** 岡田有希子 **

 虚像と実像がシンクロした、悲劇の正統派アイドル

岡田有希子、彼女が投身自殺をしてから、今年(2000年)ではや14年の月日が経過したが、昨年は13回忌のメモリアルとしてCDボックスが発売されたり、彼女が所属していた芸能事務所「サンミュージック」も、死後封印して来た彼女の生前映像をTVで解禁したりと、未だファンの関心は衰える事を知らない。
それどころか、こうした動向によって、生前の彼女を知らない層でも、新たに支持が高まっているらしく(実際、某BBSにて「CDボックスが発売された岡田有希子さんは、現在どうしてるのですか?」との質問カキコがあった)、更には発売中止になった「花のイマージュ」が陽の目を見たことで、彼女の楽曲面での再評価も活発化しているようだ。

かように、今でも多くの支持を集める有希子だが、支持される理由としては、「可愛らしい」「純情可憐」「謙虚」「控えめ」「素直」「優等生」「歌が上手い」といったファクターで様々だろうが、いずれにせよ、俗に言う"正統派アイドル"としての魅力である事は間違い無く、しかも、評価としては「最後の正統派アイドル」との見解で衆目の一致を見るようである。
確かに、彼女が活躍していた84〜86年頃になると、人気アイドルのキャラクターとしては、「元気型」(小泉今日子・本田美奈子)、「ツッパリ系」(中森明菜・中山美穂)、「庶民派(?)」(菊池桃子・斉藤由貴)、この三つを柱としてジャンル分けが進み、これらのどれにも属さない、有希子のような正統派キャラは少数だった。
それから、売り出しのシステムにしても、『スケバン刑事』に象徴される、ドラマ・CM絡みのメディアミックス(歌手よりも女優・CMモデル主導)や、おニャン子クラブのような人海戦術(質より量)が主流になってきたわけで、有希子のように、新人賞目指してひたすた歌手業に邁進するという正攻法な戦略は、もはや主流とは言えなくなってしまった。 賞レースも権威が失墜して来たし。
むしろ、正統派・正攻法を否定することで、各人が他者との差別化を図る事に、しのぎを削っていたとも言える。
王道的な戦略ではインパクトに欠けてしまい、逆に不利とも言えるほど、それだけアイドル業界が爛熟していたのである。
しかし、かような状況下でありながらも、有希子はキャリア相応に人気が上昇していったのだから、彼女はトレンドには左右されない絶対的な魅力に満ちた存在であったと言える(節目節目で多少イメチェンはしてたが)。

こうした現象を鑑みると、有希子は名実ともに「最後の正統派アイドル」の評価に相応しくあるが、よくよく考えてみると、正統派・正攻法でブレイクしたアイドルというのは、決して彼女が最後ではないのだ。
1年後輩の芳本美代子もそうだし、「モモコクラブ」というヤツが一枚噛んではいるものの、西村知美・島田奈美だってそうだろう。 かなり時代が進むが、有希子と同じ事務所の、田村英里子なんかもそうかもしれない。
それでも、有希子が"ラスト然"と感じてしまうのも事実で、その点不思議ではあるが、理由としては、彼女が人気絶頂のまま逝去してしまい、路線変更・人気失墜・醜聞等のマイナス面を、我々が一切見ずに済んだからだと思う。
同タイプでも芳本・西村等は、アイドル卒業後、それぞれにいろんな要素(人気失墜・老け・結婚・別居・天然ボケ等)を晒してしまったおかげで、「昔は正統派アイドルだった」という事実だけでは到底済まない複雑な想いを、往年のファンには抱かせてしまうのだから。
その点、有希子の場合は、純情可憐な売れっ子アイドルのままで、半永久的に人々の記憶に残っているわけで、不謹慎を覚悟で言ってしまえば、アイドルとしては理想的な形ではあるのだ。
赤木圭一郎やジェームス・ディーンなんかと同じように。
あと"ラスト然"たる他の理由としては、『スター誕生』が生んだ最後のスターである事も理由に挙げられるか。
80年代も中盤になると、「スタ誕=アイドルの王道」という既成概念に加え、同時に「スタ誕=旧態依然」とも感じられて、これも彼女を"ラスト然"にしてしまう要因な気がする。

それから彼女自身、正統派アイドルとしての資質が非常に特殊だったことも、"ラスト然"たる評価には大きく寄与していると思われる。
普通、正統派アイドルがメディアを通して見せる顔というのは、あくまでも演出であって、営業用に作られた虚像であるのが一般的だ。
芸能界で生き残るうえで必要な要素、「したたかさ」「貪欲さ」「自分本位」みたいなモノと、正統派アイドルの主だった構成要素、「純情可憐」「素直」「優等生」とは完全に逆座標だから。
となると、正統派アイドルとしてやって行く以上は、いかに芸能人としてのアクの強さを隠蔽しながら、正統派として演じ切るかが勝負なわけだが、有希子の場合はちょっと事情が異なり、もちろんメディア的には、正真正銘の正統派アイドルと映っていたが、どう見てもそれは演出とは思えず、正統派アイドルとしての虚像部分と、佐藤佳代(有希子の本名)の実像部分とが、かなりの割合で合致していたように思えるのだ。
これは決してファンの贔屓目ではなく、当時、リアルタイムで彼女を見ていた人なら判るだろうが、有希子ほどTVの歌番組等で居心地悪そうにしていたアイドルも珍しかった。
歌ってる最中でも、表情や動きは堅めだったが、それ以外の場所でも、自分にスポットが当たる時はいつも困った顔をして遠慮がちだったし、司会者に話を振られた時でも受け答えは消極的で、適当に心弱く微笑んだり頷いたりするだけなんである。
もっとも、発言の内容自体は至って利発で、理路整然としていて筋の通ったモノであったが、TV画面から受ける印象としては消極姿勢だった。
普通のアイドルだったら、ここぞとばかりに"目立とう精神"がスパークするものなのに、彼女はいつも正反対。
その余りにもアイドル離れした立ち居振る舞いは、一種奇異ではあったが、それだけ逆に目立ったとも言える。
けど、どう考えても、あれが計算によるアピールだとは思えなかったけどなぁ。
おそらく彼女の実像は、大人しくて繊細な女性だったと想像されるが、一人の女性としてはともかく、少なくとも芸能人としてはマイナスであり、事務所側も欠落している"目立とう精神"の重要性を本人には説いていたらしいが、これらのマイナス因子も、正統派アイドルとしては、むしろTV的に違和感無くハマるのである。
 「自分にスポットが当たっても遠慮がちな態度」 → 「謙虚で控えめな大和撫子」
 「消極的で堅い受け答え」 → 「生真面目な優等生」
 「心弱く微笑みながら適当に相槌を打つ」 → 「素直で心優しい温和な性格」 といった按配で。
ただでさえ、"正統派アイドル然"としたルックスの持ち主なだけに、余計にそう映った。
つまり、有希子の場合は、資質が芸能人としてはマイナスであればあるほど、正統派アイドルとしての魅力は反比例して増大して行くという、一種逆説的とも言える奇妙な状態で、アイドル稼業が順当に展開して行ったのである。
まぁ虚実が合致するのだから、正統派アイドルとしては極めて純度が高く、ある意味、究極というか完全無欠である。
ただ、その完成度の高さ故に、有希子で"正統派アイドルとしての正解"が提示されてしまった感が強く、おかげで、以降の同タイプのアイドルは、その純度に関して、有希子と比べると見劣りしてしまい、何かボーダーラインに達していないように感じるんである。 その点も有希子が「最後の正統派」として評価される所以だと思える。
もちろん、これには有希子が死によって「神格化」されたことも作用してるんだけど。

しかし、こうした「正統派でありながら虚実が一致」という、芸能的には不健康とも言える状態が、そう長続きするとは考えづらい。
彼女自身も、芸能界に不向きな己の資質を充分に自覚していた向きがあり(事実そういう発言をしている)、こうしたジレンマは彼女を多いに悩ませたのではなかろうか。 
芸能人として不適なだけに、売れれば売れるほど、芸能界に居るのが辛くなってしまうが、その居心地悪そうな姿で、より魅力が引き立ってしまい、その結果、一層支持されて、ますます辞めづらくなるという悪循環。
元来、生真面目で繊細な性格だっただけに、そんな気がしてしまうのだが、うがち過ぎだろうか?
よく彼女を褒め称える美辞麗句の中に、「もう二度と彼女のような人は現れない」というのがあるが、上記のような事を考えればそれも当然であり、確かにこんな人は他に居ないと思う。
というか、同じ悲劇を二度と繰り返さないうえで、「彼女のような人は出て来てはいけない」とも言えるが。
もちろん、自殺の真相は一切明らかにはされていないので、こうした苦悩が原因にどこまで関与しているのか不明だし、彼女自身、こんな苦悩をどこまで抱いていたのかも、実のところは全く判らないのだが。
でも、死後発売された懐古本『愛を下さい』とか読んでると、端々にこうした苦悩が垣間見えるんだけどなぁ。
事件の真相に関しては、事務所の相澤社長が「少なくとも10年間は黙秘したい」と当時コメントしていたが、13回忌になっても公表しないところを見ると、どうやら墓場まで持って行く決意を固めたと思われる。
おそらく、真相は永遠に闇の中であろう。

それにしても、もし、あのまま彼女が死なずにアイドル稼業を続けていたらどうなってたであろうか?
もっとも、飛び降りる前に、既に彼女はガス自殺を図っており、しかも、その情報は業界に洩れていたから、その時点でアイドル引退の公算が大きかったのだけど、たとえその点をクリアしたとしても、個人的には、あまりイイ結果は期待出来なかったように思える。
というのも、平成になってから、アイドル業界はすっかり下火になり、世の中はバラエティ全盛へと突入していったわけだが、どう考えても、有希子があのバラドルの波に乗れたとは考えられないし、本業である歌手業を続けてたとしても、あの頃は"アイドル上がり"というだけで差別されていたから、高セールスは期待できなかっただろうし。
年齢的にアイドルを卒業して、女優展開して行ったとしても、果たしてトレンディドラマにも馴染めたかどうか・・・
ただ、もう少し時代が進めば、安田成美・和久井映見あたりに混じって、"やすらぎ系女優"として上手く転身できたかも知れない。 あのまま順当に成長してくれれば、"やすらぎ系"の素材としては問題無さそうだけどなぁ。
ライバルだった菊池桃子以上に"やすらぎ"がハマったのでは?
もしくは、画才のある人だったので、工藤静香に先駆けて『ニ科展』の常連になって、芸術方面で話題を振り撒けたかもしれないし、意外と肉感的なボディの持ち主でもあったので、それを生かしたセクシー路線に活路を見出せた可能性も、無きにしも有らずか?
まぁ死んだ子の年を数えるような真似をしてもしょうがないんであるが(ホントに数えてるな)、どんな結果になったにせよ、彼女にはずっと生き続けて欲しかったのは間違い無い。

(2000.06.16.)

 


ファースト・デイト

作詞・作曲:竹内まりや 編曲:萩田光雄


 詞の内容から考えれば、竹内まりやの集大成

岡田有希子のデビュー曲。 作家陣には職業作家ではなく、シンガーソングライターの竹内まりやが起用された。
これまでに竹内は河合奈保子や薬師丸ひろ子等の女性アイドルを手掛けた実績があるので、それを見込まれての起用だとは思うが、それにしても、新人アイドルのデビュー曲をいきなり著名なアーティストが手掛けるというのは、意外とありそうで無いパターンである。
有名アーティストによるアイドルへの楽曲提供、その事自体は70年代から多く見られるが、それは既存のアイドルが「脱アイドル」狙いでアーティスティックな音楽性に挑むケースが大半だし、加えて一般リスナーの価値観も「職業作家よりもアーティストのほうが格上」なので、有名アーティストのクレジットは「ゴージャス」「一張羅」的な意味も加わるのだから。
そう考えると、デビューでまりやをあてがった、レコード会社・事務所の有希子に対する期待度は相当なものだと云える。
当時、同様の戦略だったのは、他には三田寛子くらいじゃないかなぁ。
同じアーティスト系でも、薬師丸ひろ子・渡辺典子・安田成美は映画絡みで、ちょっと事情が異なるし、スターボー・真鍋ちえみは、あまりに実験色が強過ぎるし。

そんな有希子のデビュー曲であるが、スタッフの気合が空回りする事無く、実際に完成度の高い楽曲に仕上がっている。
まずは歌詞だが、タイトル通り、初デートの様子を描写しており、竹内が堀ちえみに提供した「待ちぼうけ」と似ているが、「待ちぼうけ」が情景描写主体だったのに対し、「ファースト〜」は心理描写が主体になってる点が大きく異なる。
 ♪ずっと前からチャンスを待ち続けてきたの〜 ♪「好きよ」と一言、いつか打ち明けたい〜
この辺は石川ひとみ「まちぶせ」っぽいが、
 ♪何もかもがバラ色に見えるわ 初めてのデイト〜  アイドルお約束の"ルンルン気分"で締めてはいるものの、
 ♪たそがれになる頃 少しだけソワソワ〜 ♪手と手が震えてお喋りがとぎれる〜
と、描写の基本はあくまでも「緊張感&シリアス」で、アイドル歌謡としては珍しいパターン。
この歌詞、手短ながらもストーリー展開に違和感が無く、しかも、アイドルらしからぬ「緊張感&シリアス」を主軸に、ルンルン気分・切なさ・不安など、初デートには付きものの少女心理がてんこ盛りで、なおかつ、判りやすい言葉で表現しているという優れモノである。
 ♪クラスで一番目立たない私を 選んだ理由は何故?〜 ♪胸がほらドキドキ 噂になりそうよ〜
 ♪どんな顔で今度会えばいいの? みんなに内緒よ〜
竹内得意の「自意識過剰」もちゃんと押さえていて、作家の個性まで明確に打ち出している。

曲は「A→B→A→B'→C」という構成で、マイナー調主体で進行するが、Cメロでメジャーに転調。
これは歌詞内容に則した転調なのだが、河合奈保子「ヤングボーイ」等にも通じるモノがある。
ラストの♪好きよと一言〜 で、自分の切ない気持を独白するという、情感の盛りあがりに合わせてキーをUPさせてるのも、やや強引ながら、ストーリー展開に則した構成で上手い。
しかし、この曲で特徴的なのは、サビメロを特に設けていない点である。
強いて言えば頭サビっぽいが、それでもさほど、これと言った聴かせ所は無い作りで、その点が歌謡曲好きには物足りなくあるが、反面、全体がムラ無く優れたメロディで、決して悪い曲ではない。
それどころか、オールディーズ風のコンパクトな曲作りで(演奏時間も2分台という短さ)、歌謡曲離れした洋楽センスに富んだ楽曲であると言える。
元々竹内は洋楽志向の強い人で、「モロ洋楽」といったメロディが多いのだが、それでもこの作品は歌謡曲として上手く消化されているほうである。
それだけにキャッチーではあるが、音程のアップダウンが激しく、音自体も取りづらい作りで、デビュー曲としては、やや難易度が高いと思うが、彼女はキチンと歌いこなしており、淡々と歌ってるようで、何気に新人離れした実力である事が判る。
アレンジ面では、低音から高音へと徐々に盛りたてるイントロがスリリングで、出だしから一気に作品世界へと引き込んでしまう。
以降、ストリングス・シンセ類を適宜使用しながら、要所要所でリズムを変化させたりして、手堅いながらも仕掛けを随所に施している。
コーラスワークも結構凝っているし、♪ファーストデイト ファーストデイト〜 のタイトル連呼で締め括るラストもなかなか。 サウンドに関しては、曲・アレンジ共に問題無しだ。

この作品、歌詞・サウンド・歌唱、全ての面でハイレベルな出来映えである。
「ファースト・デイト」というコンセプトもデビュー曲向けだし、詞の描写も個性的で、傑作と呼んで差し支えないだろう。
しかも、詞の内容から考えると、過去に竹内がアイドルに提供してきた作品の集大成の感すらあり、この作品に対する竹内の意気込みには凄まじいモノを感じる。
デートが舞台=「待ちぼうけ」、緊張感=「Invitation」、自意識過剰=「けんかをやめて」といった具合に。
いきなり大手レコード会社・事務所所属の新人を任されて、その重責に応えるべく頑張りを示した結果であろう。

(2000.6.16.)

 

リトル・プリンセス

作詞・作曲:竹内まりや 編曲:大村雅朗


 初期有希子作品は、60年代ティーンポップへの回帰

今回も作詞・作曲は竹内まりや。 前作と同じくデートが舞台で、竹内的には「ファースト・デイト」の続編なのかも。
しかし、今回は続編なだけあって(?)、「デートを重ねて、より一層相手を親密に想う」という主題なので、場数を踏んでいる分、緊張感はなく、かなり甘めの作品世界に仕上がっている。
 ♪ふたり分のブランチ抱えて いつもより少し早い待ち合わせをした遊園地〜
 ♪お気に入りのグレイのTシャツお揃いで やけに今日は恋人気取りの私たち〜
 ♪半分づつ食べるオレンジは恋の味 仲間達がうらやましそうな顔してる〜
とにかく、「なんでもかんでも二人は一緒」である事を強調しており、その同一性でアツアツぶりを表現しているのだが、「ペアルック=仲良しカップル」という図式は、発売当時ですら、アナクロな事この上ないうえに、
 ♪私はいつでもあなただけのプリンセスよ〜 ♪このまま手を取り おとぎの国へ連れてって〜
甘いメルヘンで締め括っている点も、気恥ずかしいまでのアナクロニズムだ。
 ♪テスト明けまではしばらく会えないけど〜  ♪心配しないで あなただけを想ってる〜
ティーンらしく学生気質の描写もあって、一見、等身大っぽいけど、本質はリアリズム希薄のメルヘンである。
これこそアイドルポップスの典型であり、正統派としては正解なんだろうけど、それにしても時代錯誤だよなぁ。
しかも、今回の"ルンルン気分"は、前作のシリアスな心理描写と比べれば、やや平凡に感じるし。

曲は「A→B→A→B'→C」という前作とほぼ同じ構成で、その構成や曲調を鑑みれば、今回も基本は’60sなのだが、「ファースト〜」と比べれば歌いやすい作りであり、しかも、今回はCメロをサビにして、歌謡曲っぽく"聴かせる"作りもしている。 どことなく「ラバーズ・コンチェルト」っぽいけど。
アレンジは前作の萩田光雄から、今回は大村雅朗に交替して、’60sな曲調に合わせて、フィル・スペクター風アレンジで応戦している。
別にタンバリンをシャカシャカ鳴らしてるわけではないが、バスを効かせたリズム隊といい、独特なテンポを刻みつづけるシンセ類・ギターといい、雰囲気としてはスペクターっぽい。
全体として低音強調傾向なので、主題の甘ったるさに相反して骨太なサウンドになってしまったが、そんなに悪いアレンジではない。
ただ、間奏でAメロをそのまま流用していたりと、仕掛けに乏しく手堅い・・・というか中途半端な印象なので、どうせなら、もっと大胆に"スペクターサウンド"を取り入れたほうが良かったのでは?
それこそ大瀧詠一みたいに、タンバリン等のパーカス系で目いっぱい装飾したり、コーラスワークにもっと趣向を凝らしたりして。 もっとも、発売当時は、この手の"スペクターサウンド"は「もう今更」って風潮だったが。

この作品、サウンドが’60sで、歌詞がアナクロ。 「ファースト・デイト」以上に古臭いし、出来としても凡庸に感じる。
しかし、見方を変えて、作品のテーマが「60年代の郷愁」だと考えれば、逆にコンセプチュアルな出来栄えと云える。 タイトルからして、60年代の「パイナップル・プリンセス」っぽいし。
そう言えば、「ファースト・デイト」にしたって、「コーヒー・デイト」「渚のデイト」的だもんなぁ。
そう考えると、有希子の初期作品は、コンセプトとして「'60s洋楽を彷彿とさせるアイドルポップス」というのがあったのかもしれない。 簡単に言えば「ティーンポップへの回帰」か。 弘田三枝子・中尾ミエ・伊藤ゆかりといった、あのライン。
そう認識すれば、この異様なまでのアナクロニズムも納得が行くし、竹内の起用も、ネームバリュー頼りのアドバルーンではない事がハッキリする。
というのも、竹内は元々が洋楽志向、それも’60s寄りの作風であり、有希子仕事は、竹内の本領が存分に発揮できるフィールドなわけで、彼女の起用は大正解なんである。
それだけに竹内も、有希子に対しては思い入れが強かったのでは?
そういう意味では、この「リトル・プリンセス」は、竹内ならではの力作ではあるな。
これでアレンジが、徹底して’60sサウンドを追及していれば、オールディーズ通の間で、後世に語り継がれる傑作に成り得たであろう。 アレンジを山下達郎に任せれば良かったのに。

(2000.6.16.)

 

- Dreaming Girl - 恋、はじめまして

作詞・作曲:竹内まりや 編曲:萩田光雄


 岡田有希子の最高傑作

またしても作詞・作曲が竹内まりやで、今作で"竹内まりや三部作"は一応完結する。
今回は主題の連続性が途切れて、「親にも内緒の秘めたる初恋」がテーマ。
 ♪恋したら誰だって綺麗になりたい〜 ♪ロケットに忍ばせた写真を見つめながら〜 
 ♪今日もまたため息で一言「おやすみ」〜 ♪片隅に書き込んだ一言「I Love You」〜
「恋に恋する乙女心」を丹念に描写しているが、基盤となるのは、
 ♪ママの選ぶドレスは似合わない年頃よ〜 ♪いつまでも子供だと思わないでおいてね〜
 ♪ピンクのマニキュアさえ まだまだおあずけなの〜 ♪真夜中のテレフォンも許してくれない〜
 ♪大人へのステップを歩き始めてるのに〜 ♪判ってはもらえない私のこの気持ち〜
といった具合に、大人からの束縛に対する反発である。 「もう、子供じゃないの!」という自我の発露か。
しかし、反発とはいっても、激情爆発ではなく、あくまでもメルヘンチック、かつ上品に表現していて、結構優雅なムードに仕立てている。
 ♪鏡の前に座り震える指でそっと〜 ♪口紅をつけた事ママには内緒よ〜 
清潔な色香まで漂わせているのもポイント高し。 
「リトル・プリンセス」ほどのアナクロ感も無いし(タイトル自体は結構キてるが)、ストーリー性もあって、ロマンティックで気品溢れる秀逸な歌詞だと思う。

曲は前作同様にメジャー調で、「A→A'→B→A'」という、三部作の中では最も歌謡曲的な構成となった。
しかし、メロディ自体はやはり’60s風で、今回は「可愛いベイビー」あたりに通じる曲展開である。
それだけに、かなり覚え易いくてキャッチーだし、結構歌い易いメロディだ。
サビもちゃんと高音で盛り上げて"聴かせる"作りにしているし、名曲と呼んで差し支えないと思う。
アレンジは’60sなメロディに多少歩調を合わせながらも、ロマンティックな歌詞を装飾している。
全体としては、ニューミュージックテイストで進行し、これにピアノ・ストリングス・タンバリンがソフトに絡み、緩やかで流麗なサウンドが展開される。
さほどオールディーズ調ではないが、イントロはトレイシー・ウルマン「夢見るトレーシー」(’60s色強し)を想わせる旋律だし、スチールギターを導入したり、所々出てくるブラスの音色なんかは、やはり’60sを意識しているか。
これに要所要所でコーラスが重なり、サウンドに厚みを加えているし、間奏の旋律が全然本編と無関係なのも、努力が垣間見える。 派手な仕掛けには乏しいが、上品な作品世界とはマッチしているので、優れたアレンジと言って良いだろう。

この作品、歌詞・曲・アレンジ・歌唱、全ての面で特に欠点が見当たらない。
有希子の作品はいずれもクウォリティが高く、ランクは甲乙付け難いが、トータルバランスという観点で俯瞰すれば、この作品が最もムラ無く均整の取れた完成度を誇るのでは? 個人的には、この「恋、はじめまして」を最高傑作に推したい。 それにしてもこの作品、"三部作"の中では最もティーンポップ色が強い。
曲調もさることながら、サブタイトル「Dreaming Girl」も60年代っぽいし、歌詞なんてモロに漣健児作品の、弘田三枝子「子供じゃないの」・伊藤ゆかり「大人になりたい」だろう。
竹内が漣から多大な影響を受けている話は、至るところで耳にするが、この作品を聴けば一目瞭然である。
ただし、少女の自我をストレートに出す事無く、上品に表現しているくだりは、漣とは異なる個性だし、それがカマトトっぽい厭味にならないのだから、やはりアーティスティックな感性だと思う。 というか、日本人離れしたセンスなのかも。 
ユーミンの歌詞は"都会的"って感じだけど、竹内の歌詞って、彼女にアメリカ留学の経験があるせいか、"アメリカン"っぽいもんなぁ。
松本伊代も初期は似たような路線だったが、伊代に対する世評の高さを考えれば、こちらももっと評価されてイイと思うが。

それにしても、何故に’60sへの回帰なのか。
当時、他に’60s志向でデビューしたのは、松本伊代とつちやかおりくらいだけど。
その辺が気になったので、色々と考えてみたのだが、アイドル歌謡の楽曲制作の場合、セオリーとして"トレンドの追求"というのがある。 確かに、リリースする以上はヒットを狙うのが当然だから、流行に便乗するのも道理な話だ。
でも、有希子・かおりみたいな正統派に関しては、存在自体が流行に左右されないだけに、逆にトレンドを追及すると違和感が生じるのかもしれない。
「正統派は正統派らしく、楽曲もスタンダードがふさわしい」ということであり、たぶんセオリーとしても正しいと思う。 それ故の「ティーンポップへの回帰」ではなかろうか。
ちなみに伊代の場合は、キャラの異色さを、スタンダードによって無難に中和した感が強く、有希子やかおりとは目的が全く異なると思う。

(2000.6.16.)

 

二人だけのセレモニー

作詞:夏目純 作曲:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆


 ユニークな設定を生かせなかった歌詞が残念

今回は作曲を尾崎亜美が、作詞を夏目純がそれぞれ担当。
尾崎亜美という、竹内同様、著名な女性アーティストの起用であるが、その使い分けに関しては、両者それぞれに意味があると思う。
竹内の場合は「ティーンポップへの回帰」、それに見合った才覚という事での起用だが、尾崎の場合は「ニューミュージック調の追求」、それを狙っての起用だと思う。
「今風な大人にイメチェン」狙いのニューミュージック志向ではないかと。
もちろん、こうした路線変更にはキャリアアップが背景にあるのだが、それにプラスして、事務所の先輩である、松田聖子の後釜を目指すという、意向もあったと思われる。
聖子作品ではお馴染みである、松任谷正隆の起用も、そうした意向の顕れかもしれない。

で、こうした諸々の狙いが見え隠れする「二人だけ〜」であるが、確かに"まりや三部作"とは異なる作風である。
まずは曲だが、竹内作品のスタンダードな曲調とは異なり、かなり独特なメロディラインである。
「A→A'→B→C→D」という構成で、全編メジャー調であるが、ニ長調で進行して行くAメロに対し、Bメロではいきなり変ト長調(嬰へ長調)へと調性が変化してしまうのだ。
ここで一旦キーがUPするのだが、Cメロでは再びニ長調に戻り、キーもダウンする。
で、最後のDメロで高音域になって、そのまま楽曲が終息するという作り。
要するに、Bメロでは突然違う曲が始まるかのような展開であり、しかも、盛りあがりの波が2回あるという、珍しい曲構成なんである。
コレに限らず、尾崎作品は変わった曲構成が多いが、これほど異色でありながら、聴いていて違和感が無いんだから、尾崎作品の中でも、コレは白眉な出来だと言えよう。
しかし、松任谷のアレンジも、こうした楽曲の特異さをフォローしていると思う。
各パート毎にリズムを変化させていて、それぞれに独自のカラーを与えている上に、パートの導入部分では、シンセブラスを効果的に使用する事で、色合いの異なる各パートを、上手く繋ぐ事に成功しているのだ。
Dメロではリズムをブレイクさせているのも上手い。
欲を言えば、タイトルが"セレモニー"なだけに、もうちょっと厳粛というか、清冽なサウンド作りをしたほうが良かったと思う。 悪いアレンジではないが、Bメロ・Cメロ部分がちょっとピコピコし過ぎて、慌しいうえに俗っぽくなってしまった。

有希子の歌唱も、今回は竹内作品とは異なる面を見せている。
というのも、今回はこれまでに無くキー設定が高めで、しかも、全編"ウィスパー唱法"という、有希子にとっては冒険作となったからだ。
結果としては、A・A'メロ以外では、まぁまぁ上手く音が取れているし、ウィスパーもちゃんとこなしているので、一応成功と見てイイだろう。 ただし、技巧には長けているものの、表現力にはいささか難があるかも。
もう少し、各パート毎で違ったカラーが出せたら文句無しだが、2年目程度のキャリアだったら、このレベルで"御の字"ではあるか。

夏目による歌詞も、これまでの少女染みた恋愛感情から一歩進んで、実際に恋人とキスまで漕ぎつけてしまう大胆さを見せている。
その点は、有希子のキャリアアップに則した成長だが、竹内作品と比べると、その描写がやや難解・・・というか、不親切である。
 ♪キャンパスのお別れに約束してたの〜 ♪キャンパスのお別れに小さなお願い〜
 ♪パーティーは二人だけ灯したキャンドル〜 ♪パーティーは二人だけ見ないで星空〜
 ♪とまどいも卒業よ あふれるほどにあなたが好き〜
どうやら二人は学生らしいが、二人はずっと恋人同士だったの? それとも、勇気を出して初めての告白?
で、舞台は卒業パーティ? 状況的には、二人きりで個室に居るわけ? 
かように、状況設定・人物設定係等が不明瞭なうえに、、
 ♪あ・・・重ねた指の十字架でも キラキラする・・・なぜ?〜 ♪ねぇ・・・3本きりの花束でも ときめいてる〜
といった、ロマンス目前にしての"ときめき"の表現もよく判らないし。
二人が結ばれる瞬間を「セレモニー」と表現するくだりは上手いと思うけど。
センテンス毎での描写はなんとなく掴めるのだが、これが全体を通してとなると、辻褄が合わなかったり、言葉足らずだったりして、今一つしっくりこないんである。 「点と点が結ばれず、線になっていない」とでも言おうか。
さらに、歌詞をよく読むと、1番と2番では、使っている単語や表現こそ違えど、シチュエーションにさしたる変化は無く、単なる繰言に過ぎない事も判り、フィーリングだけは伝わるものの、一体何をしたいのかがよく判らない歌詞なのだ。

この作品、有希子にとっては、あらゆる面でステップアップとなった作品であるが、歌詞の中途半端さで損をした。
「卒業パーティーで、愛する人と結ばれる」という設定は、非常に珍しかっただけに、その主題にこだわって、もっと歌詞にストーリー性を持たせたら、面白い作品になったであろう。
J-POP系の"卒業ソング"といえば、等身大な内容だったり、「卒業」「グラジュエーション」等、ストレートでベタなタイトルばかりなので、この作品がもっと設定にこだわれば、異色の"卒業ソング"としても注目を集めたかもしれない。 こういうロマンチックな卒業ソングがあってもイイと思うのだが。
ただ、この作詞こそ、竹内まりやに任せるべきでは無かったか?
まりやだったら、学生気分になぞらえながら、卒業のシチュエーションを存分に生かして、美しいセレモニーが繰り広げられただろう。 もっとも、尾崎とまりやの共作なんて実現不可能だろうが。

(2000.6.16.)

 

Summer Beach

作詞・作曲:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆


 モロ"聖子調"だが、2年目でこのアダルティな作風は異色

作曲は前作同様、尾崎亜美だが、今回は作詞も尾崎が兼任。
どうして夏目純が外れたのかは知らないが、やはり前作の出来映えがスタッフ陣にも不評だったのか?
それとも、松田聖子「天使のウィンク」の実績によって、尾崎のライティング能力が買われたのか?
いずれにせよ、歌詞については、わざわざ作家を替えただけの事はあって、前作よりも出来がイイのは確か。

主題は特に無く、「夏の渚で繰り広げられる恋愛模様」を淡々と綴っている感じで、まぁアイドル歌謡にはありがちなパターン。
 ♪Oh Summer Beach 小さな太陽ね あなたの瞳 熱い視線〜
 ♪眠った振りしてパラソル越しに感じてるのよ〜
 ♪Oh Summer Beach 睫毛の白い砂 指先ではらってくれた〜
 ♪涙がこぼれる 「ごめんね」貴方を驚かせた〜
結構リアルで大人びた雰囲気だが、前作よりはずっと明快な描写で冴えている。
ただこの作品、描写は判りやすいのだが、主人公と彼氏に纏わる因果関係・時間軸がちょっと判りにくい。
 ♪こんなに近くにいるのに何故 I miss you〜 ♪去年の水着の跡も消えて行くから〜 
 ♪空がブロンズ色に染まる時間待ってて〜 ♪終わった恋に さよなら言いたいの〜
と云うことは、二人は出会ったばかりで、且つ、すぐ恋に落ちた事を示唆してるのだが、その直後に♪昨夜は「ごめんね」 私が少しいけない〜 と続くので話がややこしくなる。
終わった恋とサヨナラした日から、ソッコーで一夜が明けてしまい、その間のストーリー展開が一切不明なまま、唐突に「ごめんね」と来るのだから。 メロディが途切れること無いまま、いきなりこの展開ってのは、いくらなんでも無茶だろう。
もっともコレに限らず、尾崎の歌詞は、大抵描写は優れていても、男女の因果関係がよく判らないのであるが。
つまり、曖昧なラブソングというのが、彼女の個性とも言えるわけだが、決して長所とは言えないだろう。
リスナーに深読みを強要させる歌詞って、結局は作者の一人よがりに過ぎないと思う。
ラストでは詞が振り出しに戻るのだが、恋愛が成就した事で、「ナンパ目的の熱い視線」から「愛情こもった熱い視線」へと、その意味合いが変化するという構成は見事だが。

曲は「A→B→C→A」という構成で、前作同様メジャー調だが、キーは低めで調性も変化しないし、前作よりもかなりオーソドックスな作り。
一応、構成上は頭サビだが、ややインパクトに欠けるメロディで、さほど"頭サビ然"とは感じられない。
しかし、Bメロでマイナー調が少々加味されたり、Cメロではリズムがブレイクするという仕掛けがあり、それ故の落差なのか、同じAメロなのに、締めのAメロはサビとして妙にしっくりくるのが不思議である。
取りたてて、アレンジがドラマティックに盛りあがるわけでもないのに。
振り出しに戻りつつ、意味合いが変化する歌詞内容に合わせて、ラストのAメロではキーをUPして締め括るのも上手い。 全体としては、尾崎亜美らしく、ニューミュージック調のメロディで、アイドルっぽさは希薄。
アレンジも前作同様、松任谷正隆が担当しているが、前作以上に今回はイイ仕事をしていると思う。
コーラスとギター効果音主体という、リズム抜きのイントロからして、既にムード満点だし、コーラスで盛り上げて締め括る、エンディングも見事。
全編、曲に合わせて、ニューミュージック調を基盤としながらも、打ちこみ系のオカズは抜きにして、渋めに仕立てている。
これに季節感溢れる歌詞内容をも考慮して、ラテンテイストのパーカス・ピアノ・ストリングス・シンセ類を適宜導入しており、トータルではソフトロック・AOR(というよりフュージョン?)系のアダルティなサウンドに仕上がった。
クールなコーラスワークや上品なシンセハープの音色が、作品に清涼感を与えるアクセントになってるし、松任谷得意の間奏でのサックスソロも、夏らしさの演出に一役買っていると思う。
サウンド面は非常に洗練されており、なおかつ、夏らしい季節感を醸し出しながらもクールという、出色の完成度に仕上がった。

この作品、特にサウンド面がアダルティな仕上がりで、かなりアイドル離れしているが、素晴らしい出来栄えだと思う。
デビュー2年目の、それも正統派としては異例とも言える急成長だが、こうした速い展開の裏には、急いで有希子を松田聖子の後継者として擁立しようと目論む、事務所側の思惑があったように思う。
当時、聖子は神田正輝との婚約を発表しており、ひいては結婚休業をも示唆していたから、事務所にとって、聖子の後釜育成は必至で、内心焦ったのでは?
事実、この作品は、歌詞に聖子ほどの"リゾート感"には欠けるものの、サウンドに関しては「小麦色のマーメイド」にも通じる音作りで、モロに聖子調だし。
いささか突貫工事的だが、有希子もこうした過剰な期待に応えて、この大人歌を無難に歌いこなしているのだからサスガ! というか、器用なところを見せた。
聖子ですら、この手の作品にトライしたのは、デビュー3年目だったと言うのに。

(2000.6.16.)

★ 追 記 ★

歌詞の中で、僕が散々文句を言ってた ♪Oh Summer Beach 昨夜は「ごめんね」 私が少しいけない〜 の部分ですが、実はデモテープの段階では
♪Oh Summer Beach  心配しないでね  今はあなただけよ 昨日のケンカもごめんね〜
という歌詞だったそうで、この「ごめんね」はケンカが原因だった事が判明しました。
制作過程で肝心な部分が端折られたようです。
pinoさん、情報ありがとうございます。

それから「尾崎=夏目」という説を聞いた事があったんですが、夏目さんは男性で、尾崎亜美とは全く別人だそうです。
赤塚さん、情報ありがとうございます。

 

哀しい予感

作詞・作曲:竹内まりや 編曲:松任谷正隆


 作家の弱点が露呈した、中途半端な"ロック歌謡"

編曲は前作同様、松任谷正隆が担当しているが、作詞・作曲は尾崎亜美が外れ、竹内まりやに戻された。
三部作で竹内作品は完結したかと思いきや、再びの回帰なわけだが、その理由が今一つよく判らない。
前作での勇み足とも思える、急ピッチなアダルティ展開に対する見直しがあったのだろうか?
いささか"聖子モドキ"だった、前作への反省で。
それ故に、アイドル路線への回帰・オリジナリティの追及する必要性を感じて、今回再起用したのだろうか?
それはともかく、作家を替えただけのことはあって、あらゆる面で、前作とは異なる作風である事は確かである。

まずは曲だが、「A→B→C→A」という前作と同じ構成で、しかも、同様の頭サビ形式ではあるが、調性は正反対のマイナー調で、今回はちゃんと高音域で聴かせるサビメロにしている。
それから曲調も、前作はニューミュージック調だったのに対し、今回は純然たる歌謡曲調。
凄くキャッチーだし、覚え易くて歌い易い旋律なのだが、それにしても、洋楽志向な竹内作品の中で、ここまで歌謡曲然としたメロディは珍しいと思う。 後の「駅」「シングル・アゲイン」以上に歌謡曲っぽいし。 でも、決して悪い曲ではない。
アレンジも前作とはテイストが異なり、今回はエレキギターを効かせたロック調サウンドで、これまでに無くダイナミックな音作りである。
ただし、ロック調とは言っても、ブラスが強調されているし、適宜ストリングス・シンセ類が導入されたりしていて、あまりバンドっぽくはないが。
イントロでのギター・ブラスの旋律は、フィリップ・ベイリー&フィル・コリンズ「イージー・ラヴァー」を彷彿とさせるが、全体として洋楽センスはさほど感じられず、言うなれば"ロック歌謡"なる趣きに仕上がった。
ただし、これまでサウンドに関しては、一応"ハズレ無し"の完成度を誇った有希子作品だが、今回は出来があまり良くないかも。 全体的にシンプル過ぎて、オカズが少なすぎるのだ。
有希子の物静かな個性とズレる事を懸念して、あまり派手には仕立てなかったのだろうが、結果として"ロック歌謡"としては物足りない中途半端な印象になってしまった。 狙いが仇になったか。
抑えのBメロ以外では、もっとパーカスやストリングスのオカズを加えるなりして、よりスリリングに、よりドラマティックに仕立てたほうが良かったのでは?
間奏のギターソロもしっくり来ない旋律なうえに、コーラスワークにも大した工夫が見られず、エンディングの終息も凡庸だし。

さらに、今回は歌詞の出来もあまり良くない。 タイトルからも察しが付くように、今回のテーマは"失恋"で、
 ♪お願いよ本当の事 打ち明けてほしい〜 ♪眠れない夜が続き 哀しい予感に揺れてる私〜
 ♪二度目の夏が過ぎた頃 あなたは突然変わったの〜 ♪電話の声も少し冷たい〜
 ♪お願いよ噂なんか 嘘だと言ってね〜 ♪私だけ愛してると 誓った言葉を信じたいから〜
尾崎作品とは違って、哀しい予感の背景や根拠も判り易く綴っているものの、
 ♪好きよ 好きよ こんなにも好きよ〜 ♪風に散った私の初恋〜
描写は凡庸極まりなく、しかも、2番に至っては
 ♪心と心離れたら 友達でさえもいられない〜 ♪なんて淋しい季節の始まり〜 
どうにもゴロが悪いんである。
"まりや三部作"で示した、流麗なストーリー展開も無く、
 ♪お願いよせめて家に辿り付くまでは〜 ♪繋がれた指と指を離さないでいて 泣きそうだから〜
こんな陳腐なフレーズを、2度も繰り返してしまうという体たらく。
とにかく今回の歌詞は、判り易いのだが、平凡で退屈極まりないのだ。

一体どうしたと言うのだろう? 竹内のアベレージからすれば、ちょっと信じ難いレベルの低さなのだが。
おそらく竹内は、テーマが特殊だったり、表現に制約が多いほうが、イイ詞が書けるタイプなんだと思う。
「けんかをやめて」「Invitation」「ファースト・デイト」「恋、はじめまして」、そして後の「色・ホワイトブレンド」と、彼女が生み出す傑作は、いずれも個性的な主題だったり、CM絡みで制約がキツかったりするケースばかりなのだから。
確かに、物語の背景・状況・人間関係等を判り易く描写するという、彼女の特技(特性)は、ある程度狭い範囲内で、それも具体的な対象に絞ったほうがが生きてくるハズである。
これが今回のように、"失恋"という漠然としたテーマになると、フィールドがあまりに広すぎて、対象が分散されてしまい、どこに的を絞って描写すればイイのかが難しくなるんだと思う。
"初恋の終焉"というオプションは付くものの、それでも先述の傑作群と比べれば広範囲だ。
これと言った人物設定も無いだけに、十八番の"自意識過剰"も、あいにく今回は発揮する場面が無いし。
おかげで、創作エネルギーが消化されずに、能力を持て余してしまって、陳腐な繰言をかましたり、描写が平凡だったりするのだろう。 そう言えば、まりやはコレに限らず、テーマが漠然としたものだと、大抵歌詞はつまんない事が多いのだ。
そういう場合は、英語詩をふんだんに取り入れて、凡庸さを隠蔽してしまい、一種BGMとして機能させるパターンが常套なんであるが。 さすがに有希子相手じゃ、英語ばっかり使うわけにもいかないか。
その点が、まりやと松任谷由実・中島みゆきとの大きな違いである。
ユーミン・みゆきは、たとえテーマが漠然としたものであっても、取り止めの無い感情・状況を、詞的に上手くまとめてしまうもんなぁ。 やっぱり、両者のライティング能力は、女性アーティストの中でも傑出していると思う。

この作品は、竹内の作詞家としての弱点が露呈してしまった作品であり、しかも、アレンジも中途半端で、あまりイイ出来とは言えない。 佳曲ではあるし、有希子も初の"ロック歌謡"を上手く歌いこなしているんだけど。
もっとも、サウンド・歌詞の両面で、前作を支配していた"聖子臭"は皆無なので、「聖子色を一掃する」という一応の目的は、とりあえず達成されたか。 ・・・って、ホントにそんな目的があったのかどうか、知る由もないんだけど。

(2000.6.16.)

 

Love Fair

作詞・作曲:かしぶち哲郎 編曲:松任谷正隆


 完成度は高いが、突飛な印象が拭えない"エロ歌謡"

今回は作詞・作曲を、ムーンライダースのかしぶち哲郎が担当。
初の男性作家の起用あるが、またしてもアーティストであることには変わりなく、職業作家を極力排除するという、有希子の楽曲制作方針は本当に徹底している。
ただ、かしぶちの音楽性はニューウェーブ系なので、同じアーティストでも、竹内まりや・尾崎亜美とはジャンルが異なり、当然完成品も、これまでのモノとは一味違う作風に仕上がった。

まずは曲だが、「A→B→C」という構成で、マイナー調基本だが、Cメロではメジャーに転調。
一応頭サビだが、最後にAメロで再び盛り上げるという、ちょっと珍しい構成である。
さらに、変わっているのは、出だしが最も高音域で、あとは徐々にキーが下がってくる点である。
つまり、曲が進行するにつれて、だんだん盛り下がるような作りにしているのだが、Cメロが終わると、間奏抜きでいきなり2番が始まるので、一聴する分には、最後に再び盛り上がるよう錯覚する仕掛けを施している。
ただし、構成上は間奏無しでも、BメロとCメロの繋ぎが異様に長く、ココが間奏だと言えば、そう呼べる代物かもしれない。
パートの繋ぎで間奏然としてしまうのも、これまた奇妙な作りなのだが、この作品はCメロだけがメジャー調で、全然違う曲みたいだから、何らかの"間"を置かないと、BからCに上手く繋げないのも確か。
かように変わった曲構成なのだが、各パートのメロディ自体は、そんなに奇抜なものではなく、どのパートも優れたメロディだと思う。
Aメロのみならず、Cメロは中サビ(?)として充分機能し得る出来だし、Bメロも、岩崎宏美「二重奏」のサビを彷彿とさせるキャッチーな旋律だし。
先述の通り、Aメロは高音域で、これまでに無いハイキーであるが、有希子はファルセットを駆使して、見事に歌いこなしている。 それ以外でも、上手く音程を取りながら、表情豊かに歌っていると思う。
アレンジは松任谷正隆が続投しており、今回はベースを効かせてバンドっぽい音作りにしている。
このベースラインと、Bメロでのシンセの旋律が、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」っぽくて、非常に印象的なのだが、全体的には至ってシンプル。
ただし、独特な曲構成を生かすべく、リズムをブレイクしたり、コーラスやピアノで装飾したりと、各パート毎に違ったカラーをしっかり出している。
シンプルで物足りない感じもするけど、この作品は、あくまでも変わった曲構成がウリなので、各パートで個性が出ていれば、むしろアレンジは控えたほうが特性が生きるだろうし、サウンド全体のバランスが取れるのかも知れない。

かように独特なサウンドだが、この作品で最も特徴的なのは歌詞で、主題は存在せず、散文詩の如く、イメージの羅列に終始しているんである。 そう書くと、まるで井上陽水みたいに、崇高な文学性を内包してるのかと思いきや、そんなことは無く、
 ♪Love Fair 花束を添えて〜 ♪Secrets 貴方のお部屋に〜 
 ♪Love Fair 私の全てを〜 ♪Secrets そっと届けるわ〜  一見、メルヘンを装ってはいるものの、
 ♪花びら摘み取るいけない子 やめて No No No・・・・〜 ♪不思議な電波を放つのは 誰の瞳?〜
結局はエロスの隠喩なんである。
要するに、河合奈保子「大きな森の小さなお家」同様の、「メルヘンに身を窶したSEX隠喩」であって、むしろ俗っぽいのだ。
挙句の果てに、 ♪時々ハードに攻めてくる ダメよ No No No・・・・〜 ♪身体のバランス失って 少しめ・ま・い〜  とかほざいてるし。
パート毎に異なる曲調に合わせて、歌詞もパート毎にイメージを変えているものの、結構キワモノである。
それこそ陽水作品ばりに、もっと文学的に描写してくれれば、崇高な官能として昇華できたんだろうけど、
 ♪さぁ 熱いラブ・フェア NOW 甘いキュートライン〜 ♪さぁ恋はハリーアップ あなた誘惑ドリーマー〜 
と、残念ながら描写も幼稚だし。 それにしても、"誘惑ドリーマー"とは「とほほ」なセンスだなぁ。

この作品、歌詞が正統派らしからぬキワモノぶりで、ハッキリ言って怪作である。
しかも、単語のセレクトや描写は幼稚でセンスも良くない。
完成度の高いサウンドにしたって、曲構成は決して一般的ではなく、かなり突飛な印象を受けるし。
そう言えば、今回は有希子の振り付けも結構"変"だった。
ビートたけしには茶化されるし(スーパージョッキー)、とんねるずには、本人の目の前で真似されるし(FNS歌謡祭)。 好意的に解釈すれば、あらゆる面で新境地に挑んだとも言えるが、一体その目的は何だというのか?
僕はズバリ、"有希子の松田聖子化"なんだと思う。
別に今回のサウンド・歌詞に、取りたてて聖子っぽさは感じないんだけど、本質的な意味において、非常に聖子と共通するものを感じる。
というのも、聖子作品の本質は、「リゾート感」や「ニューミュージック性」以上に、ある種の色っぽさ・エロティシズムなんだと思う。 ただ、それは内容が官能的ではなく、聖子の場合は、声質がセクシーなのだが。
聖子の楽曲制作は、あのセクシーボイスを歌唱法で生かしつつ、楽曲全体のセンスの良さで、上手くエロスを隠蔽している感があるが、同じ方法論を有希子に当て嵌めても、声質がクリアな彼女には全く功を奏しないだろう。
それならば逆のやり方で、楽曲をエロティックにすれば、有希子の清純な持ち味で上手くエロスが隠蔽出来て、トータルでは聖子チックな色っぽさが醸し出せるのではないか? 今回はそれ故のエロティック路線だったのではなかろうか。 「Summer Beach」が"表層的な聖子化"だとしたら、こちらは"本質に迫った聖子化"という感じで。
そう考えると、この突飛な路線変更にも合点が行くのだが。
ただ、今回はちょっとやり過ぎで、訳の判らない作品になってしまったが。

(2000.6.16.)

 

くちびるNetwork

作詞:Seiko 作曲:坂本龍一 編曲:かしぶち哲郎


 良くも悪くも、彼女にとっては転機となったはず

今回は化粧品CMソングというタイアップが付いたため、話題性を重視してか、作詞に松田聖子・作曲に坂本龍一という、豪華異色スタッフを揃えた。 編曲で松任谷正隆が外れ、前作で作詞・作曲を担当していた、かしぶち哲郎がアレンジを担当。
新スタッフの手により制作されたこの作品だが、有希子にとっては初の(唯一の)オリコン1位も獲得出来たほど、大ヒットになったのだから、聖子も教授も面目は保たれる結果となった。

まず曲だが、「A→B→C→A→D」という構成で、ほぼ全編メジャー調。
変則的な構成だが、頭サビのキャッチーな作りである。
曲調は、初期路線を彷彿とさせる親しみ易さだが、今回は’60sというよりは、クラッシックに近いかも。
しかし、厳粛な趣きは無く、モーツワルト風の小気味良い上品な旋律で、まぁ坂本龍一らしい楽曲である。
ただ、それだけにアクが無さ過ぎるとも言えるが、Dメロという小技がアクセントとなっていて、そんなに退屈はしない。 さらに、「Love Fair」とは違って、有希子の音域にもフィットしていて、彼女にとっては歌いやすかったハズ。
CMソングに必要なキャッチーさと、春らしい軽快さを兼ね備えている上に、覚え易くて歌い易いのだから、優れたメロディと言ってイイだろう。 アレンジは曲のアクの無さを生かすべく、オーソドックスに仕立てている。
リズムは普通の8ビートだし、イントロとDメロの導入部でブレイクさせてる以外は、特にリズムを変化させてるわけでもない。
間奏ではギターソロがむせび泣くものの(大したことはないが)、全体的な装飾は、コーラス・ブラス・パーカス・シンセ類を適宜加えてる程度で、ごく必要最低限である。
シンプル過ぎて物足りなくも感じるが、この上品なメロディを生かすのであれば、この程度のオカズで丁度いい按配だと思える。 欲を言えば、イントロとエンディングはもうちょっと趣向を凝らしても良かったのでは?
サウンドはシンプルでも、いや、サウンドがオーソドックスな分、仕掛けは巧妙にして欲しかった。

歌詞は化粧品のコマソンらしく、主題は特に設けていない。
ちゃんとサビではお約束のタイトルコールを押さえているものの、
 ♪ほら くちびるに Network〜 ♪ほら くちびるは Network〜  てんで意味不明なのが、これまたお約束である。
タイトルが意味不明なのは、化粧品コマソンの常であって、別に構わないのだが、今回は描写もこれまた無意味。
 ♪ねぇ誘ってあげる ロマンティックに kissが欲しいの?〜 ♪私を抱きたい そんな顔をしてるとわかる〜
 ♪バカね私はすぐに堕ちたりしないつもり あきらめなさい〜 ♪でも誘ってあげる ロマンティックに〜
 ♪あなたいつも自分から 何も言えない じれったい・・・・〜
ただひたすら、挑発的にフェロモンを振りまいてるだけなんである。
もっとも、化粧品という商品自体が女性性を象徴するものだし、コスメのコマソンでは、フェロモン描写は決して珍しくないのだが、ここまで色仕掛けに徹しているケースは他に無いだろう。 ホントに無意味。 というか、これじゃ色情狂だって。
ある意味、聖子らしいって言えば、まぁそうなんだけども。 にしても、前作以上にスケベだよなぁ。
「Love Fair」がムッツリスケベだとしたら、こちらはモロスケベか。
でも、モロな分、隠微さは軽減されたかもしれないが、化粧品コマソンじゃなかったら、まずアウトだろう。
有希子の歌唱も、こうしたフェロモン描写を表現しようと、今回大いに頑張っている。
ほぼ全編、ウィスパー調で歌っており、同じウィスパーだった「二人だけのセレモニー」以上に、色っぽさを醸し出すべく躍起になっている。
しかし、それでもイヤらしくは感じないのだから、ホント、彼女の清純さには頭が下がる・・・・というか、単に堅過ぎるだけかも。 でも、聖子自身があの声で歌っていたら、ホントにスケベな作品に仕上がってただろう。

この作品、特にサウンド面で、これまでに無くシンプルでオーソドックスな作風なので、その点が物足りなく感じられてか、凡作と位置付ける向きが多いが、僕はそんなに悪い作品とは思わない。
無意味なフェロモン歌詞も、化粧品コマソンだと割りきれば、目くじらを立てる程でも無いし。
もっとも、タイトルはゴロが悪くてセンスに欠けるが。
ただ、この作品は、歌詞や歌唱の色っぽさ(下品さ)を、サウンドの上品さで隠蔽しているような作りで、これこそまさに「有希子の聖子化」そのものである。 有希子のウィスパー唱法も、明らかに聖子を意識した代物だろうし。
聖子の起用にしても、話題性の提供もさることながら、やはり"聖子化"の記号でもあるハズ。
「化粧品CMソング」「坂本龍一が作曲」という話題性に目が行ってしまうが、作品の本質は、聖子本人をも巻き込んだうえでの、「有希子の聖子化プロジェクト」のより一層の断行であろう。
事実、大ヒットの勢いで一気呵成にイメチェンが浸透出来たのだから(と思う)、目論みは大成功である。

なのに・・・なのに、これがラストシングルになってしまったのだ。
「有希子の聖子化」という方針に対しては賛否両論だろうが(個人的には"否"だが)、それでもこのヒットを契機に、ステップアップ出来た可能性が大きかったのだから、本当に彼女の死は惜しまれるんである。
しかも、次作「花のイマージュ」で、そのイメチェン結果の吉凶が提示される直前だっただけに、余りにタイミングが悪すぎる。 まぁ人の死にイイ頃合いなんて無いんだけど。
しかし、この頃になると、彼女が既に精神的に病んでいる事は、TVを観ていても充分に感じ取れた。
休業直前時の華原朋美にも通じる、あの生気の無い、ボーッとした姿のままTVに出てたし、発言も的を得ない事が多かった。 それどころか、もうルックスそのものが、半年前とは別人になってしまった感がある。
それは、単なるイメチェンの枠を超越した変貌で、顎は細く尖り、眼に勢いは感じられず、なんだか寺田理恵子みたいだった。
こうした外目にも明らかな異常ぶりも、イメチェンによって逆に目くらましされてしまった感があり、そう考えると、今回のイメチェンは"功罪相半ばする"か。 改めてご冥福をお祈りします。

(2000.6.16.)

 

花のイマージュ

作詞・作曲・編曲:かしぶち哲郎


 模索を経て、"聖子調"を独自に咀嚼しきった傑作

有希子のシングル盤は、前作「くちびるNetwork」を最後に発売されていないが、この「花のイマージュ」は、次回作として1986年5月に発売が決定しており、彼女が逝去する前から、早々と各種メディア媒体を通じて宣伝されていた。
しかし、結局は有希子の死により"お蔵入り"となってしまい、幻のシングルとして、十数年もの間封印されてきた。 
でも、1999年にCDボックスに収録されて、13年の時を経てやっと陽の目を見る運びとなり、今ではすっかり知名度の高い作品となった。
基本的に、拙コンテンツではシングル未発売曲を取り上げる事は無いのだが、この作品に関しては、シングル曲として制作されたわけだし、実際、今ではシングル曲として認知されているようなので、今回は特例として取り上げたい。

今回は作詞・作曲・編曲を、かしぶち哲郎が一人で担当している。
有希子の楽曲制作では、初の(唯一の)個人によるトータルプロデュースなわけだが、これは「Love Fair」での作詞・作曲、「くちびるNetwork」での編曲の実績により、総合力を買われての一任であろうが、それ以上に、アルバム『ヴィーナス誕生』での実績が評価されての大役であることは確実。
このアルバムは、サウンド作りをかしぶちが一手に引き受けたのだが、確かにその完成度たるや、かなりのレベルであったことは事実だ。 で、こうしたプレッシャーをモノともせず(?)、かしぶちは見事期待に応える仕事を示した。

まずは曲だが、「A→B→A→B→C」という構成で、A・Bメロはマイナー調だが、Cメロではメジャーに転調する。
その点は「ファースト・デイト」的だが、この曲はCメロをドラマティックに盛りあげて"聴かせる"作りにしていて、充分サビとして機能させている。
各パートはいずれも覚え易いシンプルな旋律で、しかも、音域は有希子にフィットしていて、その点は「くちびる〜」に近い作りなのだが、クラッシク調だった「くちびる〜」とは異なり、今回はかなり歌謡曲っぽい旋律である。
品の良さでは前作に劣るが、歌謡曲然としたキャッチーさでは、明らかに「花の〜」に軍配が挙がるだろう。
アレンジは「くちびる〜」同様の8ビートで、「哀しい予感」同様、どことなく「イージー・ラヴァー」を彷彿とさせるが、それは旋律が、というより、リズムセクションがそれっぽいように思う。
でも、そんなに洋楽っぽさは無く、かしぶち本来の音楽性である、バンド系ニューウェーブの色彩が強く出たかもしれない。
淡々とリズムを刻むドラムにしたって、シンセドラムではなく、バンドっぽい生ドラム使用だし、所々ギターの冴えがアクセントとなっている点もバンド的。
これにシンセブラスや各種パーカス・シンセ類が加わり、規則的に音色を奏でているのだが、この"規則的"というのも、これまたニューウェーブっぽい。
これらは前作にも共通する特徴だが、今回はギターとシンセがユニゾンになっていたり、ボーカルも有希子自身(たぶん)のコーラスをダブらせたりと、「くちびる〜」以上に厚みのある音作りである。
聴いていて全く退屈しない、優れたアレンジだと思う。

歌詞は「Love Fair」同様の散文詩形式で、主題は特に存在しない。
 ♪恋化粧ルージュにキッス 胸騒ぎレースのリボン〜 ♪いたずらにブラウスの プティ・ボタン外してみた〜
 ♪秘密の香りがするロマンス〜 ♪窓辺からこっそり春のスカーフ〜
 ♪白いプリーツ風にさらわれ 弾む心に咲く花のアバンチュール〜
Aメロ・Bメロでは、春の装いを小道具としながら、フェミニンな色香を思わせぶりに振りまいていて、
 ♪あぁ愛し合いたい バラになりたい〜 ♪あぁ離れられない ユリのささやき〜
Cメロでは、タイトル通り"花"をモチーフに、官能に身悶える様を品良く描写している。
 ♪あぁ心に響く 幸せの鐘〜 ♪街角に恋がいっぱい〜  まだまだ文学チックとは呼べないものの、
 ♪あぁ見つめられたら めまいの季節 恋は花のイマージュ〜  タイトルコールも抜かり無いし、
 ♪指に孔雀の羽をスケッチ〜 青い空に描く二人のイニシャル〜  独特な色彩感覚を言葉で表現している。
訳の判らなさは「Love Fair」並みだが、今回は単語や表現のセンスが格段に優れている上に、季節感溢れる情景も描写出来ている。
おまけに、奔放なフェロモンを"エロ"に訴える事無く、女性らしくキチンと甘美なメルヘンとして昇華しているわけで、単なる色情狂だった「くちびる〜」と比べても、各段にレベルアップした歌詞だと言えよう。
有希子の歌唱は、「Love Fair」でのファルセット、「くちびる〜」でのウィスパーとは異なり、技巧に走らず自然体で歌っている。
「哀しい予感」で、ドラマティックな曲調に合わせた歌唱は実践済みだが、これにプラスして、前2作品で積み上げたセクシーの表現(?)が、さりげなく加味されている。
もっとも、これは「歌手・岡田有希子の集大成」的なキャリアの総括というより、単に彼女が器用なんだと思うが。

この作品、「Summer Beach」以降顕著になってきた、「有希子の松田聖子化」という方針が、様々な模索を経た結果、独自のスタイルで咀嚼しきった、有希子なりの回答だと思う。
具体的には、これまでに述べた通り、色っぽく仕立てた楽曲を清純なキャラで中和する事により、トータルとしては、聖子的な淡い色香を出そうという狙いであるが、まず歌詞では、フェミニンな色香が、散文詩形式で甘美なメルヘンとして上手く昇華されているし、曲・アレンジでは、歌謡曲性とニューウェーブ性が上手く融合されたのだから、モドキに陥る事無く、自己流で聖子路線になぞらえる事に成功したと言える。
ただ、これまでの楽曲とは異なるサウンドなので、その点に違和感を感じてか、ファンの間でも非常に評価が分かれるようだが、公平に見て、特に欠点は見当たらず、私は有希子の中でもトップクラスの完成度だと思う。
しかも、実験精神まで富んでいるのだから、もし、シングルとして発売されていたら、間違い無く最高傑作に推したハズ。 そう、せっかくの完成度を誇る作品ではあるが、それも発売されなければ価値が無いだろう。
結局陽の目は見たものの、やはりこれは正規でシングル発売して、世の審判(?)を仰がなくては制作した意味が無いと思うのだ。 そういう意味で、「花のイマージュ」はやっぱり番外だと思う。 しかし、かしぶちは悔しかっただろうなぁ。
彼にとっては自信作だったろうし、今後のミュージシャン生命(作家生命)をも左右する重要作だったのでは?

(2000.6.16.)


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