さっきとは、全然違う!」
コンクリート塀にぽっかりと空いた穴は、人所以の力以上の何かを物語っていた。
違和感が、ある確信へと変わった。
(やっぱり。並の人間の力、じゃない)
脳裏を過ぎる一つの言葉、“爛”。
「あっ」
綺亜が、長髪の男に脚を掬われて、声をあげて、地面に倒れこんだ。
「倉嶋さんっ」
膝頭に、血が、うっすらと滲んでいる。
綺亜は、立ち上がろうとしたが、吐き気がして、直ぐに起き上がることもできず、ただ相手を睨みつけるだけとなった。
「おいおいおい、さっきまでの威勢のよさは、どうしたんだ、ああ?」
鉄パイプが、綺亜に襲い掛かったが、鈍い音がして、
「ああっ?」
割って入った彼方の傘が、男の鉄パイプを止めていた。
「ヒーロー気取りで、でばってくるんじゃねーよ。無様な姿を、晒したくなかったら、おとなしく黙ってろや」
「そういう訳にもいかないんでね」
「……やるじゃない」
見ると、綺亜が、震える足を庇いながら、立ち上がっていた。
「ほんの……まぐれ、だよ」
事実、傘を握っている手は、痺れていて、殆ど感覚がなくなっていた。
「もう終わりかよ。意外と呆気なかったな」
綺亜の笑みに、男が、訝しげに目を細めた。
「ちょっと本気を出す」
綺亜は、その手に、細い刃身のレイピア状の剣を、携えていた。
「倉嶋さん……?」
「倉嶋家の護衛の力、見せてあげる」
綺亜の口にした言葉の意味が、彼方には、何となくわかってしまっていた。
「ふん」
男が、鉄パイプを上段に構えた。
「はああっ」
綺亜は、レイピアを構えたまま、男に向かって奔った。
男が振り下ろした鉄パイプとレイピアが交錯して、鉄パイプの軌道が、揺らされた。
「何っ」
綺亜の回し蹴りが、男の腹をとらえて、男の巨躯がアスファルトに倒れこんだ。
「なかなか……」
「貴方は、『まだ負けていない』と言う」
「なん……だと……?」
「まだ気付いていないのかしら、自分が、既に螺旋の中に捕らわれていることに」
男と綺亜の間に、両端を繋ぐ青白い一本の線が、できていた。
「スティングレイ、起動しなさい!」
綺亜が、レイピアを振るって号令すると、雷光の線が、空間を薙いだ。
「ぐあああああっ」
男は、光に焼かれて、どずんと前のめりに倒れた。
だが、ゆっくりと起き上がった男の身体。
「嘘……まだ動けるの?」
男が、ふらつきながら、綺亜の方に、一歩前に出た。
「やだ……なにこれ……動けない……?」
「ふむ。所詮は小賢しいだけの小娘ですか」
男の口調が、変わっていた。
「この男の体も、もうもたないようですね……だが」
男が、綺亜の前に立った。
「無力な哀れな女性一人を血溜りに沈めてあげることぐらいは、できそうだ」
ざしゅんっ
回線が切れたような鋭い音が、した。
見覚えのある銀の剣が、地面の、男の後ろの影に突き刺さっていた。
いつからだったのか、男の影は、二つあった。
(影が、二つ……?)
「ぐおおおおおおおっ」
男は、大きく吼えた後、その動きが、ぴたりと止まった。
ざざ
乾いた雑音が、響いた。
『まあ、こんなところでしょうかね』
と、明らかに異なる質の声が、男の口から、擦り切れるように漏れた。
「……これって……一体?」
彼方の問いに、
『余興は、ここまで。楽しんでいただけましたでしょうか?また会いましょう、“月詠みの巫女”、さん……』
男の体が、傾いて、そのまま崩れ落ちた。
「……対象者の影とその意識を縛る魔法……不可視の魔法『影法師』……?」
綺亜は、項垂れたまま、自問するように、言った。
くすんだ雨の匂いが、鬱陶しくて、彼方は目を細めると、靴音が、した。
赤の銀の髪飾りの少女、御月七色が、雲に隠れてぼんやりとした月の光を背にして、立っていた。
「……のようですね」
と、七色は、言った。
片手剣を回収した七色は、男を見て、
「気を失っているだけのようです」
「この人は、“爛”なの、御月さん?」
いいえ、と七色は、首を振った。
「この男性からは、“爛”の力を、感じません。何者かに操られただけだと思います」
「……操られていた?」
「かなり強い存在の“爛”だと、思います」
七色は、慎重に、言った。
「一応、お礼は言っておくわね」
「いえ……」
「それで、名を名乗りなさいよ」
「御月七色、です」
「……真名を知りたいのよ」
「……“月詠みの巫女”、です」
「はっきり宣言しておくわ。彼方は、私が、護衛する」
俯きながら、それでもはっきりとした口調で、綺亜は、言った。降りしきる雨で濡れた髪に隠れたその顔は、彼方からは、見えなかった。


「以上となります」
「報告ご苦労。大体のところは、わかった」
と、電話の声は、言った。
「差し出がましいことは重々承知の上で申し上げますが、お嬢様にあまりご負担になるようなことは……」
「時田」
電話の声は、冷厳そのものだった。
「は」
「何のために、お前を、綺亜のところに付けていると思っている?」
「……は」
窓ガラスにしたたかに打ち付ける雨の音が、激しく唸っている。
「綺亜には、あれには、果たしてもらわなければならないのだ。倉嶋の悲願成就のためにな」
「……は」
「頼りにしているぞ、時田」
「勿体無きお言葉。それでは、失礼いたします」
時田は、携帯電話の通話を切った。
屋敷の庭園を見やった時田は、止みそうにもない雨の線を、暫くの間眺めていた。


星見で良く行く土手にかかる鉄橋を通過する列車の音が、聞こえる。
朝の冷たい空気が、体をしゃんとしてくれるように感じた。
「手袋、必要だな」
彼方は、片手をポケットに入れながら、学校に向かっていた。
葉坂学園の制服姿も、ぱらぱらと見受けられる。
普通の朝の通学風景、少なくとも彼方自身はそう思っていたもの、は前から変わっていないはずなのに、不安定な気持ちが、ずっと燻っていた。
この日常という世界、その外には、また非日常という世界が、あった。
“月詠みの巫女”との出会い。
“爛”。
そして、倉嶋綺亜との出会い。
全てが、交じり合って、キャンバスを、新たな色で塗り替え続けているようなイメージに、彼方は、頭を振った。
「おはようございます、朝川さん」
向こうから歩いてきて立ち止まった七色が、言った。
「おはよう、御月さん」
彼方が、先を促したが、
「……あの」
くいっ
立ち止まったままの七色に、学生服の袖を引っ張られていた。
「……御月さん?」
「最近、彼方さんとあまりお話ができていなかったので、その……」
七色の小さな細い指が、彼方の手に絡まっていた。
「えと……御月さん?」
少しこのままで良いですか、と七色は、言った。
二人の間に、小さな沈黙が生まれた。
と、静かに、白いリムジンが、停車して、ゆっくりと降り立った少女が、立っていた。
腰までかかる柔らかなブロンドの髪と、エメラルドグリーンの瞳が、ハーフを思わせる、美しい少女である。
「おはよう」
優雅で華麗な挨拶だった。
「……あ」
七色の指は、いつの間にか離れていて、
「おはようございます」
と、丁寧に言った。
「おはよう、倉嶋さん」
他人行儀なのはあまり好きじゃないの、と綺亜は、両手を腰にあてて、二人を覗き込むようにして、
「彼方、七色。綺亜、で良いわ」
「えと……倉嶋さ……」
「綺亜!」
「……綺亜」
「……っ」
何故か一気に恥ずかしそうに赤くなった顔を隠すように、綺亜は、
「よ、よろしいっ」
言いながら、もう先を歩き出していた。
今日も、葉坂学園での一日が、始まろうとしていた。