人生雑感(その5)

クリスマスと並んで、或いは、それ以上に重要な、世界的規模で祝われるキリスト教の祝日といえば、イースター即ち、復活祭である。イエス・キリストの復活を記念するお祭りである。直前の一週間を受難週と呼ぶが、キリストの受難を偲ぶ週である。クライマックスは、現代の暦ふうに言うと、木曜日が最後の晩餐、その夜から金曜日にかけての三箇所での人間たちの裁判と六時間に及ぶ十字架上の処刑・埋葬、そして、三日目、即ち日曜日の朝、死を打ち破って復活せるイエス。この辺の史実はクリスチャンでなくとも周知のことなので改めて記すまでもないのだが、この一週間の出来事に関して、歴史上現在までに、恐らく何万ページにも及ぶ膨大な記述がなされているだろうし、今なお途絶えることがない。それほどまでに、この数日間に人間の関心が集中している事件は、史上存在しないだろうと思う。

十字架刑という残酷な刑罰は極悪犯罪者に対する当時のローマの例外的な極刑である。ユダヤ教徒の宗教的な恨みをかったイエスは、預言のシナリオ通り、ローマ法下で十字架に架かる。つまり、人からも神からも文字通り見捨てられ、“のろわれた”者となる。神の子イエスが神自身からも見捨てられた。そんなことがあり得るかと大概は訝る。なぜ神であり人であり、各地で異常なパワーを見せ付けた方が、無残な負け犬の姿で極悪人としてぶらさがっているのか。「奇跡の主よ降りてみよ、さすれば信ずるよ。」とユダヤ人もイエスの足元で大いに嗤ったと聖書には書いてある。十字架上のイエスの言葉のひとつに、父(神)よ、彼らをお赦しください。彼らはなにをしているのか自分で判らないのです(救いは)完了したという鍵の発言がある。 以前に少し触れたが、すべての人は神の前に”罪びと“であり、死を宣告されている者である。創造主なる神は、本来の存在理由から大きく逸脱して神に背を向けて歩む、のろわれた、そして死すべき人類の一人ひとりを救うため、換言すれば、永遠に生かすため、み子イエスに身代わりとして罪の代価たる死を受けさせた。つまり、罪の結果払うべき一人ひとりの死(永遠の滅びのこと)をイエスに肩代わりさせた。ここに神の愛が表されている、というのがご存知キリスト教の核心である。愛というは、薄っぺらな通俗的な概念でなく、自己犠牲的愛である。この摂理を信じる者をクリスチャンという。 キリストの磔刑は罪を贖う(あがなう)、即ち、罪の代価を払う、買い戻すことで、贖罪(しょくざい)という表現をする。専門用語だが覚えておいて損はない。

この十字架の贖いというのは一方的に神の側より出た行為で、「恵み」であると受け止める。恵みというのは受け取る価値が自分の方にないにも拘らず提供されることである。贖罪とは、罪が赦されて自分の本質である魂が永遠の生命を回復するということである。然しながら、ただ、贖罪が完了したというだけでは、実のところ”永遠のいのち”を展望しにくい。確証が持てない。昔から、我こそは救世主なりと立派な夢の話を語りながらも、自らは墓に朽ち果てた聖人が結構多い。単なるひとに過ぎなかったということ。神はキリストを復活させることで、キリスト・イエスの神性を立証し、同時に永遠のいのちの確かさを明らかにされた。この奇跡が復活という大事件であり、文頭のイースターはこれを祝う世界的行事なのである。天地万物の創造者であり保持者たる神が、その大能をもって、役目を終えた神のみ子を甦らせたのである。この事件がなければ、キリスト教も哲学のひとつに過ぎない。はっきり言って信仰するほどのことはない。キリストは復活して今日も生きているとの確信に基づき、ともかく、どうなのかを真剣に探求する必要があると考えます。

聖書の登場人物のひとりにパウロという有名な使徒がいます。彼も生涯を賭けてイエスの復活を宣教しました。最初は、クリスチャン達の「悔い改めて、復活した救い主イエスを信ぜよ」との伝道に、一流の宗教家を自負する彼は強硬に反対し、むしろ激しい怒りに燃えて迫害者と化します。彼の転機は、復活のイエスに直接出会うところから起こります。パウロにとっては、復活の事実体験がなければ、十字架上の贖罪思想も単なるきれいごとのひとつに過ぎなかった。即ち復活が信仰そのものの鍵であり土台となっています。しかも聖書に精通していた彼は、この事実が預言の内容に一致することを悟って、益々確信を深めるわけです。一方、当時も今日もそうですが、一般には逆で、この復活がしばしば信仰のネックになっています。復活の話をするから信じられないというケースが、原始教会時代から既にあります。例えば晩年のパウロの説教(使徒行伝22章・26章など)でもみられます。イエスの復活のところまで話が来ると、エルサレムの群集は”殺してしまえ”と大騒ぎをしますし、聖書に精通していると自認する為政者アグリッパ王もパウロの博学が彼を狂気にしたと決め付けます。アテネを訪れたときも、イエスの復活の話の場面まで来ると、哲学者たちは嘲笑し、彼を退けます。
現代人もあまり変わりません。仮に聖書の記述が何百年も経ってからのものであれば内容も眉唾ものと考えて仕方ないでしょう。 今年は終戦後六十年になります。多くの戦争史が書かれていますが、仮に戦中戦後の記録がでたらめであれば、生存する証人が今でも多くいますから、とても受け入れられませんし、後代に残りません。同様に、福音書を始め新約聖書の全巻は、いづれもキリスト昇天後このくらいの期間内に完成し、多くの写本も当時の世界各地に出回り読まれています。これまで史上多くの懐疑主義者たちが、聖書の粉砕を目指して挑戦しました。粉砕するどころか、逆にこれを真理だとして兜を脱いだ人たちはあっても未だに揺らがない書物として厳然と存在しつづけています。(聖書の話は後日にします)

今日、求道者や自称クリスチャンの中にさえも、大宇宙を手中に統治する創造主が、イエスを復活させる程度のパワーの発揮を信じられないで、むしろちっぽけな人間常識の範囲内の神とその言動を期待する向きが結構多いのはどうしたことかと思います。或いは、ものも言わぬ偶像にです。 対象はもっと大きく、本物にねらいを定めていきたいものです。キリストの復活なければ、今日のキリスト教は存在しない。これは確かなことなのです

ついでに、同じ唯一・まことの神を直接信仰する群れは世界中に多いが、神と人との仲介者としてのキリストの犠牲と復活への信仰を欠いては神の許には至れないとするのがクリスチャンである。キリスト自身も「わたしを通してでなければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはありません」と云われた。見えない神を一度だけ史上に現した。それがキリストなるイエスです。  
See you soon.