人生雑感14
自分が実際に癌の宣告を受けて思うこと(その1)
日本人の死亡原因のうち、各種の癌による死亡率は相当高い。原因はともあれ、終戦後
じわじわ増えて、現在は三人に一人が癌で死ぬ。よく知られている事実である。ところが、一般論としてはそう理解していても、普段は自分がそうなるとは真剣に考えていないので、最初の検査段階で癌の疑いがあると云われると、いよいよ来たかとわが身の不運に少なか
らず動揺する。それは、日頃ガンという病魔の恐ろしさを身近に見聞きしているため、出
来ることなら避けて通って欲しいと誰もが願っているからに違いない。
にも拘らず、わが身にもこの敵は訪れた! やっぱり来たか、と受け止めた。
昨年は、肺がんの恐れがあると複数の専門医に指摘されたものの、幸い精密検査でパス。
大いにホッとしたばかりである。また、ピロリ菌が除去できないので、胃の潰瘍は定期的
にカメラを呑んで検査しながら、ガン化を警戒中の身である。そんな中、こんどは別の臓器で数値的にかなり疑わしいということになり、その道の専門医を紹介された。初期の再診段階で、やはり“極度の灰色”と云われ、時間をかけてあちこちで関連検査を受けるハメとなった。
思い起こせば、その頃の心境として、日夜脳裏に浮かんで来た聖書の言葉は、”神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働
クリスチャンであろうがなかろうが、全てのひとを例外なく、病気も含めて、人間的には理不尽と思える状況が、人生のあちこちで我々を襲うものだ。お釈迦さまでさえ、生老病死の苦悩を解かんとして出家されたほど。「神よ、どうしてこんなことが私に?」との悲痛な叫びは、古今東西人類の歴史のなかに満ち溢れている。聖書の中にも、ヨブ記などは代表的な記録だし、ハバクク書という書物を開くと、神さまに猛烈に抗議する人間の姿まで描かれている。正直なところ、全知・全能・愛なる神、私自身の創造者たる神の意中は、この限られた頭脳の理解力では判りません。いろいろと理由付けは出来るが。しかし、そこで絶望するのでなく、自分に判らないだけだと判ることが先ず大切と思う。神さまには人間とは次元の違う考えがあるのだと気付くこと。そうして、やっぱり最終的には信頼して委ねること。そうできるのがキリスト者の特権であり、またありがたいところ。
諸々の検査の結果、最終的に癌であると答えが出て、その旨通知を受けた。(以下次号)