1.はじまり
世界のはじまり。それは、いつも同じ時間、同じ場所からはじまる。
俺は、四角い目覚まし時計の上部のスイッチを押し込んだ。
何てこと無い動作だが、それは今日の自分の機動スイッチを押すことと同様だ。かちっという短い音がして初めて、俺は起動する。
目覚まし時計に視線を移すと、長い針が12の数字の上に差し掛かろうとしていた。
今日も、俺が勝った。
人間誰しも、どうでもいい能力を持ち合わせている。アラームを設定した時間の5分前に、起きることが出来る。俺にとっては、それがそうだ。いつ頃からそんなことが出来るようになったのか、またどうしてそれが勝ちなのか、自分でもよくわからない。本当にどうでもいいことだ。
俺は、ゆっくりと体を起こした。そして、リビングに足を向けた。そこには、誰もいない。いつものことだ。都内まで勤めている両親は、朝が異様に早い。
俺は、テーブルの上にあった食パンをトースターにいれ、冷蔵庫からパックの牛乳を取り出すと、コップへ注いだ。いつもと同じ朝食。
俺は、リモコンを手に取ると、電源ボタンを軽く押し込んだ。低い機動音と共に、ディスプレイに映像が映し出される。いつもと同じチャンネル、いつもと同じ番組、いつもと同じ若い女子アナウンサーと中年の男性キャスター。彼らは声をそろえて、おはようございますという。
だが、その時俺は様子がいつもと違うことに気がついた。彼らは声をそろえてが言った。それでは、今日一日お元気で。瞬間的に、それが何を意味しているのかわかった。今が、その番組の終了であり、俺のいる時間が普段よりも2時間も遅いことに。
トースターが、チーンという間抜けな音を出した。
その音を合図に、俺の中の血液が一気に重力に引かれて、足元に落ちたような気がした。だが、それは一瞬のことで、俺はすぐにクローゼットを開け、制服を取り出し着替えた。玄関の扉が壊れてしまうのではないかという勢いで飛び出し、自転車にまたがった。もはや、遅刻は免れなかった。だから、それをどれだけ少なくするかが、問題だった。俺は、ペダルを力いっぱい踏んだ。
だが、不運とは連続して襲ってくる。それは、今まで生きてきた経験から分かっていることだった。そして、不運の度合いが大きければ大きいほど当てはまる。
電車が扉が、目の前で閉じた。中に乗っている数人の視線が、俺のところへと集中した。あーあ、やっちゃった。後一歩。そんな視線だった。俺は、すぐに後ろを振り返り、時刻表を確認する。通勤ラッシュが、一段落つくこの時間、次の電車までの待ち時間は25分あった。
頭に血が上っていくのを感じた。だが、これだけはどうすることもできなかった。
俺は、自動販売機でコーヒーを買うと、ベンチへと腰掛けた。自動販売機のコーヒーは、どんなメーカーのものであっても砂糖をぶち込んだだけのように思えてあまり好きでなかったが、乾いた喉を潤すのには十分だった。
そして、俺はその時になって初めて、気がついた。これがはじめての遅刻だったということに。幼稚園以前は知らないが、小学校、中学校、それに今に至るまで遅刻というものをしたことがなかった。それは、塾や部活、友達との約束事まで同じだ。
俺は、周りを見渡した。いつも同じ乗り場で待つやたら疲れてそうなおじさんも、英会話の本を手にもつOLも、ヘッドフォンからの音漏れを気にしない大学生もいなかった。あまりに静かな場所だった。
そこは、俺の知らない場所のように思えた。
それは、新しい世界のはじまりだった。ただし、今日一日限定の。
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