中森明菜

 自他共に「実力派」と勘違いしているのが悲劇の原因

現在、彼女に対する世間の反応は一種独特である。
もうあの自殺未遂騒動から10年経ってるというのに、彼女をTVで見かけると、未だに「まだ完全復帰には遠い」とか「早く元気になってほしい」といった感想を抱く人が多い。
しかし、現在の彼女は連続ドラマの主演も演るし、たまにバラエティにも顔を出してる。
一芸能人としては、あきらかに売れてる部類である。
そこそこ露出が多い現状であるにもかかわらず(『ボーダー』降板以降、ちょっと怪しいが)、未だ世間は「復帰」の認定をしようはとしないのだ。 そこが独特。

考えてみれば、アイドル歌手でダメになって、別ジャンル(主に女優)へシフトして成功している人って結構多い。
浅野ゆう子・川島なお美・安田成美・菊池桃子・渡辺満里奈・永作博美・・・・・
明菜だってその手の芸能人として考えれば、充分に成功例と言えるのだが。
しかし、彼女をこのジャンルの住人として括るには、あまりにも違和感アリアリだ。
浅野ゆう子・川島なお美みたいに、本当に「失うものは何も無い!」ってな状態だったら、開き直ってなりふり構わず、フロンティア精神バリバリで、新天地での成功目指して邁進できるし、そこそこの成果を上げればそれで"御の字"なのだろうが、明菜の場合はなまじ大歌手としての実績があるから、いざ「女優で一花咲かそか!」と言ってもねぇ、ゼロスタートって訳にはいかないし。
背負ってる物(実績・名声)が大きすぎるが故に、ちょっとやそっと女優業で成功したって、本人も世間も納得できないだろう。 なんか、歌手以外の芸能活動は、全て「余技」とみなされてしまう感じ。
彼女自身、女優業は「余技」だと自認しているフシもあるけど。
実際、彼女のドラマがスタートする時は、いまだに「あの歌手の中森明菜さんがドラマに主演!」といった感じで紹介されてるしなぁ。 となると、やはり歌手業での復活しか、コンセンサスは得られないということになるか。
歌手で成功しないと、CM復帰すらままならないような空気もあるかも。

ところで、明菜って、ホントに歌が上手いのだろうか?
前々から思ってたんだけど、この人って世間で言われてるほどの歌唱力の持ち主とは思えないのだ。
高音域では、よく声も伸びるし、音程も安定するけど、低音域になると、とたんに声出ないし、音程崩れるからなぁ。
特に最近は、声量自体が落ちていて、とても実力派と呼べる代物ではない。
安室奈美恵以降、アイドル歌手でも歌唱力があって当たり前!という風潮の昨今、明菜の低調ぶりは余計目に付く。
それでも、そんな彼女が大歌手でいられたのは、歌番組のおかげである。

アイドル時代は生来のキャラクターである、小悪魔と清純が同居したような謎めいた雰囲気と、時代にマッチした新感覚の不良っぽさで、多くのファンを掴んできた。
それが「ミ・アモーレ」でレコード大賞受賞してからは、歌番組では、常に作品のイメージに合わせた気合満々の衣装・髪型・メイク・ダンスで"歌謡界の女王"をアピールし、視聴者をクギ付けにするようになる。
「DESIRE」では奇抜な着物ルック、「FIN」では帽子・コートに身を包んだオトナの女、「TANGO NOIR」では情熱的なタンゴを披露し、「TATTOO」では古き良き時代のショーダンス(?)をセクシーに再現し、「難破船」ではゴージャスなドレスを身に纏いながら涙の熱唱・・・・・
歌番組での彼女は、より作品を引き立てるために、より視聴者の目を引くために、いつもたゆまぬ努力をしてきたといえよう。 その「ビジュアル至上主義」の結果、自分の"格"を高めることにも成功した。
早い話、プロモーションビデオと同じなのだ。
曲が悪くてもプロモの出来がいいと、観ていて「イイ歌だなぁ」と錯覚することがあるが、明菜はソレを歌番組で実践していたのだ。 沢田研二とやってることは同じである。
事実「ミ・アモーレ」以降の作品は、CD(レコード)で聴いてると、歌上手くないし、つまんない作品も多い。
しかし、彼女が歌番組で歌うと名曲に聞こえてしまうのだから、あ〜ら不思議。
彼女は(というかスタッフは)歌番組の効能を熟知していたのだ。
言い方を変えると、彼女のカリスマ性は歌番組限定仕様ともいえる。 彼女の他に、ここまでやってくれる人なんていないし。 決して世間は、歌唱力を支持していたわけではないと思うのだ。

彼女が歌手業で完全復活を果たすには、ボイストレーニングもさることながら、歌番組での在り方・見せ方を再考察する必要がある。
どうも事件以降の彼女は、実力派であることを自認(勘違い)しているせいか、その事をすっかり忘れているようなので。
ファン(マスコミ)が「歌上手いんだから、早く頑張って」と、本人が錯覚起こすような応援メッセージを送り続けた事にも責任あるかも。 事件以降、かなりのCDを出しているが、歌番組で往年の気合を見せたことはほとんどないし。
小室プロデュースの時も歌番組に結構出てたけど、彼女の歌ってる姿を見て"イイ曲だけどヒットしない"ことを確信したものだ。 声全然出てなかったし、衣装・メイク等、演出に趣向を凝らしたものは、何一つ見受けられなかったから。
明菜が歌手として本領発揮するには、今一度歌番組で「ビジュアル至上主義」を復活させる事が絶対必要条件である。 世間もそれを望んでいるはずだ。

(1999.11.19)

 


スローモーション

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお 編曲:船山基紀


 対照的な歌詞と曲を結びつけるアレンジが見事

中森明菜のデビュー曲。 この歌はよく聴くと、歌詞と曲、それぞれの印象がバラバラだ。
まずは歌詞。 女の子が初夏の海岸で一人の男性と出会い、そこから恋の始まりを予感させる・・・・そんな内容。
対して曲はマイナー調で、恋の始まりよりも、むしろ失恋のほうがふさわしい。 季節的にもおよそ初夏を感じさせるメロディではない。

かように曲と歌詞は、イメージ的には逆座標に位置する。
しかし、曲と歌詞の違和感を秀逸なアレンジがブリッジすることで、ものの見事に相殺されている。
まずイントロを目いっぱいドラマティックにすることで、何かが始まる予感を、そして初夏の渚の情景を上手く表現。
特にピアノの細密で、且つスピーディーなアレンジが効果大。
で、歌い出しではアレンジを抑え、サビからは再びドラマティックなアレンジへ。
♪出会いはスローモーション〜 出会いの喜び、恋への期待感をあますところなく表現している。
エンディングではリズムがブレイクし、ピアノ伴奏のみのアカペラ状態になるが、これも出会いの感激から一段落して、恋のスタートへゆっくりと歩み出す、といった心境を上手く表現しているように思う。

この作品は、マイナーな曲調や「スローモーション」というタイトルにとらわれず、ドラマティックでスピーディーなアレンジを軸にしたことが成功の要因だ。

(1999.11.19)

 

少女A

作詞:売野雅勇 作曲:芹澤廣明 編曲:萩田光雄


 ツッパリアイドル歌謡の「正解」

いわゆる"ツッパリ歌謡"というのは、山口百恵「プレイバック・PARTU」が元祖らしい。
同じ百恵でも「ひと夏の経験」なんかは"性典ソング"で、ツッパリとはまた違うし。
山本リンダや夏木マリなんかは"セクシー歌謡"だし。
まぁ探せば百恵以外のとこから、「プレイバック〜」以前の元祖が出てくるかもしれないけど。
しかし、ツッパリの"アイドル歌謡"となると、この「少女A」が元祖ではないかと思う。 売れたモノでは。

ここで、僕なりの"ツッパリアイドル歌謡"の定義を。

 (1) ロック調の曲・アレンジ
 (2) あくまでも少女の視点で、彼氏や大人・世間への不満を表現すること
 (3) アイドルである以上、男言葉の多用やヤンキー色が強く出ることは避けたい

まぁこんなところか。 (1)についてはご理解いただけよう。
(2)だが、やはりツッパる以上は、不平・不満を吐き出すようなテーマを望む。
(3)もお分かりいただけると思う。 そう考えると、「プレイバック〜」は(2)で引っかかる。
不満大爆発ではあるが、少女ではなく、大人の女だから。
同じ百恵の「絶体絶命」もしかり、「ロックンロール・ウィドウ」もそうだ。
ただ百恵と「少女A」の間には三原順子がいるが、デビュー曲の「セクシーナイト」は、内容が特にツッパリというわけではない。 文字通り"セクシー歌謡"であろう。
ただ横浜銀蝿と絡んだ「だって・フォーリンラブ・突然」なんかはツッパリ歌謡だといえる。
しかし、あれは恋の喜びをヤンキー的に表現しているもので、上記の条件(2)(3)で引っかかる。
そうなると、やはり「少女A」が(1)〜(3)の要素を満たす「ツッパリアイドル歌謡の元祖」と言っていいだろう。
「いいだろう」って、自分が勝手に決めてるんだけど。

まぁ三原順子の場合、百恵の後継者としては若すぎるので、ティーン向けの"ツッパリアイドル歌謡"を歌わせようと、スタッフは模索していたように思う。 ただその正解がいつまで経っても出てこなかったような感じ。
スタッフも三原自身が作品以上に出色のツッパリキャラだったことに、むしろ困惑したのかも。
目くらましされたというか、「木を見て森を見ず」というか。 そこにきて「少女A」の出現!
いきなり思いもよらないところから正解を提示された形だ。 三原陣営は悔しかったろうなぁ、きっと。
鳶に油揚げをかっさらわれたように思っただろう。
でも、明菜陣営は"三原の轍は踏むまい"と研究した結果、「少女A」を世に送り出したハズ。
とまぁこんな感じで、「少女A」誕生には三原順子という踏み台があった・・・・のかも知れない。 僕の想像ですけどね。

(1999.11.19)

 

セカンド・ラブ

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお 編曲:萩田光雄


 デビュー1年目にしてバラードとはかなりの英断

この歌がリリースされた昭和57年頃から、アイドルも盛んにバラードを歌い出すようになった。
多少イメチェンを図ったり、「ちょっと大人な私」を演出するために。
しかも、こぞってニューミュージック系アーティストを作家陣に起用して。
例を挙げると「赤いスィートピー」「けんかをやめて」「春なのに」などなど。
見方を変えれば、本当の意味でニューミュージックとアイドル歌謡がクロスオーバーしたのが昭和57年、と言ってもイイかもしれない。 そんな風潮の中、この歌はリリースされた。
それにしてもデビュー1年目でバラードってのは、当時かなりの冒険だったはずだ。
あくまでも実績あるアイドルが、「脱・アイドル」を標榜してバラード歌うことが一般的だったのに。
明菜の場合は、せっかくのブレイク直後にして路線変更、もしくは軌道修正かと見紛う、結構リスキーな選択だ。
でも、「少女A」の二番煎じを狙わずに、このような英断を下したスタッフは偉いといえば偉い!
結果、この一曲で彼女はカリスマになり得たし。

まぁこれほどの名曲を目の当たりにしたら、誰でもシングルに選ぶよなぁ、とは思う。
しかし、「スローモーション」ほどではないが、この歌も歌詞と曲がちょっとイメージ異なる。
だって、この歌をボーッと聴いてると失恋をテーマにした歌かと錯覚しません?(誰に問うのだ、私は)
曲調もアレンジもソレっぽいし、明菜の苦しげ、且つ切なげな歌唱も失恋風だし。
でも、よーく歌詞を聞いてると、べつに失恋でも何でもないのだ。
ただ「二度目の恋で、相手に自分の想いが伝えられずにモジモジしてる」ってだけの話。
まぁそのこと自体、切ないって言えば切ないんだけど。
でも、この手の主題で、ここまで切ないバラード作品というのも、結構珍しいのでは?
こういったテーマだと、むしろブリッコっぽくなってしまいがちなんだけど。
あ、それを避けるために敢えてバラード調にしたのか? だとすれば正解だわ、明菜のキャラからすれば。

(1999.11.19)

 

1/2の神話

作詞:売野雅勇 作曲:大沢誉志幸 編曲:萩田光雄


 中森明菜のテーマソング

「少女A」でツッパリアイドル歌謡の礎を築いた中森明菜。 この歌で再び同じ路線にトライ。
「少女A」に比べると、よりタイトでスピード感あるロック調サウンドに仕上がっている。
アレンジも所々でリズムを変化させたりして、より洗練された完成度の高い作品となった。
大沢誉志幸の曲も、まぁ悪くないし。
明菜の歌唱も、「少女A」では見られなかった"ドス"が効いてきて、ちょっとだけ迫力が出てきた。
ただ「少女A」の方が荒削りで斬新だった分、インパクトが大きかったのは事実。
そう言う意味では、この歌はちょっと影が薄いのは否めないか。

とにかくこの歌は、サウンド以上に歌詞が優れているのが特徴。
「少女A」よりも、明菜の個性に一層フィットした内容となった。
その彼女の個性を集約すると、

 (1) 小悪魔と清純が同居する不思議さ
 (2) 大人と少女を揺れ動く不安定さ
 (3) 強さと脆さが混在した不可解さ
 (4) 華やかさの裏に漂う孤独感

こんなところか。 で、この歌はそんな当時の彼女を、歌詞で分かり易く表現しているのだ。

 ♪半分だけよ大人の真似、後の残り純粋なまま〜
 ♪誰も私、解ってくれない。人より少し寂しいだけ〜

「少女A」が「中森明菜・ツッパリ宣言」だとすれば、この歌は「中森明菜のテーマソング」だと言える。
当時の彼女を知らない今の若い人に、この歌を聞かせれば、当時の明菜がどんなイメージだったか判ってもらえそう。 売野雅勇、イイ仕事してる。

(1999.11.19)

 

トワイライト 〜夕暮れ便り〜

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお 編曲:萩田光雄


 これは美しき失敗作!

大ヒットした「セカンド・ラブ」と同じ作家陣による純情路線(?)シングル。
「セカンド・ラブ」は内容的にもセールス的にも大成功だったけど、この歌はセールス的にはともかく、内容はイマイチ。 意味不明なサブタイトルも、そのことを象徴的に示唆しているように思える。

ただ、曲は悪くないのだ。
来生たかおらしい、哀愁漂うマイナー調のメロディだし、サビもドラマティックに盛りあがって、聴かせどころはちゃんと押さえてるし。 萩田光雄のアレンジだって、ストリングスが美しい丁寧なアレンジだと思う。
明菜の歌唱も、メロに合わせて切なげだし。 サウンド面では特に問題なしだ。

となると、これは作詞に問題がある。
だってこの歌詞、「好きな人に自分の想いを届けるために手紙を書く」、ただそれだけのことを、大げさに綿々と表現しているだけなのだ。 ちょっとそれじゃ持たないだろう、シングル作品としては。
まぁ、シチュエーションを海辺(?)に設定することで、そして"哀愁"を海に沈む夕日に置き換えることで、無理やり夏の季節感を出そうとしている努力は見えるけど。

あ、「サウンド面に問題無し」って言ったけど、この歌が夏リリースだったことを考えれば、夏らしさが皆無なこのサウンド。 やっぱり問題アリだ。
同じ夏リリースの純情路線である「スローモーション」は、曲のみ、夏らしさが無かったけど、これはアレンジもだからなぁ。 それに加えて、こんな歌詞だし。
秋冬リリースだったら来生えつこだって、このサウンドに、もうちょっと出来のイイ歌詞が当てられたかも知れない(詞先だったりして)。 企画の段階で既に失敗だった、ってことか。
まぁ、この歌は「美しき失敗作」ですね、一言で言うと。

(1999.11.19)

 

禁区

作詞:売野雅勇 作曲:細野晴臣 編曲:細野晴臣・萩田光雄


 明菜の中では「怪作」といえる作品

これは変な歌だなぁ。 まずタイトルが変。 何なんでしょう? 「禁区」って。
歌詞から推測するに、「ボーダーライン」とか「レッドゾーン」ってことなんだろうけど・・・・・
売野雅勇がメロディへの歌詞の嵌め込みに苦心した結果、こんな造語が飛び出したんだろうか。
まさか、企画の段階で「今度のタイトルは"禁区"で行きましょう!」なんて決定されたわけないだろうし。

それはそうとこの歌詞、売野流「しゃらくさ読み仮名」の洪水だ。
手口(やりかた)、催眠(わな)、危険な気(あぶなげ)、など。
売野先生、前からやってる手口ではあるんだけど、この歌がピークかも。
それにしてもどうなんでしょう、この"しゃらくささ"って。 いいんだか悪いんだか、結構微妙なラインだ。
これ以上調子に乗られたら、個性を通り越して、それこそ"禁区"ですね。

まぁこの歌が変なのは、タイトルや歌詞だけではない。 曲はすごくイイと思う。
メロディの良さでは「1/2の神話」を上回るキャッチーさ。 問題はアレンジだ。
テクノなんだかロックなんだか、ハッキリ言ってチグハグな印象。
細野晴臣と萩田光雄の共同編曲だから、しょうがないのか?
実験的で面白くはあるけど、別にこの曲でこの歌詞なら、無理にテクノ仕立てにしなくってもイイと思うけど。
なんか狙いがあったのかなぁ。
このチグハグさで、"禁区"に対する少女の不安・戸惑いをスリリングに表現しようとしたのかも(深読みか)?
それとも、松田聖子「ガラスの林檎」に対抗して、明菜陣営も「細野&だれか」のアレンジで挑戦してみたかったのか?
案外、初めは細野先生一人でアレンジも手がけたけど、どうにも座りが悪くて、萩田先生がケツ拭いた、ってことなのか? あ、このシングルってジャケ写も変だ。 結構怪作ですね。

(1999.11.19)

 

北ウイング

作詞:康珍化 作曲・編曲:林哲司


 傑作だが「明菜ならでは」の必然性に欠ける作品

なかなかの傑作である。 歌詞・曲・アレンジ、全ての面でGOOD。
さらに、明菜の歌唱力もUPしてきたし。
♪ぅぁぁあああ〜〜・・・といった、彼女独自のビブラート唱法がこの作品で開花したのでは?

まず歌詞だが、内容は「全てを捨てて、愛する男を海外まで追いかける」、という一途な女をテーマにしていて、いわゆる「脱・アイドル志向」がこの歌から顕著になってることは誰の目にも明らか。
空港を舞台にしているのも、テレサ・テン「空港」・青江美奈「国際線待合室」・ちあきなおみ「夜間飛行」等の先人に学んで、アダルト志向の追及とも思える。
まぁ言いかえれば、「脱・アイドル志向」と引き換えに、明菜のキャラクターには全く頼らない歌詞作りをしているのだ。
「誰が歌っても同じ」とは言わないが、やや陰のある女性歌手であれば、他の人が歌っても違和感の無い歌詞だと思う。

そして曲。 すごくいいメロディだと思う。
歌詞の内容にマッチした、夜のムードを感じさせる、それでいて「飛行機で愛する人を海外まで追いかける」ことを表現し得るスピード感・スケール感もあるし。 アレンジもキチンとそれに追従している。
ただ、頭サビで始まり、低音域から高音域へ歌い上げるというのは、典型的な林哲司の作曲パターンではあるが。
まぁ林哲司の曲ってコレに限らず、彼独自の黄金パターンに嵌まると、「作曲家・林哲司」の個性が強く出てしまい、どの曲も同じようになってしまう傾向があるのは否めない。 となると、曲が歌い手を選ばなくなって来るのだ。
極端な話、菊池桃子があの歌唱で「北ウィング」を歌っても、明菜とイメージは全く異なるだろうが、違和感は無いはずだ。

かように、スターとしてのスケール感は出ている傑作だけど、「明菜ならでは」の必然性には欠ける作品である。
むしろ、カップリングの「リフレイン」(のちに両A面扱いになる)のほうが、明菜らしい作品だと思う。
それはそうと、この「北ウィング」という絶妙なタイトル。
制作会議の席で、明菜自身が歌詞から引用して提案したものが採用されたのだとか。 ホントだろうか?

(1999.11.19)

 

サザン・ウィンド

作詞:来生えつこ 作曲:玉置浩二 編曲:瀬尾一三


 おそらく全シングル中、最も聖子を意識した作品?

作曲が玉置浩二。
安全地帯「ワインレッドの心」が大ヒットした直後の作品で、一躍コンポーザーとしても脚光を浴びるきっかけとなった作品。 まぁそれはともかく、なかなかカッコイイ作品に仕上がっている。 曲は独特。
「ワインレッドの心」とは違って、サビに入っても特に「歌い上げる」とか「聴かせる」といった作りはしていない、割と平坦なメロディだ。 しかし、その平坦なメロディに歌詞がつくと、とたんにリズム感・起伏が出てくるのだから不思議。
玉置自身、歌手でもあるから、こういう曲作りが可能なのかもしれない。

また、瀬尾一三のアレンジが冴えている。
「サザン・ウィンド」とは言いながら、穏やかな南風ではなく、逆に台風接近のようにスリリングなアレンジを施している。 しかし、決して「血沸き肉踊る」ような興奮はなく、あくまでもドライなのがカッコイイ。
具体的に言うと、全編のシンセドラムが作品に緊張感を与えてるし、トランペットの音色が作品に熱帯ムードを醸し出している。 また、イントロとエンディングにおける、エレキギターのカッティングがドライさを強調している。
さらに、所々でイエス「ロンリー・ハート」っぽいショッキングなアレンジをしているのも、なかなかスリリングだ。

そして、この作品の一番の特徴は歌詞である。
内容は一言でいうと、「異国(?)のマリンリゾート地でのアヴァンチュール」である。
こうしたリゾート地でのラブソングは、アイドル歌手では意外と少ない。
単に海辺やプールサイドを舞台にした作品は腐るほどあるけど、ここまで"リゾート感"の出てる作品はねぇ。
ほとんど松田聖子の独壇場、と言ってもイイくらい(なんでだろう?)。
このような独占状態にあるジャンルに、「サザン・ウィンド」で勇猛果敢に明菜が挑んだとも言えるか?
それとも、ある程度のスター歌手にならないと、この手の主題は歌いこなせないってこと?
そう言う意味ではこの作品、最も聖子を意識したシングルであると言えるかも。
それにしても、同じマリンリゾート作品なのに、聖子版だと「渚のバルコニー」のように甘さやウェット感が出るのに対し、明菜版だと緊張感やドライさが出てくる、と言った具合に全く正反対の作品に仕上がってしまうのは面白い。
ただ「サザン・ウィンド」以降、シングルではリゾート作品をリリースしていないのはちょっと残念。
「Dear Friend」がジャンル的に近いけど。 明菜のウィンター・リゾートも聴いてみたかったなぁ。

(1999.11.19)

 

十戒(1984)

作詞:売野雅勇 作曲:高中正義 編曲:高中正義・萩田光雄


 ツッパリもここまで来ると、もはや明菜の範疇ではない

あからさまにツッパリをテーマにした作品は、これでラスト。
そう言う意味では、「明菜流ツッパリ歌謡の集大成」とも言えるこの作品。
大げさなタイトルからも、その並々ならぬ意欲が伝わってくるような。
曲・アレンジも、その集大成の意味に応えるべくスケールの大きいロック調に仕上がっている。
作曲・編曲はどちらも高中正義(編曲は萩田光雄との共作だが)。
ギタリストらしい、低音から高音への盛りあがりで「聴かせる」曲作り・音作りをしている。
 ♪変えられないかぎり、限界なんだわ坊やイライラするわ〜 の部分で特徴が顕著に出てる。
明菜もスケールの大きいサウンドに負けない、"ドス"を効かしたヴォーカルで対応。

売野雅勇も、ツッパリ歌謡の有終の美を飾るべく(?)、スター歌手に成長した彼女に合わせて、ちょっと大人の視点でツッパリを表現している。
ただ意図はわかるが、この「大人の視点で」というスタンスを取ったことが、結果として裏目に出たように思う。
というのも、明菜本来の個性は、あくまでも「強さと弱さを行き交う不安定」にあると思う。
これまでのツッパリ作品は「少女のツッパリ」だったから、主題が有する「少女特有の不安定さ」が、明菜自身の不安定な個性と上手くシンクロしていて、何の問題も無かった。
しかし、この作品では「ちょっと大人なツッパリ」を表現してるため、主人公が怖いものナシの姉御肌になっているのだ。 山口百恵「プレイバックPARTU」に出てくる女に近いものがある。 これじゃ明菜の持ち味とは大きくズレる。
明菜自身、ツッパリではあるけれど、決して姉御肌ではないから。
この作品でのツッパリは、明菜が表現し得る範疇ではないと思うのだ。

まぁそうしたキャラとの不一致に目を瞑れば、よく出来た歌詞だとは思うけど。
むしろ、三原じゅん子が歌ってれば、なんら違和感は無かったかもしれない。
明菜以上に"ドス"の効いた歌唱が出来るし、見事なまでに彼女のキャラクターと一致した歌詞だから。
逆に嵌まりすぎて怖かったかも。
あ、明菜は歌詞に嵌まりきれないが故に、そのギャップが作品に不安定さを生み出し、その作品の不安定さが彼女のキャラクターの不安定さと上手く一致する・・・それを狙ったってこと?
だとしたら、このスタッフはものすごい才人かも。 単なる買い被りかも。

(1999.11.19)

 

飾りじゃないのよ涙は

作詞・作曲:井上陽水 編曲:萩田光雄


 中森明菜の最高傑作

う〜む、素晴らしい。 歌詞・曲・アレンジ・歌唱、そしてタイトル。 どれを取っても文句のつけようがない作品だ。
まずは歌詞。 明菜ならではの強さと脆さが交錯した不安定な世界を、陽水が個性的に表現している。
誰が聴いても陽水の歌詞だ、って判るほどに個性の強い歌詞。
それでいて明菜のキャラにもピッタリなんだから、相当なレベルだ。
また、主人公が過去の自分を冷徹に振り返り、その時々の心象風景や自己判断を淡々と独白する、というモノローグ手法を取っているのも、アイドル歌謡としては極めて画期的である。
しかしなんといっても、歌い出しの♪私は泣いたことがない〜 のインパクトが強烈。
"つかみ"で一気に作品世界へ引きこむ作詞術はホントにスゴイ!の一言。

そして曲。 陽水らしい曲だけど、この手のブギウギ・シャッフル系リズムはアイドル歌謡では珍しい。
特にマイナー調だと、他にはザ・グッバイ「モダンボーイ狂想曲」くらい?
最初にリズムだけ決めて、しかも歌いながらじゃないと、絶対出てこなさそうな曲。
よく思いつくなぁ、こんなの。 そもそも、なんで明菜相手でこのリズムにしようとしたのか。 そこからして既に謎だ。

で、アレンジだが、ブギウギ・シャッフルでありながら、シンセドラムを軸にした打ちこみサウンド仕立てにしてるのがユニーク。 しかも、歌詞に合わせて、要所要所でロック調にしてるし。
結果、非常に珍しい「ブギウギ・デジタルロック歌謡(?)」に仕上がった。
斬新な"ブギ歌謡"という意味では、笠置シズ子「買物ブギ」以来のインパクトか? 知らないけど。
萩田光雄もなかなかの仕事ぶりだ。 さらに、明菜の歌唱にも注目。
彼女のパワー溢れる歌唱が、作品世界をより明快にしているのはもちろんだが、それ以上に機械でミキシングしたようなあのヴォーカルが、妙に作品自体にマッチしている。 コレも特筆すべき点でしょうね。

とにかく、どういういきさつでこの作品が企画されたのか知らないけど、井上陽水の予想以上の天才ぶりに、周囲のスタッフもみんな触発されて、様々なアイデアが炸裂し、結果ものすごい傑作が誕生したような感じ。

(1999.11.19)

 

ミ・アモーレ

作詞:康珍化 作曲・編曲:松岡直也


 女性歌手では珍しい、大人のサンバ歌謡の成功例

明菜初のラテン歌謡シングルである。
いささか唐突な気もするが、アイドル歌手としてスタートした女性歌手が、大人の歌手へとイメージチェンジを図る手段として、ラテン系歌謡を歌うことは決して珍しくはない。
ラテン音楽自体がスケールの大きなものであるし、それを歌いこなすにはそれ相応のキャリア・実力が伴わないと無理だから、ラテン歌謡をシングル盤としてリリース出来ることが大人の歌手の証である、という共通認識すらあるように思う。
これまでにも、伊藤ゆかり「恋のしずく」・金井克子「他人の関係」とかあったし、80年代に入ってからも、山口百恵「謝肉祭」・岩崎良美「プリテンダー」・本田美奈子「Sosotte」(これはちょっと意味合いが異なるか)、海外でもマドンナ「ラ・イスラ・ボニータ」とかあるし。
そう考えると、「脱・アイドル」としての常套手段であるし、むしろ王道ですらある。
ならば明菜がこうしたジャンルにトライするのは、ごく自然な流れか。

ただ、同じラテン系でも「ミ・アモーレ」のようにサンバで「脱・アイドル」を図るというのは、女性歌手の場合、結構珍しい。
フラメンコ・ボサノバ・タンゴ(ラテンか?)とは違って、サンバはあのホイッスルに象徴されるように、気分を高揚させる音楽の典型なので、普通アダルトというよりも逆にアイドル向けの音楽だから。
これまで多くの女性アイドルが、その絶頂期にサンバを歌っていることからもそのことが判ってもらえよう。
大場久美子「スプリング・サンバ」、榊原郁恵「ラブ・ジャック・サマー」、河合奈保子「夏のヒロイン」、おニャン子クラブ「かたつむりサンバ」などなど。
そうしたサンバ歌謡の常識を破るべく(?)、明菜が「ミ・アモーレ」で大人のサンバ歌謡に挑戦。
まぁホントはこれまでにも、岩崎宏美「夏に抱かれて」とかあったけど、なぜか討ち死。
あ、そういえば明菜はTV「スター誕生」のオーディションで、「夏に抱かれて」を歌ったことがあるらしい。
もともと好きなジャンルではあるのか?

それはともかく、作家陣にラテン・フュージョン音楽の大御所である松岡直也を迎えたこともあって、この作品はセールス的にも内容的にも大成功となった。
音作り・曲作りからして、これまでのサンバ歌謡とは一線を画す仕上がり。
サンバホイッスルで誤魔化すようなマネはしていない。 コレなら世界にも通用するのでは?
欧米人って、ラテン音楽好きだから。
このサウンドを聴くと、今までのものは単にサンバ・フレーバーを表層的に取り入れただけに過ぎない、とすら感じる。

歌詞もこのサンバサウンドに合わせて、リオのカーニバルを舞台に選び、「アモーレ」といった現地語を導入することで異国情緒を醸し出してるし、この熱気ムンムンなムードに合わせて、情熱的な恋愛感情をも巧みに表現している。
明菜もこのスケール感に呼応すべく、迫力あるヴォーカル(やや力不足だけど)でなんとか対応。

結果、ラテン歌謡の持つスケール感と、サンバが持つ高揚感の見事な相乗効果で、明菜自身この作品で「脱・アイドル」に成功。 レコード大賞の受賞も当然である。
なお、この歌の別バージョンである「赤い鳥逃げた」については、そんなに意味のあるものとは思えないので、ココでは割愛します。

(1999.11.19)

 

SAND BEIGE 〜砂漠へ〜

作詞:許瑛子 作曲:都志見隆 編曲:井上鑑


 スタッフの意欲が空回りした中近東歌謡の凡作

「ミ・アモーレ」の成功にすっかり気を良くした明菜陣営が、今度はラテン歌謡ではなく、ワールド・ミュージック繋がりという形で、中近東歌謡をリリースしたのがこの作品だ。
これまでにも、庄野真代「翔んでイスタンブール」や久保田早紀「異邦人」など、中近東テイストを取り入れた作品はあったけど、「SAND BEIGE」はこれらに比べるとつまんないんだよなぁ。 力作ではあるのだが。 何が原因だろう?

曲はまぁまぁでしょうか。 砂漠っぽい雰囲気はそこそこ出ているし。 ただ、サビはちょっとクドい。
 ♪星屑私を抱きしめていてね〜神秘の顔立ち
このメロディを1ヶ所で2度やる必要はないと思う。 一回で充分! そんなにいいメロディじゃないし。

アレンジもサハラ砂漠の雰囲気を、精一杯醸しだそうと努力している。
エスニックなリズムを軸に、民族楽器を使用しているし。
ただ、バックの気の抜けた、気だるい女性コーラスは余計だったと思う。
砂漠特有の倦怠感を表現しようとしたんだろうけど、明菜のヴォーカルだけで充分気だるいんだから。
駄目押ししなくっても。

歌詞もねぇ・・・砂漠の倦怠感、イスラムの神秘性を一生懸命表現しようとする意欲は買いたい。
 ♪アナ アーウィズ アローホ〜 とか、現地語を導入することで、異国情緒を醸し出す努力もしているんだけど。
アラブの雰囲気を過剰導入したことで、逆に作品の内容が薄っぺらになってしまったような気がする。
結果、異国情緒を表層的に取り入れただけのような、エセっぽい仕上がりになってしまった。
また、明菜の歌唱があまりにアンニュイ過ぎるのも問題だ。
倦怠感は表現出来ているけど、聴いてるこっちはかなり退屈だ。

そう考えるとこの作品は、コンセプトでっかち過ぎて、曲・歌詞・アレンジ・歌唱、全ての面で意欲が空回りしてしまったのが敗因かもしれない。 サハラ砂漠のイメージにとらわれ過ぎたか?
このどうにも半端なサブタイトルが全てを象徴しているかも。

(1999.11.19)

 

SOLITUDE

作詞:湯川れい子 作曲:タケカワユキヒデ 編曲:中村哲


 情状酌量の余地がある意外な失敗作

これは明らかに失敗作だ。 聴いていて退屈極まりないし、特に目新しい何かがあるわけでもなし。
だが、この失敗については私、スタッフには大いに同情してしまう。
というのも、まずこの作品のコンセプトだが、「恋人との別れを、夜の都会を舞台にクールに決める大人の女」。
簡単に言えばそんなところ。
当時の明菜の状況から言えば、スタッフが彼女にこういったコンセプトで歌わせようとしたのは、ごく自然な流れだったと思うのだ。 おそらくシングル制作会議の席では

 「明菜も大スターになったんだからさぁ、そろそろ本格的に"大人のオンナ"で攻めてみようよ」
 「そうだねぇ、ツッパリとはまた違った面を出したいよねぇ」
 「で、どうする?ここんとこワールド系に走っちゃったじゃない」
 「じゃあ今度はアーバンで行く、ってのはどぉ?」
 「あ、都会のオンナね。いいじゃん、明菜って20歳にしては大人っぽいし」
 「ファンもクールな彼女を見てみたいでしょう、きっと」
 「そうだよねぇ、じゃあ今回はソレで決まり!」

こんな具合で話がトントン拍子に進んで行ったに違いない(ホントか)。 で、この作品が制作されたのだろうが・・・・
出来あがった作品は、非常にコンセプトには忠実である。
曲もアンニュイな明菜の魅力に合わせた作りだし、歌詞もクールな大人のオンナを上手く表現している。
アレンジも夜の都会を表現すべく、そこそこムーディーな仕上がり。
明菜自身も抑えたヴォーカル(というか、かったるそうな歌唱)で、作品世界を無難に表現。
全ての面で、コンセプト忠実度は水準レベルだ。
そう言う意味では、完璧な(というか、ソツがない)作品であると言える。

なのに、つまんないのだ。
思うに、コレは明菜のイメージと作品のイメージが、余りにも寸分違わず一致しすぎたが故に、逆に意外性や新鮮味に欠けてしまい、結果として非常に退屈な作品が誕生してしまった、ということだろうか。
もしくは、このコンセプトで制作すれば、どう転んでもメリハリ皆無のアンニュイ歌謡しか出来ない、ということか。
いずれにしても、ナイスな企画だったのに思わぬ計算外! 情状酌量の余地アリ、ってとこでしょうか。

(1999.11.19)

 

DESIRE −情熱ー

作詞:阿木耀子 作曲:鈴木キサブロー 編曲:椎名和夫


 「歌謡界の女王」の座がこの作品で成就

85年発売のシングルは、いずれも何かしらのコンセプトに基づいて制作されたように思えるが、86年の第一弾シングルであるこの歌は、そんな小細工無用でストレートに楽曲で勝負!といった潔さが感じられる。
まぁ実際は作詞に阿木耀子を起用したあたりに、山口百恵っぽいものをやりたかったんじゃないか?という大雑把な意図は見え隠れするわけだが。
しかし、出来あがった作品は、歌詞・曲・アレンジ、全ての面で無駄のないシンプルで骨太な「ディスコロック歌謡」に仕上がった。

まずは歌詞。
今ひとつよくわからない内容ではあるが、とにかく「欲求不満女のわがままな激情大爆発!」といった"何様ぶり"はよく伝わってくる歌詞だ。 この"お嬢"な内容で、百恵とは異なった明菜の個性を上手くフィーチャーすることに成功。
売野雅勇的なしゃらくさい"ルビ"とか振っていないのも、好感持てるし。 余計な事は一切していない。

次に曲だが、いきなりの頭サビがインパクト大。 この時点で「勝負アリ」って感じだ。
続いて、歌い出しは低音で抑えて、明菜のアンニュイさを強調する作りをしており、サビでは高音域で盛り上げて、明菜ならではの"ハリ"のある歌唱を聴かせる作りにしている。
サビに至るまでのメロディは結構退屈だけど、サビでのキャッチーなメロディが、それまでの退屈さを補ってなお余りある優れた作りだ。 いわば、サビを引き立たせるような曲作りをしている。
曲全体の雰囲気は骨太で大雑把な感じだが、実は何気に計算づくで作られた曲だと思う。

で、アレンジだが、これがホントに無駄がないのだ。 イントロやエンディングだって素っ気ないほどの短さ。
間奏もギターソロを全面に押し出すも、至ってシンプル。
しかし、全編に渡ってシンセドラムとエレキギターを軸にしたハードな音作りにしていて、シンプルながらも退屈はしない。
♪なんてね、寂しい〜 の部分のドラムスや、所々出てくる打ちこみ系手拍子(?)も、作品を締める効果的なスパイスだ。 必要最低限の過剰装飾感ゼロなアレンジなのに、物足りなさ皆無なのはサスガ。

作品自体がかように見事な傑作であるが、なんといってもこの歌の成功は、歌番組との相乗効果があってこそだ。
奇抜な着物ルックとザンギリ頭で激しく歌い踊る明菜嬢。
みんなこの歌を聴くと、未だにあの残像が脳裏にチラツクのでは? それほどにインパクトあるビジュアルだった。
歌番組におけるインパクトが、この作品に多大な附加価値を与えたのは確実。
この手のメディアミックス戦略(?)でここまで大きな成果を得たのは、沢田研二「TOKIO」以来では?
明菜陣営もこの成果に味をしめて、その後も歌番組ではこの"ビジュアル至上主義"を一貫。
真の意味で、「歌手・中森明菜」の方向性がこの作品で確立された。
「歌謡界の女王」誕生の記念碑的作品である。

(1999.11.19)

 

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