ものとお金に生き甲斐を集中し、魂まで売り渡したように思える日本とは大分異なる
南国の一つを私の投稿記事より紹介します
「インドネシアに魅せられて」
学校を卒業すると、僕は深い考えもなく銀行に就職した。別に好きだった訳でもなく、
そこに夢があった訳でもない。ただなんとなく、成り行きでそうなった。
(以下省略)
僕の場合、入社した頃は日本の銀行が丁度国際化を始めた時期だった。二三年して仕事に
飽いて辞表を出そうとしていた頃、社内の「海外派遣制度」というのにうまい具合に
便乗して、昭和三六年に第一回目のロンドン生活を始めた。今と違って外国行きが夢で
あり貴重な時代に、知識も経験も乏しい若造をよく選んでくれたもので、これが又
人生の岐路になった。というのは、それ以降現役を引退するまで、銀行・商社で専ら
海外関連の仕事をするハメとなった。好きで、向いていたのかもしれないが、その間
の海外駐在も結構長く、ヨーロッパ、アメリカ、アジアに出たり入ったりの生活をした。
さてここからが本題に移る。どういう訳か僕はインドネシアが大変好きである。だから
この歳になっても毎年二三度は出かけないと血が収まらない。毎年日本から数万人も
押しかけるバリ島もよいが、なんでもない普通のところがとても気に入っている。
実は就職したXXのグループは、財閥の祖たるXXX氏の肝いりで、インドネシアとの
関係が特に深く、大正時代からゴム・コーヒー・ヤシ油のほか数々の事業を展開していた。
今日もボルネオの僻地に終戦時に国有化されたゴム園のプランテーションがあって、
あの不便な大正から昭和初期にかけて常駐し、病死した派遣社員の家族の墓が幾つも
残っている。中には幼児の墓石もある。有難いことに現在も現地の人が霊園を守っている。
ついでにもう一つXXグループのエピソードを紹介させて貰うと、昭和十七年五月、
台湾沖で沈没した輸送船大洋丸だが、軍の命により資源持ち帰りのために乗船していた
本社の社員六十名中四十名が魚雷で命を落としている。今で言う企業戦士の悲劇である。
あれやこれやと過去の歴史があり、終戦後は先方大統領の要請で、銀行進出の第一号
を引き受けている。僕が責任者として駐在したのは三十年も経った後代だが、終戦後
吉田茂首相が滞在したと云われる建物も私の宿舎として銀行に残っていて、とても感慨
深かった。
でも、企業の歴史は僕の個人的な愛着とあまり関係がない。赴任した頃はむしろ、
これは大変な所へ来たと大いに失望したものだ。熱気、群集、治安不良、不便、
不衛生。到底好きになろうとは夢にも思わなかった。でも住んでみて発見した魅力は、
結論から言うと、大自然とのんびりした住民の生活様式、それに、内包する各種異
文化である。みんな日本に無いか、失ったものばかり。これらが嫌いな面を遥かに
凌駕した。
インドネシアは人口二億人、世界最大のイスラム教徒の国である。(仏教・ヒンズー
教徒は押されて東部に生き延びる)大小一万の島嶼から成り、うち三千の島に人が
住む。二百以上の部族と同数の言語がある。真黒い肌の部族も居れば中国系の色白
の人種の街までいろいろある。駐在当時ボルネオの河を遡ると吹き矢が飛んで来る
という話を聞く未開地もあった。よく統一できていると思うが、ひとつには共通語
のインドネシア語とパンチャシラという五箇条の憲法原則の力だといわれる。
兎に角古い国で、ジャワ原人の頃からヒトが住んでいたし、原則として移動という
ものをしないから衣食住の全般に亘って独自の風俗、習慣が未だに各地に残っている。
多種文化の国である。それがこの国のなんとも言えない魅力のひとつなのである。
葬式ひとつにしても鳥葬の地もあれば死者の供養に動物を捧げる村もある。水牛の
首切り場面で失神する観光客を見たこともある。首狩族や食人種は今はいないが、
戦中の日本軍仕官の書物にはそんな描写もある。なんでも画一の日本とは対極にある国
である。だから好きになる。土着の文化に、インド、イスラム、欧米の文化がミック
スして魅了する。
今回僕は意識して、断片的になるが裏面誌を書いている。
(以下省略)
太平洋戦争当時オランダ植民地だったこの地に日本軍は早い時期にマレー、シンガ
ポールを落として進駐する。落下傘部隊や自転車部隊などのニュースを憶えている方
もあろう。解放軍として歓迎された。軍事教練面や隣組制度の導入など今でも語り草
になる善政を敷いた。だが不幸なことに、ひとつの悲劇が終戦後に東部ジャワを中心に
起きている。独立解放軍の武器提供申し出を旧日本軍が断ったのをきっかけに反日本人
暴動が起きる。逃げまどう多数の日本民間人が虐殺された。もう憶えているひとも
少ない。余談ながら、同国の独立に武器を取って貢献した旧日本軍兵士も多数あり現存
者もおられる。六十年もたつと風化されつつあるが、こんな歴史も温故知新の原理に
立って紹介した。脱線ついでに軍の無謀史もひとつ。末期近く陸軍は数万の兵に
ボルネオ北部のジャングルを西から東へ移動させる。飢えと病いで一万人が死んだ。
今だに人跡未踏のジャングルの奥地に白骨散見とか、戦後は終わらずだ。
さて、暗い史実はこの辺で、インドネシアの魅力のもうひとつは何といっても熱帯
特有の自然の素晴らしさと人々のゆったりした生活スタイルだ。ヤシやゴム林を
はじめ豊かな熱帯の緑とドリアン、マンゴー、パパイヤなどの豊富な果物と農水産物。
常夏の国。先ずは凍死も餓死もない。まだまだ経済的に貧しい人々が多いが苦にしな
いでゆったりと生きている。水田はのどかに水牛が耕し、小川は娘たちの沐浴場だ。
一般に住民は親切でこちらも心身が休まる。現役の人には悪いが、あくせくしないで、
ゴルフ場の大木の陰で、伝統のガメラン音楽など聴きながら、ジャワコーヒーなど
すすって、のんびり時間を楽しめる地だ。豊かさとは何だろうかと考えさせる国で
ある。首都ジャカルタを見てインドネシアを語る無かれ。
(以下省略)
ハンチントンの「文明の衝突」ではないが、益々孤独化する日本。ならばわれらの将来
の友人はどこにありや。ずっと南に居る。相互補完的に共存できる国。概して物価も安い
し距離も近い。せいぜい出かけて行って楽しみつつ、相互理解をしませんか。
からだの動く間に。