空句が催眠療法を受け空未に会った体験談

●催眠療法の話しをする前にお話したいことがあります。

それは、私の宗教について今、どう感じているかです。
飯田先生の本に書かれてあるよう、人それぞれ持っている信仰がビジョンとして出てきますが、私もご縁があった浄土真宗のシンボルがビジョンとして出て来ました。

だけど、今の私はどの宗教にも障りはありません。宗教の枠がない、大いなる大宇宙のおはたらき(神様も仏様も含む)は信じていますが、ひとつの宗教に片寄り○○をしなければ救われないというのはおかしいと思っています。

先立った子ども達はみんな、どの宗教で葬儀をしようと、先立った子どもの環境がどの宗教であろうと関係なく、みんな仲良しで同じところにいます。これは、空未や空未以外の先立った子ども達に教えてもらったことです。

宗教は生まれる歴史や地域、人種などが違うから、それぞれが、それぞれにあった宗教を持っているだけで、同じひとつの山の頂上を目指すのにルートが違うだけのようなことだと思えるようになりました。

●催眠療法を受けるきっかけからお話します。

空未を亡くしてから半年のちょうど母の日の日曜日(5/13)、葬儀をしてくださったお坊さんと、五木寛之さんの講演会とのジョイントコンサート、飯田史彦さんの講演会、子どもを亡くした親の会、この3っつが重なって、どこに行こうかギリギリまで迷っていました。
迷ったあげく、今日は母の日だし、私は子どもを亡くしたお母さんの集まる子どもを亡くした親の会に参加することにしました。主人とお姑さんはお坊さん五木寛之さんのジョイントコンサートに行きましたが。

子どもを亡くした親の会は、たまたま朝日新聞の記事で知りました。そこに来ていた人は年輩の方が多く、私くらいの歳の人はたった3人、若い3人で一緒に食事をして帰りました。
そこで飯田史彦先生の話しも出て、私も変な催眠をかけられるのかと不安も有り、また反面受けてみたいという期待もあり、飯田先生の本をよく読んでいる人から聞き出していました。
その人は、催眠療法は医学的にも取り入れられていて変なものじゃないから試しに受けてみたらと言ってくれました。

その後、思いきって奥山医院に予約をとりましたが、なんと2年半も先しか空いてなくてがっかり。
でも、キャンセルがあれば早く受けることができるそうですが、キャンセルもなかなかとれません。
人気外タレのチケットをとるようなものです。
何度か挑戦しましたがダメでした。

それで、ずっと諦めていたのですが、空未の追悼音楽会の最後の挨拶をせねばならなくて、何を話そうか考えていました。
どう考えても、一番言いたいのは「空未ちゃんごめんなさい。悪いお母さんでごめんなさい」という言葉意外何も話す事はないと思いつめ、それを伝えなければ死ぬしかないと思い、死ぬ方法を考え眠れなくなっていました。朝になり、またどうしても空未に会って謝りたくてもう一度、奥山医院にキャンセルはないか、電話をしました。


そしたら、なんと!偶然、今キャンセルの電話を受けたすぐ後だったようで「今、キャンセル、でたばかりよね」なんて、看護婦さんどうしで言っているのが聞こえました。
オーラッキー!!
「今、キャンセルがありましたよ、よかったですね。来週の月曜日ですが来れますか?」と聞かれ、「来週の月曜日って6月4日、えっ!私の誕生日、もちろんお願いします。予約します。」
ということで偶然にも私の誕生日に空未に会えることになりました。

●催眠療法を受けた6月4日当日のお話をします。

診療内科の先生なので、最初に問診のようなものがあると思ったらそういものはなくて「何ですか。はい、お子さんに会いたいのね、名前は、空未ちゃん、半年前に亡くなったのか、さあ、半年前じゃあ早いなあ。はいじゃあ、はじめようか」って簡単に聞いただけでおしまいでした。

最初はイメージトレーニングのような感じで「足の先が温かくなるのを感じてください」「足の先に意識持っていってください」というリラックス状態への導入です。これは自律神経訓練法のようなもので特別お話するほどでないので次ぎにすすめます。

リラックスした中で過去世に戻るのですが、私は本にあるような前世には戻れませんでした。
今世での空未と一番強いつながりのあった時期に戻る事ができ、そこで空未に会えました。
3歳くらいの空未と公園で遊んでいました。
先生が「空未ちゃんを抱いてください、抱いて話しかけてください」て言われ、空未を抱いたら、空未が急に二河白道の絵(浄土真宗でお念仏の道を歩む例えの有名な絵)になってしまいました。

「先生、空未が絵になりました」というと、「いいから、絵になった空未ちゃんに言いたかったこと話しかけてください」と言われ、
「空未ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。悪いおかあさんでごめんなさい」って、もう泣きながら謝りました。
そしたらすごいんです。シャンシャン シャンシャン、鈴が鳴るようにお念仏が聞こえてくるのです。
もう凄いです。自我崩壊の声が聞こえるとよく真宗では言われますがそれよりも凄いです。
人間語では表現できません。ありがたくたありがたくて、勿体無くて、感激の涙ボロボロです。
(空未に話しかけると言っても声に出さず、思って伝えるだけでいいので、先生には全然聞こえないから何を言ったかはわからないです。
先生に言うべき時は声を出してちゃんと伝えています)


先生から、「何か光る明るいものは見えませんか」と聞かれ、上を見ると太陽が見えたので「太陽のような光りが見えます」と答えると「光の所へいきましょう」と言われ、ヒュ〜っとジャックと豆の木の木に乗ったまま空高く昇る感じで光りの所まで昇って行きました。
先生から「何か見えますか」と聞かれたら目の前に阿弥陀さまが見えました。
「先生、阿弥陀さまが見えます」と言うと「では、阿弥陀さまに空未ちゃんは何処にいるか聞いてください」と言われ、聞いてみると「空未ちゃんは大活躍していますよ」と言われました。

そしたら空未が出て来て「おかあさん、何しに来たの?私忙しいのに」って言うんです。
飯田先生の本では「お母さん 合いたいかった」と言って可愛く走りよって来る例が出てるので、私は空未に会えたことはもうスッゴイ嬉しいのですが、「何しに来たの」て言われ少しがっかりでした。
でもこの偉そな話し方はもいかにも空未で身体を持って生きていた時とちっとも変わっていません。

光りの世界で、空未は亡くなった子どものお世話をするお姉さんの係りをしていました。空未の周りには20人くらいの幼稚園から小学校の中学年くらいまでの子どもたちが遊んでいました。
空未は私に「お母さん、私はブランコから落ちて死んだけど、病気で死んだ子やお母さんに殺されて死んだ子もいるよ。」って言っていました。

先生が「空未ちゃんに何故死んだのか聞いてください」と言われ、聞いてみたら「私は人間の世界は人が信じられなくて嫌だったから、早く阿弥陀さまの所に帰りたかった」と言いました。
先生が「今度は阿弥陀さまに聞いてください」と言われ、聞いてみたら
「空未ちゃんは綺麗な心を持ているから、このまま人間として生き続けて、心が汚れてはならないのだ、この綺麗な心のままの空未ちゃんの人間としてのやるべきことは終えたので私が迎えに行ったんだよ」と言われました。

先生が「お母さんが死んだら空未ちゃんは迎えに来てくれるか聞いてください」と言われ、聞いたら、空未は偉そうにしてたのに初めてニコっと笑って「うん、行くよ」って言ってくれました。
先生が「空未ちゃんに、お母さんは空未ちゃんの所に行くまで、どうすればいいか聞いてください」って言われ、聞いたら「おかあさんはいのちの本当の意味を伝えることがお母さんの役目だよ。その役目を終えないと来れないよ。」と言われました。

先生が「阿弥陀さまにいのちの意味を伝えるにはどうしたらいいか聞いて下さい」と言われ聞いたら「お念仏をすることです」と阿弥陀さま答えてくれました。
「お念仏をするにはどうすればいいか聞いてください」と言われ聞くと「私を信じることだ」と言われました。
今度は「阿弥陀さまを信じるにはどうすればいいのか聞いてください」と言われ、聞くと「何も理屈を言わず私を信じることでいいのだ」と言われました。
私はこの場で内心、奥山先生ってなんであんあなにひつこく聞くのか、私のような例は珍しいから興味があるのかと思いました。


先生が「空未ちゃんに、また会いに来たいけど、どうすればいいか聞いてください」と言われ聞くと「お母さんから会いに来なくていいよ、お母さんが困ったら、私のほうから会いに行って助けてあげる」と言ってくれました。
この場でも内心、奥山先生が催眠を上手く利用した商売でやっているなら「お母さん、奥山先生の所にまた来てね、そしたら会えるよ」なんて言わせる術もあるだろうに、そんなことは一言も言っていないから、やっぱり良心的で人を助けるためにやっているんだと思いました。

先生が「では、最後に空未ちゃんと一緒にいる子どもたちを抱いてください」と言われ、その子たちに近付いて抱きました。そしたらその子たちが光りになってこれまた何とも言えない至福をうけているような燦々と輝く温かい光を抱きました。
これも人間語ではうまく表現できません。次に先生が「今度は空未ちゃんを抱いてください」
と言われ空未に近付こうとすると空未のほうから近付いてきて、空未が大きな大きな光になって私の身体をすっぽり覆い、私が空未に抱かれたのです。
これはもう何とも表現の言葉もありません。臨死体験者が光に出会って、至福の愛に包まれて生き方が変わったという話しを聞きますが、まさにその体験でした。
この体験はもう私のこの人生で二度とないと思います。今度体験するとしたら本当に死んで空未が迎えに来てくれた時だと思います。

他にもいろいろ空未と話しましたが、主人のことや祖母のことなど、ここに書くほどではないので長くなるのでこのくらいにしておきます。
空未に抱かれた後は催眠を解くような声かけがあり終です。
この日から理屈でなく想像でなく空未のイキイキした存在が現実になり身体はないけど永遠のいのちになった空未との日々送っています。

●最後に宗教的なビジョンについて

私の場合はかなり浄土真宗のビジョンが出てきていますが、確かに私にとってはご縁の深い宗教です。
しかし浄土真宗にとらわれていません。
前にも話したように宗教の違いによる枠は感じていません。
もちろん人に何か宗教を薦めるようなことは全くありません。
宗教の話しは好きですが、 よけいな誤解を招いても困るし、難しいのであまりしたくないです。


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