人生雑感(その2)

この頃知人や仲間、世話になった諸先輩の他界のニュースをきくことがめっきり多くなった。時間が止まらぬ限り自明の理ではあるが、その時間もスピードがとても早く感ずる。いずれ順番が来ることは判っている。生涯を終えて,記憶して貰える期間もせいぜい十年くらい。それでいいと思うような、でも空しいような、晩年の心境は複雑ですね。

人間は死んだらお終いか。この大きなテーマを考えずに、或いは考えることを拒否したまま死んでしまう人もあれば、自分なりの回答を求めて生きる人もあります。それは勇気の要る生き方です。死後にはなにもないのに暗中模索し、虚像を構築して自己満足するのは愚の骨頂です。然し,実はハッキリしているのだが、単に肉眼的な認識ができないという理由だけで笑い飛ばしているのだとすれば、それはもっと大きな愚の骨頂です。死後の情報を持ち帰った人は人間界にはおりません。見てきたようなことを云ったり書いたりしている人が居ますが、売名行為でしょう。本来人間にはその世界は判らないのです。あるかないか、どうなっているかは教えて貰うしかない。誰が教えられるか。その世界が存在するなら、その世界の統治者・支配者ということになります。この点でも、空想やおとぎ話をを持ち込んではいけないと思います。人間の限りある能力でもある程度まできちんと理解のできる命題だと思っています。

この問題で、聖書(The Bible) に一度耳を傾けることはとても大切だと思います。それは単なる宗教書や教養書簡の類ではなく、魂に語りかける天的メッセージだからです。そういう表現を好まない方もあると知りつつ、この書物は実に不思議な書物なのです。別の機会に改めて紹介したいのですが、要するに、創造主よりの人類に対する愛のメッセジなのです。創造主とか神とか天国とかいった形而上学的なことばを聞くと、嫌になる人が大勢います。私も始めから好きだった訳ではありません。それは別に不思議なことではなく、むしろそれが人間本来の姿だと聖書も指摘します。例えて云えば、悪人がおまわりを避けるような心理的状態なのでしょう。或いは背を向けた親への本能的警戒感みたいなものかも知れません。それは、侮辱の形容ではなくて、じっくりわが身の内外を鏡に映すように眺めてみると,大概頷けることであります

昔、東大総長をされた矢内原忠雄先生が、ご自身も素晴らしいキリスト者であられたが、“キリスト教は入ると奥行きも広く素晴らしい世界なのだが,入口のかもいが低く、頭が高いとくぐれない“ という趣旨のことを何かに書いておられたが、まさに謙虚に対面して欲しい現世から来世に跨る無二のガイドブックです。A Bookではなく The Book です。(聖書は The Bible = The Book といいます)

結論から言えば、いつの時代も、どこの民族も、人間は天国や地獄といった死後の世界を夢想してきたのですが、そんな人間側の願望や関心とは無関係に、聖書は一方的に人間は肉体の死があっても、自分の本質部分たる魂は不滅であり、永遠の到着点として両者の存在を明らかにしています。そこだけ拾い読みしたり,聞いたのではすぐには理解できない,又信じ難いかもしれません。なにせ、見えない世界の話なのですから。聖書は、全体の流れの中で考察することが必要です。

その中に、「人がひとたび死ぬことと、死んで後(神の)審きに会うことは決まっている」と厳かに宣言している箇所があります。 ざれ言でしょうか。そのように死後を厳粛に受け止めるか,または聞き流して現世を終えるかは勿論各人の自由です。
然しながら、無視出来るほどの材料を正直なところ我々は持っていないです。妄信の必要はありませんが、時間内に考えるテーマです。必ず来ると判っていても,死とか死後とかは、ギリギリまで考えたくないのが人情ですが、これは葬式をどの形式でするかといったような所謂”宗教”や”宗派”の問題ではなく、死後を展望しながらこの世をどう生きるかの重要なテーマです。単なる恐怖心からでなく、堂々と取り組むべき問題と思います。仮に、聖書の主張が正しかったとすれば、当然取り返しがつかない訳ですし、そんな警告的事例も親切に啓示されています。おもしろいです。

ところで、本当に聖書は真理を伝えているのでしょうか。また真理とは一体何なのでしょうか。絶対者なる真の神の存在、天地万物の創造主、永遠のいのち、人類の原罪、神の愛、救い主の派遣、人類救済のわざ、終末の預言
etc,,,
仮にそうでなく、聖書のメッセージが単に文学的創作の域を出ないものだとしたら、長い人類の歴史を通して、今日もなお、世界で約20億と言われる民が、個人的体験を通して、生きていく上での土台に聖書信仰を据えるでしょうか。更に、燎原の野火の如くに今日もその救いのメッセージが尚世界の隅々まで伝わり続けていくとは思えません。彼らを無知・盲目の民として片付け得るだろうか。世界には、諸分野の超一流クリスチャン科学者もわんさか居られます。科学の分野とは別だからです。 
むしろ、その預言どおりの世界歴史の展開に、人知をはるかに超えた神の臨在とその約束に畏敬の念を新たにしている人々のなんと多いことでしょうか。
 またお目にかかる時まで。 See you again soon!

               

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