(人生雑感 13

 

人はなぜ宗教に眼を向けるのか、また、なぜキリスト教なのか。自分が気に入っておれば
なんでもいいではないか。
 

ある「宗教心」調査によると、こんな興味深い数字が出ている(蓮見博昭著 宗教に揺れ
るアメリカより)

自分は宗教的人間であると考えている人の割合は、アメリカ人で83%,イタリヤ人84%,
ドイツ、イギリス、フランス人で夫々
57,56,51%, 日本人26%,  反対に、自分は確
信的無神論者である
との回答者の比率は、上記の国順で、夫々、1%, 4%, 8%, 5%, 
11
%, 11% となっている。宗教的といっても熱心な信者とは限らないが、それにしても大分
居る。因みに日本人は、冠婚葬祭に限っての宗教心で、神社、教会、
お寺などをハシゴして
儀式的に済ます人達も多く入っているように思うし、また無神論者
という比率も、真剣に極
めたわけでもなく、単に無関心者に過ぎない程度の人々が大半の
ように思われる。 

さて、諸々の所謂「宗教」の中で、代表的な一神教徒たるユダヤ教・キリスト教・イスラ
教徒の数は併せて地球人口の半分になる。呼び名は違っても、いづれも同じ万物の創造主な
る唯一神を信じている。その中で、キリスト教徒というのは、イエスキリスト(救世主)
として信ずる者を指す。

神は眼に見えない。されどイエスは人であると同時に、神であるとの信仰に立つ。神である
とする直接的な証拠の一つは、彼が復活したことと、それが突発事件でなく、長年に亘って
待望されてきた預言の成就だという点にある。それは、後日キリストの使徒となったパウロ
も{ローマ人への手紙}の冒頭で、自らの劇的な改心の原因を想定しつつイエスを紹介して
いる箇所でも触れている。
 

おおよそ現代人に限らず、並みの人間は、当時も今日も”復活“なる現象はそう簡単には
じ難い。それが普通の常識人である。聖書の面白いのは、イエスの側近の弟子たちです
ら、
事前の予告をたびたび本人から直接聞いていたにも拘らず、誰一人として信じていな
かった
と正直に記録している点である。ユダヤ教徒であっても復活そのものを否定する一
派もあれ
ば、終末の現象として漠然と期待している側近者はあっても、イエスの復活など
誰も想定し
ていなかったのである。福音書は十字架の処刑と復活に相当のスペースを割い
ているが、い
ろんな戸惑いの事例を併せて紹介しているので読むほどに面白い。是非とも
読んで頂きたい。
有名な事例の一つに、イエスの顕現の現場に居合わせなかった直弟子の一人は、見
たくらい
では信じない、自分の指をその釘跡に差し込まなくてはとまでに懐疑的であった。

後にキリストの使徒となったパウロの、改心にまつわる書翰類も、静まって読んでみて欲しい。
或る時は
11人に、或る時は2人に、別の機会には500人にと、イエスは自らを40日に亘って
何度も顕すが、180度人生転換して殉教していった当時の信者たちは皆“見たから信じた”

のであった。
 正に、ペテロもパウロもそうなのである。

聖書「ヨハネの福音書」の中で、著者ヨハネは復活したイエスのことば「見ずして信ずるものは幸いなり」を紹介している。彼も復活目撃証人のひとりで、その生涯を全くキリスト宣教と教会のために捧げた人物である。

読者たる我々は、この肉眼で復活のイエスを直接見ることはできないが、自分が体験した
事実であるからこそ、”ぐずぐず言わずに信じてくれ!””というヨハネの悲痛なというか、
激しいまでの叫びが、私にはこの箇所を読む毎に聞こえてくる。そし
て彼は付け加える。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであること
を、あなたがた
が信じるため、またあなたがたが信じて、イエスの御名によっていのち
を得るためで
ある」

同様にあのペテロも、「見ずして信じる者」の幸せを次のように書き残している。「あなた
がた
はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれ
ども
信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
れは、信仰の結果である、たましいのすくいを得ているからです」 

宗教的であるのはよいことだが、単なるムードでなく、また夢物語や空想の類を対象とせず
これぞ真理であるという納得の
いく信仰を身に着けた上で、「宗教的」生涯を送りたいもの
である。

特に日本では、現世うまく立ち回って得をするコツの習得に、人生の大半でウツツを抜かして
いるように思われる我々だが、共々開眼して、人生をゆったりエンジョイする工夫を付け加
えたいものである。