プロローグ


満天の夜空が、そこにあった。
星の光は、その夜空にあって、揺れていた。
そして、今目の前には、その星の光が、確かにあった。
抱きしめているこの感覚は、幻と勘違いしてしまうように、淡くなってしまっている。
握っているこの温もりは、絵空事と思えてしまうように、頼りなくなってしまっている。
「さよなら」
と、その子は、笑顔で言った。
爛然と爆ぜる黄金の色。
そうして、抱きしめている感覚も握っている温もりも、全てが光の欠片となって飛び散った。
綺麗な星の光だった。
哀しくなるくらい、どうしようもなく綺麗な光だった。



■  1 はじまりの夜空


同級生の御月七色は、高嶺の花と呼ばれていた。
その言葉が指し示す通りの、綺麗に整った顔立ちと光を織り込んだような艶やかな髪は、人形の端整さをも思わせた。
また、人形が言葉を発することがないように、少女は寡黙で、表情を変えることも少なかった。
結果として、眉目秀麗のその少女、御月七色は、他人を寄せ付けない雰囲気を、自然とその身に纏っていた。
だから、その七色が、朝川彼方に声をかけた時、彼は、当然のように戸惑った。
彼は、葉坂学園に在籍する普通の一生徒らしく、所謂『有名人』である御月七色のことを知っていた。
(けれども)
彼方は、逡巡していた。
(御月さんが、僕のことを知っているなんて、少し意外だな)
確かに学年こそ同じだが、クラスは違う、教室も離れているし、第一言葉も交わしたこともないし、面識はないはずだ。
「朝川……彼方さん、ですよね」
透き通った声。
「あ、うん。御月七色さん、だよね」
「はい」
透き通った瞳は、彼方を真っ直ぐに捉えていて、無機質な感じさえ受けた。
「ええと。僕に何か用?」
言いながら、彼方は、心中慌てていた。
用事があるから話しかけてきているのに決まっているのに、まるで作業工程の決まっているベルトコンベアー用式の、そんな定型の会話の台詞しか口をついて出てこないのは、少し緊張しているせいかもしれなかった。
「その、朝川さんの好きなものって何でしょうか?」
え、と聞き返してしまうところだった。
好きなものというのは、文字通りの好物のことだろうか?
そうだとしたら、何故そんなことを聞くのだろう。
「好きなものっていうのは……」
「食べ物のことです」
と、端的に七色は、言った。
「えっと、ハンバーグ……とかかな」
「ハンバーグ、ですか」
静かな声の反芻に、彼方は、少し戸惑って、
「はは。少し子供っぽいかな」
彼方の柔らかい笑みに対して、
「いえ」
七色は、目を瞑って、すっと答えただけだった。
「ありがとうございました」
礼を言った後で、七色は踵を返して、廊下の向こうに進んで行った。


「おい、彼方よ」
彼方は、自分の教室に戻ってきたところで、級友の乃木新谷に声をかけられた。
「どういうことだよ、お前」
「どういうことって?」
と、彼方は、聞いた。
「しらばっくれてんじゃねーぞ。お前、さっき御月さんと話してただろう」
「あ、うん」
「この羨ましいヤツめ。で、一体何を話していたんだ?」
「別に大したことじゃないよ」
ぼやかした彼方の返答に、新谷は、ふーんと鼻を鳴らした。
「どちらにせよ、お前を許せないことに変わりはなさそうだな」
「何故そうなる」
「あの麗しの学園のアイドル御月さんと、白昼堂々お話できるなんて、天が許しても、この俺が、許さんよ」
「別に、お前に許してもらわなくても良いよ」
「で、御月さんの超絶可愛い顔は勿論として、胸とかお尻とかちゃんと凝視してきたか?」
「……」
「おいおい、健全たる男子なら、滅多にないチャンスを最大限に生かさないとだな、こう嘗め回すようにだな」
がばっと身を乗り出した新谷は、続けて、
「さり気なく淑やかな大きさと張りを主張するあの胸のライン、そして、小ぶりな可愛らしい桃を思わせるヒップ、そして、何よりあの神秘無敵の絶対領域を演出するニーソックス!それを、真近に見れるなんて……くそっ、羨ましすぎるぞ、羨ましすぎるんだよ、お前!それと……」
と、そこまで言いかけた新谷は、びくりと一瞬目を見開いたかと思うと、その顔が、そのまま急に青ざめていった。
「白昼堂々、教室のど真ん中で、破廉恥な話をしているのは、どこの誰かしらねー」
「……委員長、さん」
「はい、良くお名前呼べましたね。さて、ここで質問です。次の時間は、何の時間でしょう?」
「英語、だったかな。だよな、彼方?」
ポニーテールの委員長から彼方に視線をゆっくりと移した新谷の目は、助けを請うように、怯えの色に染まっていた。
「あ、うん」
「はい、良く覚えていましたね。さて、再び質問です。次の英語の時間ですが、宿題は出ていたでしょうか?」
「……英語の教師は、竹本のヤツだったから……いや、竹本先生だったから、宿題は、確か、いつもあるよな」
委員長に目の笑っていない冷たい笑顔で睨まれたままの新谷は、言葉を改めつつ、確認していった。
「はい、宿題は、確かに出ています。では、最後の質問です。いつも赤点ぎりぎりで頑張っている乃木君ですが、宿題は、きちんと終わっているのでしょうか?」
「……」
「答えがないようだけど、乃木君?」
「彼方、答え、写させてくれ」
「別に構わないけれど……」
朝川君、と今度は、彼方の言が、ぴしゃりと遮られた。
「それじゃあ、乃木君の為にならないわ。乃木君、きちんと自分でやりなさい。まだお昼休みが終わるまで、結構時間はあるんだから」
「ちっ。面倒くせーな」
「あら、何か言ったかしら」
と、目を細めた委員長の脚が僅かに動き、青のスカートがふわっと揺れた。
途端に、新谷の顔が、益々青ざめていった。
「さーて、宿題宿題っ」
気圧されたように、新谷は、自分の席に戻っていった。
新谷曰く、委員長は空手の有段者であると。新谷は、これも当人談ではあるが、死闘を繰広げたことがある、と。
(一方的に、新谷が、やられたとしか思えないけれども、ね)
そういう経緯が、あるせいか、ぼやきつつも、新谷は、委員長には頭があがらない様子だった。
相変わらずなんだから、と溜息をついた委員長は、
「朝川君も、乃木君をあまり甘やかさないようにね」
「そう、だね」
彼方も、苦笑するしかなかった。


昼休みが、終わって、英語の時間。
彼方の窓際の席からは、校庭とその背後に広がる街並みが、良く見えた。
彼方の通う葉坂学園のある街、樋野川市は、人口十五万人。新興住宅街を擁する市街地と、その回りを囲うように点在するのどかな田園風景とが、混在する、中規模の都市である。
葉坂学園は、市街地の外れにあり、視界を遮るビル郡の代わりにある閑静な住宅街の中に位置する。
パノラマのように広がる綺麗な淡い青空を眺めながら、彼方は、
(今日は、星が良く見えそうだな)
と、漠然とそんなことを考えていた。
英語の教師の説明が、耳元を掠めていくが、彼方には、少し退屈に感じられた。
説明や講義の内容に不満がある訳ではないし、実際彼方はそのように感じたこともなかったが、時々物足りなく思ってしまうこともあるのは、事実だった。
彼方の成績は、学年で五指から零れたことはなかった。
ただ、与えられた宿題や課題は、きちんとこなすものの、それ以上は踏み込まない、そんな調子の勉強姿勢なので、優等生の性質とも、少し離れていた。
そんな彼方が興味をもっているものが、星見だった。一応、肩書きも、天文部の部員である。


「ただいま」
自宅に帰った彼方は、誰にというでもなく、そう言った。
朝川家は、現在、両親は仕事の関係で長期出張に出ていて彼方の一人暮らし、という状況だった。
ただ、放任主義の彼方の両親も、多少なりとも学生である息子一人を置いていくのには不安があったのだろうか、家政婦の女性に週三日ばかり来てもらうように、手配してくれていた。
今日は、家政婦の佳苗が来てくれる曜日ではないので、夕食は、勿論自前になる。
そんなことを何となく考えていた彼方だったが、革靴を脱いだところで、
「え……」
玄関が、違っていた。正確には、玄関の様子が、違っていた。
まず、そもそも、今更ながらに気付いたのだが、煌々とした玄関の明かりに、彼方は、首を傾げた。
「電気、消し忘れた……かな?」
靴が、丁寧に揃えられていた。彼方も、どちらかと言えば几帳面な方だが、ここまで綺麗に並べた覚えはなかった。
玄関から入って直ぐの右側の部屋のドアも、今日は開けていったはずだった。
違和感。
(母さん、の訳はないか……)
違和感は、警戒へと瞬時に変容した。
(誰かに……入られた?)
侵入者とか泥棒とか、そのような単語が、頭の中を巡った。
玄関の鍵は、閉まっていたから、まだ家の中にいるのだろうか。いや、玄関を閉めておいて、庭から出て行ったのかもしれない。
肩にかけたままの鞄が、急に重く感じられて、少し胸が苦しくなったように感じた。
彼方は、身体を緊張させながら、物音を立てないように、ゆっくりと廊下を進んでいった。
極めつけは、
(え……)
香る。匂いというよりも、香り。
キッチンの方が、その元らしい。
(ゆ、勇気を出してここは……っ!)
汗の浮かぶ拳を強く握り締めた彼方は、
「おいっ……」
「あの……」
同時に、後ろからかかる声。
「あっ」
想定外の方向からの呼びかけに、バランスを崩してしまって、それは相手も同様だったようで、相手もまたバランスを崩して。
相手は、見知った顔だった。
思わず、相手の手を握っていた。
二人とも、何とか倒れずに、バランスを保った。
「……ありがとうございます」
「いや……」
良く知っている顔だった。正確には、最近というか今日の記憶に新しい少女、御月七色、その人だった。
言いたいことは山程あるが、うまく出てきそうにない。


「どう、ですか?」
「や……とっても、美味しいです」
お世辞ではなかった。手作りのハンバーグは、実に美味しかった。
ごはんと味噌汁は、味わい深く、身体を芯から温めてくれた。
ほくほくと身体が、嬉しさを主張してきていた。
「良かったです」
言葉とは裏腹に、抑揚のない声の調子の七色。
料理は美味しいが、部屋の空気は、今ひとつ重い。
当然だ。何が何だか、わからない。
いつも通りに帰宅。その後に、待ち構えていたのは、割烹着姿の同級が、夕食の用意をしてお出迎えという、非日常。ありえない、出来事の連携。済し崩し的に、夕食までとってしまった。
とにかく状況を整理しないと、と彼方は、思った。
「色々その、聞きたいことはあるけれども、その……どうやって、家に」
「合鍵を頂いていますので」
七色が、すらりと見せたクマのキーホルダーは、まさに見覚えのあるもので、家政婦の佳苗のものだった。
「え……」
「いつも、母が、お世話になっています」
ぺこりと頭を下げられた。
「お母さん……佳苗さんが?」
思考がうまく追いついてきてくれていないのを、彼方は、感じた。
「はい」
「えっと……」
そういえば、そうなのだ。
佳苗さんは、佳苗さんだと、そう認識して、その認識が、普通なら当たり前に把握しておくべき、苗字を疎かにしてしまっていた形だ。
「そうなんだ。御月さんのお母さんって、佳苗さんだったんだ」
「はい」
「え、えーと……」
言葉に詰まる。次が出てこない。
何とか、思考の歯車を回すことを再開する。
「何でしょうか?」
対して、少女の方は、先程から変わらない澱みのない口調で、聞いてきた。
「つまり、だ。状況を整理すると、佳苗さんの娘さんが、御月さんってことで」
「はい」
「それで、佳苗さんが風邪をひいちゃったから、今週いっぱいは、御月さんが、代わりに来てくれるって。そういうこと、かな?」
「はい」
話の流れは、単純で明快で、矛盾も問題もなく、極めて自然だった。
しかし、どうしても、積極的に疑問符がつくような類ではないが、やはり引っ掛かるものがあった。
(今まで、ある意味、別世界の人、と思っていた人が、急に自分の家にやって来て、家政婦さん……って)
湧いてくるのは、実感よりも違和感だった。
(いや)
彼方は、割烹着姿で行儀良く直立している七色を見て、
(家政婦さんっていうより、メイドさんだよな。御月さん、メイド服とか、似合いそうだし)
と、途中で頭を振って、
(っ!僕は、何を考えているんだか。これじゃあ、新谷のヤツのこと言えないな)
「?」
不思議そうに小首を傾げる七色に、慌てて手を振った彼方は、
「う、ううん。気にしないで、何でもないんだ」
「そう、ですか」
「でも、佳苗さん……」
と、彼方は、言いかけた、
「御月さんのお母さんが、家に来てくれていたのって、火曜と木曜と土曜だったはずだけど」
「朝川さんのお母様が、月水金に変更して下さい、と仰っていました」
「あ、そう、なんだ」
全く聞いていない話だった。
(母さん、しっかり伝えておいてよ、そういうことは……)
「ご迷惑でしたか?」
彼方は、今度はぶんぶんと手を振った。
「迷惑だなんて、とんでもない!」
「それでは、一週間の間、よろしくお願いします」
こうして、思いもよらなかった一週間が、始まったのだった。


翌日の昼休み。
「彼方ー。昼飯に行こうぜ。学食学食、焼きそばパンが、俺を待ってるぜ」
「乃木君」
「新谷、委員長に呼ばれているよ」
「今日の日直は、私と乃木君なのよ。黒板消し、やっておかなくちゃ」
「悪ぃ。これから、学食行ってくるから、委員長、よろしく頼むわ……」
と、そこまで言いかけた新谷の顔は、やはり具合が悪そうになっていて、
「あ、いや。黒板消しがあるから、彼方、もう行ってくれ」
見れば、やはり、委員長の白い脚が、少し揺れていた。
「わかったよ」
いつもの光景と言えばいつもの光景なので、彼方は、苦笑しながら、
「じゃあ、僕は行くよ」
と、言った。
渡り廊下まできたところで、
「朝川さん」
すっと姿を見せたのは、七色だった。
「み、御月さん?」
「はい」
七色が抱えていたのは、巾着袋、大きめのものと小さめのもの。
「お昼ごはん、作ってきました」
「あ、え?」
彼方は、栄養が偏るからと、週二回は、佳苗がお弁当を持たせてくれていたのを、思い出した。
「と、とにかく屋上にでも行こうか」


「こんにちは」
天文部の部室のドアを、開けた。
「あら、いらっしゃい」
と、先客が、彼方に声をかけた。
腰までかかる長い艶やかな黒髪と聡明さを物語る切れ長の黒い瞳が印象深い少女、好峰杏朱、同級生で同じ天文部員である。
「あれ。今日は、杏朱一人だけ?」
「元々五人しかいない文化部なのだから、二人揃えば、上出来だと思うわ」
杏朱は、読みかけの瀟洒な赤のカバーのかけられた本を、ぱたんと閉じて、
「ふふ。珍しい、という顔ね。そうね、偶には顔を出してみようかなと思ってね」
「何の本を読んでいたの?」
「他愛のない本よ」
それよりも、と杏朱は、付け加えた。
「屋上での逢引は、良くないわ、と忠告したかっただけなのかも」
「……」
くすりと微笑んだ杏朱は、悪戯好きの猫みたいだ、と彼方は、思った。
「……見ていたの?」
「私は、そんなことを言ってはいないのだけれども。ああそうそう、さっき新聞部の子と話をしたのだけれども、ネタが枯渇していて、非常に困っている様子だったわ」
「……はは、そう、なんだ」
「屋上でのハプニング、とか結構センセーショナルな見出しかもね」
「そう、かな」
「ふふっ。冗談よ」
「全く、杏朱が言うと、冗談に聞こえないから困るよ」


「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
夕食は、シーフードカレーだった。そして、相変わらずの美味しさだった。
両親不在で、一人暮らしには慣れているつもりだったが、その認識も、一人で用意する夕食のレトルト率を思い出してしまって、同級生の七色に仕事をやってもらってしまっているのを目の当たりにしているのも、関係しているのだろう、
(もうちょっと、というか、かなりしっかりしないとな……)
という、反省の念へと変わってしまっていた。
七色が、テーブルの皿を取り台所へ持って行こうとするのを、彼方は、制して、
「御月さん、今日は、僕が、お茶碗を洗っておくから、良いよ。御月さんも、明日は、ホームルームの前に、委員会の集いがあるから、朝も早いよね」
「……」
皿を手に取ったままで、七色が、止まった。
七色の瞳が、寂しそうに揺れたように見えた。
「……あの」
と、七色は、俯きながら、言った。
「……努力しますから」
「え……」
「朝川さん、あまり私を頼って下さないから」
「や。そんなことは」
と、言いかけて、彼方は、黙ってしまった。
七色の言うとおりで、実際、同級生の家政婦という存在に身構えてしまっていることは、確かだった。それは、気後れなのかもしれないし、遠慮なのかもしれなかった。
佳苗にやってもらってしまったことも、七色にやってもらうのには、抵抗があった。
「……すみません。今言ったことは、忘れて下さい」
ぺこりと頭を下げた七色を見て、彼方は、ちくりと胸が痛んだ。
七色の仕事は、どれもが丁寧で正確だった。
きっと母親の佳苗に仕事の内容をきちんと聞き取りをして、お昼の弁当を用意してきてくれたのもその一つだろうし、それらをしっかりとこなしてくれているのだろう。
それを、気恥ずかしさに置き換えて誤魔化すのは、七色に対して失礼なことだった。
「それでは、お言葉に甘えて、本日は、失礼します」
「……あ、うん。今日は、どうもありがとう、御月さん」
七色は、お辞儀をすると、ぱたんと玄関から出ていった。
途端に、廊下の時計の秒針の音が気になってきて、一人だけ取り残されたような、重たい空気を感じた。
居間に戻った彼方だったが、
「あ」
椅子の上にかけられたままの、可愛らしい空色のマフラーに、気付いた。
「これ、御月さんのだよな。まだ、間に合う、か」
よし、と彼方は、コートを羽織って、飛び出した。
夜の寒さに、白い息を吐きながら、
「確か、家は二丁目の方だって、佳苗さんは言っていたから……駅方面か」
途中、斜めに横切る形で、公園を通った方が、駅まで近かった。
十二月の冷たい風を耳に感じながら、公園に着いた。
夜の公園は、スポーツを楽しめるグラウンドが四つと森林浴向きの遊歩道があるのだが、人気のないせいであろう、昼間よりもかなり広く感じられる。
「……静かだな」
からからと葉が風に揺れる音が、はっきりと聞こえた。
ふと、人の気配を感じた。
人通りのない中での気配に、違和感を覚えたわけではなく、明らかに何かが違うように、そんなふうに思えた。
見れば、歳は、彼方と同じくらいの、学生服姿の少年が、立っていた。
「なんだぁ、男かよ」
開口一番、ふてくされた調子だった。
「確かに、可愛らしい女の子の薫りがしてきたんだけどな」
無遠慮に、独白に近い感じで、少年は、続けた。
「そうか、そのマフラーのせいか」
「……」
「ふーん、そのマフラーの子、とっても綺麗で可愛らしいんだよね」
少年は、愉快そうに、目を細めて言った。
「きめ細かな白い肌、すらりと伸びた手足、本当に可愛らしい」
「……」
「ふーん、だんまりかい?」
(ふー……)
彼方は、内心、ため息をついた。
「おっと、お話を聞いてもらうのに、名乗らないのは、不適切だったね。僕は、高瀬春一だ」
ちょっと変わった、確かに変わった人なんだ、係わり合いは、御免だ。彼方の下した結論は、ありきたりだったが、正論のように思われた。
「出会ったこともない美しい少女を思い描くことは、これは非常に楽しい」
無言で、横を通り過ぎようとすると、
「そんな僕の高尚な嗜みに水をさした、その罪は、海よりも深いよ、君」
「……」
「話は聞けよぉ!」
高瀬と名乗った少年が、激昂した。
瞬間、彼方は、自分の真横を、急激な速さで何かが奔っていくのを感じた。
彼方の真後ろの木が、ずるずると音を立てた。
振り向くと、木が傾いている、と表現するのも正確ではない。
正確には、木は、さっくりと真横に切断されて、それが斜めの歪みを生んでいた。
(……え……?)
一体何が起こったのか、彼方には、理解できなかった。
重い乾いた音を立てて、崩れ落ちた大木。
彼方の頬に、一本の血の線。
「今のは、わざと外した」
「……」
「どうしたんだい?声も出せないか」
小さな鋭い痛みも忘れて、彼方は、状況を把握しようと必死だった。
切られた?良くわかならいが、切られたらしい。
「君は、こう思っているはずだ。『こいつ、普通じゃない』ってね」
誰に?それは、わかっている。
「その通り。僕は、普通じゃない。選ばれた存在」
背中を氷でなぞられたような厭な震えが、彼方を覆い始めていた。
「だから、何をやっても良い」
と、高瀬は、笑った。
「悲鳴を上げ必死に助けを乞う哀れな人間を切り裂き、ミンチにして、それを楽しんでも良い」
高瀬が、一歩前進するのに合わせて、彼方も、一歩後退した。
(逃げないと)
彼方は、自分に向けられている明確な殺意に、気持ちばかりが焦って、身体が動いてくれない。
「女の子の泣き声は、格別でね。僕を癒してくれる」
と、高瀬は、言った。
「さてさて、男の君は、どんな声で鳴いてくれるのか、楽しみだ」
(早く逃げないと……)
「ひゃっはぁっ!」
目を瞑ってしまった時、
がきんっ
鈍い音が響いた。
「ひぃあ!」
高瀬が、驚いた様子で、後退する。
もう一斬、
がきんっ
彼方の目にも見えた、円盤状の輝く刃。
「ビームブーメラン、だと!」
忌々しそうに、更に後退する高瀬。
「貴様……」
高瀬は、驚きの色を隠さずに、それでもありったけの警戒の視線で、前方を睨みつけた。
「あ……」
月の明かりの下の少女……。
御月七色その人だった。
先程見送った時と何ら変わらない学園の制服姿、それから日常離れした、両の手に握られた二つの剣。
剣の鈍い光沢が、輝く。
「お客様は、お呼びではないんだが。お前、何なんだよ」
七色は、ゆっくりと歩を進めた。月光のせいなのか、飄々さが加速されているように、彼方には感じられた。
「私は、“月詠みの巫女”」
双剣が、かしゃりと僅かに音を立てた。
「この世界の理の外たる“燐”を狩る者」
宣告するような七色の声は、澱みなく、そして澄んでいた。
「この世界が斯く在るための理を祈る、それが巫女の務め」
「そして、この僕、“燐”は、その理を脅かすものという訳か。わかりやすい構図じゃないか」
少し口調を改めた高瀬は、苦笑した。
「成る程。我ら“燐”最大の天敵にして贄、始原の爛光、か」
続けて、
「是非もない。貴様の名とその身、喰らってくれるわ」
「無理な相談、です」
少女は、言い放った。
「朝川さん。少し退がって下さい」
「あ、ああ」
軽く頷くのが、精一杯だった。
ふっいう囁きのような声とともに、七色の右の剣が振られる。
「ディヴァイン・エッジ」
素早く両腕を左右に展開した、その次の瞬間には、前方で交差される番いの剣は、赤の円刃を放っていた。
「ちぃっ」
高瀬は、くっと身を反らし、やり過ごす。
「があああっ」
吼えた高瀬は、七色に向かっていった。
七色が跳び、高瀬の拳を避けた後のコンクリートの地面は、罅割れて、細かい破片が、巻き上がって視界を隠した。
「僕がこの力に気付いた時、大いに歓喜したよ」
「貴方が星にかけた願いは、暴力、という訳ですか」
「世界が変わった、と言うべきかな。手始めに、僕を苛めてくれていた奴らには痛い目をみてもらったよ」
高瀬が振るった手の動きに合わせて、風が巻き起こり、七色に向かっていった。
七色は、素早く両腕を左右に展開したが、
「同じ手は喰わないよ!」
七色の放った円刃を、高瀬は左に大きく避けて、攻めに転じ、そのまま七色の元に奔り込んだ。
「これで!終わりぃっ!」
けたけた笑いながら、振り下ろされる一撃。
「終わるのは、貴方です」
七色は、しなやかに身体を反らし、凶撃をかわす。
「ひやぁっはーっ!」
刹那。二人の影が、交錯する。
勝負は、決していた。
七色の一閃が、高瀬を袈裟懸けにしていた。
「な、何だよ、これ」
高瀬の身体が、イチョウを思わせる黄金色に輝き始めて、まず右手が一層眩い光を帯びて、透明になったように、はらはらと夜の闇に溶け込んでいく。
「僕が、消えて、いってるのか?」
高瀬がみせた驚愕と戸惑いの表情を包み込む、言うならば、星の光。
(……あ……)
既視感。
捉えようのない感覚に、彼方は、
(前に、何処かで、この光を、僕は……)
「嫌だ……消えたくな……い……」
高瀬は、七色に向かって、光に焼かれながら、ふらふらと一歩一歩進んでいって、
「僕は……!僕はっ……!」
言い終わらない内に、高瀬の身体がばっと燃え上がり、黄金色の残滓が弾け飛んだ。
その欠片が、白い光となって、霧散した。
「空は、詠う。安らかなる安息を……もう眠って下さい……」


「……御免なさい」
「え?」
「朝川さんを……巻き込んでしまいました……」
「そんな……」
そんな返事しかできなかった。
「その……」
「自分でも、こんなに落ち着いているのが、不思議なくらいだよ」
満天の星空。
数多の星々の光。
「人の願いは、星に届きます。それが、どのようなものでさえも」
空を見上げた七色が、言った。
「星は、強い祈りを、成就させる」
彼方に向き直った七色は、
「それが、“燐”です」
そう、と彼方は頷いた。
経験の外の経験。恐らくは、普通の日常から逸脱した出来事に、自分は遭遇してしまったのだ、と彼方は思った。
聞きたいこと知りたいことは、沢山あった。
それでも、先程までの非日常を受け入れてしまっている感覚に、彼方は、戸惑っていた。その原因をつくっているのが、目の前の少女だということも、良くわかってしまっていた。
「その、御月さんは、優しいなってことは、わかった」
「え……」
「あの人も、悪い気持ちに駆られて、そのままつっ走っちゃって」
七色は、黙っていた。
「それでも、心のどこかで、誰かに止めてもらいたくて、そんな空回り……僕には、そんなふうに思えた」
少しの沈黙。
「御月さんの顔をみていたら、そんなふうに感じられて」
心なしか、七色の口元が、僅かに動いたように、そんなふうに思えた。
「はは。少し大袈裟か……」
彼方のぎこちない微笑みに、僅かに七色の瞳が揺れ動いたようにみえたのが、気のせいなのかどうか、彼方にはわからなかった。
「そうだ」
思い出したように、彼方は、言った。
「忘れ物だよ」
「……あ」
彼方は、七色にマフラーを巻いた。
今はこれだけで十分だと、彼方にはそう思えた。
「怪我は、ありませんか?」
「ないよ。大丈夫」
「でも、顔に……」
「逆だったんだ」
彼方は、向き直って、間近にある七色の顔を見た。
二人の距離は、とても近くて、髪が揺れて、花の匂いがして、七色の吐息が、彼方に触れた。
七色は、黙っていて、彼方の次の言を待っていた。
「御月さんのこと見てて、自分で出来ることは自分でしようって、そう思ったんだ」
「……」
「そう、ですか」
短くそう言った七色は、柔らかく微笑んでいた。
月の下で。
はじめて見せた七色の姿に、彼方は、ただ、綺麗だと、素直にそう思った。