螺旋の七人・第五話 後編

 

 年が明けた。しかし司にはそんな事はどうでもいい些事だった。10日前に悟の家に泊まって以来、司は家から一歩も出ていなかった。元旦の朝、母親が二階の自室で寝ている司に向かって朝食が出来た事を大声で伝えていた。元旦くらい家族で食べよう、と言っていたが、司にとってはその声すら雑音に過ぎなかった。寝たふりをして無視。

司の心をずっと絡めとっている事がある。それは、悟の家に泊まったときに祐介から聞かされた彼の秘密だった。祐介は、その体内に「あれ」を取り込んでいる。その影響で、「あれ」の居場所を特定する特殊能力が身についてしまったというのだ。

 

 

 「この事は、司にしか言ってないから。…綾乃さんとキミ以外、知らないから」

 10日前の夜、胸に彫られた墨を隠しながら、祐介は小さくそういった。彼の言いたい事は司にもわかった。司は、祐介にどう接すればいいのかわからなかった。祐介の中に、異形がいる。人であって、人でない。ひっしに自分の中から沸きあがってくる「差異」の意識を押し殺しながら、司は乾いた口で言った。

 「…なんで、俺に?」

「司も襲われたんだろ。だから、もしかしたら、と思っただけ。でも話を聞いてて、俺みたいにはなんなかったんだなって思ってさ。あとは…なんでかわかんね。偶然同じ部屋で寝てたからかな」

「でもそんな…」

「そんな重たい事、背負わせるんじゃねえって?…それはまあ、悪いと思ってるよ」

「…いや、そんなこと思ってない!ただ、そんな大事な事なのに、俺に話しちゃったりしてよかったの?」

「…なんか直感、て奴でさ。俺と司ってなんか似てるなって思ったんだ。言っても大丈夫だろうって」

祐介がもそもそと掛け布団をなおしながらもぐりこんだ。司には背を向ける形で横たわる。司はその姿を見て、なんだか急に寒気がした。寒気、といっても恐怖による寒気という類のものではない。自分がどうしようもない過ちを犯してしまったときのような。悪いと知りつつやった事がばれた瞬間のような。そんなとき司はいつも寒気を覚える。背中の毛穴が力の限り収縮して、前を見れなくなって、後悔や端といった感情が一気に渦巻く。自分がこの世界にいなければ良かったとさえ思う。

そんな「寒気」が、司を支配した。なぜだかよく解らなかった。ずっと一人ぼっちで、やっと出来た仲間たち。みんなが自分のことを信用してくれるのがわかる。そして司自身も、彼らには無類の信頼を持って接してきた。そうして築き上げられていったスパイラルの絆。偽りの無い仲間の素顔に、司は友情を感じていたのだ。

しかし、祐介は。皆に悟られずに、己のみに起きたこの事態を独りで背負い込んでいる。そして普段の生活では、その事をおくびにもださない。司は祐介の苦しみに気付いてやる事ができなかった。仲間として、友達として、これは恥ずべき行為なのではないか。一方的に友情を過信して周囲の仲間を省みる事が無かった傲慢さに、司はひたすら恥じ入っていた。その事に対する寒気なのだろうか。司は毛布の中に身を埋めた。

「…何か、力になれる事があったら。なんでもする!だから…そんなに一人で背負い込まないでくれ。無理しないでくれよ…」

司はそうつぶやいた。いまどき青春ドラマでも使われないような、陳腐な言葉しか出てこなかったが、紛れも無い、心の奥から出てきた言葉だった。自分で言ったその言葉が、自分のしてしまった「気付かなかった罪」への免罪符のように、司の心も少し落ち着かせた。

「…ああ。ありがとな」

背中を向けたままで祐介が言った。

 

 

あの夜、司は少しも眠れなかったが、朝になって起きてみると、祐介は何事も無かったかのように皆に混じって朝食の準備をしていた。仁や悟が口々に「大丈夫か」と尋ねていたが、本人はけろりとした様子で、いつもどおりの笑顔を見せていた。その様子は、10日経った今でも曇ったガラスを隔ててしまったような印象とともに、司の脳裏にべったりと張り付いていた。何で、あんなに楽しそうにしていられるのか。

日が昇り始め、外の道路も初詣の客で少しづつ賑やかになってくる。カーテンの隙間から差し込む元旦の日の光を腕にあてながら、司は天井を見ていた。母親はもう諦めたのか、階下からは妹と両親が談笑しながら御節を食べている声がうっすらと聞こえてくる。布団の中に入ったまま、司は眠くもないのにもう一度目を閉じた。正月の朝から、こうして暖かい布団の中で寝ている自分。生意気盛りの妹と元気な母、自分とは只今冷戦展開中の父。何もかもが、あきれるくらいに平々凡々としていた。家族間で多少いざこざはあるものの、それも全ては「平均的青少年」の枠の中におさまりきる程度だ。特に身体を病んでいるわけでもなく、学校に行けば、多くはないが仲のいい友達もいる。こういう状態をさして「幸せ」というのだろう。大切な親友が苦しんでいる事にも気がつかない。人知れず、己の中に化け物が住み着いている祐介の苦しさや痛みなど、自分はまったく想像がつかなかった。祐介はきっとつらかったのだろう。そしてその辛さはいつになったら終わるのか誰もわからないのだ。そんな祐介の心中を察する一方で、あまりに普段と変わらない安穏とした生活をしている自分に腹が立った。こうしているあいだにも、祐介は。

昼に近くなったころ、家族三人は司を置いて初詣に出かけていった。家が静かになるのを見計らって、司は身を起こすと寝巻きのままで階段を下りた。日が照っているとはいえ、家の中は寒い。しかしその寒さの中に無理やり身体を押し込んでリヴィングに入る。殆ど片付けられているおせち料理の中から余っているものを適当につまみ食いすると、洗面所にたった。ガスの元栓を入れて温水が出るようにする。蛇口を捻るとまだ出てくる水は温まっておらず、司は水道から落ちる小さな水柱を指で切り崩しながら、水温が上がるのを待った。ばしゃばしゃ。水温が指先の体温に近づいてくる。顔を上げて鏡を見ると、寝すぎではれぼったくなっている瞼をした自分の顔がそこにあった。

…のんべんたらりとした顔しやがって!これじゃあクラスの脳プリンな野郎どもと何も変わらないじゃないか!何故か無性にイライラした。苦しんでいる友達を目の前にして、何もできない、助けられない自分がどうしようもなく不甲斐なかった。世界一の役立たずになったような気分だった。

「くそっ!」

既に熱くなった温水で、司は顔を洗う。といっても無意識にほほを叩きつけるような仕草をしただけだった。したたりおちる水に構わず、司はしばらく鏡の中の自分と対峙する。

役立たず!役立たず!役立たず!

「くそ…ッ」

もう一度小さくつぶやくと、顔をタオルでざっと拭き、司はもう一度二階へ上がっていった。

それから新学期が始まるまでのあいだ、司は食事、風呂、トイレ以外は殆ど自室から出なかった。正月だからといって家族とヘラヘラする気分にはなれなかった。いつもダラダラ寝て、昼頃起きるとコッソリ残り物で食事をし、あとは冬休みの宿題を片付ける事に専念していた。始業式が近付くにつれ、司は学校に行きたくないと思うようになっていた。どんな顔をして祐介に会えばいいのだろうか。今までのように、祐介に接する事ができるのだろうか。それを考えると、なぜだか司は後ろめたい気持ちになった。

 

そんな調子で一週間が過ぎようとしていた。16日。その日の夕方、相変わらず部屋にこもり、毛布の中に足を突っ込みながら雑誌を読んでいた司のもとに、内線電話がかかってきた。いつもより長いコールに負けて司は子機を取ると、一息で言った。

「…なに?夕飯はいいって。後で適当に食うから」

「違うのよ。あのネ、高校の先生から電話。じゃあそっち回すから」

「だれ」

司が聞く前に、子機は外線に切り替わっていた。

「もしもし?司君?」

聞こえてきたのは、司書の綾乃の声であった。

「なんだ、綾乃さんか。うちのオカンが先生だ、なんていうから誰かと思った」

「だってイキナリ司書ですとか言って代わってもらうの、どう見てもおかしいでしょうが」

「まあそうですけど」

「…そう、で、さっそく本題に入るわ。西脇君さぁ、明日の夕方から空いてる?」

司は嫌な予感がした。

「なんですか?綾乃さんのおごりで新年会でもやってくれるんですか」

「働きいかんによってはおごってあげてもいいわよ…で、空いてる?」

やっぱりだ。こんな時に。ついてない。

「働き…つーとあっちのほうです、よね」

「ご名答」

「また何か事件でもあったんですか」

「そーいういうわけでもないんだけど、ネ。ホラ、明後日から新学期が始まるでしょう、それで他の生徒が一斉に登校する前に」

「開店前の店の掃除をしろ、というわけですか」

「ご名答。詳しくはその場で説明するわ。明日の午後四時半、図書室集合」

「他のメンバーはくるんですよね」

一瞬祐介の顔が脳裏をよぎる。

「ああ、みんなにはこれから電話かけるトコ。じゃ、たのんだよ」

それだけ言うと、綾乃はさっさと切ってしまった。またしてもオゴリのリクエストは黙殺されたのであった。しかしもちろんそんなことは司の気にも留まっていない。祐介はまた、あの能力を活かして俺たちのバックアップをするんだろうな。今までの作戦行動では当たり前だった事が、急に悪い事のように思えてきたのだった。明日、祐介と会ったら極力いつもどおりに接する。そう自分に言い聞かせた。

 

 

焼けた鉄板に水がかかったような音とともに、最後の影が消えた。

「…終りか?ほんとにこいつで最後なんだな?」

ようやく搾り出すように仁が無線を通して尋ねた。

「終わったよっ!もう『あれ』の反応はどこにもないから。ああ、急に出て来たってんなら俺もわからないけど」

無線の向こうから祐介の声が聞こえてくる。冬休みは今日で終わる。生徒は学校にいなかったし大した事件も報告されていなかったので「どうせ学校内の巡回程度だろう」と考えていた司の予想は大きく裏切られる事になった。祐介は、校舎に入るなり二体の影を感知していた。更に意識を向けて「スキャン」した結果、新たに三体を発見した。祐介の場所確認に剛のナビに従って、計五体の影を倒した直後、また別の場所で六対目の影が捕捉された。人のいない校舎内は、湧き出た影がウヨウヨいたのだ。全てが実体化する前の「影」だったおかげでいつものように司たちが怪我をする事はなかったが、それにしても六体という数を相手にしたのは初めてだったし、何よりこの緊張感の持続がしんどかった。

「…おいおいマジかあ?」

悟が身構えながら言った。今回の運動量は悟と仁が一番だろう。悟は冬だというのにうっすら汗ばんでいるのがわかる。

「…いやー冗談冗談。大丈夫だよ。気配は完全に消えてるって」

そう伝える祐介の声もまた、疲労の色が隠せない。なんども影の位置をスキャンしたせいで、祐介の精神にかかっている負荷もかなりのものになっているはずだった。今日は学校に着くなり祐介が影を見つけてしまったので、慌しく戦闘準備に入った。そのため司は、まだろくに祐介とは口をきいていなかった。

「それでは、作戦終了!みんな帰っておいで〜」

代わって綾乃の声が聞こえてきた。

 

図書室に帰ってから時計を見ると、既に九時過ぎになっていた。実に五時間もの肉体労働だ。前衛のメンバーは皆呻き声とともにソファーに身を委ねた。

「ちょっと休むー」

「はいはい今日はお疲れさまね。紅茶入れたよ」

綾乃が例によって司書室から温かい紅茶を淹れてきた。久しぶりの仕事が大仕事になってしまい、緊張から解放された一同は紅茶をすすると盛大なため息をついた。

「ッたくもーこんだけ働かされるんなら次からバイト代ちょうだいよ…」

剛がパソコンの接続を切ってノートを自分のリュックにしまいこむ。

「オメーは座っていられるだろが。俺ら校内走り回ってもう」

言いながら仁がファーに横になった。もはやスーツを脱ぐ気力もないらしい。司はそれを横目で見ながら、BB弾をひとつひとつ、ガスガンのマガジンに詰め込んでいた。戦闘が終わったその日のうちに新しい弾を補充しておく、というのが司のくせになっていた。

「なかなか『内勤』ってのもきついんだぜ。精神的に」

カウンターに突っ伏したままで祐介がそういった。運ばれてきた紅茶には殆ど手をつけていない。

「英くんもお疲れさま。今日の功労賞は英くんだね」

準備のために少し散らかったカウンター周りを整頓しながら、綾乃が祐介の方をぽんと叩いた。

「えー俺たちはー」

身体を背もたれに埋めている悟が振りかぶる。

「だって祐介先輩の『スキャン』がなかったら今日の労働量は軽く五倍くらい跳ね上がってたんですから」

そういうリコを横目に、司は祐介の方をちらりと見た。祐介は照れたように笑っていたが、その笑い顔を、今となっては素直に受け入れる事が出来なかった。

「あーちょっとトイレ」

祐介はゆっくりと立ち上がると図書室を出て行った。頭を軽く押さえて、足早に。

「またどっか調子悪いのか」

そう聞いた仁に

「いやー疲れただけ。それとは別に朝から腹痛なのよ腹痛」

と祐介は片手をひらひら振って返す。

「…ほんとに大丈夫かなあ」

「まあ、あいつはあれでなかなかスタミナ使うみたいだからな、スキャンするときには」

悟が着ていたスーツを脱ぎながらぽとりといった。それもそうだろうが、やはりこの一ヶ月あまりで何度も出動がかかった、ということもあったに違いない。司も初めてのころに比べてチームワークや手際は良くなったという実感はある。しかし一方で、早くもこの仕事に疲れを感じているのもまた事実だった。たとえ今日のように少々疲れる場合であっても、仲間達とこうして過ごすことでずいぶんと気が休まる。しかし、祐介の場合はどうなのだろう。あんなつらい事を背負って、心底みんなと笑えるのだろうか。常に「あれ」に取り付かれている恐怖から、気が休まるときはあるのだろうか。

祐介はそう考えるといても立ってもいられず、図書室の外に出た。こういう和やかな空気の中に自分がいる事が、なんだか悪い事のように思えたのだ。図書館の外はもちろん電気などついていないので、廊下は暗い。祐介が入っているはずの、出入り口でて正面の男子トイレだけがぼんやりと明かりを投げかけている。図書館を出てすぐ脇にある待合用の椅子に腰掛けると、ひんやりとした後ろの壁に頭を寄せた。髪の毛越しに、後頭部が冷やりとする。なにか、祐介を苦しみから解放してやれる事はないのか。自分にできることはないのか。

その時、かすかに咳き込む声が聞こえてきた。もちろん声は男子トイレから。続いて吐くような呻き声。かすかなものだったが外界の音から遮断されている、この静かな廊下ではその声ははっきりと聞き取れた。急いで男子トイレのドアをあけると、個室の扉をあけたまま、半ば倒れこむようになって吐いている祐介の姿があった。

「ちょ…大丈夫…じゃねーよな?」

駆け寄って祐介の背中をさすってやる。祐介の背は激しくうち震え上下し、そのたびに呼気のかたまりを祐介の腹から搾り出す。便座についた祐介の手を見た司は、一瞬言葉を失う。この前見た、あの触手のような黒い筋が手首の辺りにまで延びてきている。蛇が獲物を絡め取るように。木に巻きつく蔦のように。

「…これ」

司が口を開くと、祐介は肩で息をしながらゆっくりと司のほうを振り返る。床のタイルに直接腰を落として体勢を安定させると、上着の袖を掴んでその模様を隠した。

「ああ、あのな。スキャンする時って、あんまり立て続けにやると頭が船酔いしたみたいな状態になって」

「そんなことじゃないだろ!おまえの手首!大丈夫じゃないじゃないかよ全然!…なんで俺にまでそうやって無理すんだよ」

「だってまたホラ、司は人のことまで心配するから」

「そういう問題じゃないだろ!…みんなに言ったほうが良いよ、もう。それで綾乃さんとも相談して、どこか、治せる…」

言いかけた司の腕を、祐介が掴んだ。裾からちらりと、あの黒い文様がのぞく。顔はさっきのまま、力のない笑みの祐介だが、その手に込められた圧力はすさまじかった。上着の上からでも痛い。

「…それは、ダメだ」

「なんでだよ!」

「いいか、俺の中に居るのはな、普段俺たちが消すべきものなんだ。そんなことをばらしたら大変な事になんだよ!敵を倒すときに、その敵様からお伺いを立ててるってな!!」

祐介の目には、あのときの色が宿っていた。深い沼のそこから湧き上がってくる水のように、不安や懊悩が色彩を持ったように。

「だけど、このままじゃお前がだめんなっちゃうだろ!」

「とっくの昔に俺はもうダメになってるんだよ。もうな、人間ですらないかもしれないんだよ!」

「そうならないようになんとかしようって話だろ!」

「…何とか!何とかできるのかよお前に!ジンさんに!綾乃さんに!もうどうにもならないんだよ!」

祐介の手はいつのまにか硬いこぶしになっている。吐き出すようにいい終わった祐介は、視線を司から床に移し、喋らなくなった。司は、泣き出しそうな自分に気付いていた。無力だ。俺は何もできない人間だ。目の前でこんなに苦しんでいる友達に、何もしてやれない。役立たずだ。そんな自分に対する呪詛を必死にかいくぐって、司は精一杯、平静を装って祐介の肩に手を乗せた。

「がんばってみようよ。がんばって、いつか祐介ちゃんの中の「あれ」を取り除けるように、今はあんな化け物に取り込まれないように、がんばれ…!」

祐介は無言で下を向いた。肩が小さく震えているのが、司の手を通して伝わって来る。

ばきっ!

刹那、司は自分の顎のあたりに鈍い痛みを感じていた。すぐに何が起きたかわかった。祐介が司を殴ったのだ。握り締めたその拳で。それを確認する暇もなく、今度は祐介が身体ごとぶつかってくる。個室のドアを弾き開けて、司の背中は壁に激突した。

「がんばる?がんばるだと!俺はがんばったよ!お前らに気付かれないように!いつも楽しくやってるふりをしてよ!だれも自分の不幸ひけらかして心配してもらおうなんておもってねんだよ!…みんなに心配…かけたく、ないんだ…」

最後のほうには微かな嗚咽が混じっていた。司は自分の言ったことの愚かさに気付いていた。「がんばれ」だと?俺はいったい何様だ。あいつが辛いのは知ってる。では辛い崖を必死に登ろうとしている祐介に対して、自分は何をしたか。自分はおちる心配のない頂上に悠々と構えて、したから登ってくる祐介に対して「がんばれ」と声をかけるだけだ。祐介の苦しみを何とか理解しようと思っていた自分が、実は相手の苦しみと自分の幸せを差別して考えていたのだった。「がんばれ」なんて、頂上でのんびりしてる奴が言うことじゃないか。なぜ一緒に登ってやろうと思わなかったのか。なぜ手を伸ばして必死に彼の腕を掴んでやろうとしなかったのか。

自分の思っていた友情なんて、ただの自己満足だ。

くそ、くそ、ちくしょおお!

司は固く目を閉じ歯をくいしばっていた。己の不甲斐なさに、怒りを感じた。同時にダメな人間なのだという卑下も抱いた。あらゆる負の感情が、司の身体を突き破らんばかりの勢いで体内を暴れていた。

その時だった。司は胸のあたりにヒヤリとしたものを感じた。目を開けて自分の胸元を見たとき、自分の目を疑った。胸の、ちょうどみぞおちの辺りから煙のようなものが立ち上っている。黒い影だ。それは、いつも司が戦っている「あれ」とまったく同じものだった。

「…?!」

いそいで煙が出ているあたりを手で押さえるが、どんなに押さえても指の隙間から、上着の袖から、黒い影は漏れていった。煙はどんどん量を増し、換気扇に吸い込まれるように、祐介の胸のあたりに吸い込まれていく。司の唇がカタカタ震えている。祐介は何もいわずに下を向いている。その間にもどんどん影は吸い込まれていった。

「…やめろ、やめろ!!とまれえっ!」

本能的に司は叫んでいた。身体をじたばたと動かす。すると突然、胸元の冷気が消えた。自分の胸元を探ってみると、もう影は出ていない。…いったいなにが。しかしそう考える前に、司は祐介の異変に気がついた。祐介がゆっくりと顔をあげる。司はその目を見た瞬間に直感的に理解した。「あれ」と同じ目。虚無を映し出す目をしている。瞳の奥にあるべき何かが、ない。「あれ」に乗っ取られたのだ。

続いて変化は肉体のほうに及んだ。祐介の腕が、足が、胸板が、風船でも入れたかと勘違いするくらいに膨らむ。たちまちのうちに服は裂け、祐介の肌が露出するが、その肌にはまるで一本一本が意思を持ったように蠢きまわる金剛の体毛が生えつつある。胸に刻まれた印から伸びる黒い文様は、そこから黒色の体毛を生やす。肉体は変化し続け、四足で地面につく。ついたてには鋭い爪が生えており、その半透明の爪の奥で黒いどろりとしたものが動く。四つん這いになった祐介の顔は、司のすぐ目の前にあった。その顔は苦悶に歪んでいる。司が今まで見たどんな生き物よりも恐ろしい表情をしていた。眉間によっているしわが、そのまま顔全体を走り、顎が割れ、金の毛がそれを覆っていく。見慣れた祐介の顔が破壊され、その奥から化け物の形相があらわになる。司は悲鳴をあげる事すらできなかった。割れた顎が微かに動き「ごめん無理だった」と祐介の声で囁いた次の瞬間、眼球がぐるりと動くと獣の目になっていた。

祐介の「変身」が終わった。その姿は、まがまがしい表情を湛えた虎、そのものであった。

その時、トイレのドアが開かれた。

「おい祐介、司、いったい何が」

悟がそういい終わらないうちに、祐介だった虎の張り手が悟を薙ぐ。

「うわ」

とっさに取った防御の体制で虎の爪に当たらないように腕の部分を受け止めた悟だったが、そのまま振り切った勢いで一気に図書室の入り口まで吹き飛ばされる。鉄でできた入り口扉の枠が悟るの当たった衝撃でゆがみ、ガラスが真っ白になるほどのヒビがはいる。大音響とともにガラスが割れ、事の重大さに気がついた図書室に居た仲間達は一斉に身構える。仁がゆがんだ扉を蹴り開けて、倒れたままの悟を図書室に引きずり込む。そのとき、もう一度鈍い音がして今度は司が吹っ飛んできた。悟を引っ張っている仁に悟はぶつかり、三人はそこに倒れこんだ。一拍置いて、トイレの小さいドアを壁ごと破って、虎が出てくる。しかし、動物としての虎ではない。その顔には怒りや苦しみのしわが深く刻まれている。

ごああああああああ!

吼えた。司は全身しびれて動けなかったが、それでも匍匐全身の要領で図書室の奥へと進む。

「…虎、虎ですよね」

リコがしまってあった木刀を袋からゆっくりと取り出す。それを正眼に構えるが、切っ先が震えて定まらない。剛は無言のままあとずさる。虎はもう一度吼えると、二本足でたった。胸に彫られた印が、そこだけ刈り取られているかのようにくっきりと見えた。

「…あの模様!…司ちゃん!いったい何があった?!…祐介ちゃんどこいったの!!」

虎を見たまま叫ぶ尚志の足元に辿り着いた司は、全身の力を振り絞っていった。

「…祐介が、虎に、なった」

自分でも驚くほど小さい声しか出なかったが、尚志には聞こえた様だった。驚きはしたものの、直後に苦い表情をした尚志は誰にとも無くいった。

「…やっぱりか。最悪のパターンだ」

二本足で立ち、振りかぶった虎が床を蹴って飛ぶ。床材は爪の後を残してぼこりとへこんだ。そのまま近距離にいる仁に襲い掛かるが、前回り受身の動きで仁が爪をかわす。一瞬できた隙をついて、綾乃が司書室に走る。虎は身を反転させてその顎を大きく開いて仁に襲いかかった。

「くそっ!」

仁はそれを跳躍で切り抜け、そのまま虎の背中に落下すると、そのまま振り落とされる。

「古河君、これッ!」

綾乃が投げてよこしたスーツのスイッチを受け取ると同時に入れる。バシュッと音がして、空中でスーツが展開する。仁はそれを着ないまま手に持って旗を振るように一回ふると、意思を持ったようにスーツが伸びて、第三撃を繰り出そうとした虎の顔面にヒットする。バリッと鋭い音がして、幾筋もの電光が空中に散る。

「ジンさん!ホンの少しでいいからアレの動きを止めてくれ!勝ち目はある!!」

逃げ回りながら尚志が叫ぶ。

「無茶言うな!死ぬ!」

身を翻しつつスーツを着込んだ仁はそう叫びつつ虎の背後に回りこんだ。さっきの衝撃で気絶したままの悟には目もくれず、背後に回った仁を追いかけて虎は前足を振り回す。片付けたばかりの本棚が吹き飛ばされ、蛍光灯が爆ぜる。

「うわっ」

剛がノートPCの入ったリュックを抱きかかえて机の下にもぐった。その動きに反応した虎が一気にその机まで駆け寄り、机の上から手を叩き込む。

「おおおおおっと!」

間一髪で転がり出た剛の背後で、机が真っ二つに裂ける。

「リコ!木刀よこせ!!」

尚志が隣ですくんだリコから木刀をもぎ取ると、右手の親指の先を自分で噛み千切った。たちまち血が滴る。ひさしはその血の付いた指でリコの木刀に呪符を書く。刃先から柄まで血文字の梵字が書き込まれた木刀をリコに返すと、尚志は言った。

「こいつであの虎の胸のあたりを切るんだ。あいつ胸のところにある変な模様、それを狙え。きったら切り抜けないでそのまま押し当ててろ」

「無理ですよう」

「あいつを助けるにはそれしかないんだ!いいか、一回だけしか効果は無いからな!」

「助けるって」

「いいから行く!」

そのままリコの背中をどーんと押す尚志。折りしも、再びターゲットを仁に変えたトラが、飛びかかろうと身を起こした。

「ジンさん、いまだ!」

尚志の声を合図に、虎が飛び掛る前に仁は突進していた。そのまま虎の後足のあいだを潜り抜けて背後へ回ると、虎の頭に後ろから飛びついて「海老ぞり」の態勢に持ち込む。

「おらアアァ!」

スーツが至近距離の虎と反応してバチバチと火花を散らした。

動きが一瞬とまったのを見計らい、綾乃が司の下に走り寄ると、綾乃は無言でガスガンを司に渡した。撃つのか、これで。祐介だった、あの獣を。しかし迷いどころではなかった。弾がフルロードなのを確認すると、司はセレクタを「フルオート」に合わせた。

「いまだ、リコ行けッ!」

仁が虎の背後から叫ぶ。

「どおおおおりゃああアッ!」

気合とともにリコが虎の胸にかかれた文様めがけて一気に放心する。

バン!という音とともに、青く輝く衝撃波が水の波紋のように周囲の空間に飛び散る。そのままリコは刀を振り切らずに虎の胸に押し当てたまま踏ん張っている。

ぐえええええええ!

虎が真っ赤な口内を見せて雄叫びを上げた。

ズバッ!

瞬間、虎の背後で押さえていた仁が吹き飛んだ。虎の背中から、黒い影の塊が飛び出したのだ。その黒い影は、空気を切り裂くような金切り声とともに、飛び出した延長線上に居る司めがけて突進してきた。その影の中に、一瞬祐介を見たような気がしたが…

「だらああああああああああああアッ!!!」

真正面に迫る影に向かって、司は引き金をひいた。

どがががががががががっ!

激しいスパークとともに25発の怨敵調伏6oBB弾が影を捉え、爆発していく。

ドンッ、という低い音とともに、影は空中で爆散した。

 

 

「…いったいどういうことなんだ?」

顔の痣も気にせず、仁が眠ったままの祐介を見て尚志に聞く。戦いが終わったあと、仁と一緒になって倒れているのは祐介だった。胸には大きなやけどの後のような傷が残り、気絶していた。

「…なあ司ちゃん、祐介があの虎になるとこ、見たんだろ?」

尚志が答える代わりに聞いた。司は黙って頷く。仁に向き直った尚志は、しばらく下を向いて唇をかんでいたが、やがて全員の顔をゆっくり見ると、口を開いた。

「…祐介ちゃんは、『あれ』にとりつかれてたんだ。たぶん。なんでかは知らないけど、それが祐介ちゃんをあんな姿にして、暴れさせた」

「あの、祐介ちゃん自身は無事なの、かな?」

剛が、無造作に着せられた祐介のワイシャツから覗く生々しい傷を見ながら言った。

「先輩だったなんて…わたし、先輩に大変な事…」

リコは祐介の事を直視できないようだ。リコにフォローを出すように尚志が再び口を開く。

「まあ、かなりの荒療治だった事は悪かったけど、祐介の中の「あれ」を追い出すにはこの方法しかなかったんだ。あいつの傷の下にある変な模様、見たろ」

尚志はそう言うと、祐介の上着を毛布代わりに彼の胸元へかけた。司は今までの会話を無言で聞いていた。どうする。言うべきか。祐介にとって、ここで俺が秘密を言う事はいいことなのか。迷っている司に気がつかず、尚志は更に続ける。

「あの模様、取り付いた悪霊を肉体に留め続ける呪符なんだ。だからあの呪符を消さない限り、祐介の中に居る「あれ」を外に出す事はできなかった。長く取り付かれていれば、身体の宿主はだんだんその悪霊と一体化して行っちまうんだ。祐介が知っててやったわけじゃないだろうから…」

「誰かにやられた、ってことになるのか?」

仁が唇をかんだ。

ちょっとまってくれ。司は思った。祐介は、あの模様は「あれ」の侵攻をとめるため、と言っていた。…祐介自身がだまされていた、ということか?だとしたら祐介にあの術式を施した人間、そこに連れて行った綾乃さんも、なにか関係があるってことか…?ここにきて、司は祐介から聞いたことが口に出せなくなってしまった。1つを疑いだすと、どんどん不審な事が思いあたる。司は綾乃を盗み見た。綾乃もさっきから一言も口を出さず、ただ黙って祐介を見ているだけだった。その目は、いつか見た「組織の人間」としての綾乃の目だった…。

 

 

第五話・後編終り。

第六話をお楽しみに!!