(人生雑感11) 

専門家ではないが、一時天体観測に凝っていた時期があり、高価な望遠鏡を買ってきて、晴れてさえいれば遅くまで夜空を覗くのが楽しく、暑さ寒さも忘れて年中その美しさに我を忘れたものです。いまでも宇宙の素晴らしさと、併せて、わが地球の不思議さをつくづく思わせられます。星空を観測するということは、同時に宇宙の空間や時間を学ぶことですが、とにかく想像を絶します。大きさを例えてみると、わが地球の属する太陽系をゴマ粒くらいに圧縮すると当然地球は肉眼で見えない程の粒になる。その縮尺で、このゴマ粒ほどの太陽系が属する銀河の大きさはどんなものかと言うと、直径が東京から小田原辺りまで、厚みが富士山くらい、中心部はその三倍もある円盤を想定しなければならない。この銀河系一つをとってもその中に一千億とも二千億とも言われる数の恒星が詰まっており、太陽はそのうちの一粒に過ぎない。地球に至っては、顕微鏡的な粒で物の数ではない。しかもこれは一つの銀河の話に過ぎず、現在判っているだけでも、宇宙にはこの程度の銀河系が、ほかに一千億以上はある。しかも全体がなお膨張中であると判っている。今後、一般相対性原理と素粒子論をベースにどんどん宇宙の真相が解明されていくだろうが待ち遠しい。無限といえる広さに無数の星星。そんな中にあって、特別仕様の地球に改めて驚きと感謝の思いを熱くします。

キリスト教で“創造主なる神”というのは、人知では果ても分からないこの大宇宙すら、その被造物に過ぎず、そのコントロール下にあるという創造主の神なのです。同じ神という単語を使っていても、我々の周りに山ほどある神々とは全く次元の違う「神」です。宇宙の全てから地上の肉眼では見えない素粒子的世界まで、あらゆる物質や生命体のみならず、その仕組み・システムまで、現在未発見の領域も含めて、文字通り万物の創造主を指します。したがって、当然唯一的存在です。一方、巷の神々といえば、この宇宙規模ではまことに小さな地球上で、人間の畏怖や驚嘆や愛惜など諸々の想いが折に触れて創り出す所詮局所的な地球規模の作品です。

世の中あちこちの宗教で「神」「神」と言っている。どれも似たような話だろう。どうせone of them であろう程度の相違ではありません。全く異質の対象であることを先ず以って知っておかねばなりません。クリスチャンでも、“神々”の少し毛の生えた程度に、即ち理性の範囲内で「神」の理解をしているため、聖書も、特に奇跡箇所などに来ると戸惑っている人々がいます。

聖書の巻頭のことばは、有名な「初めに、神が天と地を創造した。」です。

また紀元前千年頃のダビデという王も、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手(みて)のわざを告げ知らせる」と詠っています。ずっと時代は下って、紀元一世紀の伝道者パウロは、「何故なら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性とは、世界の創造された時からこの方、、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、かれらに弁解の余地はないのです。」と、被造物なる自然界を静かに観察すれば、その背後に創造者が居るのではないかと気付くきっかけになると述べています。聖書の啓示する神は正にその種の神であって、神々の一つではありません。

そこから幾つかの原理が派生して来るのですが、その一つが、偶像崇拝の厳禁であります。

偶像というのは金銀や木石を手で刻んだ像です。聖書は、人間に対して昔から一貫して偶像礼拝を厳禁しています。それは礼拝の対象にするような神ではない単なる無生物や彫刻品か、或いは人間を神格化したものに過ぎないからです。今を去る三千数百年前、神がモーセに示された十の戒め、即ちご存知“十誡”の始まりは、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない・・」であります。然し、人は苦境に陥ると目に見える偶像に頼る性癖があり、聖書も、イスラエルの民が何度も何度も近隣部族の習慣である偶像崇拝に陥り、神の怒りを買い、その都度悔い改めて放棄し、赦され続けた歴史を記録しています。使徒パウロも「神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません(使17:28と言っています

本当の神は肉眼では見えない霊的な存在だというのが聖書の啓示です。しかも知・情・意を備えた人格的存在者と示されています。私は望遠鏡を覗きながら、この生き物の如き大宇宙が自然発生的に誕生したとは到底納得できなかったものです。嘗てアインシュタインは「神の存在を信じますか」との質問に、「私は神を信じます。その神は、存在するものの秩序ある調和の中に、その姿を顕わしています」と答えている。

私たちが信仰の対象にすべき神はそんな神です。特別の目的を持って設計されたこの地球に、特別の目的を持って人間を存在させた方、全知・全能・偏在(どこにでも存在すること)且つ、聖にして義しく、同時に本当の愛に満ちているお方と自己紹介されている。

わが国にキリスト教が伝えられた頃は、翻訳しないでデウスと称して区別していた。神と神々とは根本的に違うことの理解からキリスト教探検の第一歩が始まることを改めて確認しましょう。