螺旋の七人・第六話 【前編】
冬の早朝は独特の香りを持っている。駅から螺旋二高に続く道は多くが田畑地帯で、土に静かに降りている霜柱と、昇ったばかりの日差しによってじわりと焼き付けられるアスファルト、それらをすべて包み込んで鋭い「何か」に満たされた大気。それが持つ、香りである。そんなことを考えながら辻を曲がると、螺旋二高がもうすぐ見える。時間は朝七時三十分。いつもの時間だ。この民家の角を曲がるとあとは高校まで一本道。始バスもまだ出ていないし、徒歩で登校している生徒もほとんどいない。高校までの一本道に出たとき、彼は視線の先に「目的」を見つける。時間通りだ。彼の数メートル先をいく、一人の少女。手には袋に入った木刀を下げている。
彼が駅からのバスよりも早く徒歩で登校する理由は二つある。一つは、部活の朝練習。そしてもう一つは…前を歩いている少女である。彼は知っている。少女は特に部活をやっているわけではない。図書室の開館時間に合わせて登校しているのだ。それも毎朝、である。人よりも早く登校しているので、彼はすぐに少女とは顔なじみになった。学年は同じ。ただしクラスは別で棟が違うので朝以外は顔をあわせることはほとんど無い。ただし、彼が「意図的に」行動する場合を除いては。
彼は歩みを速める。前を歩く少女との距離がどんどん狭まり、歩くたびにさらりと揺れる髪の一本一本までが鋭い空気を通して感じられる。少女は背筋をまっすぐに伸ばして、自分のペースですいすい歩いている。それを見て彼は意識的に背筋を伸ばす。今日は。彼は心の中で何度も繰り返しつぶやく。それにつれて頬と指先が少しずつ熱を帯びていくのを自覚する。大丈夫。あと数歩で少女とならぶ。手を伸ばせば届きそうなくらいだ。彼は肩からかけているカバンをぎゅっと握ると、更に歩みを速める。少女をあと一歩で追い越すまでに並んだ彼に、少女が気がついて彼の方を振り向く。さらり。少女の口が何か言いかける前に、彼は先に言う。
「おはよーッス!」
「ん!おはよー!」
彼の呼びかけに少女が答える。そのやり取りの余韻を残す暇も無く、彼は少女を追い越してさっさと高校へ歩いていく。今日も、今日も…彼は心の中でつぶやき続けている。今日も、これでいいんだ。自分の後ろで相変わらずのペースで歩いてくる少女を感じながら、それでも振り返らずに彼は校門へ入った。
朝錬にしても、この時間はまだ早すぎて部室は開いていない。職員室まで部室―音楽室の鍵を取りに行く。鍵開け当番の教師に一言いってから鍵を取って、音楽室へと向かう。途中、昇降口で靴を履き替えている少女に再び出会う。よし。これも時間通りだ。彼が目の前を通り過ぎると、少女は笑顔で会釈。彼も無言で会釈を返す。今日も、これで大丈夫だ。音楽室の防音扉をあけ、中に入る。誰もいない部室に電気をつけて、楽器庫に向かう。今さっきすれ違ったばかりの少女の姿と声を思い出しながら、彼は自分の楽器を取り出した。最初にすれ違い様声をかけてきたのは、少女の方だった。二学期が始まったばかりの頃である。急に声をかけられてはじめはずいぶんと狼狽したものだったが、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ単にあいさつしただけ。彼は「ん、おはようございます」とだけいって立ち去るように少女を追い越していった。いつかから自分から声をかけるようになったのかは覚えていない。ただ、この少女との朝の挨拶が、今の彼にとって、日々を暮らす上での最優先事項になっていた。
膝の上に置いた楽器ケースを開けると、中から黒く、鈍く光る木目を持った楽器が分割されて収まっている。クラリネットだ。木と、真鍮との混ざった独特の香りが彼の鼻をつく。冬の朝と同じ香り。丹念に楽器を組み立てていく。まだ誰も来ていない。音楽室は静かだ。マウスピースにリードをつけ、何回か試し吹きしたあと、マウスピースをゆっくり本体に取り付ける。座る位置を浅くして、肩の力を抜き、吹き口をもう一度くわえて、腹で空気を吸い込む。鼻と口に冷たい空気が刺すように入り込む。次の瞬間、吸い込んだ呼気をゆっくりと吐き出すと、全身を包み込むようなやわらかい音が、無人の音楽室に響き渡る。音階を順番にゆっくりと昇っていく。もっと、清らかな音に。もっと、確かな音に。もっと、凛とした音に。もっと、彼女の声のように。彼は挨拶を交わす少女の声を思い出し、それをクラリネットを通して再生しようと試みる。
だめだ。
だめだだめだ、こんなんじゃ。自分の出す音は汚い。いつも、ここで己の持つ現実を突きつけられて、彼は吹くのをやめてしまう。彼女の声には、まだ追いつけない。でもいいじゃないか。毎朝、あの少女の声を聞いている。彼はそう思いなおして、ふたたび練習を再開する。部室にも朝練にきた部員達が徐々に増えていき、彼は音の渦といっしょになって、チャイムが鳴るまで吹き続けていた…
西脇司は頭痛とともに目を覚ました。目を開けようとするが瞼が重い。窓からは朝日が差し込んできて瞼で覆われた目ですらも容赦なく突き刺している。痛い。掛け布団をまくろうとして気がついた。腕が動かない。腕までもが重たくベッドに沈み込んだまま、力が入らないのだ。寝起きだから、というわけではない、体中のだるさに司はようやく気付いた。…学校。学校へ行かねば。そこまで考えて三日前のことが頭をよぎる。虎だ。祐介が虎になった。しかも、何者かの作為によって。そしてその「何者か」とは、司たちスパイラルの直属上司である綾乃かもしれないのだ。身体は相変わらずだるい。口の中がねとねとする。
化け物になった友人、何を隠しているのかわからない綾乃さん、祐介と戦った仲間達。それらのことを一度に考えるには、すべての物事が重過ぎる。ベッドから出している顔が外気に触れて冷たい。もういやだ。三日前に起こったことだけがただひたすら頭の中をループする。司は考える事から必死に逃げようとして、強く瞼を閉じた。
「司、起きてる?今朝の調子はどうなの?」
一階から母親の声が聞こえる。
「…まだダルい…気持ち悪い…クラクラする…」
司は声を大きくするでもなく、言った。
「今朝も体温測ってみようか?」
元気のない司の声を聞きつけて、母が体温計をもって二階の司の部屋まで上がってきた。司は足音と気配でそれを感じる。ドアが開いて…部屋に母が入ってきて…
「熱が下がんない様なら今日も学校休むかい?」
枕もとにデジタルの体温計をおいて母がいう。司は祐介が化け物になった「あの日」の翌日以来、身体のだるさと微熱が治まらず、学校を二日も休んでいる。学校に行きたくない司にとっては好都合だな、と心のどこかで思っていたりもするのだが…
「うん…まだ間に合うから…熱測って決めるよ」
「じゃあまた少ししたら来るからね」
そういって母が部屋から出て行くと、司は大きく息を吐いた。湿った空気がのどから抜けていくのがわかる。母親には学校へいくかもしれないようなそぶりを見せた司だったが、その実、行く気などまったくなかった。脇に体温計を挟んで、司は毛布を顔まで手繰り寄せた。自分の知らないところで何かが動いている。仁たち他のメンバーはどこまで知っているのだろうか。いや、そもそも何を知っているのだろうか。自分は何も知らない。スパイラルとしての活動はずいぶんとこなしてきたはずなのに、結局のところ司は何も知らないままだ。所詮は末端か。そんな思いが脳裏をかすめる。そのたびに、ベッドにもぐっているはずの司の身体にゾクリと寒気が走る。違う。末端などではない。みんなが必要としてくれたから、いま自分はあの「スパイラル」の中にいるんだ。それが司の存在する理由のすべてなのではないか、と錯覚するほどに、その思いは強くなっていく。そうだ。ただの歯車にはなるもんか。でも。自分に何が出来るというのだろうか。何も知らない自分に。
ピピピ、と体温計のアラームがなった。熱は相変わらず37.7℃だった。
「で、司の奴はまだ休み、か。これで三日になるな…祐介も入院しちまったしよ。バラバラだな、俺たち」
放課後、図書室のソファにどっかと腰をおろして仁がうめいた。
「まあそう悲観したもんでもないでしょ。祐介ちゃんはただの検査入院だから来週にも帰ってくるし。司ちゃんもただの風邪みたいだし」
めずらしく図書委員としてカード返却の手伝いをしている剛が目線を向けずに言う。
「いや、あいつらの体調のこと言ってんじゃねーよ。もっとこう、心の問題だろ」
そうは言ったものの、仁は剛の楽観的な言い回しの中に一抹の不安が拭い去れないでいることは感じとっていた。剛にしても二人の身を案じている事には変わりない。
「…だよなあ。祐介ちゃんがあんなんなったんだから。平気でいられるわけ無いよ。俺も」
「司と祐介てなんか随分話し込んでたみたいだからな。司だって目の前で祐介が化け物になりゃあ」
「平気なわけないか…ってジンさん人事みたいに」
「ばーか。こっちだってパニック寸前だよ。今まで俺たちが相手にしてきたようなのとはちがう。もっとなにか、デカいことが動いてるんだよ。そんな気がする」
仁がそういってソファに背中をグイと沈めたとき、尚志がやってきた。いつもの温和な顔つきはここ三日ほどなりを潜めている。それでも開口一番は務めて明るい声をだした。
「おーす。あれ、天ちゃんどしたの?」
「あ、悟なら部活行ってるよ。顧問のたぐっさんに呼ばれたとかで」
「そう言えばあいつ部活入ってたんだなー」
尚志はそう言いながらも図書館内を一通り見渡す。
「…綾乃さんもいないの?」
「今職員室にコピー取りに行った」
「…ふうん」
尚志はしばし考え込むように足元を凝視していたが、突然顔を上げて仁と剛に言った。
「…ちょっと話があるんだ。向こう行こう」
そのまま尚志は荷物を持って、奥にある書庫の二階へ入っていった。訳もわからず、二人は尚志についていく。
書庫の二階には古雑誌・新聞類と大型図書が積まれていた。暖房が入っていないので冷たい空気がほんのりとカビの匂いをのせている。蛍光灯が一つ壊れていて、書庫の中の明かりは一段暗かった。尚志は、一番奥のすでにしばってある古新聞の束に腰掛けて二人を待った。仁と剛が足元に置いてある雑誌の束を踏み越えながらやってくるのを見て、尚志はゆっくりと語りだした。
「まあ、ここなら綾乃さんが帰ってきても気付かれないと思うし…ちょっと気になることがあってね」
「…祐介の事か?」
「まあ、そうなんだけど…」
「何だよ、綾乃さんがいたらまずいことなのか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。とりあえず、今のところは綾乃さんには悟られちゃまずいって事だ。保険だよ」
仁の剛も、尚志の言わんとしている事はなんとなくわかった。尚志の話では、祐介をあんな姿にかえたのは、彼に施された術式…とりつかれた怨霊をその体内にとどめ続ける印が原因であるという。しかしそんな術式を本人が望んでするはずもなく、これは祐介が何者かに恣意的に施されたものであり、しかも祐介はだまされていたのだ、という考えが妥当になる。祐介にそんなことをさせるのは、たとえ法術の心得が多少なりともある尚志にすら無理なことだ。となると、疑いのかかる方向は自然と定まってくる。司も含めたメンバー全員が、そのことには本能的に気づいているはずだった。
「とりあえず、僕なりに考えてみたんだけどさ…祐介の特殊能力のこと」
「スキャン、てこと?」
剛がその俗称を吟味するようにゆっくりと口に出した。
「そう。そこで、だ。あいつの能力、僕らの中ではずいぶんと特殊な力だったじゃないか。とりあえず僕は家が家だったからこの手の知識に詳しかっただけで…スパイラルに入ったころは自分の血の持つ力、なんてのもまったく無自覚だった。ジンさんや天ちゃんは身体能力があるとは言ってもあのスーツのおかげだろ。司もリコちゃんも、こういっちゃ何だけど持ってる武器が特殊なだけだし、剛ちゃんにいたってはパソコン以外まったく普通の人だ」
「悪うござんした」
「別に能力の良し悪しを言ってるわけじゃないよ。たださ、天性っていうか。祐介の力には先天的なもんがあるじゃない?」
「まあな。第六感だけはそうホイホイ身につくもんでも無いしな」
「だろ?だから僕たちは、それ以上のことを考えようとしなかったんだよ。そのままの祐介ちゃんに何の疑問も持たなかったわけ」
「一体、何が言いたいんだよヒッシー」
いつになく、仁の声が強張っている。それに応えて尚志は一拍間をおいて口を開いた。
「要するに、だ。祐介ちゃんの力が、後から『与えられたもの』かもしれないって事だよ」
仁も剛も、このことが一瞬理解しかねたようだった。
「てことはつまり、あの印と何か関係があるってことか?」
ようやっと剛がかすれた声を出す。それを理解の合図と受け取って、尚志が続けた。
「たしかに第六感、て考えた場合は生まれつきだと考えるしかないけど…そこが盲点なわけさ。考えてみてよ。今回の事件、どうして祐介ちゃんがああなってしまったのか。なんで祐介ちゃんにあの術を施す必要があったのか」
「でも、その術ってのは体の中に悪い霊を閉じ込めておくもんなんだろ。なんのメリットがあってそんなことしてるんだろ。ま、悪霊にとってはいいことかもしれないけどよ」
仁がしゃべり終わらないうちに尚志が後を続ける。
「そこなんだよ、ポイントは。悪霊さんにとっては好都合かもしれないけど、その術を施すのは人間なんだ。だから祐介ちゃんにあの術をかけた『誰か』は何の得があってあんなことをしたのか」
「まだ話が見えないんですけど」
「んー。どう説明すりゃあいいんだ…第六感じゃなかったとすると、祐介ちゃんが化け物どもの場所をスキャンする方法がもうひとつあるんだ」
「…そんなことが」
「共鳴、だよ。物にはそれぞれ固有の周波数があって、それに対応する周波数が近くで発生すると、一緒になって震えだすんだ。結果、その振れ幅は増幅されて、その振動がまた遠くのものと共鳴していく。あの化け物どもって、存在してるだけで相当な気をあたりに発散してるはずなんだ。その気が、固有周波数にあたるモノを含んでいるとしたら」
「近くにいる同じような化け物は『共鳴』するな………って、おい!」
「祐介ちゃんの中にも同じような化け物が飼われていたわけだろう、とすれば当然」
「祐介ちゃんの中の化け物も共鳴するわけだ!」
剛が導き出した結論を肯定するように、尚志がゆっくりと息を吐き出す。
「それで、共鳴が起こったときに祐介はそれを感じ取ってた、てわけだな」
「じゃあ祐介ちゃんは誰かに『スキャン』が出来るようにされた、ってことか…一体誰に…」
「スパイラルのメンバーに化け物の居場所を感知できるやつがいれば、仕事はそれだけ効率的になるんだろ、この前リコが言ってたように。だから仕事上のメリットが発生する人間だ。…つまり…」
仁の言葉に、誰も続かなかった。ただ、三人はその言葉の先にある意味を考えていた。まるで忘れていたようだった書庫の冷たい空気が、首といわず背中といわず、三人の身体の中にじわりと滑り込んだ気がした。
放課後。彼はまっすぐ部室に向かわずに図書館に向かった。彼の所属する吹奏楽部の部室である音楽室は、選択授業で使われているためにあと一時間は開放されない。それまでの時間を図書室で過ごすつもりだった。これが彼の日課になっている。さして読書家でもない彼は別に図書室でなくても時間をつぶせる場所はいくらでもあるのだが、それでも図書室に向かうのだ。
一階に下りて下駄箱の前の長い廊下を抜けると図書室の入り口が見える。授業の終わった生徒が次々にやってくるので図書室の入り口付近は少々にぎやかだった。彼の前を司書の杉村さんが通り抜けていく。杉村さんはいつも忙しそうだ。現に彼は、たいていの場合、図書室の外では走っている杉村さんしか見たことがない。彼を追い越して、杉村さんは図書室に帰っていく。彼はそれに続いて図書室の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
何かのお店のように、もうカウンターに座っている杉村さんが彼に声をかける。彼は会釈してカウンターの前を通り抜けると、館内をざっと見回す。混んでくるのはもう少し後だ。人はまばらで勉強、雑談、読書…とそれぞれが定番のことをやっている。彼の目はすぐに目標を捕捉する。雑誌の棚に面したソファに座って文庫に目を落としている、少女。今朝もすれ違ったあの少女だ。今日もいた。なぜか彼の心は少し安心する。ゆっくり少女に向かって歩みっていく。気づいてくれるだろうか。どんな風に挨拶すればいいんだろうか。それでも少女は目を活字から離さない。あのさらりとした髪が頬にかかっている。一歩近づいてみるが、まだ気づかれない。声をかけたら怒るかな…読書の邪魔は出来ないよな…それでも彼は歩を進める。なるべく自然を装って、お目当ての雑誌を選ぶような布里をして。かっこ悪い。こんな一人で策略と妄想をめぐらせてる自分は相当の情けない、ということを、彼は自覚していた。しかしそんな自覚も少女を前にすれば消し飛び、自分のプライドなどとはまったく関係なしに、少しでも少女に近づきたいという想いが彼を支配するのだった。今日は声をかけてみようか。挨拶くらいなら許される、きっと…
少女との距離が最接近し、彼が声をかけようとしたそのとき、彼のすぐ後ろから野太い声があがった。
「おーすリコ後輩!相変わらず早いな」
「あー天現寺先輩―。どもー」
目の前の少女が文庫から急に視線を彼の後ろに向け、笑顔でそう言った。反射的に後ろを振り向いてしまった彼は、自分の背後の人物―少女に呼びかけた男子生徒と目が合ってしまった。冬だというのにワイシャツ姿、袖から覗く腕はがっしりと太く、こざっぱりした角刈り頭。この人、見たことあるぞ。確か柔道部主将の…そこまで思い至る前に、その男は彼の脇をすい、と抜けて少女の隣にどかっとカバンを置く。
そこで彼は思い出す。そうだ。少女は、図書室ではたいてい仲のいい先輩の何人かとつるんでいるのだ。いずれも図書室の常連らしいのだが、なぜ彼女が先輩連中とあんなに親しげにしているのかがよくわからなかった。部活に入っているわけでもないのに。せっかく今日は少女が一人でいるチャンスだったのだが。声をかけそびれた彼は、そのままほかの本を選びに行くようにその場から離れた。
あの二人は付き合ってるのだろうか
くだらない疑問が頭の中をくるくる周遊している。いやいや、そんなことはないだろう。ほかにもあの少女が親しくしている先輩はたくさんいるようだし。全員男子だったような気がするが。そういえばあの少女がほかの女友達と一緒にいるところをあまり見たことがない。クラスの棟が違うので普段の彼女のことは彼には知る由もなかったが、朝と放課後、こうして毎日のように彼女のことを見ている彼でも、少女が図書室以外で誰かと仲良くしているところを見る機会はほとんどなかった。同学年には友達はいないのだろうか。毎朝の元気のいい挨拶には、さびしそうなところなど微塵も感じないのだけど…。そこまで考えて彼は思わず頭を軽く振る。考えすぎだ。彼女には彼女の世界があるのだ。自分の想像だけであの少女に友達が少ないのでは、なんて考えてもしょうがないことだろう。所詮自分はあの少女の世界には踏み込めないのだから。名前もロクに知らない、彼女の世界には。
…名前、そういえばあの柔道部主将の先輩は「リコ」て呼んでたな…あだ名なのだろうか。詳しいところはわからない。しかし彼の中で、ぼんやりとしていた「あの子」という表現が「リコ」に置き換わった。そのことだけで、彼は今日の収穫としたのである。部活まではあと30分近くある。暇つぶしに適当な本でも読んでいよう。リコの目に付かないようなところで…
「何、君達はまた勝手に書庫に入っていたのかね」
仁、剛、尚志の三人が図書室に降りていくと、綾乃がいつのまにか帰ってカウンターに座っていた。
「綾乃さんおかえりー」
剛がとりあえずそんなことを言ったがそれが誤魔化しになっているはずもなかった。三人の顔にはいつもの明るさが抜け落ちているのだから。綾乃が一瞬怪訝そうな顔を向ける。あんな話の後では、誰もが綾乃さんと今まで通りに接することなどできなかった。
「何だお前らどこにいたんだよ」
しかし綾乃が三人に声を掛けるよりも早く、悟とリコが三人のもとに駆け寄ってきた。
「んー?ああ書庫だよ、書庫」
「何でまたそんなむさくるしい所に野郎が三人も」
「鳥羽、変な妄想は止めろ」
「絵にならない妄想はしませんから私」
「どんな妄想だ」
さっきまでの沈痛な空気を気取られまいと、仁達は努めて明るく振舞った。そのやり取りを聞いてか、綾乃さんは特に聞くこともなかったかのように「あんまし騒ぐなら外でね」とひとこと言って返却の手続きを始めた。尚志はそれを横目で確認すると、悟とリコに向き直った。
「二人とも、これから帰り?」
「んあ、私は別に用もないですけど」
「…俺はこの後部活だが」
「部活終わった後時間取れるか?」
尚志に代わって仁が続ける。
「いやまあ、あんまり遅くなんなきゃな」
「一緒に帰れるか?」
「でも部活は五時半過ぎまでやってるぜ?」
「それでも別にいいよ、待ってるから…それからリコ、お前も悟の部活が終わるまで待ってられるか?」
「別に平気ですけど…なんかあるんですか」
「ああ、ちょっとな。話がある」
「・・・わかった」
仁の声の中にいつもと違う気配を察した悟が一拍おいてそう答えると、そのままさっさと図書館を出て行ってしまった。
「まったく誰も彼も何しに図書館に来てるんだろうね」
カウンターの前をすり抜けていった悟を見て綾乃がぼそっと言った。
日が暮れかけていた。司の部屋にはもう傾いた日の光は入ってこなくなり、うっすらと部屋の空気の中に「寒さ」が混じってくる。司は暑くてはいでいた毛布をもう一度引っ張り上げると、天井を向いた。部屋の明かりは点いていない。暗くなるに任せてある。時折通り過ぎる車の音が、ヘッドライトの遠い明かりを部屋の中に滑らせる。司は今日一日、何度も夢と現の間を行き来した。そのたびに見るのは学校の、そして仲間達の夢だった。それは異常にリアルで、司は夢の中で「ああ、今日は結局学校にいったんだ」と何度も勘違いした。しかし、それが勘違いだとわかるのは決まって裕介が虎の化け物になるところが繰り返し再生されるからであった。裕介ばかりではなく、仁が、悟が、剛が、尚志が、リコが、次々と異形に変わっていく。しかも司は心のどこかで、仲間たちが異形に変化したのは自分のせいなのではないかという疑念をぬぐいきれない。だから親友達が醜く、恐ろしく変化していく様を見ていながらどうすることもできない。綾乃さんに助けを求めようと振り向くと、綾乃さんのいるべき場所には黒い靄がこんこんと沸きあがっていて、綾乃さんの気配を感じることはできるのだがどこにいるのかわからない。恐ろしくなって不安になって、しかし前方の異形が六体、そして背後の黒い靄に包まれて身動きが取れない。いつかの恐怖が背筋からじわりと解凍されていく。頭を抱えて叫びだす司。しかしその口から声の変わりに黒い煙がごう、と吐き出される。あわてて息を止めても、とまらない。口を手で抑えても吸い込もうとしても、自分の意思とは関係なく黒い煙は吐き出され続ける。煙りが目の前を黙々と立ち昇っていくのを見て、司は、その煙りが自分の中にある「なにか」である事に気づく。そうか。俺も取り付かれていたのだ。しかし、いつの間に?あのときか?いやちがう。
お前の中には、生まれたときから、いたんだよ
目の前の昇り続ける煙から、声が聞こえる。あらゆる負の感情をたたえたその声に、司は思わず耳をふさぐ。しかしそれでも声は聞こえてくる。なぜならそれは、自分がしゃべっている言葉だからだ。その事実に気づいたとき。司は大きく体を震わせて叫び声を上げようと・・・
というところで目がさめる。もう何度目かわからない。
目の前には薄暗く照らされた天井がある。電灯の中で、小さい羽虫が死んでいるのがわかる。蛍光灯の低くかすかにうなる音が、やけに大きく聞こえる。天井の隅にはしみがある。あのしみはなんだろうか。いつか叩き潰した蚊か蝿の跡か。しかし暗いのでいまいちその形はぼんやりとしたままだ。あると思えばある、ないと思えばない。もしかしたら自分が戦ってきた「あれ」も自分がいると思い込んでいた妄想なのかもしれない。ともに戦っていた仲間たちも、もしかしたら・・・
長い間夢と現実を彷徨している司には、今までの自分の人生すべてがなにか長い夢だったようにすら感じられる。つかの間感じた友情も、自分が人の間でやっていけると思えたことも、人の役に立っているかもしれないという淡い自信も、組織の中で機能しているという自負も、駄目な人間だという自覚も、すべては夢だ。実際にあるものじゃない。あると思い込んでいるだけだ。
司は、歯止めの利かなくなった自分の思いに恐ろしさを感じて、もう一度布団にもぐった。目を力いっぱいつぶって。もし今目をあけたら。目の前に充満している、止まらない黒い瘴気を見てしまうかもしれないから。負の世界の自分の声を聞いてしまうかもしれないから。今布団にもぐっている自分すらも、夢であることがわかってしまうかもしれないから・・・
そして司は、もう一度タールの海のようなどろりとしたまどろみの中に落ちていった。
その日の吹奏楽部は結局、定時である五時に終わった。なんとなくやる気のない大半の部員達は終了の号令とともに帰っていった。音楽室には部活が終わってもなお残って自主的に練習している数名だけが残っている。いつもの事だ。日はとうの昔に暮れてしまい、蛍光灯のうっすら青味がかった音楽室の中で、彼はいつまでも同じフレーズを繰り返し練習していた。
俗だ、と彼は思っている。この部活は螺旋二高のなかでも最大規模を誇る部活で、部員数は事実上引退した三年生を含めると104名にのぼる。それだけの人数がいれば、当然のごとく衝突や軋轢や駆け引きや鞘当てや腹の探りあいが横行する。表立っては目立たないだけだが、確実に存在するのだ。部活柄、男子は希少だし、この人数の思春期の女子を統率するには、同学年の執行部連中だけでは不可能に近い。そして浮上してこないさまざまな小さい諍いは、合奏したときに無理やり引き揚げられる。技術の問題ではないのだ。合奏というものは、たった一人が全体なのだ。集団で一つ、と言い換えても良い。音が全てのズレもなく、全員の魂に同調した時に引き出される音は、自分の音であって、同時に全体の音なのだ。自分が楽器を演奏している時、それは楽曲の中の世界を新たに作り上げる…「創造」ともいえる神聖な行為の一翼をになう事になるのだ。自分がいなければ、この危うい均衡の上で行われている「創造」はたちまち崩壊するだろう。自分がいなければダメなのだ。同時に、周りにいる仲間もなければダメなのだ。
自分にプライドを持つこと、そして一緒に演奏する奏者全員に畏敬の念をこめる事。それが演奏を成功させる鍵だと、彼は感じている。本番1回かぎりの緊張感の中、幾重にも折り重ねられた長く繊細な帯を、指揮者の持つたった一本の指揮棒が軽々と操るのだ。指揮者は帯を織りながら、その帯をコンサートホール中に波打たせ、はためかせ、うねらせる。長く伸びた帯は聴衆をも巻き込んで、一つの非現実を作り出す。
そのときに感じる高揚感、満足感。それは決して生まれてから何度も味わえる類のものではない。そんな空間を「創造」するためには、ひとりひとりの「想い」が、楽器をとおして吐き出される。
大切な人に届けたい、弱い自分に触れたい、誇りに思いたい、いや、もっとシンプルな…嬉しい、辛い、楽しい、悔しい、そういった想いを、己の肺の中にある空気とともに全て吐き出す事。技術は最低限でも良いのだ。大切なのは…演奏になにを賭けるか、である。
彼は、ささやかながらずっと続く彼女―リコへの想いを賭けて、再来月の定期演奏会に向けて練習していた。定期演奏会までに、なんとしてでも納得のいく演奏を物にして、そしたらリコを誘ってみよう。しかし…自分がその境地に達成したとして、周囲の仲間達はその高みまで上ってくるのか…もしくは登ろうとする意思があるのか。残り数人しかいなくなった音楽室で我にかえり、彼は楽器を吹くのをやめた。
自分ひとりががんばっても…
そうだ、リコから見れば、自分なんぞ「ほかの有象無象」の一部に過ぎないのだ。朝の挨拶を交わすほか、彼は彼女と関わりを持っていない。そして今日の放課後の図書室で上級生と話しているのを見ると、彼女は誰にでもああなのだろう。
別に特別なんじゃないんだよな…
彼は口の中でそうつぶやくと、それがまるで本当のことのように感じられて、いや、考えすぎだ…。もう一度彼は楽器を吹く態勢にもどった。
「甲本くん…鍵よろしくう。あたしもう帰るからー」
背後で、パーカッションの永島さんが荷物をまとめながら言った。片付けももう終わったらしく、いそいそと彼の前を横切っていく。
「あ、ねえ、ふくぶちょーとかは?」
彼は永島さんの背中に声をかけた。すると永島さんは振り向いて、不思議そうに彼のことを見た。
「気が付かなかった?もう割と前に帰ったよ…あ、そうだ」
彼女は制服のポケットの中から音楽室の鍵を取り出した。
「はい。…甲本くんがんばるねー。帰んないの?」
そういわれて初めて時計を見る。もう六時五十分過ぎだ。
「ん?…ああ、やっぱ帰るわ、俺も」
「じゃあ待っててあげよっか」
永島さんは彼に渡しかけた鍵を再び自分のポケットにしまおうとした。
「あ、ああ、いいよ。俺しめるよ。終バスいっちゃうよ、早くしないと」
「バス乗んないの」
「歩いてかえる」
「…そっか。…んじゃ鍵よろしく…うあ、もうすぐバス出ちゃうよ、じゃね!」
それだけ言い残すと永島さんは彼に鍵を軽く放り投げてそのまま駆けて行った。彼女の足音が玄関の方へ消えるのを聞きながら彼はゆっくりとっち上がり、楽器を片付け始めた。椅子をしっかり並べ直し、スイッチの類を一通りチェックしてから電気を消し、音楽室を出る。廊下の電気はほとんど消えていて、正面玄関に面している廊下から職員室の明かりが少し漏れているだけだ。音楽室の重たい扉に鍵をかけ、鍵をいつものところに隠す。といって、翌朝またこの部屋の鍵を開けるのは彼なのだが。
誰もいない廊下を、正面玄関まで歩いていく。外部活の連中はもう帰ったのだろうか。やけに静かだった。音楽室から玄関に通じる廊下を歩いているときに彼は、ふと誰かに後ろ髪を引っ張られたような感じがした。反射的に振り向くが、誰もいない。そもそも彼は常に短髪にしていたので、引っ張られる髪の毛も無いはずだ…が。
ふうっ、と吹いてきた風が、彼の頬を撫でた。廊下の脇を見ると、そこは建設中の中学棟につながる連絡口だった。電気がついていないとはいえ、中学棟は以上に暗かった。それともまだ目が慣れていないのか…そんなことはない。彼は立ち止まって中学棟の方を凝視していた。そして彼が、中学棟の中が暗いわけではなく、連絡口に不定形の「暗がり」が漂っている事に気付いた途端、その暗がりは彼に向かって大きくその身体を広げ、次の瞬間には彼のことをすっぽりと包み込んでいた。
「…じゃあ、遅くなっちゃうんで…私は、この辺で…」
そういってリコが席を立った。その足取りは重い。仁たち五人は、悟の部活が終わるのを待って、駅の近くにあるファミレスに来ていた。もちろん、尚志の見解をリコと悟に伝えるためである。テーブルの上には、誰も手をつけなくなったフライドポテトが一皿と、ドリンクバー用のグラスが乗っているだけだ。リコが店を出て行くのを見届けた後、一同は再び沈黙した。
「…このことは」
悟が誰にとも無く言った。
「このことは、まだ司には言ってないんだな?」
「ああ…。そもそも今日尚志が言い出したことだからな」
仁が目の前に置いてあるグラスから目を話さずに言う。
「祐介の一件以来、これといって進展はないよな。…今の段階で結論をだすのは早急すぎやしないか」
悟が空になったグラスを傾けながらポツリとつぶやいた。
「でも…ひっしーの考えである程度辻褄が合うのもまた、事実でしょう」
剛が尚志の方を見た。
「辻褄なんて、いくらでも合うもんだよ…この考えだって、あくまで一説、だからね」
「そりゃあ綾乃さんのことなんか疑いたくないもんなぁ」
「だからもっと…しらべにゃならん事はたくさんある。が」
底の方にほんの少し残っていたコーラを飲み干してから、仁が全員に向き直った。
「俺達には時間が無い。ここんとこ、事件の頻度が異常に上がってる…いつまた戦う事になるかわからんからな。それまでに、ある程度綾乃さんのことに関してはハッキリさせておく必要がある。てことで、どうだ」
「そうそう。あんだけの事をやるからには意図があるはずだからな…そのやり口から、意図ってのは必ず露見するもんだ。手口ってのは意図の具現化に他ならないからな。…まずは祐介本人、か」
悟がカバンを肩にかけて立ち上がった。
「祐介んトコには俺が行ってみるよ。図書館関連については任せるわ」
無言で財布からいくらか出すとテーブルの真ん中に置いて、悟は店を出て行った。
「じゃあ綾乃さんに関しては…ベタだけど経歴とかから洗う?」
それにつられて財布を出しながら剛が言った。
「そんなことできんのか」
「やってみるよ。考えてみりゃあ綾乃さんてあんまし自分のこと話さないじゃない。でもま、学校に勤めてるかぎりは書類上でも何でも洗えるもんはあるでしょ」
「おいおい、あんましヤバいことは」
「しないよ、そんな事したら一発で露見するもん。ま、みててよ…んじゃワタシもこの辺で、と」
テーブルには尚志と仁だけが残った。BGMが静かに耳に浸透してくる。既に時計は八時過ぎを指していた。沈黙。
「もったいないから喰えば?」
先に口を開いたのは仁だった。それには応えずに尚志が言った。
「…腹ンなかで何考えてるかはしらんけど…あんまり一人で突っ走らないでよ、ジンさん」
「解ってるよ。別に隠し事とかそーいうわけじゃねーよ。時期が来たらいずれ解る。そういうこともある」
「だからって抱え込むこたないんだからね。『困難は分割せよ』ジンさんの口癖じゃないか」
「…そうか。そうだったな。…俺が司んトコいくよ。明日も休みだったら、な」
「じゃあ僕はあの術式とか…そっちの方から攻めてみる、てので決まりだね」
「おう」
会計を済ませて外に出ると、外は刺す様な寒さだった。
「なんかがさ…俺たちの預かり知らぬところで動き出してんのかもな」
星を見上げて、独り言のように仁がつぶやいた。
「だとしたら…僕たちは訳もわからず片棒担がされてるってことか」
「それで終いにゃあさせねーよ」
「無論でしょ」
そうして、二人は駅に向かって歩き出した。帰るまでの間、二人はもう一言も口を聞かなかった。
翌日。
「おっはよーございまーす!」
昨日の重い足取りがウソのように、いつもの、いやそれ以上に威勢のいい声で、リコが朝の図書館に入ってきた。
「朝からやかましい!」
「あれ、珍しいですねぇ剛先輩」
「ああ、ちょっと卒アルをな」
「なんだ、向学心に目覚めたのかと思った」
「うるせーよ!」
「うむ!元気なのは良い事だ」
そう言いながら綾乃が書庫からでてきた。一瞬こわばったリコの表情を読み取った剛は、リコが空元気である事に気付いた。つとめていつもどうりにしてるな…
「綾乃さんオハヨー」
「ございますをつけなさい」
「細かい事は気にしない」
「そういう問題かあ?」
図書室には毎朝の活気が戻っていた。しかしリコも剛も、それが今はまだかりそめのものである事を意識しながら。
「おはようございます」
仁がやや落ち着き払って現れた。
「今日は朝から全員集合かね?」
綾乃が複雑な表情を見せるが、仁は一渡し図書館を見回した後、綾乃に向き直って言った。
「いや、もう教室行くから安心してくだされ…剛さあ、司まだ来てないでしょ?」
「ん、まだこの時間じゃ来るとしたって早いし」
「だよな。じゃまた放課後に」
そう言うとさっさと踵を返して去っていった。その様子を見て、剛に近付いたリコがそっと耳打ちした。
「みなさんなんか動き始めたんですね」
「んま、そんなとこだ」
また図書館のガラス張りの扉が開く音がした。リコが小さく「あっ」といって剛の頭越しに「おはよーっ」と声をかけた。剛がつられて振り向くと、入り口のところには放課後たまに見かける短髪の男子の姿があった。たしか一年だったよな…
しかしその少年は入り口に立ち尽くしたまま、リコの挨拶もまったく無視している。無視、というよりもとから聞こえてないようだ。そして少年は、仁がそうしたように図書館内を軽く見渡すと、そのまま帰っていった。
「なんだったんだろね」
本を並べ直しながら綾乃が不審そうな顔をした。
「しっかしオマエ、ホントに誰にも彼にも愛想がいいんだな。無視されてんじゃねーか」
剛がアルバムを何冊か手にとりながらリコに話し掛けると、リコは綾乃さんよりもっと不思議そうな顔つきだった。
「あれえ」
「どうしたっての」
「さっきの人…同じ学年なんですけど…毎朝ここ来る時すれ違うんですよ。んで、あいさつしてたらいつも返事してくれてたんだけどなあ」
「ねぼけてんじゃない、まだ」
「でも毎朝あたしと同じくらいに登校してますよ…部活の朝練かなんかで」
「ふーん、詳しいじゃん。なに、気があんの?もしかして」
「なんでそうやってなんでもかんでも色恋沙汰に結び付けるんですか。色欲魔人め」
「そりゃいいすぎっつーか飛び過ぎ」
「だって最初に挨拶してきたの向うですよ。返してやるのが礼儀ってもんでしょ」
「なんだ、気があるのは向こうの方か」
「だーかーらー!」
「はいはいって。何でお前はそうやって元気だけはいいんだ」
「…」
突然リコが黙ったので、剛は少し狼狽しながらもリコの言葉を待った。いつに無くゆっくり、リコは話し始めた。
「まあ…ほかにすることったら木刀振るうくらいしかないですから。先輩はパソコン詳しかったり…天現寺先輩は強かったり…みんないろんなことが出来るじゃないですか。先輩方に比べればあたしって…それこそバカの一つ覚えじゃないですケド、できる事ってホントに少ないんですよ、きっと。例えば今回にしても…祐介先輩にも西脇先輩にも、何もしてあげられなかったから…」
いつもと違うリコに、剛は改めて自体の重さを認識していた。綾乃は書庫に戻ってしまっている。
「だから、あたしにできる事は少ないから、せめてできる事だけは精一杯やりたいんです。先輩方が、大変だったら、そのぶん精一杯元気になるんです。あたしが。…なんか変な理論ですけど…昨日みたいな…先輩方があんなに辛そうにしてるのみてると」
そこでまたリコは黙ってしまった。
「ま、リコのエネルギーはずいぶん有効活用されてるだろ。俺もみんなも、オメーの元気がなきゃすぐヘコタレるからな。大事な供給源だ!」
言いながら剛はリコの背中をバンバンたたいた。
「…搾取されとんのかあたしは」
「そいこと」
「むがー!」
「怒んなよっ!」
「図書館では静かにィ!」
そうしてまたかりそめの活気が図書館内を走り回った。しかし、どんなにふき取ってもしみこんでくる疑惑と猜疑のシミは、それでもなお、ゆっくりと剛たちの心の中に広がり続けてた。
つづく。