人生雑感(その4)
 

ある人は、キリスト教といえば、罪、罪とよく口にするので辟易すると云う。確かに私たち日本人にとっては、犯罪者でもない限り、罪びとといわれていい気はしない。これは、概ねキリスト教でいう「罪」を誤解しているせいである。そもそも刑法上の犯罪とは別物で、一応「原罪」と称して区別はしているが分かりにくい。外国語ではその点、英仏独語などいずれも全く別の単語が当ててあるので違いを学び易い。絶対者であり創造者である聖なる神の前になにびとも正しくはない、即ち、罪びとであると説明を聞いても実感としてピンと来ないのが一般日本人である。われわれは、恥の文化といわれる如く、他人との相対的な関係重視の中で生涯を送る性癖があり、絶対者と自分との関係という縦軸での自己吟味にはなんとなく疎い民族のようだ。罪の認識、罪の文化等には親子代々縁遠い。或いは一歩退いて、わかっているという人も、人間とはそういう者だと割り切って片付けて仕舞い勝ちである。

ところが、聖書は、最初から終わりまで、一貫して人類の原罪を指摘し続けて今日に至っている。人類誕生の早い段階から、自ら選択した反創造主的な生き方、ないしは性質といったもの。DNAのどこに隠れているのか知らないが、例外なく全人類が遺伝的に継承している体質といったものでしょう。イエスの言葉の一つに、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」とあるが、これらの例示された行為を生み出してくる根っこの生来的な性質が原罪だと理解すれば判り易い。識別できる形で、思いや行動に具体化する事象は個人差があるが、水面下で根付いて持っている素質はみんな同じ。良心は賛成しないが、からだはいう事を聞かない。これが罪である。換言すると、これはアンチ創造主の生き方を指している。神の聖とか正しさとかの概念の対極にあるどうしようもない汚れである。当然神など認めない、認めたくない人生観を持つ生き方となる。古くから人間は、煩悩といったり、欲望といったり、罪といっては自分のうちに住む小悪魔的性質に気は付いている。思いや行いとして表面化するのは環境が悪いせいではない。それは誘発剤に過ぎない。持って生まれた罪の性質、原罪のせいである。ならば、精一杯したい放題、快楽に身をゆだねて生きるのが最上とするエピクロスのような人から、修行して執着心を絶つことで悟りの境地を説くお釈迦様まで、ひとはいろんな対策を考えてきた。

聖書の主張は少し違う。もう少し本質に迫って、同時に解決を示唆しているように思う。次号に話は続くが、その前に、自分の醜さ、弱さに気付いて、どうでもいいとか、どうこうしようとかを云々する前に、”罪びと”である状態を放置したまま、言い換えると、それは創造主たる神に背を向けた状態で人生を終わることを意味するが、聖書は、その場合に最大級の警報を発していることである。キリスト教的にいえば、罪の解決をつけないままでは、誰もが直面する肉体の死の向うに、第二の死、即ち魂の死、永遠の滅びが待つているという。(”解決”といっても、自力でどうにかすると言うことでは勿論ない)この宣言もまたどう受け止めるか、ひとさまざまであるが、強がらないで耳を傾けてほしい。こういう問題は、人生でそう何度も考えるチャンスに巡り合わないからです。そこで、準備されたバイパスに避ける選択をするかどうか、そうした信仰を持つかどうかの問題はその次でいい。実際のところ、われらの既得知識はほんのわずかなので、嗤っておらずに、願わくば謙虚であって欲しい。自分の内を見てその醜さを直視すると共に、それを罪と明言し、同時に備えられたという救済策をじっくり自分に当てはめてみる。生きている間にです。そんなことを願っています。   次号まで Bye-bye

 

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