螺旋の七人・第五話

 

 自分の事を、特別だと思ったことはあるか?

 

あります。

 

それはなぜ?

 

自分ひとりが置いてけぼりにされてると思うからです。

 

だれから?

 

周囲にいる人間全て。

 

それはなぜ?

 

周りの人たちが、当然のように恩恵を受けているいろいろなものが、僕には届かないからです。

 

いろいろなもの、ってなに?

 

それは、うれしいことや、かなしいことや、たのしいことや、いきどおろしいことや、さびしいことや、あたたかいこと。またはそのようなもの。

 

それは不幸なことですか?

 

ちがいます。

 

それは幸福なことですか?

 

ちがいます。

 

いま答えたことは全て、本当のことですか?

 

わかりません。

 

いま答えたことは全て、嘘ですか?

 

わかりません。

 

 

 

今年もあと二日で終わろうとしていた。外気は日中だというのに耳を刺すほどに痛く張り詰め、どんなに厚着していても身を縮めずに入られない。日はちょうど南中しており、この季節独特の、淡いコントラストを含んだ光彩をアスファルトに投げかけている。それに呼応するように、骨だけになった木々や古い店先のコンクリ壁までもが、己の色彩を控えめにしていた。駅を抜けたところはロータリーが広がっており、枯れた木々にモノトーンのアスファルト、乾いた空が視界に入る主なオブジェである。司は駅の階段を下りてその光景を目にしたとき、一瞬古い写真を見ているような気がした。寒さのためか、往来を歩いている人は少ない。ここ、見原駅は司の通う螺旋二高の最寄り駅だったが、自転車通学の司は駅を殆ど利用した事がなかった。年末、世の中は年越しの準備に終われてせわしない時期だが、司とスパイラルのメンバーはいたってヒマである。学校が冬休みに入り、部活動も殆ど行われなくなった今、スパイラルのメンバーが出動しなければならない事件が起こる可能性はほぼ皆無である。忙しく動いている大人たちに対して、司たちは恐ろしくヒマだった。宿題もあるにはあるが、夏休みに比べれば物の数ではない。それよりも、司は仲間達と親睦を深める事のほうに使命を感じていた。

大通りを、駅を出てまっすぐ歩いていると商店街入り口がある。ここの大通りは、何故か同じ並びに商店街と大手スーパーが立っているという不思議な場所だった。その商店街に入る少し手前のかどに、司の目的地はある。コンクリート打ちっぱなしの壁面をむき出した、いかにも退廃的なビル。その五階に、その店は存在する。カラオケBOX「九龍(カオルーン)」その名の通り、入った瞬間ここは香港の闇市場かと勘違いするほどの空気を放つその店は、内装から受付のあんちゃんに至るまですべてがいかがわしいく退廃的ムードを醸し出している。薄暗い白熱灯の明かり、悪趣味な柄の壁紙が剥がれかけ、剥き出しになっているダクト。そこかしこにある、なんだか解らないシミ。そして扉を閉めても漏れ聞こえてくる、カラオケをする客の歌声。低音しか響いてこないためにその曲は愚か、日本語なのかすらも判別不能だ。迷路のように狭い通路を抜けて受付に行った司は、そこに佇む長髪の店員に

「あのう、古河ってひとが入ってる部屋って…」

と尋ねたが、店員は返事をしなかった。目が異次元を見ている。ひたすら自分の業務時間が終わるのを待っている。接客の二文字は、彼の脳内でとうに消化されてしまったようだった。聞いても無駄だと判断した司は、カウンターに無造作に置いてる受付リストを覗き込んだ。手書きでかかれた「08」という番号の行に、古河仁の名前はすぐに見つかった。読んだわけではない。仁の字の汚さは相当なもので、本人以外は判読にかなりの訓練を要する。そのかわり彼直筆のサインはすぐに見つかるのだが。司もかろうじて「古」の字が読めた程度で後は諦めざるを得なかった。

夢の中でピンクのカバがオペラを歌っている様な、わけのわからない音の渦を潜り抜けて「08」とプレートのある部屋へ辿り着く。のぞき窓から一回中を確認して、司はその部屋の扉を開けた。

紅だーーーーーーーーーーーー!!!!

ドアをあけた瞬間、風が吹いたと思った。しかしそれは音圧だった。音に押し戻されそうになった。比喩でもなんでもない。大音量、エコー全開、ハウリング、ノイズお構いナシの音の洪水が、一気に司を溺れさせる。その音が仁の声であることに気付くまでに数秒かかった。しばしドアを開け放したままで立ちすくんでいると、腰のあたりを思いっきり誰かに叩かれた。みると祐介が司に向かって何か叫んでいる。もちろん、仁の歌声という濁流に飲まれて聞こえるはずも無い。祐介は耳を塞ぎながらしきりに顎をしゃくっている。そして何か叫んでいる。音圧が鼓膜を支配しているため聞こえない。司は祐介の唇を読んだ。

は・や・く・ど・あ・を・し・め・ろ

「早くドアを閉めろ?」

司は精一杯の大声で聞き返したつもりだったが、自分の声すら耳に入らなかった。しかし、いま自分がドアを開放している事によっていかに被害が拡大するかに思い至った瞬間、司は急いでドアを閉めた。この殺人的音響を店内に解き放ってはならない。しかし、ドアを閉めた事によってボックス内の音圧はいっそう強さを増し、司も上着を脱ぐ暇も無く耳を塞がなければならなかった。よくよく見てみると、出席しているメンバー全員が、仁の歌に耳を塞ぎ、うずくまり、ひたすら嵐が過ぎるのを待っていた。ここは戦場か?空襲でも受けているというのか?!歌詞から察するにこれはX−Japanの「紅」だろうと推測できた。もちろん歌詞を見るまで気付かなかったのだが。

入室してから約四分が経過し、やっと司はこの苦行から開放された。歌い終った仁がこともなげに席につく。それを見計らってすかさず剛がボリュームとエコーのつまみを標準値まで戻す。よかった。あの音量がデフォルトではないようだ。カラオケのマシンは、次の曲をロードしている。ひと段落ついた司は、やっと上着を脱ぐ事ができた。立ったまま上着を脱ぐ司を見て、初めて今回の出席者は司の存在に気付いたようだった。

「あれーっいつのまに!」

社長が選曲のリモコンを悟に渡しながら司のほうを見て目を丸くする。

「ごめんごめん、遅れちった」

別に急いでいたわけでもないのだが、司は部屋を見渡して空いている席を捜す。

「ちょーどジンさんの紅はじまった直後に来ちゃってさぁ。ドアあけた瞬間立ち尽くしてやんの」

祐介がそう言いながら、荷物をどけて自分の席の隣をあけたので、司はそこに腰を下ろした。

「…それは…またえらくすごい体験を」

曲目集から顔をあげた尚志が掛け値なしの哀れみの目を司に向けてくる。ついでに曲目集も一冊回してくれた。

「…たいてい、初参加でジンさん先輩のあれ聞いてビビリますよねー。てかトラウマ」

リコが対面で座っている仁に聞こえる声で言う。

「何を言うか。俺様の魂の叫びだぞ。俺はもう、歌いながら死にそうになってんだから」

「だったら歌うな!」

仁が言い終わらないうちに剛が突っ込む。もはや阿吽の呼吸だ。

次の曲が流れ始める。アップテンポなリズム。最近売り出した女性シンガーの歌だ。たしかアニメとタイアップしてたような。元気なイメージを反映してか、高いキイが多い元気な曲だ。

「おー鳥羽クンよ、出番だぞー」

悟がリコにマイクをまわすが

「え、私そんなん入れた覚えない」

「はーみーだしたーきーもちー♪つーなーがらーなーくてー」

そのとき甲高い声が響いた。女性シンガーのポップスを原キーで歌っているのは…剛ではないか!!

「お前かよっ!…しかも歌えてるし!!」

なんだー剛君て見かけによらず歌うまいなー…ていうかどっから声だしてるんだこのヒトは!!司は、入場そうそう目の当たりにしてしまったカラオケというにはあまりに異質な「行為」の数々を前に、ただ呆然とするしかなかった。剛の曲が終り、また次の曲がロードされる。歌い終った剛はもう既に曲目に目を通している。なにか声をかけたかった司だが、彼の見えないオーラに触れる気がして何もできなかった。続いてかかった曲。鋭いブラス系のアタックに骨太なギター、激しい打ち込みが入る。

突如目の色が変わったリコが手近のマイクを奪い取ると

サ・イ・バ・ス・ターーーーーッ!!!

雄叫んだ。司はビックリして腰が半分浮いてしまう。リコは歌詞が映されるモニターを見ていない。曲に合わせてモニターに曲名が出る。

「熱風!疾風!サイバスター 歌:水木一郎・影山ヒロノブ

熱い。熱すぎる。マイクを握り締め歌うリコの目は「過去も未来も、俺が守る!」と力強く明日を見つめていた。入室してから立て続けに三曲聞かされた司は、恐慌状態にあった。まずい。このままではまたしてもこの集団に飲み込まれてしまう。料金は割りカンだからこのまま歌えずに終わっては死んでも死にきれん。しかし通り一遍なポップスを歌ったところで、たちまちのうちにマイク主導権は彼らに返上されてしまうだろう。そう、司は最初の一曲で、意思表明をしなければならなかった。俺はこの戦いに、勝ちに来た。そう高らかに宣言するために、司はこと一曲目の選曲は慎重を要した。

曲目の中から目標を発見し、リモコンを誰かに奪われないうちにすばやく番号を入力即確認。まだ未消化の曲が前に三曲ほど詰まってるから、司はその間次の曲を選ぶために曲目集をめくり続ける。

「いちーずーな こーいー♪ もーうまーよわーなーい」

コレは悟。アンタいつの人や。

「飲みすぎたのは♪あなたのせいよ♪」

尚志くんキミいったい歳いくつだね。

そして三曲めは仁の入れたラルクアンシェル「覚醒」だったが、彼の破滅的音源を回避するために満場一致で前奏の時点で停止された。キレた仁が少々暴れたが気にしない。そして、ついに司の番が回ってきた。カラオケなんて小学校くらいのころ親といった一回だけ。赤の他人の前で歌うのはコレがはじめて、である。マイクを握る掌が、じわりと湿気る。

イントロが流れ出す。司は精一杯の声量で歌い始めた。

「シャラランラ シャランラ ヘイ ヘヘイ イェイイェイ! シャランラァん♪

「コレはもしや?!」

いち早く事態の異常さに気付いた尚志が声をあげる。

「間違いない、魔女ッ娘メグちゃんだッ!!」

「こいつ、俺らとカラオケくんの初めてだよね?…なかなかニクイ選曲をしてくれるじゃないのさ」

なぜか後半が70年代アニメのような口調の剛。

 

お化粧なんかはしなくてェも あなたは私に もう夢中♪

 

歌詞に合わせて誘う手つきも忘れない。

「…こいつ、はなから飛ばしてんな…」

仁に言われたくないが。

 

魔女ッ子メグはぁ〜 魔女ッ子メぇグはぁ♪ 

あなたの心にい 忍び込む! し・の・び・こ・む! (シャランラ♪)

 

歌い終った。完走だ。自分を褒めてあげたい。司は、緊張のあまり僅かに震える足で席につく。直後。司には惜しみない賞賛の言葉が送られたのは言うまでも無い。その後も順調にカラオケのは進行し、七人でサービスタイムの八時間、めいっぱい歌いきった。最初から最後まで、自分の持ちネタを披露するネタ大会であった。この八時間で、司は己の持ちえる世界観の狭さと、そして(おたく)世界の深奥さをその身に刻み込む事となったのであった。

店に入るときは明るかったのに、店から出てみると寒風吹きすさぶまったくの夜だった。このあと男子勢は、そろって悟の家に泊まりに行く予定であった。悟はいま、東京近郊に引っ越しており、郊外にあった実家を借家にも出さず、要するに二軒の家を掛け持ちしている。それは悟の父親がとてつもない読書家で、実家にあった大量の蔵書を東京の方のアパートに持ち込む事が不可能だったからだと本人から聞いた。この息子にして父親ありだ。さすがに花の女子高生なリコまで一緒にお泊り、というわけにはいかんのでリコはこのまま帰宅するという。しかし、件の悟の実家とリコの自宅は道路を挟んで二ブロックくらいしか離れていないという事実のため、結局悟の家に着くまで七人は解散しなかった。

悟の家の前でリコと少しだけ談笑したあと、男子六人はついに「無人の城」である悟の実家に足を踏み入れたのであった。悟の実家は割りと古いタイプの木造建築で、天井が高く、広かった。何より驚かされたのは、本の量である。どの部屋にもほぼ壁の四面全てに天井まで届く本棚があり、そこには百科事典からSF小説まであらゆる種類の読み物がギッシリつまっている。

「スゲぇ…」

誰からとも無くそんな言葉が漏れる。

「ああ、家のオヤジね、一日に三冊は本読まないと寝つきが悪いつー奇特なひとでさ。おかげで会社の帰りに古本屋よって束で買ってくるのよ、本を。おかげでいまじゃあパソコン使ってデータベースにしないとわかんないくらい本が増えちまって」

荷物を座敷に運びながら悟が平然と言ってのける。悟の父親、正体不明だ。悟に続いて、みんなも座敷までに自分の荷物を運ぶ。家に行く途中で買った食材の入ったビニール袋だけ持って悟は台所に立つ。今夜はカレーだ。しかし悟の料理センスは仁の歌に匹敵するほどの破壊力を持つために、夕飯に関しては料理の得意な尚志に一任された。ヒトの家の台所なのに、てきぱきと恐ろしい速さで支度をはじめる尚志。たちまち鍋に油の爆ぜる音が聞こえてきた。

「できるまでもうしばらくかかるけど、テキトーに遊んでてくれい」

自分はいっさい手を下さず、尚志のサポートに徹している悟がいう。

しかしその声が届くより早く、仁と剛はプレステ2に電源を入れて「ぷよぷよ通」をはじめる。まるで我が家のようだ。司は初めて来たので、身を小さくしながら他の六人の姿を眺めていた。尚志と悟は夕飯作り。祐介はもくもくとマンガを読んでいる。仁と剛はゲーム。誰もがお互いを気にせずバラバラなことをしていたが、不思議とそこには統一された空気のようなものがあった。だから司は、自分が何もしていなくてもこの空間にいるだけで十分にたのしかった。それは、ずっと一人でいることが多かった司にとって、スキマだらけだったパズルのピースを埋めていくときのような、「しっくりくる」ということの気持ちよさをもたらしていた。

司はスパイラルに入ってから、家にいる時間、家族と顔を合わせる時間よりも、彼らと一緒にいる時間のほうが圧倒的に多くなったような気がする。しかし理性的に考えれば、冬休みに入っておるわけだし帰りくらいしか一緒にいないのだから、単純な時間でいけばたしかに彼らとつるんでいる時間はそう長くは無い。以前と一番違うところは、家にいても彼ら高校の友達のことを考えている時間ができたことだろう。一緒にいる時間は短いが、しかしいまでは家族にも勝るとも劣らない親近感を、司は彼らに抱いているのだった。素直に今では、自分のこれまでの高校生活をあわれむことができた。あんな誰とも喋らないような状態が三年間も続くと考えただけで、背筋に寒気が走る。どうかしていたんだろう。あのころの自分は。

鼻の奥にかすかに感じていた香辛料の香りは、いまや明確にカレーの輪郭を取っている。もうすぐ完成か。司はとめどもない思考を一時中断して、食卓のほうに歩いていった。

「おう。いいにおいじゃないか。腹減ったなー」

「もうすぐできるから、じゃあ皿でも出してよ」

「うい」

司が手伝いに来たのを見て、生ゴミの袋を縛りながら悟がいった。

「しかしあれだな。司もほんっとに隠れオタだったよな、いままで」

「今でもさらけ出してるわけじゃないけどね」

「そりゃそうだが…メグちゃんにはじまって影山一通りにしまいにゃアニメタルでしめるとはな」

「おかげで腹筋つりそう」

事実であった。ついでに言うと声も若干森進一化している。初めての友人だけのカラオケで、心置きなく歌いすぎた。

匂いにつられて食卓に他のメンバーも集まってくる。みんなで手分けして食器を運び、盛り付け、まるで合宿か林間学校のようにカレーを食べた。食べ終わったあと、片付けはじゃんけんで剛と悟が担当する事になり、残りは布団を敷いておく事が課せられた。いくら悟の家が広いといっても、七人の男の子が一斉に寝られる部屋は無かったので、リビングと座敷と、二階の悟の部屋の三派に分かれて寝ることになった。部屋割りの前にとりあえず悟の指示に従って寝床だけはつくっておく事にした。

司は気にかかっている事があった。食事が終わってから、祐介が少し気分が悪そうに見えた。一緒に座敷で布団をひいていた司だったが、祐介は数分前、トイレに行ったっきり帰ってこない。思い返してみれば、今日のカラオケでも一緒に騒いではいたが祐介自身が歌う事があったかどうか、記憶に無い。

「おーい、祐介ちゃんの調子どう?」

リビングで寝床を作っている仁に声をかけるが、

「いや、わからん。飯にあたったわけは無いだろうから…風邪でもひいてたのか?無理して来る事ないのにな」

どうやらまだトイレにこもったままのようだ。腹痛かな。悟の家は、トイレは少し座敷から離れたところにある。布団を敷き終わった司は、廊下の突き当たりにあるトイレまで向かった。暗い廊下に、トイレから漏れる光だけがその扉の位置をはっきりと示していた。司が声をかけようとした瞬間、流す音がしてトイレのドアが開き、祐介が出てくる。大丈夫か、と声をかけようとして司は一瞬ためらった。祐介の目だ。顔にはうっすら汗を浮かし足取りすらおぼつかず、明らかに憔悴している。司の脇を通り抜けるときに「大丈夫だから」といいたいのか手をひらひら振って苦笑いしながら布団のしかれた座敷へ帰っていった。しかし、祐介の目。

すれ違い様追いかけた司の視線と祐介の目が合ったとき、司は突然、言いようのない不安に襲われた。なにか見てはいけないものを目にしたような。いつもの祐介ではないような気がしたのだが、しかし一瞬後には祐介の目にはそんな色は浮かんでいなかった。

祐介を追って座敷に戻ると、しかれた布団の上にそのままぐったりと横になっている祐介がいる。

「調子悪いんだったら、病院でもいこうか?」

司が聞くと祐介は平気だよ、といった。勤めて普段のような調子で声をだそうとしているがやはりそれでもどこか気が抜けてしまったように心もとない。

「…じゃあもう休んでたほうがいいから。寝てな、先に。もっと調子悪くなったら病院連れてくから」

 

司は二階で寝る前のゲームを楽しんでいる仁と悟にその事を伝えに言った。夜も遅いので病院にすぐ行こう、ということにもならず、様子を見る事にしようということで意見が一致した。司はそのまま座敷で寝ようと部屋へ戻った。

祐介はもう布団にもぐっていて、少し顔をしかめながらも寝息を立てている。

「疲れてたのか、な」

司は誰にともなくそう言うと、自分も布団にもぐった。蛍光灯から伸びている紐を引っ張り、オレンジ色をした薄暗い常夜灯に切り替える。座敷はエアコンをつけていなかったので、布団にもぐった自分の体温と外気の温度差が妙にいごこちを悪くしている。廊下にかけられた時計の静かな音と、ときおり乱れる祐介の寝息だけが聞こえていた。他の連中はまだ起きているのか、廊下の向こう、リビングの辺りからはまだ光が漏れている。しかし深夜になるにしたがってテンションが急落しているいま、起きていてもマンガを読むくらいのことしかしていないのだろう。ずいぶんと静かだった。

司は隣の祐介の事を気にかけていて、一向に眠くならなかった。いつもスパイラルの仕事では「あれ」の居場所を探るのが祐介の仕事である。ぎりぎりまで張り詰めた霊感を長時間持続させる事は、祐介にとってずいぶんと神経を削る作業だったに違いない。年末に入ってから立て続けに事件が起こったために、祐介の神経は擦り切れる寸前だったのかな、と勝手に司は推測していた。だとすると、カラオケに誘ったのも負担になってしまったのだろうか。普段から割りと「お調子者」な印象のある祐介だから、裏を返せばあまり自分の疲れを表に出す人間ではなかったのかもしれない。そんな事を考えたとき、隣の布団から小さく祐介の声が聞こえた。

「…起きてる?」

「どした?また調子悪くなった?」

司は身を返して祐介の方を見た。布団を顔の半分までかぶり、眼だけ出して祐介がこっちを見ていた。

「…いや、そんなわけじゃないんだけども」

布団がかぶっている上に、声が小さいのでよほど注意していないと聞き取れない。

「俺がさ、なんで『スキャン』の力を使えるか、綾乃さんから聞いた?」

急な質問だった。司はだまって首をふる。祐介が静かに語りだした。

「…そうか。綾乃さんもきっと…うん、そうだな。…俺がさ、なんかこう、直感というか、空気的に『あれ』の居場所が読めるっていうの、高校に入ってからなんだ」

「…え?だってはじめてあった時に体質だ、って言ってなかったっけ」

「そう、体質だけど、先天的なもんじゃなくて。きっかけがあったんだ」

「きっかけ…?」

「司はさ、『あれ』に襲われかけたんだよな」

あのときの怖気が、一瞬背中を走る。黙っている司を確認するように一呼吸置いて、祐介は続けた。

「俺も、実は『あれ』に襲われたんだ。それも…入学式の日に」

「え…?」

 

 

春先とはいえ、七時を過ぎたころには世界は半分以上、夜の帳に包まれていた。ぽつぽつとしかない街灯の下を、祐介は小走りに駆けていた。入学式でもらった重要なプリント…明日までに親に記入してもらわないといけないそれを、祐介は学校に忘れてきてしまっていた。家についてから思いあたり、急いで戻ってきたのだが結局こんな時間になってしまっていた。学校につくと、部活をやっている先輩方が残っているのか校門はまだ開いていた。しかし昇降口は閉まっている。そこで、図書館の脇にある職員玄関を使って校舎の中に入った。当直の先生に頼んで教室を開けてもらい、そそくさとプリントを回収すると祐介は廊下をひたひたと走って職員玄関に向かった。階段を下りて突き当たり、窓の外にはうっそうと茂る「瞑想の森」の木々の隙間から月明りが申し訳程度に漏れていた。

祐介は足をとめた。窓の外の森の中に、何かが動いた気がしたのだ。人ではない。野生の動物が住み着いているのだろうか。さすがは「自然に囲まれた」銘打つだけはある。田舎なだけかもしれないが。純粋な好奇心から窓に近寄って森の奥を目を凝らして見た。

ゆらり。

動いた。祐介は硬直した。動物ではない、何か。直感がそう言っていた。影のようなもの。煙のようなもの。しかしその動きは、なにか明確な「意思」によって動いている。こんな生き物を、祐介は知らない。いや。生き物には見えなかった。未知のものに遭遇したときに沸きあがる本能は、恐怖と好奇心。しかしその影は、見るものに恐怖しか与えなかった。見たものそのままの印象ではない。なにか、悪意のようなものとともにその影は「ある」のだ。ジリ、と祐介は身をひいた。プリントを持つ手に変な力が入り、プリントはぐしゃぐしゃだった。

逃げよう。なんだかよく分からないが、体中の前細胞がそう叫んでいた。

祐介は身を返すと、一気に職員玄関まで駆け抜けようとした。…瞬間。視界が完全に闇になった。停電かと思ったが、もともと廊下の電気はついていない。突然視界が無くなり、その場に祐介は転んでしまった。痛みを無視して跳ね起きると、目の前に影があった。さっきまで森にいた、あの影だ。逃げたい。しかし身体がすくんで動けない。声帯が凍りついたかのように乾き、声すら出ない。自分は今息をしているのだろうか。それほどの緊張が、祐介を縛り上げた。緊張の糸がぎりぎりと身体に食い込んでくる。

刹那、影が急に収縮をはじめた。蛇がとぐろを巻くように、影が廊下に「わだかまって」いく。次に起こる事は、祐介にも予想がついた。力をためて、そのまま…

ヒュウッ

かすかな音とともに、針のように細くなった影が祐介に襲いかかった。動けない祐介の眼から、鼻から、口から、耳から、冷たい冷気が入り込む。するすると入ってくる影を拒もうとしても目を閉じられない。黒い煙のような冷たい気配が、どんどん体内に吸い込まれていく。影がすっぽりと祐介の中におさまった直後、緊張が一気に解けた祐介は、その意識を急速に手放していったのだった。

朝起きたら自分の部屋だった。はじめはベッドの中で悪い夢を見た、と思っていたが、身を起こして昨日の出来事が真実であった事が否応無く突きつけられた。昨日の学生服のままで寝ていた。毛布をめくり返すと、ぐしゃぐしゃになったプリントが見つかった。祐介は叫び声も出なかった。ただ、昨日の冷気をじわりじわりと思い出しながら、唇がカタカタ震えている感覚だけがリアルに感じられた。

その日、祐介は学校を休んだ。

 

自分の身体…むしろ脳に起こった異変に気付いたのは、二日間学校を休んだあと、入学式以来はじめて高校に登校したときの事だった。なるべく森のほうは近寄らずに教室まで行き、あの廊下は絶対通らないで一日を過ごした。昼休み、食堂へパンを買いに行ったとき、昨日のあの感覚―寒気のような恐怖―が突然祐介に襲いかかった。昨日の「あれ」と同じだ。その感覚がするほうを向いた。しかしそこには談笑しながら紙パック飲料を飲んでいる生徒がいるだけで、影はどこにも見えなかった。

 

そんな事が、幾度と無く続いた。恐怖心には、じき慣れた。気配を感じてもそこには何も無いし、周囲の人間はその事に気づいてない様だった。恐怖心さえ克服すれば自分に実害も無い。少し嫌な感じがする程度だ。最初のうちはそれですんでいた。恐怖心に慣れると、そこから徐々に、感じる「気配」に注意を払うようになってきた。それは、大体どの辺りからくる気配なのか。探っていくうちに気配の出所をそのつど特定できるようになっていった。面白くも何とも無い能力。何でこんな厄介なものが。自分で精神の病にでもなってしまったのかと思う事もしばしばだった。

そして入学から二週間と立たないうちに、祐介は影の存在を当たり前のように感知できるようになっていた。例えば、混んでいる駅で偶然知人を発見したときのように、「そこにいるもの」として祐介の感覚は認識するようになってしまったのだ。しかしその気配を感じると、祐介は回避行動に出た。いくら慣れたといっても、初めて味わったあの恐怖は、根源的に祐介の心に住み着いてしまっていた。これから見えない影にずっと追いまわされながら生きていくのか。そんな漠然とした思いが、祐介の中で渦まきはじめていた。

 

 

「綾乃さんが声をかけてきたのは、ちょうどそのころだった。はじめは訳わかんなかったけど、自分に起こった事と合わせて考えろって言われてさ。それで納得しちゃったんだよね。…俺のほかにもタメでジンさんがいてさ。でも俺、絶対フォワードはイヤだって言ったんだ、綾乃さんに。絶対にあんな化け物とは関わりたくない、ってね」

祐介がゆっくりと目を伏せた。

「じゃあ、何でスパイラルに入ってるんだよ」

「ここにいて、バックアップに回ってるのが一番安全で、安心できてたからさ。仲間はいたほうがいい、…そうだろ。でも、なんかジンさんとか図書室の常連連中…あ、尚志とか剛ね、なんかと話してると、気分まで楽になってさ…とま、ただそれだけでいるんだけど」

突然布団から身を起こした祐介が、着ていたセーターとシャツ捲り上げた。

「なんだよイキナリ……!」

暗くても外の明かりでよく見えた。見たものに言葉も出なかった。祐介の、ちょうど肺の真ん中、すぐしたあたりの皮膚に黒いTATOOがあった。梵字のような複雑な筆字の周囲に囲むように小さい梵語が書いてある。そしてそのちいさなたくさんの梵語から、触手のような文様が身体中に広がっている。

「それだけでいるんだけど…もうそろそろそれも限界くさいんだ。この文様の筋あるだろ。これが頭まで届いたら、俺は俺でなくなっちゃうんだ」

「…それはどういう…」

いやな予感がした。

「…俺、入学式のあの日から『あれ』に取り付かれてるんだ。だから、俺の『スキャン』の能力ってのは、同族を見つけるための、『あいつら』の能力なんだよ」

「…だったら綾乃さんに!」

「だからこれがそうなんだよ。俺の胸に彫られたこの印がさ、『あれ』の体内侵攻食い止めてるわけ。でも怨霊調伏の墨でも、こうやっていつの間にか『あれ』に押し流されちゃうんだ。最近とくに模様が伸びる速さが早くなって気がする」

司が何も言えないでいると、祐介が司に鼻が触れ合うくらい近くまで寄った。

「だから俺はね、『あれ』と同じ中身で出来てる人になっちゃったんだよ、生きたまま」

そういった祐介の目の奥に、あの不安の色がゆらりと揺らめいた。

司は、自分の身体がかすかに震えている事に気がついた。

 

ぼーーん、ぼーーん、と時間を告げる時計の音が聞こえた。