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3月某日、現地ガイドと搭乗員を含め、計13名を乗せた大型バスはシリアの地中海に面した第一の港町、ラタキアを出発した。ラタキアはBC1000年頃から、フェニチア人が地中海貿易の港として使っていた町で、その後アレキサンダー大王の死後、セレウコスが母親の名にちなんで「ラタキア」と名付けられて発展、ローマ時代にはシリアの首都になったこともある歴史的な古い町である。バスは地中海を右側の車窓に見ながら、土漠地帯を縦断する幹線道路(キングスハイウェイ)を南下した。 目指す城、「クラック・デ・シュヴァリエ(写真)」はトリポリの東に位置し、高さ650m程の峰にあった。見晴らし台の近くにあるレストランから、城全体を見渡すことが出来る。さすがにアラビアのロレンス(イギリスの軍人でオスマン帝国に対するアラブの反乱を支援)が世界で最もすばらしい城だともらした存在感がある城である。
城は1142年~1271年にかけて、エルサレム・聖ヨハネ救護士修道会により築城され、アレッポの王、イスラムの英雄サラディンでさえも、占領することが出来ない程、堅固なものであったという。その後、1271年エジプトの王バイバルレスが城壁に穴をあけて突入に成功、守っていた十字軍を降伏させた歴史的なものである。1936年から、フランスとシリアによる修復作業を経て現在に至っている。
城の中の馬小屋は200頭が入れる広さ、外壁と内壁の間に深い堀、東西の護衛塔、食糧貯蔵庫、兵舎、12世紀の礼拝堂などがあり、十字軍時代の広大な城郭として最も保存状態がよいといわれている。
しかし、この十字軍の話になると、ヨーロッパ側とアラブ側の叙述には共通するところが殆どないという。ヨーロッパ人は自分たちの立場から書くし、アラブ側も自分たちの立場から書くからだ。これまで出版された十字軍関係の史書、あるいは物語はおびただしい数になるが、その多くは西洋人が書いたものである。つまり戦争を仕掛けた方からのものばかりで、日本にでている本もこの西洋史観に多分「毒されている」ようだ。
アラブの著名なジャーナリストがフランス語で書いた「アラブが見た十字軍」によれば、題名、まえがき、総括的な終章を除いて「Crusader」十字軍なる語はどこにも見当たらない。例えば一般の史書に必ず出てくる「法王ウルバヌス二世の第一回十字軍宣布」とか、「キリスト精神の高揚」などはアラブには全くない。十字軍に代わる用語は、当時の西洋人の代名詞であったフランク、次いで侵略者、不信心者、もしくは蛮族、時には人食い人種となっている。
当時の文化水準からみれば、侵略されたアラブ世界の方がはるかに高い文明社会を維持していたからだ。西洋の史料でも「十字軍」なる用語が登場するのは、2百年にわたる歴史の末期二、三十年來のことにすぎないのである。「ヨーロッパ」なることばも出てこない、アラブと十字軍との戦いはヨーロッパ成立以前の出来事であったからである。 |
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クラック・デ・シュヴァリエ |
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次に訪れたサラディン城は同じ世界遺産でありながら、クラック・デ・シュヴァリエから95Kmも離れている。ラタキアの北東35Kmのアンサリエ山脈の山中にあり、谷に囲まれた要塞になっている。海抜400m程の峰にある城からは平野がすべて見渡せるため、紀元前10世紀からフェニチア人が要塞化したのだという。その後十字軍が更に巨大な要塞を築いていた。
この城を1187年、サラディンに卒いられた軍が東側から囲み、一方、アレッポから駆けつけたサラディンの子息の部隊が北方に陣を敷いた。城壁を強力な投石機を使って、城内に突入すると、十字軍はたったの2日間で降伏してしまった。この城をサラディンが僅か2日で陥落させたことから、これを記念してサラディン城名付けられたという。
同じ1187年には十字軍の休戦協定違反を機にサラディンはエルサレムへ侵攻、ハッティンの戦いで十字軍に勝利し、1187年エレサレムの奪還を果たしている。 この2年後、アラブ側はイギリスのリチャード1世を中心にフランスも加わった「第3回十字軍」の反撃を受けたが、アッコンの戦いでは苦戦を強いられるが耐え抜き、1192年に休戦協定を結ぶまでこぎつけた。
かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は、あるいは第3回十字軍を指揮したイギリスのリチャード1世は捕虜を皆殺しにした。しかし、サラディンは敵の捕虜を全員助けている。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残している。また当時のイスラム君主として少年を愛したことでも知られている。また病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵にたいしても懐の深さも見せている。
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カラット・サラーフ・アッディーン(サラディン城) |
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