小雨の降るダマスカス旧市街(世界遺産)の観光を終えたバスは市の北東約230k離れたシリア砂漠の真ん中にあるパルミラに向かった。砂漠の高地を過ぎるころには夕暮れとなり、雨は雪に変わっていた。3月下旬、赤い砂漠が白くなるとは驚いた。
昨夜の天気も朝から快晴となる。青い空に禿げたすり鉢型の山をした頂に城がそびえているのが目に入る。麓には城壁に囲まれただけでも10km2の面積もあろうか、パルミラの広大な遺跡が広がっている。パルミラ人も闊歩したであろう石の道路を行くと、崩れた四角い塔が姿をあらわす。
ここは墓地で「死者の谷」と呼ばれ、パルミラ時代では再生の意味から最も大切にされていたところだという。自分はとうとう古代にタイムスリップさせられてしまった。我を忘れ急いで狭い谷を抜けると、ゆるやかな斜面の手前から天を突き刺すような、廃墟が広がっている。
列柱道路が切れ切れに連なり、遠方の奥にはぽつんと記念門のアーチが見える。遠景の中央にはどっしりと立つのが、バビロニアの方言で「あるじ」を意味する太陽神ベルの大神殿だ。まったく圧倒されてしまった。 西暦269年、女王ゼノビアの活躍で、パルミラの領土はユーフラテス川から、エジプトまで広がり、東西交易のすべてを押さえる一大帝国にまで発展した。しかし帝国はその果実を十分味わう暇もなく、アウレリアヌス帝(在位270~275)の反撃のため一挙に滅亡の淵に沈んでしまい、二度と世界史に登場することはなかった。
その急変ぶりはあまりにも劇的というほかない。女王ゼノビアの思いが残るからこそ、廃墟は限りなく魅力的であった。「その美においては祖先と信じたクレオパトラに劣らず、貞節と勇気においては、かの女王をはるかにしのいだ」と大著『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボン 言葉である
|