人生雑感(その7)

 どんな建築物も土台の上に構築されています。キリスト教も然り。それは聖書と呼ぶ書物です。聖書(Bible)という言葉自体が、ギリシャ語の本(biblos)から派生したのは前述の通り。毎年、全世界でトータルすれば、少ない方の数字でみても出版総数二億冊と言われるほどの長期ベストセラーです。書物中の書物です。世界の言語のうちで、部分訳を含めると、未翻訳言語のほうが圧倒的に少なくなっているそうです。そんな書物は歴史上無二と言えましょう。時代を超え、民族を超え、この書物は不思議に人の心に響くからだと思います。ある人には慰めを、また励ましを、ある人には希望と平安を与え続けている。日ごろ高をくくっていても、人生の曲がり角で紐解く方もある。同時に、必死に生涯を賭けて、この一冊のために、反抗に明け暮れた人たちも史上多い。不思議な本だと思いませんか。また人生に一冊をと問われれば、躊躇無く聖書と答える人の、これもまた、史上なんと多いことか。日本語訳聖書も、今日では書店のどの店頭にも並ぶ恵まれた時代になりました。 

そろそろ本論に入ります。その前に、キリスト教はヨーロッパの宗教だから云々という無知な方のためにひとこと。キリスト教はヨーロッパに起こったのではなく、そこへ早い時期に伝えられたのです。これはまた別講にします。だから聖書もオリジナルはヨーロッパの書物ではありません。(例:英訳本は中世になってやっと出現します)オリエント、つまりアジアがキリスト教発祥の舞台です。従って、聖書もかの地で誕生した書物であります。 

現在私たちが手にしている聖書は旧約聖書三十九巻と新約聖書二十七巻、併せて六十六巻から成っていますが、その形に纏まるまでには長い年月を要しています。そもそも最初の部分の著者は伝統的にモーセと考えられていますから、今を去る三千数百年前のこと、新約聖書の最終部分の著述が紀元一世紀末とみると、悠に一千年以上の年月をかけて、恐らく百人単位の著者、収集者、翻訳者、編纂者などの手を経て形を整え、異物を排除しつつ、最終的に今の姿に纏まったのが紀元四世紀のことです。(詳しくは専門書をどうぞ)

聖書の構成については概説にとどめますが、天地創造から人類の誕生をもって始まる旧約聖書が、人類救済の使命を託されて選別されたユダヤ民族の歴史、預言の書物、それに詩歌文学書などから成っており、一方新約聖書の方は、イエス・キリストの生涯を記録した福音書、使徒たちの働き、使徒パウロの書簡など、それに一巻の預言書から構成されています。然しながらこの六十六巻は、不思議なことに、ばらばらの場所と時代と著者によって書き綴られた書物であるにも拘わらず、一貫して統一性を保っており、それは詰まるところ、人類の救世主到来の待望史とその実現史と言えると思います。

聖書は信仰の書物でありますから、キリスト者にとってはいのちの糧ですが、同時に、本当の信仰とはなにかを探求する方にとって、これは不可欠の材料です。聖書を離れてのキリスト教は存在しません。救いの道が”啓示”されている書物。神の指導の許に記述された書物、即ち神の霊感を受けた書物ということについては、少しく理解の必要がありますので 次号でまとめます。 Will come back soon.