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人生雑感(その3)
今年もクリスマスが近づいてきました。欧米、アジア、アフリカの諸国はもとより、回教国でも,共産主義圏でもクリスチャンが存在するので、いわば世界的なスケールでの祝日です。政治・経済面でも実質的に世界的な休日になっている。この日は、大体どの国でも家族単位で気持ちよくお祝いしています。云うまでも無くクリスマスとは、“救世主誕生をお祝いする”の意味だが、お祝いしながらも、併せて商売繁盛にこの機を利用する他国と違って、「なんの日かはお構いなし、儲かれば良し」の日本は、キリスト不在のクリスマス。特異な国であります。メシヤ(メサイア)、キリスト, 救世主 みんな同じ意味の言葉です。神が人類救済のため人間の姿をとってこの世に来られたという意味で、生誕祭というよりは降誕祭と一般にいいます。イエスはキリストであるとの信仰から、イエス・キリストと呼び、また、イエスは神(主)であるとの信仰から、一般に主イエス・キリストとも呼びます。
ところで、イエスは神なのか、それとも一介の開祖(人)であり且つ殉教者に過ぎないのか。キリスト者が「神」と云うとき、それは我々の周りに八百万もあるという所謂“神々”のひとつではなく、天地万物の創造者たる唯一の神を指します。外国語でははっきり分別していて、英語でも、Godと大文字にする。その他もろもろの神々はgodと小文字で表記します。中国でも,天主とか上帝とかで呼ぶそうです。ところで、神話の類ではなく、歴史上に厳然と実在した人物を何を根拠に神であるとか、そうでないとか云々できるのだろうか。探求する人それぞれにアプローチが違うと思いますので、誰かが個人的に方程式を解くというような問題ではありませが、ハッキリしていることは、誰一人として生まれつきの根っからのキリスト信者は居ません。みんな後天的に“イエスはメシアである”と告白してそうなった人達です。老若男女、皮膚の色に関係なく、職業や地位にも、また富の有無にも無関係に、“生まれ変わって”そうなったと告白する人達です。即ち、人間が変わったという事実がひとつあります。真理に目を開らかせたのは、神の働きであると全員が信じています。誰もが、人生が変わった。生きる意味や希望がはっきりしたと公言します。やっぱり不思議な現象です。彼らは死んで墓に朽ちた聖人の教えを有難く信奉しているのではなく、キリストに出会って変えられた人達のことです。単なる精神作用や盲信ではなく、出会うというのは、肉眼では見えないが、知情意の全てを駆使して、全人格的に今も生きて働いているキリストを個人的に発見したということ。そんな人たちが今日も世界に二十億人も居るということです。
聖書が教えるクリスマスとは、長い歴史の中で、神が預言者の口を通して預言されてきた救世主の到来が事実として“成就”した喜ばしい記念のときであります。イエスとはヘブル語でいう「ヨシュア」で、“神は救う”の意味です。即ち、ご自分の民を罪より救うためにこの世に人となって来られた。これがクリスマスです。同時に、クリスマスは、誕生されるイエスが「インマヌエル」と呼ばれる、換言すると、“神は私たちと共にいる”或いは”私たちの中に居る“という意味ですが、遠くの手の届かない存在者ではなく、また木石の偶像でもないことを教えています。
キリストは乙女マリアより誕生したとすべての聖書記者が強硬に、確信持って記述しており、またその後の弟子たちも、今日の信者に至るまで強く信じています。罪の無い方が、罪人たる人間のかたちをとってこの世に来られたのであり、相応しい来訪の仕方であると受け止めています。晩年の復活とこの”処女降誕”はイエスの奇跡の中でも注目の出来事であり、多くの人には躓きの石である反面、キリスト者にとっては、不可欠の信仰の土台になっています。(後日言及したいと思います)
聖書はキリストと同時代に生きた人々,即ち,クリスチャンの敵も味方もがまだ生存中に、何人もの記者達によって記録され、写本が作られ、当時の世界各地で読まれました。復活を例にとってみますと、人間の一般常識では到底考えられない現象が西暦三十年の春にパレスチナの地で現実に起きた。それが復活という現象です。十字架上での死後三日目のことです。その証人たち,即ち目撃者たちが、文字通り,命をかけて伝え残したのがこの新約聖書ですが、今日でも毎年の世界的ベストセラーです。
彼らが必死に伝えようとしたメッセージのエッセンスは何か。それは「キリストは復活した。私たちはその証人である」との必死の叫びに尽きます。彼ら自身が度肝を抜かされた張本人です。だからこそ文字通り命を投げ出して叫び続けましたが、作り事ではそこまではいかないでしょう。「キリストは死を克服し,甦って生きている」と言っているのです。
イエスは確かに完全な人で、普通人同様食事もし、疲れもし、悲しみも喜びもされた。然しその上に、彼は完全に受肉した神であった。がむしゃらにそう信じるということではなく、クールにその言動・現象またその姿勢を観察するときに、いみじくも、十字架の足許でローマの軍人がつぶやいた「彼はまさしく神であった!」の一言を噛みしめるのであります。
キリスト教は“空の墓の上に誕生した”とよく言われます。この辺の史実を虚心坦懐,じっくりと吟味してみることは、とても興味深くまた価値のあることだと思います。キリストは約束どおり復活して,自らを証明されたことになります。次回まで God bless you !