人生雑感 (その1)
このページを訪問して下さるのは,どなたでも歓迎ですが、主として中高年の方々と勝手に決めています。つまり
私と同様、青年期より、国力の伸長と平行して、夫々の職場で懸命に働き続けて,所謂企業戦士としての社会暦を終えるか,終えようとしておられる方々と思っております。振り返れば、“よくここまでやって来られたものだ”と多難の中にも幸運だった生涯になんとなくホッとすると共に、他方、間違いなく衰えつつある体力と、認めたくは無いが、余命もこれまでの何分の一かに減っている現実が時折頭の片隅を掠め,そんなことはあまり考えないで、まあ今日は今日で、元気に行こうかと自分を励ましておられるように、私自身の経験からも推察いたしますが如何ですか。若干の相違はあっても、あらまし私達の“たそがれ期”の心境はこんなところではないでしょうか。
ところで、このホームページで一介の素人がキリスト教の紹介を試みるのは、年寄りの不安に付け込んで宗教を売り込もうとする狙いでは毛頭ありません。ましてや、一教会の勢力拡大を期待しているわけでもありません。例えてみれば、こんな風に見てもらうと有難いのです。 嘗て私の同僚になかなかの食通がいまして、側へ来る度に、「あのレストランのあの料理はうまい、この店のあの味は最高だ」と情報をくれる人が居ました。こちらが食べ物にそれ程興味を持っていないと知っていても、自分自身が堪能したものを他人に教えたくて仕方が無いのです。同じ満足を味わって欲しいのです。それは彼の善意です。同様に世界のクリスチャンたちが折に触れて信仰体験を語ろうとするのは似たようなところがあります。
私はこの世界の聖職者でも神学者でもありません。一人のビジネスマンとして四十数年を大企業の組織で過ごした者です。経歴的には、期せずして五十代・六十代は、企業の幹部またトップ経営者として、日本の経済的盛衰に同調して、喜びも辛さも味わった人間です。もうひとつの特色は、若い時からヨーロッパ・アメリカ・アジアの駐在が長く、また仕事柄、引退する間際まで世界の各地に足を踏み入れて、異種文化に触れさせて貰ったことが上げられます。因みにキリスト教との出会いは大学生の多感な時期でした。
そんな訳で半世紀にわたる信仰と社会の絡みを通しての実感の一部を、初めてこの種の話を聞かれる方々を想定して、披露しようと考えている次第です。世界のまともな国で、“宗教”と聞くと軽蔑する人の多いのは日本ぐらいでしょう。そうすることで、なにか自分が知者ででもあるかのごとき優越感をもっている人が多いのは残念なことです。本当はそうではない。諸外国の著名人も含めて、交流の多かった私の体験から申し上げています。どこでも、仮に自分は熱心党でないにしても、謙虚に、関心のある人々を尊敬視するのが一般的ですが・・・
嘗て文筆家の内村鑑三さんが指摘しておられるように、明治以降日本人は西洋文明を懸命に輸入したが、その精神を取入れるのを怠ったと。 誠にそう思います。そうして、特に戦後、ずるずるとそのツケが今日まで太く尾を引いているのではないでしょうか。
余談ながらキリスト教の根幹は二つです。ひとつは絶対者なるまことの神を愛し、恐れること、その二は、自分を愛するように隣人を愛すること。
現代のあらゆる法律も、またその根底にある道徳律も源流はここにあるでしょう。昨今の誤った個人主義・自由主義の風潮、平気でルールを無視するエゴイズムが横行する日本は、まさに上記の黄金律不在に原因がありませんか。嘆きの限界を超えています。皆様はどう思われますか。
今回第一回はこの辺で終わります。