人生雑感(6)
近年、一部の不心得な宗教団体やそのリーダーの言動のせいで、大小取り混ぜ色んな事件が宗教界を賑わすため、多くの人々が漠然とした不安を宗教組織に対して抱くようになっている。信仰の決断は最終的には本人の自由意志によるものであって、まわりは誠意をもって手助けしている関係に過ぎないから、一旦門をたたくと身を引くことができないとか財産を巻き上げるとかの恐れが付き纏うような所は、宗教の名を騙るがニセモノであって、早々に退散すべきである。その点、正統的なキリスト教会はその心配がない。遠慮なく門をたたいて失望すれば去ればよし。なんとなれば、キリスト教とかキリストの福音を学ぶには、最適の場所だからです。大抵の教会では、日曜日の礼拝のほかに、週日にも聖書研究も含めて各種の集いをもっている。勿論、出入り自由である。
ところで、教会(ギリシャ語でエクレシヤ)という言葉だが、現在世界中に拡がっている所謂目に見える地上の教会を指すばかりでなく、もっと本質的な目に見えない組織体を指している言葉である。それはキリストをかしらとする目に見えないキリスト信者の集合体のこと、既にこの世を去った者も含めて、キリストが自らの血潮をもって買い取ったキリスト者の群れを指している。一人ひとりはその組織体の一部である、或いは、目に見えないキリストのからだの肢体を構成していると表現することもできよう。
ただ、キリスト教会と名乗っていても、大切な教理面で非聖書的な、即ち聖書の教えからかけ離れた信仰を売り物にしている団体も世の中には数多くあるので注意が必要。特に、イエス・キリストの神性と人性、誕生・死・復活・再臨などの重要教義で非聖書的な教えを押し付けているグループが我々の周りにも少なからず存在し、活動的である。この現象は今に始まったことではなく、二千年も前の初代教会の頃から弟子たちが頭を痛めた事項のひとつで、ちょっと聖書を開くと、あちこちに彼らの警告が読み取れる。要するに、新・旧約聖書がその人たちの信仰のベースに位置づけられているか、都合のいい解釈や部分的な採用に止まっていないかなどに充分注意して、スタート前に正しい選択をすることが大事。ほとんどの正統的・伝統的なキリスト教会は問題ないのだが、迷うときは、このホームページで紹介しているキリスト教放送局や書店に電話して知恵を借りるのも一策だろう。
現代人は、日本では、総じて忙しい。特にこの不況時、心身にゆとりがない。忙しいとは心を亡ぼすと書く。肉体の過労に加えて精神も心も疲弊する。週末の気分転換もよいが、生き甲斐を身に着ける、発見することの一助となることを、本来のキリスト教会とそのメンバーは願っている。
“求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むるものは得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。”