連続学園活劇シリーズ

「螺旋の七人」

 

第一話

 

俺の父は、生まれたての俺を見て「この子は将来、もてるぞぉ」と驚嘆の声を漏らしたという。しかし、17年間の生涯の中で女の子は愚か男にすら、さして好かれた事がないという現在の状況を鑑みるに、うちの父は相当な親バカであると言っていいだろう。そんな父と会話をしなくなってずいぶん経った。はじめて父親の事を殴ったのが今年の1月だったから(正月から何やってんだか)、あと1か月のあいだ口をきかずに年を越せば「祝・反抗期一周年記念」となるわけだ。飽きっぽい俺がよくもまあ続けたもんだ。「慣れ」というものは恐ろしい。今となっては誰と喋るのも面倒になっていた。高校だって入学してから2年目になるが、今まで学校内で学生と交わした会話なんて、全て足しても五分くらいなもんだろう。

クラスには仲間でつるんでいる人間しかいなかったし、そもそも団体行動が苦手な俺は部活にも入る気はなかった。俺の通っている高校は、市内にある進学校の中でも限りなく底辺に近い所に位置する。オツムはさえないけどせめてどっかの大学に入れたい、と考える世間体最優先かつ責任回避型の教育マダムは猿≒息子どものケツを叩いてこの高校に入れる。

「私立螺旋(らせん)第二高等学校」。それが、俺の通っている高校の名前だ。変な名前である。螺旋、とは、ウズマキのあれのことで、他意はないらしい。この高校の理事をやっている巻島源二というおっさんは、親子二代で私立大学を立ち上げ、今では県下にその併設高校3校・専門学校2校を設けるほどの事業主である。ちなみに併設の高校は、出来た順番にランク付けされており、「螺旋一高:エリート養成」「螺旋二高:凡人進学」「螺旋三高:就職まっしぐら」といういうように、世間一般の御父兄様からは認識されている。

かく言う俺は、推薦の枠に飛びついて、受験もせずにさっさと入ってしまったわけだが。入ってから気付いたのだがこの高校、「デキスギ君」もいなければ「アウトロー」もいない、適度に脳プリンな一般ピープルという奴しかいないのである。自分のバイト代をかけて流行を追いかけ、皮算用で恋の鞘当をして、付き合いはじめて三週間で別れて、授業中に携帯を鳴らし、適度に先生方がキレて、生徒は聞く耳持たずに居眠りする。そのくせ体育祭や林間のキャンプファイアになるとバカみたいに盛り上がって騒ぐ、なんて事を「今ボクら青春真っ盛りですから」と臆面もなくアピールする。

俺はそういう連中が大嫌いだった。その感情を憎悪と言っても過言でない。その感情が自分のどこから来るのか、それは俺自身にもわからなかった。「集団」という奴に馴染めずに、いつも独りだった。周りの連中から「除け者」にされるのが恐くて、自分から進んで独りでいただけなんだけど。結果的には除け者と変わらないんだけどね。それが理由で、群れるクラスの連中に敵意を向けているわけではない。

ただ、無性に、腹が立つのである。アホみたいな顔して笑っている、乞食みたいにガツガツ喰う、痴呆になったかのごとき大声で下品な話をする。「バカかオマエラ」。何故だか許せなかった。イライラする。「悩み」ともいえないような些事をこれ見よがしに語り、同情して泣いてみたりする。俺が苦しい思いをしていることなんて連中にとっては空気のようなものだ。「うるさい、黙れ。俺は貴様らアホどもとは別格なのだ」。

 

西脇司はそこまで考えて、自分が今読んでいる本とまったく別の事を考えている事に気が付いた。図書室の天窓からは、まったく光が入り込まなくなっている。さっきまで図書室で騒いでいた連中も、もう帰ったらしい。いったい何しに図書室に来ているのだろうか。期末テストも近いし、図書室には誰かが残っている気配はない。下校時刻を告げる音楽が、ゆるりと流れ出した。

「閉館するぞーッ!残ってる人ーッ」

螺旋二高図書館・司書の杉村綾乃の声が響く。相変わらず声のでかい司書である。読んでいた本をパタと閉じるとリュックの中にしまいこんだ。

「綾乃さーん、ちょっと待ってー、今でるから」

図書室本棚の一番奥、司の特等席から司は綾乃に聞こえる声で返事をした。司がこんなに大きな声で喋るのを聞いたことがあるのは、司が常連の図書室司書である綾乃くらいである。司が本棚をすり抜けて出入り口のカウンターに到達するまでに、綾乃は図書室の電気をどんどん切っていく。

「綾乃さん、待ってっていってるのに。こけるよ俺が」

「じゃあ早く出て行きなさい」

もう既に帰り支度をした綾乃が、語尾にハートマークでもつけそうな調子で、なかなかヒドイ事を言う。

「今日は残業なし?」

「うん?残りは家でやるんよ」

「大変だねー」

「西脇くんが勝手に本持ち出さなきゃ残業しなくてもすむんだけどね」

司はここで図書の無断持ち出しをバックレ通す事にした。持ち出した本はもちろん後日謹んでお返しする。手続きがめんどくさいのだ。

「じゃー綾乃さんお疲れ様です」

司は、殆どの電気が消えて薄暗くなった廊下を昇降口に向かって走り出した。綾乃は小さく「まったくもう」とつぶやいてその姿を見送った。

 

運動靴兼登校用のスニーカーを突っかけて、司は外に出た。つーんとした冷たい外気が鼻腔を突く。外灯だけはともってるが螺旋二高の周囲は85%が田畑地帯なので、虫害を考慮してか学校外に明るい場所は殆どない。だから比較的明るい学校の敷地内から見ると、外はどこまでも暗く沈んでいる。空には上弦の月がでていて、その周りを、雲がやんわりと囲んで青白い光を反射している。たとえば静かな深い池に、枯葉が一枚落ちてきて、それが目に見えるか見えないか位のかすかな波紋を描く。その波紋が、そのまま湖面に刻み込まれたような雲であった。

海の底。この夜空を見上げるたびに、司はそんな印象を抱くのだった。光は十分じゃないけど、この位の明るさ…いや暗さが、自分にはちょうどいい。地上の鮮やかな色彩を放つ日光よりも、深海に届く、全ての風景を「陰影(モノトーン)」にしてしまう月光が、心地よかった。

しかし、と司は、いつものように感傷に浸りきれずにいた。今日は何かがおかしい。あまりに静か過ぎるのである。そう言ってよければ「田舎」な螺旋二高周辺だが、まだ午後六時半を回ったばかりだ。普段は聞こえる車の音も、今日に限って遠くの方でしか聞こえない。

「ずいぶん寒くなったからな…」

誰に言うでもなく、司は独り語ちた。息が、駐輪場に設置してある外灯の光で白く浮き立った。そのまま、敷地内の南側にある駐輪場に足を向けたとき、不意にある「感触」が司に襲い掛かった。ちょうど、首筋のあたりから肩甲骨あたりにかけて。ぬたり、と何かがまとわりつく感触を感じたのだ。反射的に首筋に手をやるが、特に自分の皮膚に何かが着いている様子はない。しかし、司は、それが断じて気のせいであるはずがないとわかった。司は、この季節は学生服の上にダッフルコートを羽織っているのだが、そんなことはお構いナシにその「ぬたり」とした「感触」はどんどん司の体温を奪っていく。おかしい。何度も何度も首筋に手を当て、背中に手を入れてみるが、何もついていない。

 

その「感触」が、外から投げかけられたものである事に、司は気付いた。

 

視線である。司は直感的に、それを悟った。見られている。誰かに…いや、なにかに。こんな感触、感覚は、普通の人間に見つめられて起こるものではないはずだ。自分でも理解不能なこの考えによって、司は突如としてパニックになった。といって、大騒ぎしてわめいたり逃げ出したり出来ない。身体が動かないのだ。

「…く…」

今度は額の上のほうに冷やりとした感触が走った。冷汗だ。自分のかいた汗を、自分がかいたものだと感知できない。ふう、ふう、と呼吸が徐々に荒くなる。何故だ。そうしているあいだにも首筋の「ぬたり」は首筋から背中全体に広がり始めている。冷たい。空気の冷たさではない。水の冷たさだ。一瞬、本当に自分が冷たい海の底にいるのではないかと錯覚するほどに。それは、視線の主である何者かが、司の全身をゆっくりと舐めるように見ているからに思えた。

「…っはッ!」

身体が、ばねに弾かれたように反対を向く。半ば意思ではない。筋肉が勝手に動いた気がする。「気がする」だけだ。変に肩に力を入れすぎただけだ。司は必死にそう言い聞かせる。目の前には、駐車場を挟んで北側に位置する図書館棟(司が今までいたところだ)、そしてその奥に、建造途中の中学教室棟が見える。螺旋二高は、来春から私立中学も併設になるのだ。今まであった「瞑想の森」と呼ばれているビオトープ・ガーデンを完全に潰して、その上に教室棟を建てるらしい。「自然に囲まれた豊かな教育環境」というのが螺旋二高の売り文句だったのだが、その言葉も来年にはパンフレットから消えるのだろう。しかし、そんなことを司の頭が思い浮かべたのは一瞬の事で、司の目は、建造途中でハリボテのお化けのような、中学教室棟に釘付けになっていた。

なぜなら、視線の主がそこにいる気がしたからだ。いや、気がする、ではない。もはや司の第六感とでも言うべき感覚は、中学棟に何かがいる、という確信に変わっていた。何かが、明確な意思をもって―あまり良い感情とはいえないだろうが―自分を見ている。背中の「ぬたり」感はもはや全身を被っている。

 

やばい。

 

司の身体は本能的にそれを感知したようだった。汗が止まらない。身体の芯のほうから、どんどん熱が吸い取られていく。

 

見えた。そして、目が合った。

瞬間、全身の毛穴が開き、収縮し、心臓が一回大きく脈打ち、体中の血液が逆流したかに思えた。指先やこめかみのあたりの毛細血管が膨れ上がり、口の中が一瞬にして乾く。この感覚。司は生まれてこのかたこれほどの感情を身に受けたことはなかった。だから肉体が破裂しそうになっているのだ。その感情。

それは、恐怖だった。

 

自分は今、「人ではないなにか」と目をあわせている。中学棟工事現場の明かりも消えている。外灯の届く範囲だけ、うっすらとその姿を浮かび上がらせている中学棟の足元にその「なにか」はいた。一見すると、植え込みの影のように見える。壁にある、見えるか見えないか、ぎりぎりのシミ。見えると思えば、見える。見えないと思えば見えない。

そんなおぼろげな「なにか」が、こっちを見ている。その全身は、黒い。しかし、それは光がないから黒いのか、それ自身の体色なのかは、わからない。そこだけにぽかりと陰が落ちているように、その「なにか」はあった。よく見ると人の形に見える。しかし、そう思った瞬間にはまた不定形になっている。

その黒い影に目があるということに、司は真っ先に気付いていた。黒い影の、人型だとするとちょうど頭に位置するところに、二つの穴が開いている。見えたわけではない。感じとったのだ。他の身体の部分には「陰」のようなものをまとっているらしいそれは、ちょうど目の部分だけ何もなかった。ぽっかりと二つ、どこまでも続く「虚無」がある。それはそいつの身体とは明らかに別のものであり、その二つの穴を通して、いま、黒い「なにか」は、間違いなく司の事を見ている。

司は、なおも動けなかった。目が痛い。この黒い影と目を合わせてから、まばたきが出来ないのだ。目に必死に力をこめて閉じ、そしてまぶたをもう一度こじ開ける。冷たい風が、ほほを撫でた、気がした。

 

黒い陰が、自分の目の前にいた。鼻先がくっつきそうな距離に、黒い闇がある。そして、自分の目の、ちょうど正面に、二つの穴から、どこまでも続く「無」が見える。その二つの穴が、ぎゅいんっと上下に引っ張られるように、広がった。陰の「顔」にある二つの穴が、まるで蛇が顎を外した時のように楕円になり、司の顔よりも広がっていく。

瞬間、司は、虚無であるはずのその穴の中に、幻影を見た。

目の大きな宇宙人の絵。真夜中にうなる換気扇の音、暗い廊下にぽつんと灯るオレンジ色の白熱灯。二度と目を覚まさなかったおばあちゃん、人の顔に見えた、天井のシミ。嵐の日にガタガタと鳴る屋根瓦。馬乗りになって殴られたいじめっ子の顔、そのことを告白したときの父親の顔。目の前で見知らぬおじいさんが轢かれた瞬間。飼っていたスズメの赤ん坊が死んでしまったときに、目玉を食い破って出てきた蛆虫、そして、自分の存在を無視し続けるクラスの連中…。

それらは、司が体験し、そのあまりの恐怖に自分の記憶から半ばシャットアウトしていた「忌むべきもの」の全てだった。幻影を映し出しながら、穴はどんどん広がっていき、ついには司の顔をすっぽり被うほどにまで広がる。

急に、両腕の肩近くに、最初のときよりも明確な「冷たさ」を感じた。目の前にいる黒い影に、両腕をつかまれたのだ。動けない。穴のふちが、司の顔に向かってゆっくりと伸びていく。唇のように、その穴が一瞬グニャリと蠢いた。だめだ。

喰われる。

「…ああ、ああアアアアアアアアアアアアアアァアッ!」

溜まったダムが決壊するように、はじめて己の恐怖を発露した。喉がからからに渇いて、途中からは喉を取る「ひゅウウウ」という空気の音だけが響いた。

このままじゃこいつに喰われる!!

 

突然、目の前に光が満ちた。黒い影の動きが止まる。

次に熱い風が吹いた。しかしそれは錯覚だった。自分の身体があまりに冷たくなっていたため、冬の外気すら暖かく感じられただけである。その風と共に、黒い影が一気に反対側の駐輪場まで吹き飛ばされた。目の前の影が消えて、更にまぶしい光が、司の目を襲った。耐えかねた瞳孔が悲鳴をあげる。それでも、動かない身体を無理に立て直して、司は正面を見る。

 

そこには、光の洪水の中にもう二つの影が立っていた。今度の影は、明確に人の形をしている。虚像だけの影ではない、実体を伴った影だった。やや大きい影と小さい影。そのシルエットを見れば、二人が男女である事がわかる。司は、ただその二つの影を見つめる事しか出来ない。

刹那。大きい方―男の影が大きく踏み切ってジャンプした。信じられない跳躍力で、司の身長の二倍はあろうかという高さを軽々と舞っている。司は思わず目でその影を追った。あの黒い「なにか」が吹き飛ばされたのと同じ軌道を描いて、男が司の頭上を越えていく。まばゆい光を受けて、男のうしろ姿が見えた。司はそれを見た瞬間息を飲んだ。その男が着ているのは…螺旋二高指定の学ランだったのである。

しかし、そう思った瞬間、男の着ている学ランが突然展開した。まるで折り紙を元に戻すときのように、バサッと音がして、学ランの丈が一瞬にして長くなる。学ランがまるでロングコートのように変形し、その裾をはためかせながら、男は黒い影に向かって飛び込んでいった。

「アッ」と司が声をあげるよりも速く。影は駐輪場のトタン屋根の上で反転し、支柱をけって一直線に司に向かってきた。

「ひっ」

思わず司が腕を顔にかざしてガードする。

ブオンッ!

という音がした。学ランから変形したロングコートの裾を大きく水平に振り切って、男が影とすれ違いざまに空中で一回転する。すると、まるで男の身の捻りに答えるかのように、コートの裾が一直線に伸びて影を振り払った。一瞬、霧が風に吹かれたように、影が引き裂かれるが、すぐに元に戻る。影はそのまま司の目の前に着地し、再び地をけってジャンプ。冷たい風が吹く。しかし、狙いはもう司ではなかった。

駐輪場を照らすための外灯。その上に、あの男が静かに立っている。彼の周囲には、まるで意思を持って広がろうとしているように、コートが風に身をくゆらせている。あのまぶしい光は今だやむことなく照らし続けていたが、男が立っている外灯の上までは届いていない。コートをなびかせる男のシルエットだけが、上弦の月夜に浮かび上がっていた。

そこに向かって、一直線に跳躍する黒い影。男に影がぶつかる瞬間、男の右腕がすぐ前の空間を水平に切った。その動きにあわせるように、コートの裾がそのまま黒い影を水平に薙ぐ。またしても分断される黒い影。そして、黒い影の身体が再生する前に、男は外灯の上で身をかがめ、そのまま片足を軸にしてすばやく回転する。まるでブレイクダンスの曲芸を見ているようだった。男の回転と同時に、身につけていたコートが急激に四方の空間に広がる。

バシッ!!

それに弾かれるように、黒い影が吹き飛んだ。飛んだときとは対照的に、緩やかな弧を描いて黒い影が、音もなく地面に落下する。しかし落下した頃には、分断された影の身体は再生してしまっている。ものすごい勢いで跳ね上がった―いや、盛り上がった影が、今までまったく動かなかった女の影のほうに、猛スピードで肉迫する。同時に、女の方も地をけってダッシュした。いや、ダッシュしたと言うのは正確ではないかもしれない。ドンッ、という音と共にアスファルトを思いっきり踏み込んで、たった一歩で影までの間合いを詰める。影に接触するぎりぎりの距離で急に身をかがめると、それまで後ろ手にもっていた棒状のもの―木刀をクルリと反すと順手に握り、立ち上がりざま身体を捻る反動を利用して、下から上へ、黒い影を両断した。

今度は左右に分断される影。しかし今度は、再生する事が出来ない。同極の磁石が弾かれあうように、裂かれた身体がくっつかないのである。司は、よろけながら迫る二つに裂かれた影を見ていた。既に腰から下は硬直してしまって動けない。と、半身ずつの影が、力を振りしぼるように司に向かって突進してきた。そのとき。

「……ッ!!」声にならない「気合」が、影の後ろから放たれた。その声はまだ少女のものだ。女が逆光になり、司に襲い掛かってくる影に一歩踏み込みながら、木刀を構える。

 

ドコッ!という音と共に、司の目の前で青白い閃光が爆発したように見えた。しかし次の瞬間。がつん、という脳天への衝撃と共に、司から視界が消えた。うまれてはじめて失神したのだった。

 

…いったい何が起こってるって言うんだ!

それが、気を失う寸前まで、司がひたすら考えていた事であった。

 

つづく。