みちしるべ 道標
漂流してどのくらいの月日が過ぎたのだろう。
柔らかい星の光のおちている水面を見つめながら、そんなことを考え始めたのは小さな救命ボートの食料がそこをつき、水もわずかばかりになってしまったせいだ。
別段、空腹なわけではないが、やはり水がなければ不安にならないといったら嘘になる。
延々と続く海では、太陽が照りつける時間になると新しい死人の魂を探す悪魔でさえ拒むような暑さになる。
残りわずかな水で暑さで渇ききった喉を潤す。
この行為を繰り返すたびに水を失った時のことを考えてしまう。
暑さと喉の乾きに耐えられるのだろうか?と。
そんなときは、地獄のように平穏な陸での生活すら恋しく思う。
おかしなものだ、刺激を求めて船乗りになったというのに、遭難をしたとたん死を恐れている自分が自分の中に存在することを知るとは。
しかし、それは昼間のこと。
夜はいい。
夜はすべてを忘れさえてくれる。
つややかな漆黒の水面に優雅に踊る星の光がすべてを癒してくれる。
それは暑さや、乾きそして遭難をした事実を忘れさせてくれ、静かな微睡を誘う。
そんな夜を幾度ともなく過ごしていた時のことである。
「ハンサムな船乗りさん。あなたは何処へ向かおうとしているの?」
きらきらと七色に光る銀色の魚がわたしに声をかけてきたのだ。
「多分、静かに眠れるところだろうよ」
昼間の暑さで疲れ果てた体を休まそうと気持ちよく転寝をしているのを邪魔されたために不機嫌に皮肉を込めて答えた。
「あら?ご機嫌斜めのようね」
銀の魚は港の酒場にいる女を思い出させるような仕草で私を茶化す。
「ここはおまえのような賑やかな連中が私の眠りを邪魔するから、他所へ行きたいものだ」
「そんなに一人がいいなら、私はここから消え去りましょう」
陽気な光を放つ銀の魚は私の目の前から消えていった。
わたしは、心にもないことを口走ったことを少し後悔した。
なぜなら、漂流してからというもの熟睡をしたことなど一度もなく、生きているものの存在を感じることができない静寂と、目を閉じたときの暗闇が怖いからなのだ。
孤独が現実となり、深い眠りにつけばそれに押しつぶされそうに感じられる。
そう、静寂と孤独がわたしを臆病にさせているらしい。
そうして、気まぐれな魚が消えてしまうと、点に揺らめいていた星たちまでもわたしの目の前から静かに姿を消していた。
こんな暗い夜は、あの晩以来だった。
あの晩はとても長い長い夜だった。
嵐 嵐 嵐 嵐 嵐 あらし!
そうだ、私の乗った船は嵐によって沈めてしまい、船だけでなく私の仲間までも何処かへ連れ去っていってしまった。
あぁ、嵐はあの夜にどうして私も仲間と一緒に連れ去ってくれなかったのだろう。
耐え難い感情がこみ上げてきた。
わたしは、両手を強く握り締め自分の腿を叩いた。
いっそ、自分で自分を破壊して、この海に消えてしまいたい。
ぽつ ぽつ ぽつ
冷たい涙がわたしの頬をなで、握り締めた拳の甲に落ちていった。
いいや、私の涙ではない。
これは、私を哀れんだ星たちの涙。
星たちよ・・・哀れみの涙を拭い、悲しみの空を明るく照らし、早く私をこの暗闇から開放してくれ。
でないと、私はこの苦しみから逃れることはできない。
「可哀想な船乗りよ。最初に自分の運命を拒んだのはあなたよ。あなたが自分の運命を拒むから、他の人たちよりもたくさん苦しまなくてはならなくなったのに。それなのにもっと哀れんで欲しいのね」
漆黒の闇に凛と響く声に暗い虚勢を張った黒い雲が、黒い蜘蛛の子を散らしたように私の上にある空から立ち去っていったのだ。
すると、再び明るい星が姿を現した。
銀の鱗の魚がきらきらと私に笑いかける。
「ほら、ほら、あなた。いつまでそこにいるつもり?あなたは本来行くべき道を進むべきよ」
「そうなのかもしれない」
「いいえ、そのとおりよ」
銀の鈴のような声がくすくすと少女のように笑いながら言う。
「あなたは、あなたの運命の星に早く気づくべきよ」
魚は銀色の弧を描きながら水面から飛び上がり、花火のように散った。
私は空を仰いだ。
「未知の海ではフォイニケが頼りだ。あの星を頼りに旅することを伝えたのは私の国の哲学者なんだよ」(フェニキア生まれの哲学者タレース)
何処かの港で知り合った若いフェニキア人の船乗りが自慢げにそう言っていたのを、何故か私は思い出した。
「ふぉいにけ?」
「ステルラ・ポラーリスのことさ」(北極星のこと)
そう、仰いだ天には満天の星。
しかし、その中でひと際輝く星が微笑みかけてくる。
あの星がステルラ・ポラーリス。
銀いろにきらきらと輝く星。
「まだわからないの?」
わからない。わからない。どうしてだかわからにが私はあそこを目指すのだろう。
私は一本しかないオールに手をかけた。
オールに絡みつく波はとても重く、まるで私をこの場所へ引きとめようとしているように思える。
しかし、私はわたしの運命の星を目指す為に漕ぐ。
あれは、私の道標。
片方しかないオールを右腕が疲れたら左腕に持ちかえ、左が疲れたら右腕を使って漕ぐ。 両方の手の平がまめだらけになり、やがてつぶれる。
再びまめができ、つぶれる。
そうしているうちに、目の前にとても見慣れた光を感じ始めた。
沢山の暖かい光。
光は暖かいスープのようだった。
「あぁ」
私は思わず声を出した。
「わかったような気がする」
私は銀色に輝くステルラ・ポラーリスに言う。
「あなたの行くべきところはもう少しできっとわかるわよ」
無限続くはずだった海が終わりを告げようとしているのがわたしにはわかった。
あの輝く星はわたしの道標。
あれは、運命の道標の輝き。
「早く気づけばもっと早く楽に慣れたのに」
道標の星は優しく囁いた。
わたしはオールを力いっぱい漕いだ。
わたしを待つ人たちと再び出会うために。
オリジナル小説データベース『ChaosParadise』からおこしの方はここからTOPへ行けます