(人生雑感12)
キリストが十字架上で死んで復活した後、驚くほどの変身振りをした弟子達が宣教活動を開始するが、それはエルサレムから始まり、漸次パレスチナ全域に、更に小アジアからヨーロッパへと半世紀にも満たない短期間に信仰の波が拡大して行きました。その頃、原始教会の指導者達を悩ませた大きな問題は、未信者の抵抗ということよりは、むしろ母体でもあるユダヤ教徒(含改宗者)との信仰上の対決ないしは彼らの抵抗であった。中心的なサドカイ派、パリサイ派から反体制派のエッセネ派・クムラン教団などユダヤ教には幾つもの宗派が存在したが、比較的イエスに近い存在だったパリサイ派とは、肝心の教理面で決定的な対立の構図を後々までも引きずることになります。
彼らは律法を守り、神殿礼拝を厳守する代表的なユダヤ教徒で、大勢を占めていた。当時、既に二千年の昔、民族の祖たるアブラハムに与えられた約束(契約)を信じ、併せて、出エジプト時の立役者であるモーセに賦与された十誡を軸に、その後自分たちで付加した多数の諸規則(律法)を生活の規範として厳守した。彼らにとっては、律法を遵守することが、救いの唯一の手段に他ならないと確信していた。
これに対し、イエス・キリストを始め、後の弟子たちも、律法の重要性は認めつつも、救いは律法を守るというような行為によって得られるものではなく(なんとなれば律法の要求する基準は極めて高く、全てをクリアすること等誰れにも出来ないから)恵みとして神から与えられるもの、即ち信仰によって受け取るべきものとのスタンスを堅持した。さもなければ、キリストの十字架上の死も復活も意味を成さないのです。
これが表題の「信仰義認論」である。義認などという難しいことばを使ったのでその説明から始めないといけない。義とは神の前に正しい者とされる状態、義認とはそのように認知されて受け入れられること。罪人の罪が消されて、神の義と同一と看做されるばかりか、その家族の一員として受け入れられることである。
聖書の人間観は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」
のです。そして「罪から来る報酬は死です。」即ち、人間には「義人はいない。ひとりもいない。・・すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者」になっているのです。
どういう事かといえば、人として神の前に、また人々との関係で、こう在るべきとする神の命ずる基準から我々は遥かに逸脱していて、合格しない、滅びの道を歩んでいる被造物であると言っています。生きてはいるが希望はない。人間はそんなものだと投げやることは簡単だが、創造主なる神の声として耳を傾けてみたい。
人類救済スケジュールの人間側の役割を担わされたイスラエル民族は、歴史の早い段階から、罪が許されるためには罪のない無垢のいのちを代償として差し出す必要性を学び、折に触れて傷のない子羊の血を祭壇に流し続けて、本番到来まで忘れることのないように習慣化してきた。当然その間も、諸規則(律法)も最大限に遵守する努力を怠らなかった。
こうして時満ちて、キリスト・イエスが降誕する。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(ロマ書5:8)」
私たちは、パリサイ人が信ずるように救いは自らの行為や努力によって手にするものだとすれば、個人差による不公平も生じるでしょうし、また聖人・君子といえども、律法の一つも破らずに生涯を終えるなどということはあり得ない話です。
信仰義認論といえば、聖書中で特に使徒パウロが諸書翰の中で繰り返し強調し、ユダヤ教徒たちとの信仰の土台の相違を力説しています。
[人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる(ガラテヤ人への手紙2:16))
「律法によって神の前に義とみとめられるものはだれもいないということは明らか です。“義人は信仰によって生きる”のだからです(同3:11)]
「律法によってはかえって罪の意識が生じるのです。(ロマ人への手紙3:20))
「イエス・キリストを信ずる信仰による神の義であって、それはすべての信ずる 人に与えられ、何の差別もありません(同3;:22)」 etc…..
ひとりの人を通して罪がこの世界に入り、その罪によって死が入ってきた。こうして全人類に肉体と魂の死が広がった。同様に、キリスト・イエスが神のもとより遣わされ、その命令に全く服従して、人類の罪の代価を払うという崇高な目的のため進んで十字架にいのちを捧げた。その犠牲的行為により、即ち、ただ神の恵みによるキリストの贖いの故に、万人が義人とされるお膳立てが完了している。私達はそんな恵みに無代価で浴することができるというのが信仰義認の骨子です。
「汝らは恩恵(めぐみ)により、信仰によりて救われたり。是おのれに由るにあらず、神の賜物なり。行為(おこない)に由るにあらず、これ誇る者のなかあらん為なり」(ピリピ人への手紙2:8-9)