人生雑感15
自分が実際に癌の宣告を受けて思うこと(その2)
癌であることが確定した。所詮人間の肉体は「入れ物」であり、いずれは朽ちて土に返る。
そうは誰でも理解しているが、宣告を受けて喜ぶ人は普通いない。やはり大概の人は弱い。
キリスト者は不測の事態に直面しても、それを神からの試練として受け止めるよう日頃か
ら学んでいる。また訓練されている。それでも、キリスト者もやはり人の子である。この
分野の指導者の中には、体験もないのに単に知識を振り回す人も中にはいるが、本当に耳
を傾ける値打ちのあるのは、先に同種の試練を乗り越えた信仰者の証しだけである。
パウロは「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、
私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰
めることができるのです」と理由の一端を述べているが、私も、漸く癌を患う人達の苦悩
に向き合える資格が出来たのだろう。
さて、どう治療を始めるべきかを選ぶに当って、先ずは転移の有無を検査して来るよう云
われる。状況証拠は、その可能性が高いという。第二の関門である。一難の後にまた一難
が控える。正直なところ、こちらの方が自分にはショックが大きかった。その有無は明暗
を分けるに違いない。医者に行けば、同類患者の死亡例を幾つも聞かされて、わが身の終
局のことも頭を掠める。急に身辺の持ち物や、やっていることに興味をなくす。執着心が
失せていく。妙なものだ。
検査結果を知るまでの時間は長い。受験時の合格発表を待つ心理にどこか似ている。
結論を先に言えば、想定される全ての場所を調べてわけではないが、最も注目していた
部位に関しては、問題なかった。そう聞いた時の気分たるや、正に「あなたは私のた
めに、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せて
くださいました」(詩30:11)の歓喜に相通ずるものがあった。病いが消えたわけでもない
のに、何故かホッとした。
そして、パウロに与えられたあの一つのとげの記述を思い浮かべ、正にこれであると悟っ
た次第である。「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。
それは私が高ぶることの無いように、私を打つための、サタンの使いです。このことに
ついては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、
主は、“わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのう
ちに完全に現れるからである”と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私
を覆うために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
(コリント第二の手紙 12:7 – 9 )
心配は無用 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方の
ことを心配してくださるからです」(ペテロ第一の手紙 5:7)。
感謝なこと、幸いなことよ!キリスト者の慰めは、真実にして生けるまことの神より来る。
追記
ここまで来て改めて思う。上記は真理である。されど如何なる境遇にても同じ文面が書ける
かである。私は知っている。状況が悪化すればする程、神の臨在感が薄くなり、なんとか
少しでも自力で改善しようとする思いが高まる。人間の弱さである。知識としては聖書の
主張、約束、実例など十二分に承知しているにも拘らず、陥り勝ちな凡人たる自分の弱さ!
然し、どっちに転んでも、どうあがいても、このいのちは主のみ手の中にある。主は全知・
全能者である。医学的な選択も含めて最善をなさる。 再認識しよう。 そして、祈ろう、そうして欲しいの
だと。 考えてみれば、よく今日まで生かされてきたことよ。仲間の何人もがもっと若くして去っているのに。
人生はいつか終点がある。そして,殆ど終点に近い。
全てを素直に信じよう。
願わくば、心臓が止まりつつあるとか、いのちの灯が消えつつあると自覚できるその瞬間にも、信仰に
些かのゆらぎもない者になりたい。 諦めでなく。
順境の折だけのキリスト者、また一時的な苦悩の逃避に悪用する信仰を主は喜ばれまい。
”主は侮られるような方ではない”と聖書は言う。(ガラ6:7) こんな時こそ、信仰とは何jぞやを神は問い
かけているように思う。