BACK ♦♦ヨルダンの世界遺産を訪ねて♦♦
  現地ガイドと搭乗員を含め、13名を乗せた大型バスは土漠地帯を縦断する幹線道路(キングスハイウェイ)を降りてから、ペトラ近くのホテルに宿をとった。今日は朝から快晴、終日≪隊商都市ペトラ≫の見学である。ペトラは紀元前2世紀頃から後1世紀にかけて繁栄したナバテア人の都である。ナバテア人は紀元前6世紀頃からこのあたりに住み始めた遊牧民族で、アラビア半島の南『サウジアラビアやイエメン辺り』から移住して来た人々だという。

  西暦106年にローマ帝国の支配下に入り、その後ビザンチン時代になると、イスラム人の進入により衰退していった。1812年にスイス人のジョン・ブルックハルトがこのペトラを発見した時は、洞窟の中でまだべドウィン族が暮らしていたとか。

  このペトラに入るには、シーク渓谷(両側100mの絶壁。幅5~10m、全長1500m)を通るしかない。ここは外部からわからなくなっている、まさに天然の要塞を実感できるところである。太陽の光がところどころしか届かない薄くらい渓谷を30分程歩いてシーク渓谷を抜けると、突然目の前にカズネ・ファルウン(ファラオの宝物庫)が現われた。まるで古代ギリシアやローマの建築物が赤岩に刻み込まれたようだ。

  ここは映画「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」のロケ地なった場所でもある。映画である程度の予想はしていたが、目のあたりにしたカズネ・ファルウンは余りにも大きく、赤茶けた神秘的な建造物である。これが固い岩に人の手によってコツコツと簡単な道具で造られたと思うと、驚くばかりである。

● カズネ・ファルウン
  高さ40m×幅30mの大きさで赤岩に彫られた建造物。アラビア語で『宝物殿』の意味。BC25年ナバテヤ王のアレス4世が建造したという。『宝物殿』と言うのはべドウィン族の呼び名で、その他に『神殿説』、『葬祭殿説』、『迎賓館説』などがある。当初、内部は2層だと思われていたが、2004年に大雨があり、大量の水が中に流れ込んだことから、地下が3層になっていることがわかったという。

  上部の中央に壊れたツボが見える。これはベドウィン族がこの中に宝物が入っていると思い込み、銃で撃って破壊してみたが、中には何もなかったという。

  しばらく歩いて行くと、今度は岩山の麓に舞台のような一段と高いところがあり、これに向かって45段の段差をつけた座席が並んでいる。約6000人が入れそうな広さの円形劇場の跡だ。紀元前1世紀ごろナバテリア人によって、岩をくりぬいて建設された円形劇場だというから驚きである。ここで当時の人々が、日常の仕事から解放され、演劇を楽しんだ場所だという。

  【王家の墓】、【列柱通り】、【凱旋門】、【ライオンの墓】と次々と遺跡が展開する。道は安全を考えたのであろうか、駱駝が通る道と、人が歩く道は段差などが設けられて区分されている。道は歩きにくくなっているが、造られた当時は平らな敷石あったという。長年の風化により敷石に差が生まれて、凸凹になって残っているのだとガイドの説明である。

  奥地にあるエッ・デイル(修道院)まで14~15キロの長い山道が続く。駱駝やロバ乗り物屋がわれらを目当てにやってくる。中でもロバを連れた子供が2ドルの運賃で乗らないかと勧誘に来ると、気持ちがゆれ動いた。しかし、ロバの足が短いためか歩くときの振動が腰にきて痛い思いを体験したことがあり断念した。

  幸いガイドのMr.サリーがロバに乗って行くことになったのでホットした。ガイドさん!お疲れになったのでしょうと、話かけると疲れてはいないが、たまには子供にもお金を廻してあげないと返事が返ってきた。体重60キロ近いガイドを乗せロバはゆっくりと子供ともに山道を登って行った。

●エッ・デイル(修道院)
高さ40m、幅46mの大きさで岩をくりぬいて造られている。エッ・デイルは修道院の意味。紀元前1世紀にナバテリア人がドジャラ神を祭った場所だという。ビザンチン時代には実際に修道院として使われていたという。
              
≪次ページに続く≫

≪ワデイ・ラム≫古来の言葉で「高い山」を意味
ヨルダンの国旗ヨルダン・ハシェミット王国国旗 ★ヨルダンの首都アンマンからアカバへ向かう重要な幹線道路(キングスハイウェイ)を南下し、チェックポイントで見た土漠地帯 ≪ワデイ・ラム≫
★途中砂漠の真ん中にあるCaptains Desert Camp のレストラン入口にて
★土漠にかすかな草を求めて、羊を追う遊牧民をはるか遠方に見る

●世界遺産 隊商都市ペトラ 文化遺産/1985登録
ヨルダンの面積は8.9万平方キロ(日本の約1/4倍)で、人口は約535万人が住む。主な輸出品は燐鉱石、カリ、科学肥料などがある。
世界遺産は2件あり、下記のとおり、すべて2件を訪ねた。

●隊商都市ペトラ
文化遺産/1985年登録
隊商都市ペトラは広大な面積である。(30kx30k=900m2)1世紀初頭に3万人が生活した街、発掘された遺跡も約700余りあるという。
これを一日で主なものを見たわけであるが、遺跡まわりは本当に体力を要するものである。

★光も射し込まないシークと呼ばれる断崖絶壁に囲まれた深い谷間を歩いて行くと、岩の裂け目のような隙間から突然、≪カズネ・ファルウン≫がかすかに見えて来た。
★歩いて行くとだんだん大きくなる。まるで映画インディジョーンズのラストシーンさながらの展開
★≪カズネ・ファルウン≫は「ファラオの宝物庫」の意味で、
高さ約30mの2層構造で間口は約25m
★子供が連れたロバ(1回が2ドルの料金)
★こちらはラクダで2~3人が乗れる
★≪ エッ・デイル:≫(修道院)
高さ40m、幅46mの大きさで岩をくりぬいて造られている。エッ・デイルは修道院の意味。紀元前1世紀にナバテリア人がドジャラ神を祭った場所だという。ビザンチン時代には実際に修道院として使われていたという

≪前ページより≫

  死海を出発したバスは1時間半程走ると砂漠の中のクセイル・アラム『小さな宮殿』に到着した。石で積み上げらたれ建物は以外と小さい。櫓を組んだ井戸があったので、中を覗き込んで見ると、深さ5mの地底には水は確認できなかった。当時、カリフ(王)一行が到着すると、井戸には水が溜まっており、連れてきたロバの動力で水を汲み上げ、サウナ風呂で旅の疲れを癒すことが出来たのだが。この水枯れも地球温暖化で水位が下がったためなのであろうか。

  小さな宮殿の入り口には守衛が一人、のんびりとわれわれの到着を待っていた。この砂漠まで足を伸ばす観光客も少ないのであろう。中に入ると、壁の至る所に裸体画や動物が戯れている絵がある。イスラム教の世界では偶像崇拝が禁止されており、しかも裸体画などはとんでもない話のはずだが。

  カリフ(ワリード王1世)は厳しい戒律や、煩わしい政務などからストレスを解消するために、遠く城を離れた砂漠(駱駝の足で数日間かかる距離という)で、人目を避けながら、極秘に生活を楽しんでいたようだ。このようにシリア砂漠には大小さまざまな宮殿が、征服した土地の監視や、遊牧民の生活体験などを目的に30ヶ所程が建設されていたという。
  この宮殿は特に保存状態が良く、また宮殿の【謁見の間】などにはフレスコ画が見られるなど、イスラム文化では珍しいことなどからから世界遺産に登録されたという


●世界遺産 砂漠の宮殿クセイル・アムラ文化遺産/1985年登録
●砂漠の宮殿クセイル・アムラ
文化遺産/1985年登録


クセイル・アラムは『小さな宮殿』という意味の建物。8世紀のウマイヤ朝時代に、ワリード1世が砂漠の真ん中に立てた別荘みたいなもの。
★宮殿の全景で意外と小さい建物
★レセプション ホールの絵
★裸婦像

 
  
●この死海文書の写真が撮れたのは【柿のタネ】のおかげ?

 死海文書はこの考古博物館の最重要品としてガラスの容器で厳重に展示されている。傍には守衛がいて当然のことながら【撮影は厳禁】となっている。
 人間は撮影が厳禁であれば、あるほど心理的に写真を撮りたい衝動に駆られるものもの?である。いろいろな質問に彼は丁寧に説明をしてくれたので、お礼にと思い幸い持っていた【柿のタネとピーナッツ】のお菓子袋を2個、これが日本の典型的なお酒のつまみであると差し上げた。
 すると近くにいたボスの手にまで渡ってしまい珍しそうに、部屋の片隅で食べ始めたのでる。
  しばらくして写真撮影の許可を依頼したわけではないが、以心伝心か、ボスがわたしの肩をぽんぽんと肩を叩くではないか、写真撮影OKの合図である。ついでに他の写真もOKになるなど、愉快な忘れられない博物館となった。
★考古博物館では何と言っても目玉はこれ≪死海文書≫!!旧約聖書の写本。
★1946年から47年かけてのある冬の日、死海の北西岸のクムラン谷でベドウィンの少年によって岩の間から偶然に発見された。壺に入っていたとか。ここにあるものは銅の巻物と、羊皮紙に書かれたもの紀元前1世紀頃のもので、世紀最大の発見と言われ、これには途方もない高い値段が付けられたという。
 ≪ジェラシュの遺跡≫世界遺産にあらず ◆
  ヨルダンの首都アンマンを出発した大型バスは土漠地帯を縦断する幹線道路(キングスハイウエイ)を北に向かった。途中、ペトラに次ぐといわれる「ジュラシュの遺跡」に立ち寄った。ローマ時代に建てられたアルテミス神殿、ゼウス神殿や円形のローマ式劇場などがあり、規模の大きさには驚くばかりであった。何故、世界遺産に登録されていないのか不思議くらいである。 
● ジェラシュの遺跡
ジェラシュの遺跡BC10C頃から人が住んでいたと言われる。紀元2世紀のギリシャ時代、アレキサンダー大王の武将によって『アンダーキワいう名の町として建設される。ローマ時代には、『ザラサ』と呼ばれ、『黄金の川』の意。ローマのギリシャ都市連合“デカポリス”の一つになった。ビザンチン時代に教会が建てられたが749年の地震で崩壊した。1806年にドイツ人考古学者に発見されるまで、忘れられていたという。
★広大遺跡の全景
★劇場で3000人を収容できる
★ゼウス神殿 高さ15mのコリント式円柱が縦12本、横8本立つ
◆シリアの世界遺産を訪ねて◆へ続く