満員電車

 

俺は、今日に限って会社へ行くのに電車を使った。いつもは会社へは自動車で通勤しているのだが、今朝起きてみるとタイヤがパンクしてぺしゃんこになっていたのだ。どうやら昨日の帰宅の途中で落ちていた釘が刺さり、朝までかけてじわじわ空気が抜けていったらしい。こんな早朝では修理屋も開いていないので、仕方がなく電車での通勤となった訳である。俺はいつも早めに家を出るのだが、今朝はそんなことがあったので、いつもより少し遅くなった。といって、会社に遅刻するというほどではないのだが。しかし、俺が電車に乗ったその時間は、運悪くもラッシュアワーの真っ只中だったのである。俺は人ごみが大嫌いなたちだったので、これはもう酷い拷問のようなものだ。覚悟はしていたが、この尋常でないこみかたはなんなのだ。しかし、このラッシュに苦痛を感じているのは、普段ラッシュの電車に乗りなれていない俺だけらしい。見渡す限りの通勤、通学客の頭は一様に入ってきたドアの方向を向いたまま、誰もが一言も喋らず、まったく同じタイミングで電車に揺られている。全員が全員、寝ているのか起きているのか解からない半開きの目を斜め上方に向けている。みな、何かが抜けた殻のような感じだった。きっと、会社なり学校なり、自分の目的地につくまでは全自動で動いているのだろう。意識しなくても、頭が寝ていても、きっとこいつらはいつもと同じ時間の電車に乗り同じ駅で乗り換え、同じ駅で降りて、自分の会社の自分の座席に座ることができるに違いない。そうとでも考えなければ、この狂気の沙汰としか思えない超満員の電車の中で正気を保つことなど不可能に等しいからだ。次の乗換駅まで二駅。この電車は、もう一回、その身体に人間を詰め込まなければならない。

そして、電車が減速しだした。

「え南浦和―。みなみー浦和でえす」と、蛙のような声でアナウンスが入った。何で車掌というのはみんな蛙のような声で話すのだろうか。独特の発声練習でもあるのかな。と、馬鹿な事を考えているうちに、完全に電車は停車した。ぷしう、という溜息とともにドアが開くと、もちろん誰も降りる客はおらず、さらに大勢の人間が車両に入ってきた。もう入りきらんな、と思ったが、駅員が後ろからぐいぐいと押しているのであろうか、どんどん限界をはるかに超えて客が入ってくる。車両にいた客の中から、時折「ぐう」とか「うむ」とかいう呻き声がもれるが、そんなことはお構いなしに駅員は無理やり全ての人間を押し込んでしまうと、ドアが閉まるぎりぎりまで客がはみ出ないように抑えていた。ドアが完全にしまると、曇ったガラス窓の向こうで、駅員が溜息をつき両手をはたいて汗を拭っているのが見えた。それは、俺の妻がいつも押し入れの中に無理やりモノを詰め込んだ時のしぐさに酷似していたのだった。俺は何だかげっそりとしてしまった。車内はますます窮屈になり、乗っている全員が、ヨウジ入れにいっぱいつまった楊子のように細くなっていた。

電車が再び動き出した。もはや電車がゆれても誰も動けない。人々が密着を通り越して「圧着」されているため、俺は何だかどこまでが自分で、どこまでが他人なのかわからなくなるような錯覚にとらわれた。頭がぼんやりとしてきて、俺はもしかしたら電車の一部なのではないかという気さえしてきた。今度の乗換駅についたら、一気にこの人ごみから開放されるのだ。まるで決壊したダムのように。それを考えるだけで、さらに俺の気は遠くなりかけた。もういいかげんに限界だ、と思ったとき、再び車内に蛙のアナウンスが響いた。「ええ、南浦和―。みなーみー浦和です」

あれ、おかしいな。さっきの駅が南浦和だったはずだが。聞き間違いかな。俺もぼんやりしていたので、全駅のアナウンスを聞き間違えたのだろうか。この辺は、南浦和、東浦和、武蔵浦和、というふうに、似たような名前の駅が続いているところだ。車掌が言い間違えたのだろうか。だとするとやはり次で乗換えなのだろうか。ここからでは、車内に貼られた路線図は見えなかった。電車が減速し、停まる。窓から見えた駅の看板は、「南浦和」とあった。どうやら前駅は俺の勘違いであったらしい。この期に及んでまた人が増えるのか、と思うと、立ったまま気を失いそうになる。

電車が停車し、また大勢の人がどやどや入ってきた。前にいるコートを着たサラリーマンの背中が俺の胸板を圧迫し、ろくに息も出来なくなった。早く、次の駅につかないと、もう、俺は、命に、関わってきた、という、事なので、ある。しかし、この電車の客が全員一言も喋らない。何か喋るのがタブーであるとでも思わせるように、みな一様に、今の自分の「状況」を黙殺していた。開くドアと反対側のドア、つまり俺の後ろの人々は、俺よりさらに十数人分の圧力が加わり、かすかにひいひいと喘いでいるのが聞こえた。電車が減速する。やった。これでこの苦しみから開放される。早く駅に着いてくれ・・・。

 

しかし、電車が次の乗換駅に着くことはなかった。電車が停車したのは、またもや「南浦和」駅だったのである。俺はどうかしてしまったのだろうか。この人ごみのせいで酸素欠乏症にでもかかり幻覚でも見ているのだろうか。ドアが開いて大勢の人が押し込まれる。当然のように誰も降りない。駅員に無理やり押された人々が、驚いたことに入りきってしまった。ドアが閉まったときに、後ろの方で「メリ」とか「ミシ」という音がした。続いて「ぐう」というくぐもった人の声。この超満員で、反対側のドアとサンドイッチにされ、肋骨でも折れたのかもしれなかった。しかし、誰も、何も言わない。この電車に乗っている連中は、どんな異常事態になろうとも、一度出発した電車は目的地まで着く、と信じ込んでいるに違いない。だから南浦和駅に繰り返し停車しても、誰も降りないし、降りられないのだ。

 

「え南浦和です」例の、蛙のアナウンスが、五十三回目の南浦和駅に着いたことを告げる。車内には、すっぱい香りが立ち込めている。人が次々押し込められ、ついに反対側のドアに面していた客が押しつぶされたのだった。それが、暑過ぎる位の車内暖房と、この大勢の人間の湿気で、発酵を始めたらしかった。後ろを見ることが出来ないのが、唯一の幸いである。しかし、足首まで何か生ぬるい液体に浸かっているのを、俺は先程から感じている。これは、しぼりだされた客の血肉なのだろうか。もはや俺は、疲労と酸欠で、吐き気さえ起こらなくなっていた。電車は停車し、ドアが開く。すかさず駅員が人を押し込む。圧迫。圧搾。俺の意思とは関係なく、肺からすべての空気が押し出された。そして俺の胸の奥から「めりぼりゴキみり」という音が、頭の中まで響いてきた。折れた。あばらが折れた。肺胞に、刺さっているのが感じられる。痛みはない。酸欠でもう痛感覚は完全に麻痺している。もう立っているのか座っているのか、広いところにいるのか狭いところにいるのか、分からない。電車が動き出した。どうせ次の駅も南浦和だろう。あの蛙アナウンスを聞くまでもない。これ以上は限界だ。限界を超えた限界だ。早く、意識よ、飛んでくれ・・・。

 

人間を、まるできりたんぽのごとく詰め込んだ超満員電車は、突如として空へ舞い上がった。電車は大気圏を抜け、宇宙に出た。電車の運転手に化けた宇宙人は、一人で大笑いした。

「わはははははははははは。まさか、こうも簡単に引っかかるとはなあ。捕まえる必要もなく、勝手に檻の中に入ってくるんだもんな。しかも、誰一人として騒ぎもしない。こいつらは、人に命令されて働くのが大好きな種族らしいからな。持って返って奴隷にするのに、ぴったりだ。早く母星の連中にも教えてやろう・・・」

そういって宇宙人は、運転手の顔のマスクをべリ、とはがした。出てきた顔は、カエルにそっくりだった。