BACK ♦♦失われた未来を訪ねて♦♦その1
  成田から直行便により、約13時間でメキシコ・シティに着く。ここは海抜約2240mにある大きな盆地で、70kmの南東には、メキシコの最高峰ポポテカペトル山(5416m)が望める。真夏でも日によってはスコールがあるものの、日本の5月を思わせるような快適な気候である。 
  
  この程、メキシコにあるアステカとマヤを代表する世界遺産6ヶ所を観て廻った。メキシコは広大な197万平方キロの面積(日本の約5.3倍)に、人口1億420万人が住んでいる。2010年8月現在、ユネスコに世界遺産として29ヶ所が登録されている。
  
  中南米には三大文明としてアステカ文明、マヤ文明、インカ文明がある。これらは、いわゆる世界の4大文明(エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明)が河の流域で水の恩恵を受けて発展してきた文明とは違って、河のない森林地帯にセノーテ(自然の泉)やアンデス山脈に生まれ、独自に発展してきたものである。これがある日、忽然と失われた謎の多い文明である。中南米は世界遺産の宝庫といってよいであろう。

世界遺産「メキシコ・シティの歴史地区とソチミルコ」 文化遺産/1987登録
写真左から
1)「大聖堂」1813年完成した新大陸最古のもの。
  高さ62m、幅54m、奥行き117mと巨大
2)「大聖堂」の正面

3)「国立宮殿」1692年火災で焼失し、再建
  内部には1929~35年にディエゴ・リベラ
  の描いた壁画「メキシコの歴史」が有名

  最初に訪れた
「世界遺産「メキシコ・シティの歴史地区とソチミルコ」の中心をなしたのはアステカ文明である。伝説によるとテスココ湖畔を100年にわたり放浪したアステカ族が、1345年、湖上の島に首都テノティトラン(現在のメキシコ・シティ)を築き、その後、メキシコ中部からグアテマラの海岸部まで勢力を拡大し、14~16世紀までアステカ王国(モクテスマ)として栄えたところ。
  
  神話によると太陽は天空を動かすために、そのエネルギーとなる血を必要としていたという。そのため毎年、多くの捕虜が生贄(いけにえ)としてささげられ、1487年には、大神殿の増築を祝って、4日間で数千人の生贄(いけにえ)の記録が残っている。
  
  1519年のスペイン(コルテス)のメキシコ征服は、歴史と伝説がぶつかり合った驚嘆すべき出来事であった。その年の2月、コルテスの率いる一握りの兵士たちがユカタン半島に上陸した。一方、ここに住むメシカ族(アステカ王モクテスマ)にとって、1519年は彼らの暦の上で、はるか昔に東方の謎の国に旅立った「ケツアルコアトル神」が再び戻ってくる年に相当していたのである。奇しくも、羽毛の蛇(Plumed serpent)が旅立った東の方から、眉が白く、髪を生し、鉄を身にまとった不思議な人々がやってきたのである。
  
  彼らは、それまでに見たことのない動物を乗り回していたのである。この者たちこそ、神々ではないだろうか。アステカ王モクテスマは、そのように考えたのである。この悲劇的な取り違えが発端となって、対立する文化が激突し、1521年、わずか500人程のスペイン兵を連れたエルナン・コルテスによって、首都は陥落し、アステカ帝国は滅亡したのである。

  スペイン人征服者がはじめて足を踏み入れたとき、首都テノティトラン(現在のメキシコ・シティ)は、その荘厳・壮麗さに驚いたといわれるほどの見事な都市だったという。しかしスペイン人たちはその勝利を誇示するかのように、首都テノティトランを破壊し、わずか2年後には、コルテス自身の宮廷をアステカ王の宮殿跡に、1525年には大聖堂(写真)をアステカ王の宮殿跡に建てた。

  現在2,000万人が住むメキシコの首都・メキシコ・シティは作り変えられ、往時の面影を残すものといえば、幾つもの神殿が立ち並んでいた大神殿テンプロ・マヨール遺跡のほか、わずかである。

※付記:
ソチミウコとはアステカ帝国時代にチナンバという独特の農耕技術で作られた水郷地帯の地名。チナンバとは沼地に水草を敷き、その上に栄養分豊かな湖底の土を盛って畑をつくり、主食のトウモロコシ、マメを栽培。
 
世界遺産「テオティワカンの古代都市」 文化遺産/1987登録
     テオティワカン略地図 下の写真左から説明 
1)「ケツァルパパロトル宮殿」を中心に点在する住居跡、壁の形成、化粧漆喰(しっくい)で赤、緑、白など顔料が使われている。

2)「月のピラミッド」基底部150mX140mの頂上(46m)から、南北に走る「死者の大通り」の沿に左遠方に 「太陽のピラミッド」を撮る。

3「太陽のピラミッド」)西暦350年ごろ建造。基底部222mX225m、高さ63m 正面から撮る。
 世界遺産「テオティワカンの古代都市」はメキシコ・シティの郊外の北東約50キロにある巨大都市遺跡である。紀元前2世紀ごろ、「テオティワカン」と呼ばれる都市が興った。宗教の中心であったこの都市には、その後200年ほどの間に、ピラミッドが次々と建造された。最盛期を迎えた5世紀には、推定15万人の人口を擁する、アメリカ大陸最大の都市になっていた。宗教の中心として栄えるばかりではなく、軍事的にも強大になり、東のマヤ地域にも進出し、各地に強い影響力を及ぼした。

  しかし、7世紀前半に都市は突然に放棄され、ピラミッドは何者かによって破壊された。北方の民族に侵略されたという説もあるが、原因は謎のままだ。

  都市崩壊から数百年後の14世紀、ここを訪れたアステカ族は、この地に神々が集まって太陽や月を生み出した聖地と考え、「神々が集う場所」を意味するテオティワカンと名づけ、巡礼地として利用した。遺跡の中心部を南北4キロにわたって貫く「死者の大通り」がある。

  この大通りは北から約15度3分東に偏った方向に作られ、その沿道に沿い多くの神殿や宮殿が並んでいる。代表的なものとして「ケツァルパパロトル宮殿」、「月のピラミッド」、「太陽のピラミッド」、「ケツァルコアトルの神殿」などがある。

  概略図にある「ケツァルパパロトル宮殿」から見学がはじまり、宮殿や住居跡、貯水池、下水道、台形や長方形の壁の組み合わせなど、典型的なテオティワカンの建築様式の説明があった。建物の色は変色して灰色また黒ずんでいるが、当時は化粧漆喰(しっくい)を使い、動物やシンボルなどが、緑、赤、白などの顔料で描かれ色鮮やかに残っている。特に赤は血の色として神聖視され、赤く塗られたピラミッドが、緑のジャングルの中に立っていたのである。

  今、私たちは危険防止の鎖を利用すれば、誰でも「月のピラミッド」と「太陽のピラミッド」に登ることができる。しかし当時の一般のアステカ人にはこれが許されず、神殿まで登ることができた者は「神への生贄」をつかさどる神官や王のみであったという。両方のピラミッドの高さ46mと63mから見た景色は、周りに比較する高い建物がないためか、一段と高いに所にいるような感じがする。

  眼下に古代都市テオティワカンが南北5キロにわたる「死者の大通り」の沿道沿いに大きく広がっている。うっそうとした緑のジャングルの中に都市国家が生まれ、発展し、どうして忽然と消えてしまったのだろうか、古代に想いをはせていると、時間の立つのも忘れてしまった。
 補足説明:
「月のピラミッド」、「太陽のピラミッド」とも、こう配は43.5度でエジプトのジョセル王の階段式ミラミッドと同じこう配43.5度という。また「太陽のピラミッド」の基底部が225m、キザのクフ王のピラミッドの基底部は230mとほぼ同じ大きさである。

写真左から
世界遺産
1)「プエブラとチョルラの歴史地区」
1919年、チョルラはメキシコ人によって、先住民6000人が虐殺され町は破壊され、衰退した。巨大ピラミッドが跡だけがかっての繁栄を偲ばせる。紀元5~8世紀に建造の高さ54m。
基底部の一辺350m、世界最大級。ケツァコアルト神を祀る。
世界遺産:
2)「メキシコ国立大学シティー・キャンパス」
  大学の校舎の壁に描かれた巨大壁画
紀行文(その1)で訪れた世界遺産一覧表
「メキシコ・シティの歴史地区とソチミルコ」    文化遺産/1987年登録
「テオティワカンの古代都市」              文化遺産/1987年登録
「プエブラとチョルラの歴史地区」           文化遺産/1987年登録
「メキシコ国立大学シティー・キャンパス」     文化遺産/2007年登録