螺旋の七人・第四話

 

「それ」は、自分が何時生まれたのか知らない。気がつくといつの間にか大気の中をたゆたい、ながれ、うごめいていた。何時のころからかは解らないが、「それ」がうっすらと自分の意識をもち始めた頃から数万年がたった。「それ」は腹が減っていた。そもそも実体を持たない「それ」に空腹という感覚があったかどうかはわからないが、しかし「それ」をつかさどる意識の集合は、確実に何かを欲していた。この欲求を満たすものは、大気の所々に残り香を漂わせている。「それ」はその残り香を喰っていた。更に数千年のときが流れた。「それ」の身体の広がりは、もはや自身にすらわからないほどに広がっていた。「それ」の意識の切れ端が、それぞれ独立して喰らい、そしててまたながれていく。それの空腹感はまだ満たされていなかった。

更にそこから数百年後。「それ」は残り香だけを喰うには物足りなくなった。残り香の中から匂いをかぎ分けて、そのにおいを発する大元を喰らおうとした。難しい事ではなかった。残り香の気体の流れに乗って、するり、とその匂いを発するモノの鼻の穴から、口の穴から、耳から、目から…。入り込んで匂いの源に噛付けばいい。匂いの源、即ち魂は、美味であった。満腹になった気がした。

しかし、それでもすぐに腹が減る。「それ」は次々と匂いをかぎ分けては魂を喰らった。より香しい方へ。より甘い方へ。食べ続けていくうちに「それ」の身体に変化が起こり始めた。どこまであるか解らない身体の広がりが、隅々まで認識できるようになった。時には身体を「わだかまらせて」獲物と同じような姿かたちになることも出来た。これは「それ」の狩りに素晴らしく貢献した。そして最大の変化は、喰い尽くした魂の代わりに、獲物の中に留まる事ができるようになったことである。

こうして、「それ」の狩りはまた何百年も続いた。もはや「それ」の意識は、各地に散らばった「端末」の意識の集合体になっていた。どこかで獲物を見つけ、喰らう。この単純作業だけが、幾千、幾万の「それ」の端末によって行われた。獲物は、狩っても狩っても減る事はなかった。それどころか増えていた。「それ」は以前にもまして欲するようになっていた。

小さな変化が起こり始めていた。狩をしようとしか彼の端末。そのいくつかが機能しなくなる事があった。「それ」が意識を伸ばして調べてみると、どうやら何かに縛られて動けないようである。しかし端末が少々なくなったところで、狩りにはさして支障も出ない。相変わらず、喰らい続けた。

その日、いつものように狩りをしていた「それ」は、突然自分の身体が動けなくなっている事に気付いた。なにかに縛り付けられている。こんな感覚は初めてだった…否、これは機能しなくなった「それ」の端末たちと同様の感覚。「それ」は意識を集中させ、見えない縄を断ち切ろうと試みる。しかし、もがけばもがくほど、その縄は「それ」の意識の深部に食い込んでいくのであった。身体を動かせなくなった状態で、かろうじて意識の一部を下界に向けてみる。「それ」は驚いた。「それ」の意識を縛っているのは、今まで餌にしてきた、獲物たちだった。どういうことだ。なぜだ。獲物にこれほどの力があるのか。彼らの背後には、むせ返るような臭気を放つ「魂」の集合があった。「それ」が意識を向けても、その魂は喰われる事なく、びくともしなかった。その魂の集合の放つ臭気が、いっそう強くなる。動けない「それ」の身体は、臭気に取り囲まれてしまう。目の前に極上の餌がある。しかし「それ」は動けない。臭気はもはや重圧となって、「それ」の身体を潰しにかかる。

突如、「それ」の意識が分断され、冷たい壁が表れる。壁の外には出られない。「それ」は、自分が閉じ込められた事を知った。どこからか、下界のかすかな臭気だけが漏れてくる。しかしびびたる物だ。己を包む重圧と臭気からはいつの間にか開放されていたが、閉じ込められた壁の外に出ることは出来なかった。「それ」ははじめのころ脱出を試みたが、徐々に昔の「空腹感」が意識を支配していった。腹が減った。喰いたい。喰いたい喰いたい喰いたい喰いたい喰いたくいたいくいたいくいたいクイタイクイタイクイタイクライツクシテヤル!!

 

どれほどの時がたったか。「それ」が再び下界に触れるときがやってきた。ある日、自分を囲んでいた「壁」の圧力が消たのである。獲物!開放された瞬間の「それ」にはその事しか頭になかった。なぜ自分が自由になったかは知らない。しかし今はこの空腹を満たすほうが先だ!目の前に獲物がいる。一直線に「それ」は獲物に襲いかかった。

がん!

しかし「それ」が獲物に到達する前に、また見えざる力によって弾かれた。なぜだ!「それ」は再び自分の身体が拘束されている事に気付く。獲物がゆっくり近寄って、言った。

「おはようございます。御気分は如何ですかな?」

その獲物の声に、「それ」は無性に苛立った。

 

 

 

すでに日はとっぷりと暮れていた。しかし螺旋二高の図書室はまだ三分の一も片付いていなかった。昨日の夜。図書室に実体化して出現した「あれ」のせいで、図書室は半壊状態になった。尚志の気転で大きな被害を出さずに撃退できたものの、それでも「実体化」の衝撃波だけで図書室の書架は軒並み薙ぎ倒され、吹き飛ばされた本があたりに散乱していた。事件があった当夜はそのままにして全員が家に帰されたが、その翌日早々に図書室の片付けのためになぜかスパイラルのメンバーが招集された。朝の十時に集合して、ただいま午後五時過ぎ。

「…なんで俺らが片付けなわけ?こういう大掛かりなことは業者さんに頼むべきでしょうに!ナニこれまだぜんっぜん終わる気配無いじゃないの!」

抱えていた大型図書の束を司書カウンターにドカッと置きながら剛が音を上げる。

「そうだよーもう帰ろうよー」

続いて祐介。

「だーめ!終わらなかったら明日もやることになるんだからほら!働きなさい♪少年!」

やっと足場を作って立てた脚立に乗り、書架の上に本を戻しながら綾乃が呼びかける。

「だからなんで俺たちがやらなきゃならんのですかと」

仁と一緒に本棚をロープで引っ張り立て直しを図っている悟が、本棚の影から大声で言う。

「お約束の機密保持ってやつだろが」

綾乃に代わってすぐ後ろの棚を引っ張っている仁が答えた。

「よくわかってるじゃないの少年!…まあ一番の理由は経費削減だったりしてねー」

「はーー?」

「てか早くやっちゃおうよこれじゃあまた泊まりだよ」

と尚志。両手にはもてる限りの文庫本を持っている。。

「そう!今、島津君が良い事いった!ほら見なさい、物言わず働く労働者たちの姿を」

さっきから黙って動き回っていた司だが、実はあえてこのやり取りを楽しんでいたりする。それはリコも同様らしく、床にばら撒かれた本をニヤニヤしながらもくもくと片付けている。

「冬休み二日目にして強制労働か・・・しかも2れんちゃんで」

剛が軒並み薙ぎ払われているカウンターの上のパソコンと周辺機器を元に戻し、配線しなおしている。

「綾乃さーん、これ思いっきり落っこちてたからねえ、外傷は無いみたいだけど絶対キてるよ…」

「なに、もしかして壊れてる?」

綾乃が脚立から降りてカウンターに駆け寄ってくる。頭が天井の埃ですすけている。

「…たぶん。電源入れてみないとわからんけど」

「ちょっとちょっと、これ私物なんだよ〜」

綾乃が願掛けでもするような目つきで剛を見る。

「いや、俺だって中身のほうまではわかんないよ。メーカーさんにでも…」

「三日前からほぼ徹夜で入力したデータが…」

「献身的司書だ。社会人ってのはえらいねえ」

チリトリ・ホウキを抱えて通りかかった祐介が綾乃の肩をポン、と叩く。

「…あ。あああ。…パソコンがなんぼのもんじゃい…ハイテクがなんぼのもんじゃーい!!」

「うおお!ついに綾乃さんがバグッた!」

「無理もあるまい、これだけものの見事に崩壊した図書室、責任者は誰だ?『責任者は責任を取るために居る』加持リョウジ」

剛がクイッと眼鏡を上げる。

「カッコよく引用したわりには元ネタ『エヴァ』ってあたりが何とも…」

「なんだよ司、おまえしってんのか。…つくづく隠れオタだなおまえ」

「自慢じゃないが劇場公開のとき七時間ならんだ男だからね」

「もはや逃げも隠れもしてませんねえ西脇先輩」

大多数の働き手は、瞬く間に機能しなくなった。

綾乃は、このメンバーに手伝いをさせたことを少し後悔した。

 

時計は既に八時を回っていた。だいぶ片付いたがそれでもまだ「落ちていた本を順番に並べて積む」ことが終わった程度で、書架に入っている図書はまだまだ少ない。

「…すいません、じゃああたしは退散するんで」

リコがカバンを肩にかけ、床に置いてある本をぴょんぴょんと飛び越しながら図書室の出入り口へ向かう。

「えー?!」

「…あ、鳥羽さん!暗くなっちゃったから駅まで送るわ。君ら!留守番頼んだぞ!」

「うわっ職場放棄だよ」

「連邦裁に訴えてやる!」

男子勢のブーイングを黙殺して、綾乃がリコを連れ出す。

「まあまあ!帰りにコンビニで差し入れでも買ってくるから」

図書館を出て行く間際に綾乃が振り返った。そしてリクエストを聞き入れる事も無く、リコの肩を押しながら足早に職員玄関のほうへ走っていった。

 

「…で、何で俺らだけ取り残されてんの」

やる気を完全に喪失した力仕事が終わり、立て直した机に突っ伏したままで仁がうめく。

「…あのう、議長」

「なんだね、悟君」

「我らの体力は無限ではないので、この辺で自主的休み時間にするというのは如何でしょう」

「満場一致で可決」

決も採らずに仁が座っている椅子を並べて横になる。他のメンバーも口々に「うあー」とか「ざいー」とか意味不明な呻き声をあげつつその場に崩れ落ちる。

「オイオイオイオイ!最近できた新ブランドなんだけどさー、なかなかよろしいと思わん?これこれ!」

剛だけは健在であった。隅にまとめておいてある荷物の中から、カラフルなボール紙に包まれたCDロムを取り出す。もちろん中身はおメメキラキラ顎無し美少女がわんさと出てくる類のゲームである。

「またかー」

剛が取り出したものを見るまでも無く、尚志がつぶやく。

「そんなキミにこれをプレゼントしよう!」

「いらないよう」

「じゃあ入れとくからキミのカバンに」

確認をとるより早く剛が尚志のカバンにCDロムをねじ込む。チラシまで添付するという気の利かせようだ。

「やめてよー犯罪者になりたくないよー」

尚志が力なく抵抗を試みるが。

「フフフフフ。抜かりはないっ!何を隠そう、このゲーム、ホントは18禁だが体験版に限っては全年齢だ」

「そうじゃなくてモラルの問題を言ってるのと違うか?」

既に抵抗むなしく事切れている尚志に代わって悟が身を少し乗り出す。

「いやだなあ。僕はただこの素晴らしい世界の一角を皆に垣間見せてあげようというだけじゃあないか。まさに志はフランシスコ・シャビエールもかくやという…」

「このエロゲー宣教師が!」

「それじゃあナニカネ。キミはエロなどいらんと言うのカネ。フロイトを知ってるか?奴はリビドーが文化を生み出すとまで言ってるぞ。天ちゃんだって日ごろから恩恵を受け取るだろうが」

「そんな邪悪なもんには頼ってないわい!」

「何を言いますか。人生の宝ですぞ。なんなら天ちゃんもおひとつ…」

「いらーん!というとるだろうがッ。それとその『天ちゃん』て呼び方やめてくれ。武術家たる俺のシマリがなくなる」

「え?シマリが悪い?」

急に仁が反応する。

「いちいちてめーもシモネタで解釈すんじゃねーー!」

…つくづく元気な人たちだなあと思う司であった。

「じゃあ綾乃さん帰ってくるまでこれやろう!」

剛がそういって再びカバンからCDロムを取り出す。新手の体験版だ!

「大丈夫なのかよ」

仁が興味津々で身を起こした。目の輝きが戻っている。

「ああ、カウンターのパソコンはやられてるだろうが、司書室にあるパソコンなら無事だろう」

応える剛の目も輝きが増している。誰か止めてやってくれ。

「…そうじゃなくて高校学内の業務用パソコンで18禁やろうとしてることに対して何か無いのか剛ちゃん…」

もはや諦めたような口調で祐介が突っ込む。しかしこの場では警告として機能していない…

「やるか」

「やりましょう」

仁と剛が連れ立って司書室に入っていく。

「オイオイ野郎二人っきりでエロゲーすんなよ。妖しすぎる」

そう言いつつ祐介が司書室に向かって歩き出す。

「おお祐介よ、おまえもか」

「…俺もいこっかな」

司も椅子から腰をあげた。こうなったらみんな共犯者だ。

「おいお前らー!」

悟の声も聞こえない。

 

ばたん。厳かに司書室のドアが閉められた。司書室内はそれほど散らかった様子もなく、パソコンのブウウウンという低い起動音だけが響き渡っている。結局、悟を含めた野郎六人がディスプレイの前で固唾を飲んでいた。

ククククッというHDの読み取り音に続いて、ぎゅるるるとロムの回る音。突如、デスクトップ上にフルスクリーンでアニメ系美少女のイラストと共にメニュー画面が立ち上がる。

じわり。湧き出る冷汗。いま。…今、突然司書室の扉が開いたら。いや、まだやましい事はしていないはずだ。緊張が全員の背筋に走る。

マウスを握る剛の目が、くわっと開いた。瞬時にその手元が動き、画面のカーソルが「インストール」と書かれたアイコンの上に移動する。剛が無言で背後にいる仁と目を合わせる。それに答えて、仁が無言で頷いた。

「ハイィッ!」

気合と共に剛がマウスをクリックする。その瞬間…!!

 

ばつん。

 

消えた。パソコンのモニターだけではない、部屋の明かりごと消えたのだ。

「え?!」

直後、剛の声が響き渡る。

「…停電、だよな」

焦る風でもなく悟が言う。

「…俺がコレやったせい…?」

「違うだろ」

「たぶん」

「えー」

「やましい事するから…」

「それはオメーも同じだろ」

司書室の明り取りの窓からうっすら月光が差し込む。外は満月のようだ。

「…とりあえず懐中電灯とかねーの?」

夜目のきく悟が手早く懐中電灯を探し始める。司もようやく目が慣れてきた。探すうちに、司書室から書庫へ入る扉のすぐ脇の柱に非常用の懐中電灯がかかっているのを司は発見した。壁かけ式のスタンドから抜き取ると、充電されていた懐中電灯は自動的に点灯した。

「あい」

それを悟に渡す。受け取った悟はすぐにスイッチを切る。再び暗闇となった司書室。

「バッテリーは節約せんとな」

サバイバー悟である。悟はこういう「非常時」に俄然ワクワクするたちの人間だった。ようするに冒険野郎な訳である。

「…どうするよ」

「しばらく待てば復旧すんじゃないの?」

のんびり待とう、とでもいいたげな尚志に悟が言う。

「いんや。見てみろよ。外灯ついてるだろ?ってことは電力会社で止まってるわけじゃなくて、この学校だけがブレーカー落ちたんだ」

「じゃあ先生がブレーカー入れるの待てばいいじゃん」

「残念ながら今回の俺らの片付けを隠蔽するために、教師はこの学校にいなかったりする。綾乃さんはまだ帰ってこない。となると、だ」

「…俺らがブレーカを入れに行かなきゃいけない、ってことだね」

そういった祐介の言葉には「やる気ねー」という本音がにじみ出ている。

「その通り!そういうわけで、行くぞ剛よ」

悟が懐中電灯の明かりをバシッと点けると、剛に向けた。

「何で俺なわけ」

「貴様のその邪なゲームが停電に絡んでないと言い切れない以上、貴様にもこの状況を打破する義務があるのだ!」

「一人で行くのが恐いとか?」

「…笑止!」

「…まあ行くか、面白そうだし」

剛が腰を上げた。

「じゃあ俺たちはここで待機してるわ」

仁は、剛が立って空いた席にどっかと座ると、全身の力を抜いてそういった。

司書室から出て行こうとする二人を、尚志が呼び止める。

「あ、ねえ、もしかしたら『あれ』とか出てくるかも知んないから…とりあえず補充用の御札何枚か作ってるんだ。僕のカバンの中から持ってって」

「そんな昨日の今日で出るかなあ…とりあえずその気配は無いけど」

祐介が手をこめかみにあてながらスキャンした。

「まあ備えあれって事で」

悟と剛は懐中電灯一本で司書室の外に出て行った。

司書室の扉のガラス越しに、明かりが図書館から出て行くのを見届けた後、誰とも無くため息が出た。

「…俺らナニやってんだろ」

仁の独り言が闇夜に響いた。

 

「…で、配電盤ってどこにあるの?」

暗い廊下を懐中電灯一本でずんずん歩く悟を早歩きで続く剛が言った。

「ひとつ、重大な問題が発生した」

歩むスピードを変えずに悟。

「俺も実は配電盤の場所を知らんのだ」

「はあ?!」

「お前いつも戦闘のときに校舎の見取り図見てるじゃねーか。てっきり知ってるもんだとばっかり」

「知るわけないでしょう!俺は転ちゃんがあんまし自信満々で歩いてるから天ちゃんが知ってるのかなと」

「俺を天ちゃんと呼ぶのはやめろって」

「そうじゃなくてさ!」

剛が悟の肩を引いて立ち止まった。

「どうすんの。二人ともわかんなくて」

「校舎の案内板てどこにあった?」

「来賓用の玄関入ってまん前」

悟は聞くなりきびすを返すと、来たときと同じ速さで来た道を歩き出した。

「もー。天ちゃんのせいで無駄なカロリー消費させて」

「お前そんな事言ってないで少しは鍛えたらどうだ!引き締めんかい肉体を!」

「フッ…。この私が、今身にまとっている脂肪の鎧を脱ぎ捨てたら…その中からあまりに美しい私の真の姿が解放されてしまうではないか…」

光源もないのに剛のメガネがギラリと輝く。気がした。

「やってみろよじゃあ」

「いいのか?私が真の姿を開放すれば世のあまねく女子はみな虜。貴様のような格闘技馬鹿では一生手に入らないハーレムを築いてしまうぞ…?」

「もういいっス…」

悟が撃沈した。

案内板には、建設中の中学棟の間取りも含めた校舎の全体像が載っていた。その中学に通じる一階の連絡通路の脇に、小さく正方形に区切られた部屋があった。貧弱なゴシック体で「配電室」とある。

「…中学棟か」

「そういえば中学棟のほうって入れないんだよね?この図だと中学棟側に食い込んでるっぽくない?」

連絡通路の脇、わずかにあいた高校教室棟と中学棟の隙間にねじ込まれるように、その小部屋は位置している。若干中学棟に寄った形だ。中学棟は現在工事中のために、一部の先生か工事の業者しか入れないことになっていたが、連絡通路の扉は備え付けたばかりということもあって、別段鍵がかかっているわけでもなく工事用の赤いパイロンが二本立っているだけだった。

「…はいるか、中学棟」

悟が電灯の明かりを「中学棟」と書かれたパネルに移す。その声はどうしようもなく楽しそうだ。脇にいた剛は忠告しようとの考えを無駄だと悟り、一言。

「行くか」

二人の足音は校舎の東側、建設中の中学棟の中へと消えていった。

 

「ふと考えたんだが」

暗闇の司書室の中で仁が言った。

「あの二人に行かせて良かったのだろうか」

「なーにをいまさら。もうしらね―よ」

身動きとれずに司書室にある椅子を並べて簡易ベッドを作り、そこに横になっている祐介が言う。

「まあ大丈夫でしょう、あの二人ならさ」

尚志は暗いにもかかわらず、闇に慣れた目でポットからお湯を出し、紅茶のティーバッグを探り当て、優雅に紅茶を入れている。

窓から差し込む月明かりを見ながら、司は自分が始めて「あれ」に襲われたときのことを思い出していた。こんな月明かりが強かった夜。襲われた司を助けたのはリコと仁だった。あの時、襲われそうになっていた司を照らし出したのは、夜間工事用の強力なライトだった。パニック状態になっていたそのときの司には、逆行で照らし出された仁とリコにまるで後光がさしているかのような錯覚を覚えたものだった。後から聞いた話では、あのライトは綾乃さんが直接中学棟に回りこんでつけたものらしい。もちろん無許可で、だが。ライトの光芒に照らし出された瞬間、確かにあの黒い影はひるんだように見えた…

「なあ。『あれ』って光に弱いの?」

司は前々から疑問に思っていたことを聞く。

「ん?何だよ急に。…まあ、綾乃さんの話と、今までの経験からすると…弱いとか苦手とかじゃなくて、単に「嫌い」ってだけみたいだな。お前がやられてたときみたいに急に強い光を当てればちょっとは動揺させることは出来るが。それでダメージを食らうことはないらしい」

誰に振った疑問でもなかったが、仁がそう答えた。

「効果があるのは御札とかだけだね…」

尚志が紅茶をすすりながら付け足す。

「あれ?ジンさんとか天ちゃんの着てるやつは?」

椅子に寝たままで祐介が尋ねた。それは司も気になっていたことだ。あれだけの技術がありながら、いつもトドメはリコか司に任されているのだ。

「ああ、あれ単品だと防御だけだな、出来るのは。一時的に麻痺させるとか動きを止めるとか。どっちにしろとどめはさせない」

「あのスーツは退魔の印が込められた生地で作ってあるってだけだから、着てるだけだと『あれ』を寄せ付けないってだけだよ。あれだけで何とかしようとするなら、昨日ジンさんがやったみたいにかぶせるとか、そんなことくらいしか出来ないんだよね」

仁に代わって尚志が説明する。

「…でもそれっておかしくないか?あのスーツはここのお上である巻島グループのなんちゃら対策委員会みたいのが作ったんだろ。何でそのスーツだけで倒せるように設計しなかったんだろ」

司は何度か行われた戦闘で、「あれ」に触れると青い火花を散らす仁や悟のヴァリアブルスーツを思い出しながら言った。

「…そういえば…」

しかし誰もその疑問に答えられはしなかった。やっぱり俺たちも端末にすぎないのか。そんな考えが一瞬司の脳裏をよぎった。

「…しかし。どこまで行ってるんだ、あいつら」

少し沈んだ空気を打ち破るように、仁がつぶやいた。

 

配電室は、連絡通路の途中に入り口が位置していた。悟るが懐中電灯をドアノブに向け、扉を開こうとするが。

「だめだ。カギかかってるわ」

「あのねえ、配電室があきっぱになってるわけないでしょうが。勝手に入られたらどうすんのよ。まったくそんなことにも気づかないの」

その背後で剛が大げさにため息をついた。

「…てめーだって気づかなかったじゃねーかー!」

「ばれた?」

「ていっ」

悟るが、突っ込みとは言えない速さで裏拳を剛に放つ。

「甘いわあ!」

剛がその巨体に似合わぬ俊敏さで身を反り返し裏拳をかわす。同時に間合いを詰め、背後に回りこんで両手で悟に「ひざかっくん」を仕掛ける。

「っぬはあっ」

あまりに原始的な攻撃に、悟の体制は大きく崩れた。しかし沈み込む体を利用して、悟は足払いを繰り出していた。すばやくジャンプした剛が足払いをよける。悟の手に持ったライトが闇の中で踊る。

「なかなかやるな」

「私をパソコンに向かってるだけのインテリだと思われては困る…」

剛がメガネを押し上げた。闇夜でこれだけの立ち回りをしている二人は、そこまで来てやっと当初の目的を思い出した。

「ああ、そうだ。配電盤のカギ。どうする?」

「…ここは職員室に行って鍵を取ってきた上で開錠の後突入という手順が無難でいいだろう」

じゃあいくか、とさっきの突っ込み合戦がウソのように、二人は仲良く歩き出す。しかし、中学棟の通路を半ばまで引き返したとき、剛が悟るに言った。

「…職員室にも鍵がかかってるんじゃねーの?」

「あ」

しばしの沈黙が、連絡通路を支配した。

「結局綾乃さんが戻ってくるまで待ってりゃよかったんジャン!」

「じゃあ聞くが綾乃さんが戻ってきたとして電源が復旧したとして!てめーのやったことがばれたらどうすんだよ!」

「いいジャン別に。あの場にいた全員共犯だから」

「だから俺はこうして綾乃さんが帰ってくる前に何とかして証拠隠滅しようとしとるんだろうが!」

「じゃあここは男らしくハラかっさばいて」

「てめーのエロゲーのために死ねるかボケ!!」

「ぬうん!」

「どりゃあ!」

「お前がそもそも欲望に忠実だからいけねーんだよ!」

「愛に生きる男と言ってほしいね!そもそも私がパソコンを入れたこととこの停電に何の関係がある!!」

連絡通路に響き渡っていた打撃音が止まった。

「…そういえば、電力会社が止まったわけでもないのに、何でここだけ停電してんだろ」

「言っとくけど、今晩学校内で電気つけてたのは図書室だけだし、パソコン一台起動したくらいでブレーカーが落ちるわけもないでしょ」

ここにきて、やっと二人はこの異常さに気がつき始めた。悟が、気持ちこぶしを軽く握り締めて、周囲を見渡しながら言う。

「なんかの事故じゃあ、ないな」

「報知器関連は電源別だからね」

ざわ、と外で枯葉がアスファルトをなでる音が聞こえる。

「本日の装備は?」

「御札が…えと15枚に、懐中電灯が一本です、天現寺隊長」

「…是非もあるまい。撤退だ」

二人は通路をもと来た入り口に向かって走り始めた。連絡通路を仕切る扉がいつの間にか閉まっている。悟は心の中で舌打ちした。もう既に事態は始まっているのだ。続く剛の張詰めた息遣いが、剛もそのことに気づいていることを告げる。

「…確か、鍵はまだかからないはずだ」

そう口に出してみたものの、がたん。悟るのが力を込めても、高校側に通じる扉は開かなかった。

 

「まだ復旧しないの?」

「俺に聞くな、俺に」

出て行ってからもうずいぶんと経つ気がするのに、悟と剛は戻ってきていない。

「ブレーカーってドコにあんの?」

尚志が空になったマグを持ったままで不安げな声を上げる。

「ン…確か中学棟の連絡通路入ってすぐ脇」

「…まずいな」

先ほどから急に押し黙ったままになっていた祐介が、ぼそりといった。

「…祐介、『あれ』か」

急に押し殺した声で仁が確認を取る。そういいながらもう椅子からは立ち上がっている。

「…いや、まだ気配は察知されてないけど。司が襲われたときは中学棟の外だった。吹奏楽部のやつらだって、練習部屋の音楽室は中学棟に面したとこにある。昨日『あれ』が現れたこの図書室だって…」

「すぐ隣は、中学棟…ってか」

月はすでに昇っている。司書室に月明かりは入ってこない。本当の闇だ。言ったきり黙った仁のシルエットは、何か考えをめぐらせている風に見える。

「探しに行こうか」

尚志が立ち上がっていった。

「当然」

「ひっしー、御札の残りは?」

「うーん、天ちゃんたちが持っていった量によるけど」

「しょうがねえな。あるだけのお札持って来てくれ。俺のスーツと司のガスガンは」

仁が言い終わる前に、司は探しておいたスーツを渡した。暗闇の中が急にあわただしくなる。司は手探りで司書の事務机の引き出しを開けると、中をまさぐった。すぐに固くて冷たい感触が手に触れる。へヴィーウェイト樹脂。樹脂に鉄粉を混ぜて比重を重くした素材で出来たガスガン、ベレッタM93Rだ。弾は今朝来た時に補充しておいた。昨日の戦闘で、肝心なときに弾切れしていた反省だ。入り口に一番近い祐介が司書室のドアを開ける。わずかな青白い明かりが入ってきた。スーツを着終わった仁が、そのうっすらとした光の中に躍り出る。続いて尚志。司はガスガンのスライドを引いて初弾をチャンバーに装填すると、祐介と一緒に司書室の外に出た。

真っ暗だった司書室に長いこといたため、月明かりの入っている図書館内では夜目がきいた。司書室を出た四人は、かたまって移動した。図書室を出ると、冷たい空気が肺を刺激する。息がわずかに白く浮かび上がる。四人は一言もしゃべらずに中学棟に通じる廊下を歩いた。壁のコンクリートや床のリノリウムが、夜の冷たい空気を容赦なく反射している。上履きで床を踏むギシリギシリ問いうおとだけが、誰もいない長い廊下にこだました。

「ちょっと待った!」

司の前を歩いていた祐介が急に立ち止まった。その声には焦燥の色が混じっている。

「何か感じたの?」

後ろを振り返った尚志が尋ねる。先頭の仁は聞くまでもなく、あたりを警戒している。

「ああ…。つい今しがただ。いくつかの気配が、廊下の北側から走り出てきやがった…。詳しい数は…五、いや四だ。実体化するほどの気圧じゃないみたいだけど」

「それが本体かどうかはわからんしな」

目線を廊下の突き当りから動かさずに、仁が締めくくった。

「俺から離れるなよ」

 

建設途中とはいえ、中学棟の内装はほぼ完成といってよかった。連絡通路が「何か」によってふさがれていることを知った悟と剛は、中学棟の中で外に出られる場所を捜し歩いていた。先ほどからよからぬ空気が流れていることは「スキャン」が出来ない悟にも読み取れていた。

「気づいてる?さっきからかすかに風」

剛が、なめた人差し指を頭上にかざしていた。こうすることで風の吹く方向を知ることが出来る。

「ああ。外の空気だな、こりゃ。どっかがまだ工事中なんだろ。うまくすればそこから」

悟は声を極力落として言った。二人は異常に気づいてからずっと、移動するときはなるべく身をかがめ、音を立てないように歩いていた。「あれ」に対抗できる手段が御札しか無い状況なので、こちらから食って掛かるわけにはいかない。外に出て綾乃の帰りを待つ、というのが二人の出した結論だった。連絡通路から一本に続く中学棟の廊下を進むと、突き当たりに中学教師用の職員室がある。その職員室の前には広い階段とロビーをかねた踊り場が現われた。

「…いやあ、高校のぼろ校舎と比べて豪勢なもんだねえ」

剛が声を潜めて言う。

「見栄ってのは張るためにある、ってか。俺たちの施設費で作ってんだもんなあコレ」

そういって階段下からガラス張りの踊り場を見た悟の背筋は、いっきに毛穴が開いた。採光のための、やや大げさとも言える全面ガラス張りの窓。そこから鈍く差し込む月明かりに、ゆらり、と黒煙のようにシルエットが浮かび上がった。一つ、二つ、三つ。背後の剛が、無言で悟に御札を分ける。悟は御札を握りつぶすようにして拳を作った。両の拳を視線の前後に配し、三体の影を見据える。悟の闘志に呼応するかのように、拳の中に握った御札がうっすらと燐光を漏らす。その横に剛が並ぶ。同じように拳の中に御札を握り、ついでになぜか額に御札を貼り付けている。

「…キョンシー?」

目線をそらさずに悟が突っ込み。

「…効果は期待できると思うが?」

拳のまま親指で、剛がメガネを押し上げる。悟は一瞬剛のほうを見てニヤリと笑うと、お札をもう一枚取り出してその端をぺろりとなめて額にくっつけた。

「…そうだな。尚志の特製だ」

そういって視線をまた三体の影に戻す。ダブル・キョンシーと化した悟と剛が、影に向かって階段を駆け上がった。

「キョンシー様のお通りだああああッ!!」

 

バシュン!という音と気圧と共に、一体目の影が消えた。残るは三体。司たちは囲まれていた。たった今司が倒した一体の隙を、即座に三体がカバーする。影は時折威嚇するようにその触手を司たちに向けて放ってくる。展開したスーツのすそを翻し、仁がそれをはじく。事態は膠着しつつあった。

「…くそっ。これじゃあどうにもなんねーな」

穏やかな口調で仁が言った。しかしその目は厳しいままだ。

「俺が先頭きって走る。尚志と祐介は俺から離れるな。司、お前は俺が通った後に追いかけてくるやつを撃ちまくれ…」

背中合わせの三人に、仁がゆっくり告げる。

「了解」

「…行くぞっ!」

その掛け声と同時に仁が床を思いっきりけって走り出した。仁の正面にいた影が吹き飛ばされ、一瞬その形を虚空に散らせる。司は三人の後に続いた。後ろを振り返ると、すでに形を修復した陰とほかの二体が、風に吹き飛ばされるような形で司たちを追ってくる。司は走りながらガスガンのセレクタを「三点バースト」にあわせると、後ろもろくに見ないで振り返りざま引き金を引いた。

バララッ!バララッ!

三発同時に、語法印が書かれた6ミリBB弾が射出され、青い筋を引く。

ぐぎゃっ!ぐるるえっ!

声にならない、風のうめき声のような悲鳴が廊下にこだまする。数発はヒットしたらしい。もう一度司が振り返ると、しかし三体の勢いはまったく衰えてはいなかった。中学棟への連絡通路はもうすぐだ。角を一本曲がって、先頭の仁がすぐ右にある連絡通路を仕切る赤いパイロンを蹴り倒し、中学棟のドアに体当たりする。が、開かない。

「なにっ…!」

何度試みても無駄だった。扉は頑丈なかんぬきでもしてあるかのようにびくともしない。続いてなだれ込むように尚志、祐介、司が連絡通路の入り口に転がり込んでくる。その直後。四人の目の前に三体の影が立ちふさがる。影の体からは、黒い煙のような冷たい気が、目に見えるほどに立ち上っている。

「…気圧がどんどん上がってるぞ…こいつら。このままだと実体化する!」

言った祐介の言葉の、最後のほうはほとんど叫び声だった。

「みんな固まれ!この扉を蹴破るんだ!」

尚志の声を合図に、いっせいに四人は扉を押すが、扉はその実を硬く閉ざしたままで動く気配すらない。目の前の影から立ち上る気はさらにその量を増し、三体の影はもはやひとつの黒い陰の塊となって四人の前に現われていた。その三体分の影が急に空中に凝縮したかと思うと、煙のような不定形の形が明確な物体となってリノリウムの床に着地した。実体化したのだ。ズン、という音と共に、床がへこむ。黒い塊に見えていたそれは、全身を信じられない量の黒い体毛で覆われた獣のようだった。ダルマのようにずんぐりとした体は、毛皮のコート着て着膨れしたゴリラのようだった。

ぐふ。ぐるるるるるる。ごああああああああああ!

黒い獣が一声ほえる。体の、腹の辺りがバックリ割れ、そこから黄色く沈着したような牙と真っ赤な口内が覗く。続いて獣が腕を振り上げ、拳を振り下ろしてきた。とっさに前に転がり出た仁の背中が、その拳を受け止める。

「…ぐあっ!なんてクソ力してやがんだっ!」

仁はそのまま身を起こすことが出来ない。

「りゃああああ」

司が、隙のあいた獣の腹の辺りに弾を次々撃ち込む。が、BB段は音もなく剛毛の中に吸い込まれたまま、何の変化ももたらさない。六ミリ程度の大きさでは効かないのだ。

「…昨日の今日で…どうしてこんなに出てくるんだよーっ!」

その場にいた四人を代表して祐介が抗議の声を上げる。しかし、直後にあげられた二回目の獣の雄叫びによって、祐介の抗議はあっけなく却下されたのだった。逃げ場はもうない。司は、自分が音を立てるほど歯を食いしばっていることに気づいた。

 

 「御札の残りは?」

 悟るが握っていた御札を棄てて剛に怒鳴る。

 「…あと六枚!…天ちゃん後ろ!!」

 「ゴルア!!」

 言われて悟は、振り返りざま額についたお札で陰に頭突きを食らわす。ばちん!と火花と音を立てて影が虚空に散る。しかしすぐにもとに戻ってしまう。御札は悟るの額についたまま焼け焦げている。

 「あいよ!」

 背中合わせで影のことを殴り続けている剛が悟に三枚御札を渡す。

 「コレで最後!!」

 いいながら剛は握っていた御札を棄てて残りの二枚を拳に握り、一枚を額に張る。

 「…なんか圧倒的に分が悪いな」

 「認めたくないもんだがな」

 「逃げるか」

 「…応!」

 そういうと二人はいっきに走り出した。影の合間をすり抜けて、階段を駆け下りる。後ろを振り返らずに走り続けた。もう一度連絡通路に向かって走ろうとする悟の腕を引っつかんで、剛が反対方向へ連れ戻す。風が流れてきた方向を、剛は覚えていたのだ。後ろでズシン、という音がした。いつも前線に出ている悟は、その音であの影どもが実体化したことを悟った。いつの間にか、足音が二人を追いかけている。剛を先頭にして、作りかけの中学棟の廊下をさらに走る。徐々に建造途中の鉄骨が見え始めた。奥に行くに従って工事中になっているようだ。まだコンクリを打ちっぱなしの壁にあいている穴をとっさに二人は潜り抜けた。

 急に目の前が開けた。その空間は、天井すら作られていない。四方を足場で囲まれただけの、まったく手をつけられていないところだった。風はそこから流れてきたものだと、剛は思い至った。月明かりが差し込み、目の前に広がったものに悟と剛は愕然とした。

 目の前に広がっているのは、巨大な穴だった。まるでそこだけ鉱山の採掘場になってしまったかのように。そしてさらに驚くべきことに、その中心部には石碑のようなものが「発掘途中のまま」放置されていた。その周りには、まるで寺のご神木に巻かれるような縄が巻かれている。穴の中にあるために大きさはよくわからないが、少なくとも悟の身長の二倍以上はあるものだとわかる。

 「…こいつぁ…」

 追われているのも忘れて、悟が感嘆の声を上げる。

 「まるで遺跡だな」

 社長もそこに立ち尽くしたままでつぶやく。

 

 ごああああああああ!

 怪獣映画のような叫び声が背後で聞こえ、二人はとっさにふりかえる。するとそこには、実体化した先ほどの陰がいた。

 ぬらり、と月明かりを受けて爬虫類のようなうろこがてかる。鼻面はつぶれているが、あごの中にうずもれたような口からは鋭い牙が二本突き出ていた。ばん!と逆間接の足が床を踏み切り、その化け物は一回の跳躍で二人の眼前まで迫る。すぐ後ろには巨大な穴が開いている。逃げ場はない。

 「…どうするよ」

 「…わが生涯に、一片の悔い無し!!」

 「ラオウ様かお前はッ!!」

 すぐ間の前に怪物がいるにもかかわらず、いつもの癖で剛は悟に突っ込んでいた。習慣とは恐ろしい、と剛は心のどこかで思った。不思議と、恐怖はなかった。

 「死ぬ覚悟、ってことで」

 悟がつぶやく。

 「俺はしないぞ、そんなもん」

 剛がつぶやく。

 「おらああああ!」

 直後、二人は同時に叫ぶとこぶしを化け物の腹につきたてた。ばばばばば!と火花を散らす。握る拳の内側が猛烈に熱い。御札に負荷がかかって焼け焦げているのだ。しかし、一向に化け物は後退しなかった。

 「万事、休す」

 独り言のように悟がつぶやいた。そのとき。

 どかん!という大音響と共に化け物の体勢が崩れた。一瞬剛と悟には何が起こったのかわからなかった。人影が、化け物を上から踏みつけている。踏みつけた足からパリッと青い火花が散る。

 「ヴァリアブル…スーツ?」

 悟がゆっくりと顔を上げ、人影を凝視する。月明かりに照らされたその顔は。

 「お・ま・た・せ」

 「綾乃さん…!」

 悟の戦闘スーツを着込んだ、司書・杉村綾乃であった。

 

 ごああああああ!獣が苦痛にうめいた。そのままゆっくりと前のめりになって倒れる。

 「うわあっ」

 思わず声を上げて身を引く祐介と尚志。

 「なーに情けない声出してんですか」

 倒れた獣の後ろから現われたのは、木刀を構えた鳥羽リコであった。

 「リコ?」

 仁がそういった瞬間、がばっと倒れていた獣が身を翻し、リコに襲い掛かる。仁が無言のまま床をけって、獣にそのまましがみつく。バリバリと電光が大気を切り裂いた。仁はそのまま、柔道の技でもかけるように獣の短い足に己の足を絡ませ、払う。どすん!と獣は今度は仰向けに転倒した。

 ぐああああああ!

 その腹の辺りが大きく裂け、真っ赤な口が現われる。

 「てえええいっ!」

 その口の中に、リコが気合と共に木刀を叩き込む。ばきっ!と音がして牙が何本か折れとび、そのまま木刀は獣のあごを両断する。

 ごごごごごごごごごごごごご

 ばが!

 断末魔の叫び声と共に獣の肉体が爆散し、消えた。

 

 「…あのさ」

 額に御札を貼り付けたままの顔で、剛が仁のほうに向き直る。

 「あれ、どういうこと?」

 「…わからん」

 目の前では、本日二度目の信じられない光景が繰り広げられていた。戦闘スーツを身につけた綾乃が、あの黒いうろこの化け物と戦っている。その動きは恐ろしく早く、華麗ですらある。バシ、バシ、バシイッ!綾乃が身を翻しながら、鮮やかに裏拳を放つ。裏拳を振り切る勢いで体を大きくひねり、そのまま上段の後ろ回し蹴りが化け物の顔面に入った。

 ぎしゃあああっ!

 青い火花と共に、化け物の動きが鈍くなる。

 「剛君、お札借りるよッ!」

 一回の跳躍で、綾乃はギャラリーと化している剛につめより、その額から御札を剥ぎ取ると、そのまま流れるように化け物のほうへ身を翻した。

 「ハッ」

 軽い気合と共に綾乃の身体が宙を舞う。

 「おおおお!」

 悟と剛は同時に声を上げた。

 ぺた、と着地しざまに御札を化け物の額に貼り付ける。火花が散り始め、御札はじりじりと焦げ始めた。綾乃はトランポリンでもするかのようにもう一度床をけって跳躍すると、空中で一回身を回転させ、そのままとび蹴りを化け物の顔面…ちょうど御札がスパークしている辺りに叩き込む。

 ドカッ!という音圧と共に、化け物が消えた。

 「おおおおおお!」

 二人はただただ、一人で化け物を倒してしまった綾乃に拍手を送るしかなかった…。

 

「しかし、何でお前が戻ってきたんだよ」

 何とか立ち上がりながら祐介がリコに言った。

 「あ、ちょっと忘れ物しちゃいまして。駅までいって気がついて、綾乃さんにもう一回戻ってもらったんです。そしたら校舎の電気が全部消えてて、こりゃ異常事態だ、ってことになって」

 「ッてことは、綾乃さんも帰ってきたのか」

 腰の辺りをさすりながら尚志も立ち上がる。

 「綾乃さんは天ちゃん先輩と佐渡先輩のこと助けに行きましたよ」

 「…綾乃さんがあ?!」

 その場にいた四人は声をそろえて言った。

 「…大丈夫ですよ、綾乃さんだから。…それより、私になんか言うことあるでしょうが!」

 その一言に、司、仁、祐介、尚志はその場にひざまずき、深々と頭を下げた。

 「助けていただいて、本当にありがとうございましたッ!」

 「いえいえ。一人につきアイス二個で結構ですよ」

 驚いた司が顔を上げると、リコはいつものようにニコニコ笑っていた。と、司の背後で扉の開く音がした。連絡通路から出てきたのは、服が焼け焦げてぼろぼろになった悟と剛、そしてヴァリアブルスーツに身を包んだ綾乃だった。

 「おい…お前ら無事だったのか!中で一体何があった?」

 そう聞く仁に、もたれかかるようにして肩を抱いた悟がいった。

 「…ものスンごいもんを、みた」

 「は?」

 「…とりあえず、明日から片付けがんばったほうが、身のためだわ」

 続いて剛も遠い目をする。何が起こったのか知らない司たちは、ただその様子に呆然とするしかなかった。

 「いやあ、物分りのいい少年たちだなあ!」

 その後ろで、綾乃が笑顔いっぱいにそういった。

 

 

螺旋の七人・第四話 おわり。次回をお楽しみに。