「白い部屋の男」

 

闇に光の亀裂が一筋入った。亀裂はゆっくりと広がっていき、光はあふれた。

俺は目を覚ましたのだった。しばらくは、視界がぼんやりとしていて、霞みがかった白い色をしていた。眼を動かそうとすると、眼球の奥がぐぐっと鳴って、さびた機械が動くようにしか動かせない。徐々に視界がはっきりし、周囲のものが実態を帯びてきた。

白い。なんと白い。

全てが白い立方体の部屋の中に、俺はいた。どこに焦点を合わせていいかさえ見当がつかない。そのくらい、見事に俺の視界には白しかなかった。

広い部屋だった。俺は、長い椅子のような、ベッドのような台の上に寝かせられていた。ひじは、肘掛のようなモノにおかれていた。手を上げてみると、肘掛から、腕がぺりぺりとはがれる音がした。その音は、長い間固まっていたかのようなその部屋の空気と時間が崩れてゆく音のようだった。手はまだ少ししびれていて、肘掛の跡がうっすらと赤くなっていた。

 

「ヤツ」の存在に気づくのに、そう時間はかからなかった。俺がベッドから立ったのと同時に、自分の真後ろで音がしたのだ。俺は、反射的に振り返った。人だ。そこには人が立っていた。その頭には、表情などおよそ捨て去ってしまった面のような顔が張り付いていた。ヤツは、この部屋と同じ、一点のシミもない白い服を着ていた。襟は首までを覆い、まるでそいつの手と顔だけが宙に浮いているような錯覚さえ覚えた。

俺は、ゆっくりとそいつに向かって歩いた。ギシ、と踵が鳴った。ヤツも、俺にゆっくり近づいてきた。

刹那、ヤツの顔が歪んだ。恐怖、好奇心、驚きが混ざったような、変な表情だった。

俺の顔の筋肉がきしんだ。それで俺は直感した。俺もきっと、こいつと同じ顔をしているのだ・・・。

俺はヤツにどんどん近づいていった。ヤツもどんどん近づいてきた。ヤツは力なく右手を前に突き出し、俺を指さしていた。いつのまにか、俺もそうしていた。もう、ヤツと俺は、すぐ近くまできていた。

そして俺は、大きく一歩を踏み出した。俺の人差し指が、ヤツの人差し指に触れた。瞬間、冷っとした後、だんだん温みを帯びてきた。

俺は、ずっと指先に在った視線をヤツに向けた。目が合った。

その男に特徴はなかった。ただ、二つの目、ひとつの鼻に二つの鼻腔、口が在って耳が二つ。

特徴がない、といったが、正確にいえば、俺には人の顔を判断する基準がなかった。

俺は驚愕した。自分自身に。俺には、ヤツの顔が生まれてはじめて見る顔だった。しかしなぜ?顔をはじめて見るのなら、これが顔だとなぜ俺は認識したのだ?

俺は突然、とてつもなく不安になった。自分に手を見る、足を見る。顔を触ってみる。やはり俺は人間だ。しかし、人間の何だ?俺は、自分が自分であることしかわからない。俺の前に立っている、あいつは誰だ。俺以外の人間だ。俺は何だ。ただ単に、俺はあいつではない、ということしか、わからない。

俺は何者なのだ。

俺は、顔を両手で押さえたまま、指の間からヤツを見た。ヤツは、俺と同じように顔を手で押さえ、指の間から俺のことを見ていた。俺は驚き、恐怖を覚えた。俺は、そいつが俺のやってきた動きをそっくりそのまま真似していることに気づいた。俺が歩けばヤツも歩き、俺が指差せばヤツも差し、手で顔を覆えば、ヤツも覆っている・・・。

では、ヤツは俺なのか?

全てが白の世界で、今や俺とヤツとを区別するものは何もない。俺はもしかしたら俺ではなく、ヤツなのではないか、という不安が、身体中に染み込んできた。

俺は一歩身を引いた。ヤツも一歩、身を引いた。

やめろ。やめるんだ。俺の真似をするのはやめろ。俺が俺である証拠がなくなる。俺が俺なのかわからない。俺の意思どうり、俺の動いたとうり、ヤツも動く。では俺は、ヤツの意思どうり、ヤツの動いたとうりに動いているのか?なんなんだこれは?こいつは?俺は何なんだ?

俺のした事をヤツもする。今のは俺が動いたんだ。何でおまえが動くんだ。俺がやったのに、何でおまえがやるのだ。

俺はうめいた。本当は、助けてくれと叫びたかったのだが、声が出ない。のどがばりばり鳴るだけだった。いやだ。いやだ。俺が誰だかわからなくなってしまう。

 

衝動的に、俺はこぶしを振り上げていた。

ヤツも振り上げていた。

かまうものか。こいつを消せば、俺が俺であることがわかる。俺は俺になるのだ。

こぶしを一気に振り下ろす。

瞬間、ヤツの目を見た。顔は無表情だったが、眼だけが憎悪でべったりと光っていた。

「ひいっ」

しかし俺のこぶしは止まらずに、ヤツのこぶしと思い切りぶつかった。

次の瞬間、ヤツは粉々に割り砕けた。

そして、俺も粉々に割り砕けた。

 

 

 

研究員たちは、割られたマジックミラーの向こうで、ほうけたようにへたり込んでいる白い服を着た被験者の男を見ていた。研究員の一人が、ここの責任者らしき初老の男に声をかけた。

「シリアルナンバー815、実験開始後4分13秒53にて、脳波に以上をきたし、自我崩壊に陥りました。実験をお続けになりますか?」

初老の研究員は言った。

「何度やってもだめだ。コピーするたびに、マスターの記憶の一部を一緒にコピーしてしまう。『初期化』が不完全なせいで記憶が混乱を起こし、結局自我崩壊か・・・。」

若い研究員が言った。

「『覚醒』したては、自我が不安定なのです。精神が脆弱なんですよ、クローン人間ってやつは。」

「脆弱なのは、彼らのオリジナルである我々とて同じことだ。」

初老の研究員は、クローン実験被験者の、もはや輝くことのない曇った目を見ながら言った。

「こんなことで、『外』を立て直すことが出来るのかね。」

「出来ますとも。きっと、『戦前』のように復興させて見せます。そのための研究じゃないですか。」

若い研究員が言った。その目は、希望に輝いている。

「しっとるか。『戦前』は、クローンを造ることは法で禁じられていたんだそうだ。」

「しかし、チーフ。減りすぎた人口をまた元に戻すには、また人類がこの星に生きるには、この研究が必要なのでしょう。」

若い研究員が、少し語気を荒げていった。

初老のチーフは、何も言わなかった。

そして、ふう、と息を吐き、

「シリアルナンバー815、廃棄。」と、自分の前にあるマイクに言った。

数人の研究員が、虚空を見つめたまま動かなくなった男・・・白い服のクローン人間を担いで外に出て行った。

外はどこまでも曇り、昼か夜かもわからない。壊れた建物に瓦礫の山が地平線まで続いていた。草木などは一本もなく、150ギガトン級核ミサイルの爆風と熱によって壊された建物の鉄筋やコンクリートだけが、まばらに残っている。研究員たちは、その瓦礫を器用に男を担いだまま上っていき、やがて「廃棄」とかかれたトタンの標識がしてある区域までやってくると、どさっと男を下ろすと、なにやら話しながら帰っていった。

一人、残された男はぼんやり後ろを見た。後ろには、人が山のように積み重なっていた。

それらはみな、死体だった。

死体は、みな同じ顔をしていた。

積み上げるのが面倒になったのか、地面に転がっている死体もあった。自分の足元で、まるで干物のイカのようにやせ細って死んでいる者の腕に、「No.814」の刻印があったが、今の男に、それが何を意味するのかは解らなかった。

そして、自分がその死体たちと同じ顔であるということにも。           

FIN...