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私のビデオ評
1 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/06(月) 10:04 [ 155.net220148229.t-com.ne.jp ]
ビデオの感想は、以前にも別の所で書いたことがありましたが……
チェホフの『三人姉妹』についてでしたね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/9
でもこういうものは、やはり一カ所にまとめた方が良いかなと思って、
新しいスレッドを立ててみることにしました。(^^;)

あちこちのサイトでは、自分のメモがわりみたいな感じで、
映画評なんかを書いている人が少なくないようですが、
ここもまあ、似たようなものになるのかもしれませんね。
ただ、何と言っても他人の目に触れるとなると、やはり一応は、
よそ行きの体裁を整えないとまずいかな、という気はしています。

そういう分けで、このスレッドは私がビデオで見た作品を、
ジャンルを問わずに勝手気ままに批評する場にしたいと思います。
その内容としては、映画や現代演劇は勿論のこと、
能・文楽・歌舞伎からオペラ・バレエに至るまで、
私が見る価値があると思って見たものは何でも書くつもりです。
ここでも当然、まじめな異論や反論は大歓迎です。m(_ _)m


その場合、評価の目安として、私の場合は、
一つ星から五つ星までで評価しています。
つまり、とりあえず娯楽作品として楽しめれば三つ星、
それ以上に深い内容があると思う佳作は四つ星、
そして、最高に素晴らしいと思う傑作は五つ星ですね。
逆に、退屈した作品は二つ星、最悪で不愉快な作品は一つ星
ということになっていますから結構、分かり易いでしょ!?

ただ、こうした評価ですと、どうしても、
三つ星が大半を占める結果になってしまうんですよね。
そこで、同じ三つ星の中で優劣を付けたい場合に、
☆☆☆+や☆☆☆−を使う、ということにしています。
因みに、先の『三人姉妹』が☆☆☆+でした。(^^;)

2 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/06(月) 10:06 [ 155.net220148229.t-com.ne.jp ]
  ★★★ゴドーを待ちながら(☆☆☆☆)★★★

それで先ず、最初に取り上げるのが『ゴドーを待ちながら』なんです。
これは、現代演劇としてはあまりにも有名な作品なので、
私も、死ぬまでに一度は見なければいけないかなと思っていたんですが、
ようやく今年の夏ごろに録画した奴を、つい最近見ました。(^^;)

で、私が受けた第一印象なんですが……
『良くある退屈な前衛演劇の一つ』という程度の感じで、
当初の評価では、せいぜい三星だったんですよね。
ところが……少し後になってからハッと気付いたんですが、
ひょっとすると、このゴドーというのはGod、
つまり神の暗喩ではないんでしょうか!?

そうした解釈が正統的なものとして通用し得るものなのかどうか、
寡聞にして私は良く知りませんが、少なくともそう考えると、
この作品が非常に分かり易くなることは事実なんですね。


ざっと荒筋を説明しますと、二人の浮浪者が柳の木の前で、
首をくくって死ぬか、このままゴドーを待ち続けるか、
といったやりとりをしつつ、時間をつぶしている分けです。
(このビデオでは、串田和美と緒形拳が演じていました。)

そこへ何やら金持ちと奴隷みたいのが出て来て、
二人に絡んだりする分けですが、他には大したことは何も起りません。
ただ、ゴドーという人がもうすぐ来るみたいなことを言いながら、
いつになっても来ない中で、時間だけが過ぎていく分けですね。

単にそれだけのドラマなんですけど、
このゴドーさんというのが一体何者なのかは、
ほとんど何の手がかりも示されません。
ただ浮浪者の一方が、彼に何か頼みごとをしていたらしく、
それで、彼が来たら何かが変わるみたいな雰囲気なんですね。
(続く)

3 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/06(月) 10:08 [ 155.net220148229.t-com.ne.jp ]
(続き)
実を言うと、この作者のサミュエル・ベケットという人は仏人らしいので、
『ゴドー〜god〜神』という連想には無理があるかもしれないんですが、
ただ、彼らが待っているのが仮に『神=キリストの再臨』であるとすれば、
この物語は全く違った様相を帯びて来ることになるわけです。

実際問題として、キリスト教徒の世界では1000年とか2000年とか、
西暦の区切りが近付くたびに、何やら『世界の終わりが来る』
みたいな話になるらしく、近年も大騒ぎしてましたよね。
結局、彼らの考え方では『もうすぐ、明日にでもキリストが再臨して、
世界が終わりになってもおかしくない』ということらしいですからね。
だから『今のうちに悔い改めておかないと大変だ』とか言う分けですね。

それなのに実際には、いつになってもそのキリストは再臨しない分けです。
そういう彼らの精神構造を考えると、このドラマで待っているのが、
実はキリストの再臨であると考えると、全てが明確になるんですよね。
つまり、その見方ではこの浮浪者たちの姿はまさに我々自身の姿と重なり、
その一挙手一投足は我々の人生そのものということになる分けです。
但し、我々といっても正確にはキリスト教徒に限定されるでしょうけどね。
まあ、イスラム教徒やユダヤ教徒も似たようなものかもしれませんが……。


言い換えるなら、キリスト教徒にとっての人生とは『キリストの再臨を
待つまでの間の暇つぶし』とも言えるんじゃないでしょうか。
そう考えると、このドラマの意味がずっしりと重く理解される分けですし、
ある意味で、この作品は我々が欧米人を理解する上で、
極めて重要なものであると言えるような気がするんです。

というのも、キリスト教徒の欧米人と仏教徒の我々とでは、
生きている時間の枠組みが根本的に違うからなんですね。
つまり、彼らにとっての世界は『神による天地創造』に始まって、
『キリストの再臨』で終わる、ある閉じられた期間に過ぎないんです。
それに比べ我々にとっての世界は、生まれかわり死にかわりして、
永遠に続く輪廻のサイクルであり、世界には始まりも終わりもない分けです。


実際問題として、弥勒菩薩は56億7000万年後に来臨するなんて説もありますが、
1000年単位のキリスト教徒の時間と比べると、
仏教徒の時間の単位は桁違いに長いということが良く分かりますよね。
例えば、物理学の世界では、この宇宙が生まれたのが、
今から百数十億年前とか言われてますからね。
56億7000万年後なんて言ったら、それこそ、
この地球が今のまま存在しているかどうかすら怪しい未来なんですよね。
(因みに『分子雲の収縮が始まったのが45億6700万年前である』
とかいう話を、つい最近の新聞で読みましたけど、
この567とか4567とかいう数字の並び方も中々面白いですね。)

そうしたことを考えると、人生の様々な局面に於ける
我々と欧米人との行動様式の違いを理解する上で、
我々の時間軸と彼らの時間軸との間にある本質的な違いについて、
キチンと理解して置くことが非常に大切であるような気がするんです。
そういう分けで、結果的にこの作品は四つ星にしました。(^^;)

4 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/13(月) 18:25 [ 130.net220148173.t-com.ne.jp ]
  ★★★冥土の飛脚(☆☆☆☆)★★★

今回見たのは、2002年11月の国立文楽劇場での公演を録画したものでしたが、
『淡路町の段』と『封印切の段』の二つの段だけをやってました。
『冥土の飛脚』といえば、言わずとしれた大近松の三大心中物の一つですが、
これだけは題名に『心中』がない代わりに、その重々しい迫力がいいですね。

但し……今回ネットを検索していて気付いたんですけど、
実は、これと全く同名の物語が中国にあったらしいですね。
ということは、近松門左衛門が題名だけ拝借したということなんでしょうか!?
もっとも、筋は全然別物で『死んでも互いに再婚すまいと誓ったのに、
夫が死んですぐ再婚してしまった妻の元に、冥土の夫から恨みの手紙が来る』
という展開で、その後、妻が急死するとか言う話でした。
  http://members.at.infoseek.co.jp/huameizi/text03/mingtu.htm

つまり、これは『冥土から飛脚が来た』という話ですが、
近松ものの方は、あくまで『しくじった飛脚が遊女と心中して冥土に行く』
という話ですからね、その趣向が全く逆になっている点で、
さすがは大近松、単なる猿まねはしないということでしょうね。
結局、あちらが『冥土発の飛脚』なら、
こちらは『冥土行きの飛脚』という分けです。(^^;)


さて、それで問題の三大心中物なんですが『曾根崎心中』では、
一人とてつもないワルが出て来て心中の原因を作り、
『心中天の網島』では周囲の善意に反して、
偶然の歯車が狂って心中に至るんですけど、
この『冥土の飛脚』も『親友の思いやりが裏目にでる』
というのが本来の筋だったと思います。

私はどれも一通り文庫本でざっと読んでいて、
大体の荒筋は知っていたんですが、
以前に、歌舞伎で『封印切』を見た時はガックリしましたね。
まあ、歌舞伎の場合『恋飛脚大和往来』とかいって
演目の名前自体が違うんですけど、
内容的にも相当いじっているらしくて、この『封印切』なんか、
元々の原作が持っていた緊迫感なんて皆無の茶番劇になってますからね。

つまり、歌舞伎では金を借りた相手の八右衛門が完全な悪者にされていて、
忠兵衛の恋人・梅川に横恋慕した末、忠兵衛を陥れるという役回りなんですね。
それで、その八右衛門が何とかして忠兵衛に公金の封印を切らせようと
色々仕向ける様を面白おかしく描いていたと思うんですが……
これじゃ草葉の陰で近松が怒り出すんじゃないかと、
私なんか思いましたけどね。


その歌舞伎では『新口村(にのくちむら)』の段も見たことがあるんですが、
こっちは悲劇的な親子対面が見せ場になってる分けですね。
ここでも色々と歌舞伎風の味付けが濃かったんですが、
それでも、さすがに原作をぶち壊すほどではなかったと思います。

その場合、二人が去って行く場面で、遠景を表現する為に、
わざわざ子役に入れ換えて『小さくなっていく二人』を表現するなんて所が、
いかにも歌舞伎的な独創なんですが……江戸時代の人は中々やりますよね。
その点、猿まねしか能のない現代人も少しは見習って欲しいと思います。(^^;)

結局、歌舞伎に比べると、文楽の方が
ずっと原作に忠実な作りになっているようです。
今回見た二つの段では『淡路町』の方はまあ三つ星程度だったんですが、
『封印切』は、さすがに大近松という迫力があって結局、四つ星にしました。

5 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/13(月) 18:44 [ 130.net220148173.t-com.ne.jp ]
  ★★★HERO(☆☆☆)★★★

張芸謀の作品としては以前に『上海ルージュ』を見たことがあるんですが、
何か色フィルターというんですか、それを多用する監督という印象でしたね。
ただ私は、中国の監督としては張芸謀より陳凱歌の方を高くかってます。
まだ一つしか見てないんですが『人生は琴の弦のように』は名作でしたからね。

このHeroは『秦の始皇帝をつけ狙う暗殺者』がテーマなんですが……
いわゆる歴史物を期待すると裏切られると思います。
むしろ、日本で言うと忍者映画みたいな感じで、暗殺者たちは、
宙を飛んだり水上を歩いたりする超能力者として描かれます。

そもそも、この作品の狙いが『張芸謀流のアクション映画を作る』
ということだったようですからね『超能力アクションに
NHK大河ドラマ風の歴史的味付けをした』という感じでしょうかね。
暗殺者達が結局は『天下太平の為に暗殺を思いとどまる』みたいな描き方も、
いかにも後から取って付けたような『予定調和』的ストーリーなんですよね。
(あのう、このスレッドは基本的にネタバレですからね、
その点は心して下さい。(^^;))

暗殺者の出自に関して、三つ位の解釈が提示される点なんか、
ある意味で、黒沢明の『羅生門』とも似た所がありますね。
でも、ストーリー的に特に深みがないですから、
それで私の評価としては三つ星になる分けです。


因みに、またまた余談になりますけど、
張芸謀のことを『チャン・イーモー』なんて書く奴は虫酸が走りますね。
少なくとも読みとしては日本国内では『ちょう・げいぼう』で十分ですし、
陳凱歌も『ちん・がいか』で十分なんじゃないですか!?
何か『カタカナで書くほうが正確である』みたいに思うのは大きな錯覚です。

というのも、カタカナ表記で元の発音を正確に表現できない点においては、
中国語や朝鮮語は、英語と全く同じことなんですよね。
ですから『どうやっても元の発音の表記が無理』ということなら、
日本式読みの方が『日本人が漢字を連想しやすい』という意味で、
どう考えても、よりすぐれた方法と言えるんじゃないでしょうか。


そもそもは、日本人が金大中を『きんだいちゅう』と読むのがけしからんとか、
韓国あたりで騒ぎ出したのが、この問題の始まりだったと思いますけど、
私なんか未だにむかついてますからね。
だって、韓国人が日本名を日本流の読み方をするのに、日本人が
韓国名を韓国流に読まないのが、不公平だとか差別だとか言うわけでしょ!?

でも、韓国人が日本名をどう読むかは、あくまでそちらの勝手であって、
もし、その点の非対称性が気に入らないというなら、
韓国でも、日本名を韓国流で読めば良いだけのことではないでしょうか。
何か、自分の慣習を他人に押しつけるというか、その内政干渉的な感覚が、
近頃の靖国参拝をめぐる内政干渉と良く似てるんですよね。

しかし、それ以上に情けないのは、こうした無理難題を押しつけられても、
自分の原理原則というものを持っていないが故に、押されるままに、
何の抵抗も出来ずにズルズルと後退してしまう日本人なんですよね。
そうした外国からの圧力を無定見に取り上げて騒ぎ立てる芋マスコミは、
元々が謀略の犬ですからね、もう何か言おうという気すらありませんけどね。
(続く)

6 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/13(月) 18:47 [ 130.net220148173.t-com.ne.jp ]
(続き)
それでも、こうした批判はあくまで韓国人がしたことですからね、
別に中国名まで『中国風』のカタカナにする必要はなかったはずなんです。
というのも、そもそも中国という国は広大ですからね、
同じ中国の中でも地域が異なれば漢字の読み方も全く違うんですね。
つまり、広東人や四川人は北京人とは違う読み方をする分けですから、
中国人からすれば日本人がどんな読み方をしようと、
それにいちゃもんを付けるなんて感覚は元々あり得ない分けですよ。
それなのに、どういう分けか芋マスコミの煽動で、今では、
中国人の名前までこんな不自由な読み方にされちゃったんですよね。

しかし実を言えばこの問題には、そうした文化的・政治的な内政干渉
という以上の問題があるんですね。
例えば、この映画でも登場人物の名前が全てカタカナなんですよね。
その場合、ウーミンだのフェイシェだのチャンコンだのと言われたって、
何のイメージも湧きませんが、無名・飛雪・超空と書けば一目瞭然でしょ!?

つまり、漢字には『たとえ音が通じなくとも、
形を見れば意味が分かる』という途方もない力がある分けで、
それこそが漢字文化圏の巨大な財産であるわけです。
それを近年の日本では、自分から捨ててしまっている分けですからね、
まさに愚の骨頂と言わねばならないでしょうね。
その点で、特にNHKの姿勢は責任重大だろうと思いますが……まあ、
近年のNHKは赤犬支配がひどいようですから、どうにもなりませんよね。
例えば、NHKによるタレントの人気調査なんて完全に操作されてますからね。


無論、その意味では朝鮮半島も同じ漢字文化圏ですから、
本来なら、やはり人名や地名は漢字で表記して、
日本式に読むべきだと私なんかは思う分けです。
ただ、高句麗問題の騒ぎを見てもわかるように、
朝鮮には元々歴史的な反中国感情があるんですよね。

その意味で、漢字を全て追放して、
ハングル表記で統一しようという運動もある分けです。
ですから、もし韓国が漢字を全て廃止するというのなら、
それは日本人がどうこう言っても始まりませんよね。

ただ、チェだのペだの言われても、我々には何のイメージも湧きませんから、
両国の文化交流においては確実にマイナスに寄与するだろうと思います。
それでも、韓国があえて漢字文化圏から抜けたいというのなら、
もうそれまでですよね。韓国に『漢字を使わないのはけしらん』
なんて言えば、それこそ内政干渉になりますからね。
たとえ、それで日本との交流がどんなに不便になろうとも、
それはそれで仕方のないことだろうと思います。
(完)

7 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/15(水) 11:45 [ 152.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ★★★オイディプス王(☆☆☆☆)★★★

これは、ギリシャ悲劇としてあまりにも有名な作品ですが、
ギリシャ本国で蜷川幸雄が演出した公演のビデオでした。
でも、いきなり神社で使う御幣(ごへい)が出てきたり、
雅楽で使う笙(しょう)という笛を使ったりするところなどは、
ちょっと日本文化の切り売りという感じがして厭味でしたね。
『お前ら、過去の遺産を食いつぶすしか芸がないのか……』
みたいな感じですね。(^^;)

オイディプスを演じた主演の野村萬斎は狂言の役者ですが、
いわゆるイケメンで近頃のギャルには大人気らしいですね。
前半は少し空滑りしているような気もしましたけど、
終盤にかけての熱演は中々のものだったと思います。
私の行きつけの自殺板では良くリストカットの話を目にしますが、
『恐ろしい運命を知った苦悩の中で、
オイディプスが自分の両眼に針を突き刺す』という所なんか、
究極の自傷行為という感じでしょうかね。
それが全く不自然に感じられない位の熱演でした。


日本では、例えば谷崎潤一郎の『春琴抄』なんかで、
両眼に針を突き刺す場面がありますが……私にはどうしても、
それが不自然にしか感じられなかったんですよね。
暫く前に見た北野武の『Dolls』という映画でも、
それをまねたのか、やはり両眼に針を突き刺してましたけどね、
『愛人の醜い顔を見たくない』という献身だけで、
そこまでするというのは、私には理解できません。

その点では、オイディプスが両眼に針を突き刺すのは、
その苦悩が途方もない大きさであるが故に、
納得させられてしまうものがあるんですよね。
この悲劇は荒筋だけなら誰でも知っていると思いますが、
劇としてキチンと見たのは私はこれが初めてでした。
何か予想していたよりもすごいドラマで、これまた、
死ぬまでに一度は見ておくべき作品だろうと思いました。
その意味で、これまた四つ星です。(^^;)

8 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/15(水) 11:47 [ 152.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ★★★山の郵便配達(☆☆☆)★★★

これまた中国映画ですが、いわゆる『癒し系』でしょうかね!?
監督は霍建起(かく・けんき)ですが、人生に疲れている人なんか、
この映画を見たらホッとするんじゃないかと思いました。
筋としては大したことはなくて、中国の貧しい農村地帯で、
郵便配達夫をして暮らす父親が歳をとって引退し、
自分の息子に仕事をつがせるという話なんです。

貧しい山村の中を徒歩で配達するというのは、
もう現代の中国ではなくなったのかもしれませんね、
1980年代頃の話だとか言ってますしね。
でも、その山村の素朴な風景や実直な農民の姿を見ていると、
やはり、疲れた心が癒されるような気がしました。
私の評価としては三つ星です。

9 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/25(土) 20:41 [ 35.net220148224.t-com.ne.jp ]
  ★★★新三国志3完結編(☆☆☆)★★★

市川猿之助のスーパー歌舞伎に関しては、以前にもちょっと触れましたが、
『夢見る力』云々というのは、第二部の孔明篇でしたね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1069922698/21
実は、スーパー歌舞伎で私が最初に見たのがこれだったんです。
今回は、その続きで第三部の完結編なんですが、
残念ながら第二部ほどの面白さはありませんでした。

結局、日本で良く知られた有名な英雄が
この第三部には出て来ないということも一因かもしれませんね。
元の話が大変に長いせいか、全体的に『説明でつなぐ紙芝居』
みたいな作りになりがちな点は前作と同じなんですが、
この第三部は悪が勝ち残るみたいな展開で、核となるストーリーも弱いので、
前作より見劣りするのは仕方がないような気がしました。

ただ……しばらく後になって気付いたんですが、
この物語はどうやら徳川家康と浅からぬ因縁がありそうですね。
つまり、家康という人は言わばだまし討ちみたいな形で、
豊臣家から政権を奪取した分けですが、その後で、
自分が生きている間に、子から孫へと二度の将軍交代をやった分けです。


それで、日本の歴史家の中には『家康は自分の政権が代々の子孫に
実際に受け継がれていく様子を確認したかったのだ』
なんて言う人もいる分けですが……この三国志3を見た後では、
少しそれとは違う見方ができるのではないかと思いました。
つまり、この第三部では三国の争いの末、
最終的に魏の仲達(司馬懿)が政権を奪取する分けですが、
ここでも陰謀というか、だまし討ちみたいな形がある分けですね。

仲達はその点をひどく気にしていて、自分が引退する代わりに、
まだ手の汚れていない二人の息子に次々に権力を受け渡すという手順で、
ここでも二度の政権交代をやって晋を建国する様が描かれる分けです。
但し、実際の歴史では『司馬懿〜司馬師〜司馬昭』という権力交代は、
全て、前任者の死亡によって起こっているみたいですからね、
ここの表現はあくまで物語のフィクションなのかもしれません。
  西晋 - Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B

それでも、両者の類似性を考えると『家康はこの物語のことを知っていて、
その上で自分も同じことをしようと考えたのではないか』
と解釈するのが妥当であるような気がするんです。
つまり、自分は手を汚したからこそ、手の汚れていない者に政権を渡して、
悪い因縁を断ち切ってしまおうという魂胆ですよね。
そういう観点でこの作品を見直すと、色々と興味深いのではないかと思います。
因みに偶然というか、この録画は12/26の晩に
NHK教育テレビで再放送されるようですから、
ちょうど良いタイミングになったかもしれません。(^^;)
(続く)

10 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2004/12/25(土) 20:48 [ 35.net220148224.t-com.ne.jp ]
(続き)
それでついでに、このスーパー歌舞伎の位置付けについて、
ひとくさり考察してみようかと思うんです。
実は、猿之助(えんのすけ)という人は、本来の歌舞伎の方でも
色々と見応えのある作品を上演しています。
ですから、是非そっちの方もご覧になると良いと思いますが、
その本来の歌舞伎に対置されるものとして、
スーパー歌舞伎とは一体何なのか、という問題があるわけですね。

このスーパー歌舞伎では、現代の洋楽器による音楽を使いますが、
演技の方法論としては、歌舞伎の型(見栄や六方)を継承していたりして、
あくまでも、歌舞伎本来の荒事的な方向性の延長という感じなんですね。
実は、歌舞伎には他にも様々な流れがあって、
それぞれの流れが継承されて現代に至っている分けですが、
このスーパー歌舞伎は、ある意味で歌舞伎の本流であるところの
荒事の正統的継承者とも言えるんじゃないでしょうか。

というのも、明治以降に作られた作品の中には、歌舞伎とは名ばかりで
ちっとも歌舞伎らしく無いものが決して珍しくないからなんです。
例えば、真山青果作の『頼朝の死』なんていう演目は私に言わせれば、
にせ歌舞伎というかね、歌舞伎の風上にもおけない作品という気がします。
何故かというと、この作品は女形を使っている点を除けば、
新劇でもそっくりそのままやれる内容だからなんですね。


その上、この作品には歌舞伎固有の様式美がカケラもないですからね、
歌舞伎を良く知らない人に誤解を与える危険があるという意味で、
本物の歌舞伎にとっては大迷惑とすら言えると思うんです。
他にも『活歴』とか、この手のインチキ歌舞伎が少なくない分けですが、
仮に、こうした作品群を後世に残すとしても、私は、
少なくとも『歌舞伎』という名を使って欲しくないと思いますね。

その点、新三国志では、火芸・水芸に中国の京劇まで取り込んでの
大がかりな立ち回りがありましたが、人によっては、
京劇を持ち込むのは歌舞伎らしくないと感じるかもしれません。
でも実を言うと歌舞伎というものは、その過去において能・文楽を始めとする
あらゆる要素を貪欲に取り入れて来た歴史がある分けですね。
ですから、歌舞伎の本家筋とも言うべき京劇まで取り込んだとしても、
それ自体は決して『歌舞伎的でない』とは言えないと思うんです。

ただそれでも、こうしたスーパー歌舞伎というものが猿之助の死後、
歌舞伎の演目の一つとして取り込まれ、受け継がれて行くのか、
それとも平成時代の一変種として歴史に記憶されるに過ぎないのか、
その辺のことは今の時点で判断を下すのは早過ぎると思います。
ただ、歌舞伎の伝統を打ち破る為のこうした試みが、
本来の歌舞伎の方にも様々な刺激を与えているという意味で、
少なくとも猿之助の功績は残るんではないでしょうか。
(完)

11 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/01/03(月) 12:09 [ 115.net220148247.t-com.ne.jp ]
  ★★★梟の城(☆☆☆−)★★★

先ず感じたのは『現代の我々は江戸時代の風景などを、
元の実像に近い形で楽しめるようになったんだなあ』という感慨でした。
無論、CGの発達により昔の風景を苦もなく再現できるようになったお蔭ですが、
例えば、城のたたずまいとか、美的には素晴らしかったと思います。
但し、冒頭で騎馬の大群が伊賀忍者の里を襲う場面のように、
動的な画像では、まだまだCGであることがバレバレですけどね。(^^;)
(因みに『梟の城』の梟(ふくろう)とは忍者のことだそうです。)

それはともかく、篠田正浩監督の映像は例によって重厚ですが、
今回の作品は物語としてはもう一つ、という感じがしました。
ひょっとすると、CGを使いこなすことに精力を取られ過ぎて、
本来の物語に注ぐべき力がそがれたのかもしれませんね。
例えば、終盤で『秀吉暗殺の為に忍び込んだ忍者が結局、
殺すのを思いとどまる』という所は例のHEROとも似てますけど、
ここの部分の二人のやりとりなんか大甘ですからね。

物語の本筋としては『信長に焼き討ちされた伊賀忍者の生き残りが、
武家政権への復讐を試みる』という展開に
家康による秀吉暗殺計画が絡むという話なんですけど、
それによって一体何を表現したいのか、が良く分かりませんでした。
どこまでも復讐に生きる者(葛篭重蔵=中井貴一)と
体制に取り入って出世を目指す者(風間五平=上川隆也)の確執ということで、
強いて言えば、この時代の忍者の生き様を描いたのかもしれませんが、
現代人から見ると『だから何なのか』という気がしますよね。

12 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/01/06(木) 11:36 [ 49.net220148245.t-com.ne.jp ]
  ★★★母の眠り(☆☆☆+)★★★

1998年のアメリカ映画で、その題名に引かれて見たんですが、
母親がガンで死ぬ時の介護と安楽死に伴う問題を扱ってました。
まあ、今日では少しありふれたテーマという気もしますけど、
それでも色々考えさせられることが多かったです。

結局、末期ガン患者の死を前にして、それでも尚、
死を一日延ばしにすることしか考えられない社会というのは、ある意味で、
『文化的な成熟度の低い社会』と言われても仕方ないのかもしれませんね。
というのも、どういう生き方をしようが必ず訪れる死というものに対して、
普段からキチンと向き合って生きていないから、こうした事態になると、
ただひたすら死を忌避することしか出来ないんだろうと思います。

逆に、もし死の不可避性ということを普段から良く考えているなら、
確実に訪れる死に対して『無闇に生を引き延ばすことよりも、
もっと大切なことがある』という点に気付くはずだと思うんですね。
そして、そういう人には又、人生の貴重さや日々の大切さが分かるから、
やたら欲望に振り回されて、すさんだ人生を送る危険も減ると思うんです。


もう何年か自殺関係の掲示板と付き合って来たんですけど、その中で、
私の死生観は自殺志願者によって一定の影響を受けたような気がします。
無論、彼らの言い分を全て認めることは出来ないんですけど、
逆に言うと『今の表側の世の中が、生というものに対して
余りに無条件に肯定的であり過ぎる』という点に危惧を感じるんです。

この映画なんかでも、安楽死の真相を突き止めようとして、
検事なんかが色々と探りを入れて来る状況を描いてますけど、
あと数カ月で確実に死ぬという病人に関して、果たして
そこまで安楽死の事情を詮索することに意味があるんでしょうかね。
世の中にはもっと優先すべき大切なことがあるように思います。

これは孫引きになるんですけど、死生観という意味では、
少し前の『歌舞伎素人講釈』メルマガに興味深い引用がありました。
  http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000057141
  『芸能の本質は「決定的なことが繰り返され得る」といふところにある。
  だからそれはウソなのである。先代(七代目)幸四郎の一世一代の
  「勧進帳」といへども少なくともその月二十五回は繰り返された。
  「葉隠」の著者が芸能を蔑んだのは多分このためであり、
  武士があらゆる芸能を蔑みながら、能楽だけをみとめたのは、
  能楽が一回の公演を原則としていて、そこへ込められる精力が、
  それだけ実際の行動に近い一回性に基づいている、というところにあらう。
  二度と繰り返されぬところにしか行動の美がないならば、
  それは花火と同じである。しかしこのはかない人生に、
  そもそも花火以上に永遠の瞬間を、誰が持つことができようか。』
  (三島由紀夫:「行動学入門」・昭和45年)


何か、例の自決事件を彷彿(ほうふつ)とさせる内容ですけどね、
三島由紀夫にとっては、ダラダラと無意味な人生を送るよりも、
人生の最後を立派な花火で飾ることの方が大切だったのかもしれませんね。
ただ、私個人としては三島の自決にそんなに価値があったとは思えないし、
むしろ、あれもまた洗脳謀略に追い詰められた結果だろうと考えています。
その場合、彼に対する直接の圧迫があったのかどうかは良く知りませんが、
少なくとも『当時から既に洗脳支配で息苦しかった、この社会に対する
彼なりの抗議行動』と位置付けることは出来るんじゃないでしょうか。

他方、一回性という意味では、人生もまた『一回限りの舞台』ですからね。
その意味で、そうした一回性の認識からは、
『人生をもっと大切に生きよう』という意識も導かれるだろうと思います。
それは私に言わせれば、例の『日々是奇跡』ということになるんですが、
同じ無常観に立つにしても『だから、花火のような死を目指す』のか、
それとも『より充実した生を目指す』のか、ちょっとした考え方の違いで
全く正反対の価値観が導かれる点は興味深いと思います。
自殺志願者の陥り易い罠も、これとよく似た、
『ちょっとした考え違い』にあるような気がしました。

13 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/01/12(水) 19:53 [ 112.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ★★★バレエ『火の鳥』(☆☆☆−)★★★

私なんかが若い頃は、オペラといいバレーといい、
音楽として聞くことは十分に出来たんですけど、
その舞台を見る機会はほとんどなかったんですよね。
それが今では、こうしてビデオが発達したお蔭で、自由に録画して
幾らでも見られるようになったというのは隔世の観があります。
まあ、その結果、一時のオペラブームも起こったんでしょうが、
せっかく良い時代に生まれた分けですからね、
これらを見ずに死ぬ手はないと思います。(^^;)

もっとも、オペラやバレエはあくまで音楽が基盤という感じですから、
クラシック音楽に縁のない人は、退屈することがあるかもしれませんね。
特にオペラなんか、物語としては実に下らないものも多いわけで、
『音楽が好きじゃないと、とてもつき合いきれないだろうな』
なんて気のする作品も決して珍しくはありません。(^^;)

その点では、バレエの方が芸術として独立性が高いですから、
音楽とは関係なく楽しめるかもしれませんね。
他方では『最近のNHKがろくな作品をやらない』という問題もあります。
受信料の流用なんかでは大騒ぎしてるようですが、
放送内容の充実についても、もっと文句を言うべきなんじゃないでしょうか。


このビデオは、2002年9月のカナダ・ナショナル・バレエによるものでした。
演奏はワレリー・ゲルギエフ指揮のキーロフ歌劇場管弦楽団ですが、
本場の楽団にしては、音楽としての迫力はもう一つでしたね。
その舞台美術にしても、全くもの足りませんでしたが……
この場合、その音楽が与える印象から、もっとキンキラキンで
豪華なものを期待したせいがあるのかもしれません。
問題のバレエそのものにしても、驚くほどのレベルではありませんでした。
やはり何と言っても、バレエの本場と言えば第一にロシア、
第二にフランスでしょうからね、それは仕方がないのかもしれません。

ただ、そもそもバレエというものは、その音楽だけでも十分に
独立している分けですからね、後は鍛えられた肉体の表現力によって、
そこにどれだけのものを付け加えられるかが勝負になると思うんです。
そういう意味では、パントマイムといいバレエといい、
言葉を用いない肉体表現には、独特の芸術的な香気がありますよね。
特に、このバレエの場合、ストラヴィンスキーの音楽だけでも既に
十分魅惑的な分けですから、生の肉体の表現力を見たい所なんです。

ところが何と、この作品ではTV向けの演出ということで、
敢えてCGなんかを使ってるみたいなんですね。
でも、こうしたものはCGで画像を加工したりすると途端に安っぽくなって、
せっかくの肉体表現による香気が台無しになるような気がしました。
その意味で、全体の出来ばえとしては二流ですから、
☆三つにマイナスが付く分けですね。(^^;)

14 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/01/17(月) 10:54 [ 79.net220148233.t-com.ne.jp ]
  ★★★かくも長き不在(☆☆)★★★

1960年のフランス映画で、題名に聞き覚えがあって録画したんですけど、
実はこれは、翌年のカンヌ映画祭でグランプリを取った作品らしいですね。
第二次大戦中のレジスタンスか何かでドイツ軍に捕まり、
拷問されたり収容所に送られたりした結果、記憶喪失になった男がいて、
『その人物が実は、まだ帰って来ない自分の夫ではないか』
と妻が疑うという展開なんですが……はっきり言ってまだるっこしいです。

つまり、その……『幾ら記憶を喪失したとは言え、自分の夫ぐらい
一目で見分けが付かなくてどうするんだ』という感じですね。(^^;)
で親戚を呼んだりして、色々探りを入れるんですけど、
どうもフランス人というのは分けの分からない人種だと言う気がしました。
日本人なら先ず、男を浮浪者の状態から救い出すことが
何よりも優先するんじゃないかと思うんですが……
まあその辺は、他人の干渉を極度に嫌う
個人主義的なフランスの風土があるのかもしれませんね。

でも、ここにはフランスの観光名所が出て来るわけでもないし、
その上、白黒映画で目を楽しませる要素がほとんど無いですからね、
特に前半は退屈しました。そもそもが、くたびれた中年男と中年女の話ですし、
ある種の思い入れを持って見ないと面白くないのかなという気がしました。
例えば、日本でも終戦直後には、復員軍人を待つ家族という話がありましたが、
この映画も、そういう郷愁を持つ人には訴えるものがあるのかもしれませんね。


結局、この手の古い映画を選択する場合『名前が有名だから録画する』
というのが大失敗だったのかもしれません。
その点では、前に書いた『母の眠り』みたいに、
映画の題名に引かれて録画する方が失敗が少ないように思います。
無論、その荒筋位は例のgooサイトで一応チェックしますけどね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1070069570/8
そう言えば、これも最近のことで『愚か者の船』という映画を、
やはり題名に引かれて録画したんですが、
国会中継か何かにつぶされて失敗しました。
全く、NHKも困ったもんです。(^^;)

結局、こうした題名には映画を配給する者の思い入れというかね、
その映画への愛着みたいなものが必然的に込められると思うんですよね。
ですから、その題名に引かれるような映画は一応、
『見るべき映画』の候補になり得ると思うんです。
その点、間抜けだと思うのは最近の映画が、
やたら原題のカタカナ読みを題名にしたがることなんですね。

例えば、フィフス・エレメントだのシックス・センスだのセブンだの、
似たような名前ばかり付けるものだから、
私なんかどれがどれだか、区別がつきませんもんね。
大体シックスセンスなんて、原題は『The Sixth Sense』でしょ、
語呂が悪いからシックススのスをとったんでしょうけど、
これじゃ意味が通じませんよね!?
それなら、直訳で『第六感』とした方が余程ましなんじゃないでしょうか。
(続く)

15 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/01/17(月) 10:57 [ 79.net220148233.t-com.ne.jp ]
(続き)
人によっては『カンヌ映画祭のグランプリをそんなにけなしても大丈夫か』
なんて思う人もいるでしょうけどね、でもああした権威に振り回されるのは、
興行成績に振り回されるのと同様の愚じゃないかという気がします。
そうした点で言うと、日本人には本当にアホが多いというか……
例えばアメリカのアカデミー賞なんて、わざわざTV中継してますけど、
私なんか、あんなのを見て喜ぶ奴は真性のアホだろうと思ってます。(^^;)

結局、何事もね、他人がどう評価するかなんて関係ないんですよ。
直接、自分の目で見て、自分の頭と感性で判断する――それが全てですね。
でも、多くの日本人はそうした訓練が全く出来ていないというか、
自分の判断に自信が持てないものだから、
すぐ既成の権威に頼ろうとするんですね。

例えばオペラなんかにしても『三大テノール』がどうとか、
日本人は、そういうのを有り難がってすぐ飛びつく分けですけどね。
でも、私に言わせれば『誰が三大テノールか』なんてことは、
各人が自分で判断して決めれば良いことであって、
他人がどう言おうと知ったこっちゃない話であると思います。


またまた少し脱線しましたかね。(^^;)脱線ついでにもう少し言いますと、
何とか映画祭の大賞なんて、結局それほどのものじゃないと思いますから、
それをもらったからと言って大騒ぎするのも、ちょっとアホ臭い気がします。
例えば『うなぎ』なんて映画にしても、大した代物じゃなかったでしょ!?
それに最近はこうした映画祭も、ノーベル賞同様、謀略がらみみたいですから、
うっかりすると一杯食わされるんじゃないでしょうか。

例えば、北野武の『HANA-BI』なんていう映画にしても、
私には何が良いのかサッパリわかりませんでしたけどね。
あれなんか、私は一種の『ほめ殺し』じゃないかと疑ってます。
つまり、持ち上げるふりをしてけなすという、
謀略主義による日本叩きの一種ですよね。
この場合『日本人が如何に非情で酷薄な人種であるか』ということを、
ああした映画によって世界中に宣伝する狙いが合ったと考えると、
あの受賞も納得が行くような気がした分けなんです。

野沢尚さんみたいな才能ある脚本家が自殺する(消された!?)一方で、
どこからどうみても芋監督としか思えない森田芳光みたいのが、
日本では名監督扱いされているという状況も不思議でたまりません。
これじゃあ、いわゆる韓流に浸食されても当然という気がしますよね。
最近の日本は『ものを見る目』のある人物が本当に減ったという気がしますが、
まあ、全ては洗脳支配による奴隷制社会の末期症状なんでしょうね。
(完)

16 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/03/15(火) 11:33:58 [ 65.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ★★★あなたに降る夢(☆☆☆)★★★

すっかり間があいちゃいましたね。(^^;)
でも、最近はビデオなんて、とんと見る暇がなかったんですね。
この映画なんかも、全部見終わるのに三週間もかかってしまい、
しかも、見終わってから二ヶ月も経ってますからね、
もう印象が薄れてしまって、うまく書ける自信はありません。
ですから、またまた脱線が長くなるかもしれませんね。(^^;)

結局、録画するのは簡単なんですけど、ネットにかまけていると、
2時間も3時間もまとまった時間を作るというのが実に難しいんですよね。
それで一本の映画を何回にも分けて見ることは珍しくないんですけど、
それが飛び飛びになって、何週間越しになるということもある分けですね。
皆さんの場合は、一体どうしていらっしゃるんでしょうか!?
因みに、この映画は最近も民放でやってましたけど、
私が録画したのは去年、BS2でやった奴ですからね。(^^;)

多分、この映画も題名に引かれて録画したんだろうと思いますが……
最初の方を見た時は『凍える日のホットココア』なんて印象も受けました。
でも、全体を見終わった感じでは、それはちょっとほめ過ぎですかね!?
宝くじに当たった夫婦が巻き込まれる騒動を描いたアメリカ映画なんですが、
主人公たちに善意があふれている点で、ちょっとそんな気がしたんです。
ただ、最後に寄付が集まる所なんかは、完全な蛇足という感じですね。
つまり『そんなに大金がなくたって、人間は十分幸せになれるんだよ』
という展開のまま終わった方が良かったんじゃないかと思うんです。


更にケチをつけると『たまたま宝くじに当たる』
なんて偶然がそうそうある分けではないですからね。
『現実的には、なんの救いにもならない』という点で
例の『夜逃げ屋本舗』と良く似てるような気がしました。
あの場合『悪徳金融に追い詰められた人々を、
夜逃げによって救い出す』商売を描いているわけですけど、
現実に借金苦に追い詰められている人から見たら、
こんなに無責任なドラマはないだろうなあと、
私なんかずっと思ってましたからね。

つまり、実際にサラ金に追い詰められて一家心中する人もいるという時代に、
こんな気休めの映画やドラマを作って一体どうするんだというかね……。
その完膚無きまでの展望のなさというか、
現実に対処する上での見事な無能さというか、
そうしたことに無性に腹が立ったんですよね。

まあ、ある意味で、今のような赤犬支配の奴隷制の時代には
似つかわしいドラマだったのかもしれませんけどね。
問題のサラ金なんか、未だに『ご利用は計画的に』なんてほざいてますけどね、
でも『そもそも計画的な人間の誰が、お前らみたいな高利貸しから
金なんか借りると思ってるんだ、寝ぼけたことを言ってんじゃねえ!』
なんてお考えになりませんかね、皆さんは。(^^;)


結局、この映画の場合も、宝くじの件は単なる話の切っかけであって、
『人生は金じゃないんだよ』というメッセージを届けたい、
というんだったら辻褄は合う分けなんですけどね。
何しろ今は『人生、金で手に入らないものはない』なんてほざく、
どこかのアホ社長みたいな人間がざらにいる時代ですからね、
そうした歪みへの毒消し効果があったはずなんです。
でも、最後に気球が飛ぶシーンで『NYには夢があふれている』とか出て、
その夢というのが宝くじのことだとすると何ともわびしい話でしょ!?

ごく一部の大金持ちやスポーツ選手は、使い切れないほどの大金を得る一方、
競争に破れた大半の庶民の夢は宝くじだけだなんてね。
そいでもって、ついこの間はマイクロソフトの社長とか、
大金持ちが数人集まって『皆さん貧しい国に援助しましょう』
とかほざいてましたよね。でもハッキリいって私は、
チャリティーだの義援金だのというのは大嫌いなんです。

例えば、どこかの局では毎年、24時間TVなんてのをやってますが……
あんなのに感動して涙を流す奴が本当にいるんでしょうかね!?
私には信じられませんが……。
むしろ、私なんかああいう番組を見ると反吐がでるというか
吐き気がするので一切、見ないようにしているんです。
ああいうのは偽善の固まりというかね、自己満足の典型ではないんですか!?
(続く)

17 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/03/15(火) 11:54:55 [ 156.net059086097.t-com.ne.jp ]
(続き)
この映画で最後に寄付金が集まる所なんかにしてもそうですけど、
結局、皆さん、TVや新聞が報じたことには敏感に反応する分けですよね。
つまり『たまたま目に入るように仕組まれたこと』には反応する分けですけど、
現実の悲惨というのは、その何百倍・何千倍あるに違いないわけでしょ!?
でも、取りあえず自分の目に触れないものは、すぐ忘れる分けですから、
ああ言う番組にだけ反応するのは、一種の免罪符なんでしょうね!?

もう暫く前のことですけど、黒柳哲子という俳優がアフリカに出かけて、
やせこけた黒人の子供を抱き『皆さん支援をお願いします』
とかTVで呼びかけた分けですが、あの時は結構、反発もあったようで、
『自分は豪邸に住んでいて、うさぎ小屋の庶民に呼びかけるのは
何か違うんじゃないか』という批判がありましたよね。

今回のマイクロフソトの社長にしても、事情はそれと良く似てますよね。
結局、現実社会における大き過ぎる格差を放っておいて、
都合の言い所でだけ慈善とかチャリティーを叫ぶというのは、
何か狂っているというか、ひどくバランスが悪いんですね。
『庶民に支援を呼びかけるんだったら、先ず自分が身ぐるみ裸になって、
それからにしたらどうなんだ』というかね、
そういう発想は、決して間違っていないだろうと思うんです。


例えば、この間のインド洋津波では、世界中から援助が集まりましたけど、
それと同時に寄付金詐欺というのがあったらしいですね。
すると『人の不幸に付け込むとは、なんというひどい奴らだ』と
腹を立てる人もいるでしょうけど、私の考えは少し違うんですね。
確かに、世の中には、他人に援助するだけの
金の余裕・心の余裕を持つ人も少なく無いのかもしれませんが、
逆に、人に援助するどころではないという人だって多いわけですよ。

無論、どこかのホームレスが津波の義援金を出したなんて話からすれば、
それは例の『仁欲バランス』の問題に行き着くのかもしれませんが……
それだけでは済まないんじゃないでしょうか。
つまり『自分がどんなに惨めな状態にあっても他人への思いやりを忘れない』
というのは、この上もなく立派な心がけに違いないですが、全ての人に
そんな聖人のようなことを期待するのは所詮、無理なんですよね。
結局、競争社会とかいって、所得に大差を付けられている世の中では、
他人への『仁』よりも自分の『欲』に捕らわれざるを得ないわけで、
その結果として、寄付金詐欺を考える連中も出て来るということなんですね。

確かに悪いことは悪いんですけど、社会が競争一辺倒に歪んでいるから、
こうした寄付金詐欺なんていう現象も生まれるに違いないんですよね。
ある意味で、援助されるべき人々は国内国外を問わずごまんといる分けだし、
『津波にあってたまたま注目された人にだけ援助する』というか、
『たまたまマスコミが報道したから寄付をする』
という行動原理がどこか間違っているんじゃないでしょうか。


結局、赤い羽根募金なんかにしてもそうなんですけど、この手の寄付は、
ある意味で、相手の為というよりも自分の自己満足の為なんでしょうね。
そうすることで、少なくとも暫くの間は
『自分が良いことをした』という満足感に浸れるわけですよね。
まあ、そうした募金活動で世の中の空気が少しでも柔らかくなるんなら、
決して非難すべきではないのかもしれませんが……。

でも、真の問題は基本的な分配をどうするかという点にあるわけで、
その点をなおざりにしてチャリティーがどうたら言っても
近視眼的な自己満足に過ぎないだろうし、もしそれが、
より根本的な問題の解決から目をそらす為の役割を果たしているとすれば、
偽善と言われても仕方がないんじゃないでしょうか。

ならば、一体どうすればいいんだという話になりますが、私としては、
その意味でも例の根税制を、是非とも実現すべきだと思う分けです。
……こうして何とか我田引水のオチが付いた所で、
脱線はこれまでとしたいと思います。(^^;)

18 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/03/20(日) 11:26:36 [ 165.net220148239.t-com.ne.jp ]
  ★★★ボーリング フォー コロンバイン(☆☆☆)★★★

私の趣味として、米国映画を続けて見るのは避けたかったんですけど……
沢山ため込んだヒデオの中から今回、敢えてこれを選んだ理由というのは、
他でもなく、最近の日本で不可解な暴力事件が続発したからなんですね。
例えば、いきなり幼児の頭にナイフを突き刺した氏家の事件とか、
自分の出身中学に乗り込んで教師達を殺傷した少年の事件がありましたよね。

マイケル・ムーア監督と言えば、イラク戦争に関する『華氏911』
というドキュメンタリ映画で最近も大騒ぎしたばかりですが、
この映画は、米国の高校で起こった銃乱射事件に関して
その前、つまり2002年頃に作ったドキュメンタリ映画らしいですね。

で、私にとっての興味の中心は一体ここで、
彼がどんな分析をしているかということだったんですが……
ちょっとガッカリしました。残念ながら、この人は必ずしも、
問題を分析するのが得意ではないのかもしれませんね。(^^;)


例えば、この映画の多くの部分が銃砲規制問題に割かれていますが、
実は、映画の別の部分ではそれがハッキリ否定されている分けですよね。
つまり、カナダでは、米国同様に銃が氾濫しているのに、
銃による殺人は決して多くはないということが暴露されていました。

まあ『銃がなければ、銃による殺人は起り得ない』のは事実なんですが、
その代わり、庖丁で幼児の頭を突き刺す奴もいるわけですからね。
その意味で『銃を無くす』なんていう発想は完全な対症療法であって、
問題の本質から目をそらすことにしかならないような気がするんです。

無論、日本みたいに銃がなくても済む国であえて銃を増やす意味はないですが、
米国にはそれなりの歴史がある分けですからね。
チャールトン・ヘストンばかり悪者のように描いてますけど、
そういう歴史のある国で無理やり銃の規制に話を持っていくのは、
何か、問題をややこしくしているだけではないんでしょうか。


前述した通り、カナダのように幾ら銃があっても、
何の問題も起こってない国がある分けですね。
それで、最後の方では『米国とカナダでは一体何が違うのか』
なんてヘストンを問い詰めたりしてましたけどね。
私に言わせるなら、米国において銃の氾濫がもたらす問題というのは、
大体、三つ位に分けて考えるべきだろうと思うんです。

第一に、米国特有の貧富格差がもたらす通常犯罪で使われる銃、
第二に、私がいつも言ってる『洗脳迫害』に伴う事件で使われる銃、
第三に、子供等による事故で使われる銃、この三つですよね。
最近も、米国では4歳の子供が2歳の妹を銃で撃つ事件がありましたが、
これなんか、子供同士のいさかいとは言え、事故の範疇でしょうね。
それに対し、大都市で頻発する銃による殺人は通常犯罪の範疇ですが、
問題のコロンバイン高校の乱射事件は、典型的な洗脳事件だろうと思います。

で、事故の場合は『親がどう銃を管理するか』という技術的な問題ですからね、
これはまあ、そんなに難しくない問題だろうと思うんです。
他方、通常犯罪は米国社会の貧富格差を減らせば多分、激減するでしょうね。
つまり、カナダの社会が安全なのは、カナダのような福祉国家では、
貧富格差が少ない為であるということが十分に示されていました。
よって、最後に残るのが洗脳事件ということになるんですね。
(続く)

19 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/03/20(日) 11:36:59 [ 165.net220148239.t-com.ne.jp ]
(続き)
その場合、カナダとの違いはどうなんだということになりますが……
私の考えでは、やはり米国というのは『ユダヤ主義によって
最も深く支配された国』だろうと思うんですね。
その意味で、米国は世界の他のどの国よりも特殊な存在なんですね。例えば、
幾ら一般犯罪が多くても、米国が本気で貧富格差を減らそうとしないのは、
『貧富格差を広げて共産主義への渇望を作り出す』という例の狙いとは別に、
洗脳に伴う銃乱射事件を目立たなくする目的があるのかもしれませんね。

(もう一つカナダとの違いを上げるとすれば、
ロシアやカナダのように寒い国では、
ある種のガスを使った洗脳が非常に有効なんですよね。
ここでは詳しく触れる余裕はありませんが、相手を消耗させたり、
不安に陥れたりするガスがあることを私は知っています。
日本みたいに比較的に暖かい国と違って、こうした寒い国では
ほぼ一年中、窓を閉め切って暮らす以外にないですからね。
その意味で、奴らが使うガスには全く無防備な分けで、
それで洗脳が楽な分、銃の乱射に至ることは少ないんだろうと思います。)

ですから、この問題は『世界を覆う赤犬支配と奴隷制度』に行き着くわけで、
こればっかりはユダヤ支配の現状を覆さない限り、どうしようなもないですね。
その意味で、今の洗脳社会の実体を少しでも多くの人に知らしめて、
暗躍する洗脳マシンを止め、ユダヤ主義を倒す以外に道はないんです。
その為にも、皆さんの協力が決め手になると思うんですが……
どうもネットというのは意外にまだるっこしくて、
中々真実が浸透しないのでやっかいですよね。


これは余談になりますが『米国とカナダは共に北米大陸にあって、
アングロサクソンが造った国である』という点で、日本から見ると両国は
何か似たような印象があり、区別が付かない人も多いと思うんですね。
それで一つ思い出したんですが……昔、北米を貧乏旅行していて、
ナイアガラを通った時に、両者の差を痛感したことがありました。
ナイアガラの滝といえば有名な観光名所ですから、
最近では行ったことがある日本人も少なくないだろうと思いますが、
私が見た時は少しガッカリしたんですよね。

というのも、写真などから受ける印象としては、
とても巨大な滝だろうと想像していたんですが、
実際に行ってみると案外ちっぽけなんですね。
川幅もまあ、大した広さではないですからね、
その上流に橋がかかっていて、向こう岸に行けるわけです。
それで向こう岸はもうカナダなんですが、
パスポートを見せるだけで、簡単に通れたように思います。

で、向こう岸を暫く散策して別の橋を渡って戻ったんですが、
この時の両岸の風景の違いが実に印象的でしたね。
カナダの側はうっそうと木々が繁っていて、
その中に家が散在しているという感じで、
日本で言うと、例えば軽井沢みたいな風景に近いでしょうかね。
それに対し、米国の側をカナダから見渡すと、
何か平原に殺風景な倉庫みたいな建物が幾つか散在していて、
例えば西部劇を連想させるような風景なんですね。
この落差は、両者の文化的な違いを象徴しているように感じました。


さて、それで少し日本の事件にも目を向けてみようと思うんですが、
例えば、氏家のケースでは刑務所から出たばかりだったという分けで、
『出所の基準を厳しくしろ』とか言う意見が多かったようですね。
でも、実を言うと、彼が服役した罪というのは、
住居の不法侵入と自転車泥棒だったんですよね。

だから『凶暴な犯罪者を野放しにするから、こんな事件が起こるんだ』
みたいな言い方は、この事件に関する限り通用しないんです。
結局、この手の罪状は、いわゆる別件逮捕で警察が良く使う手口でしょ!?
つまり、何か怪しい奴がいて、直接つかまえて取り調べたいという場合に、
切っかけは何でも良いから、軽犯罪法で引っかけて拘置する分けですよね。

この事件なんかを見ていると、何か洗脳迫害に警察も一枚噛んでいて、
この手の別件逮捕の手口までも、洗脳に利用しているような印象を受けました。
つまり、警察までグルになって追い詰める分けですからね、
後は、追い詰められた男の爆発寸前の怒りが、
何かのほんのちょっとした切っかけで暴発するという分けですよね。
(続く)

20 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/03/20(日) 11:41:23 [ 165.net220148239.t-com.ne.jp ]
(続き)
他方、寝屋川の教師殺傷事件に関して言えば、話は簡単ですよね。
これは、既に死刑になった宅間守の事件とそっくりですからね。
背景にあるのが『学校でいじめられたことへの恨み』とか言いますが、
その裏に隠されているのは当然、洗脳迫害だろうと思います。
多分、周囲の児童に教師も加担した嫌がらせがあったんでしょうね。

それから、中津川の家族五人殺しというのも衝撃的でしたね。
この場合、犯人に対する周囲の評判が余りに良いので、
洗脳迫害との関わりはもう一つ読みにくいんですが……
やはり、周りから何らかの圧迫があったんじゃないでしょうか。

家族の事件と言えば、少し古くなりますけど去年の11月頃にも、
水戸で19歳が両親を殺し、翌日には土浦で28歳が両親と姉を殺す
という事件が立て続けに起こったことがありましたよね。
この手の家庭内の殺人というのは、表面的な動機がどうあれ、
やはり洗脳迫害と解釈する以外にないだろうと思うんです。


まあ、今の社会では、まるで、
こうした問題をじっくり考える余裕を与えないかのように(!?)、
次々と大きな事件が起りますからね、皆さんすぐ忘れるわけですけどね。
最近も、フジTVとライブドアの一件で大騒ぎしてますが、そんなことよりも、
むしろ、こうした事件の背景にしっかりと目を凝らしていないと、
謀略の思う壺にはまるんじゃないでしょうか。

再び映画に話を戻しますと、この映画でも例の911事件の話が出て来ますよね。
その時、ふっと気付いたんですが、911と言えば米国における110番でしょ!?
つまり、日本では警察の電話が110番ですが、米国では911番なんですね。
実を言えば、当初この事件のことを英語ではSept.11とか呼んでいて、
それで私の英文サイトでも、そう表記している分けですが……
いつの間にか、更にそれを簡略化した表現として911が定着したみたいですね。

でも、こうなって見ると、あの事件の謀略性がますます際立ちますよね。
よりによって、9月11日にあの大事件ですからね、
偶然にしては出来過ぎていると思いませんか、皆さん!?
実をいうと、この種のやり口はユダヤ主義の常套手段みたいですね。
つまり、わざと怪しげな状況を大量に作り出しておいて、
謀略の真相を見えにくくするという手口があるんですよね。


この件については、既に時事放談の方でも書いたんですが、
そこで『ブッシュ親子の自作自演』という言い方を否定した点に関して、
少し補足しておこうかと思うんです。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1069408696/64-66
つまり、いくらなんでもブッシュ大統領自身が、
『あのテロを事前に知っていた』なんていうことはあり得ないんですよね。
というのも、いつも言う通り、今の先進国の指導者は、
大半が洗脳されていて、共産主義に操られている分けですが、
彼らは主観的には、あくまで『共産主義で世界を良くしよう』
と考えているに違いないんですね。

何故なら、人間を操ることが出来るのは、
たとえ、それがどんなにインチキなものであるにせよ、
あくまで、そうした『理想主義』だからなんです。
ですから、いくら相手がロボットであるとは言っても、
あんなテロを意図的に見逃すような命令は下せるはずがないんです。
むしろ可能性があるのは、色々な口実を儲けて、結果的に、
当日の防空体制がお粗末になるような状況をつくり出した、
ということでしょうね。実際には、多くのロボットを動員して
当日のテロが成功するような条件を作りだした分けでしょうが、
その時の人員配置などでは、大統領の所に命令が行った可能性はありますよね。
ただ、自分がやらされたことと実際の事件との因果関係は、
個々のロボットには簡単に分からないようになっているに違いないんです。

あそこで引用したブキャナン論文には『文明の衝突と戦争を願っているのは、
オサマ・ビンラディンとシャロン(イスラエル首相)とネオコンの三者である』
とか書いてありましたけど……
この三者が裏でつながっているという可能性は十分あり得るでしょうね。
それは無論、この三者が直接連絡を取り合っているという意味ではなくて、
巨大な謀略の歯車として、別々に操作されているという意味ですが。
まあ、この辺の詳しい話は、折を見てもっと系統的に整理し、
キチンと話したいと思うんですが……いつになりますやら。(^^;)

21 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/03/27(日) 10:13:47 [ 171.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ●●●AKIRA(1988)☆☆☆−●●●

外国で有名になったアニメだと言うので、
少し気になって録画したんですけど……
それほどのものなんでしょうかね!?
ストーリーが分かりにくいのも難点ですし、
人物描写が中性的で(声を聞くとかろうじて女とわかるんですが)
姿を見ただけでは男か女か区別がつかないのも困りものでした。(^^;)

ネオ東京とか言う設定が外人受けしたのかもしれませんけど、
『この映画で一体何を訴えたいのか』ということが
ハッキリとは伝わってきませんでしたよね。
それにアニメというジャンルは何といっても、
絵の美しさがかなり重要な要素を占めると思うんですが、
その点でも、余り見るべきものはありませんでした。

私はアニメ作品も結構見ていますけど、画面の美しさという点では、
やはり宮崎駿の作品が一頭地を抜いていると思います。
因みに、その宮崎作品では何といっても
『風の谷のナウシカ(1984)』がベストでしょうね。
テーマもしっかりしているし、絵と音楽も良かったですから。


このナウシカは私が五つ星を付けた数少ない映画の一つなんですが、
ただ、同じ五つ星の中のランクとしては必ずしも高くないんですね。
何故かというと結局、そのテーマに独創性が足りないというか……
つまり『自然と環境を大切にしよう』なんていうメッセージは、
余りにあり触れているでしょ!?
奴隷マスコミも散々言い散らかしてますしね、
なにかそういう風潮に迎合するかのような姿勢が気に入らないんです。

それに主人公として活躍するのが、
やたら強い少女という設定も、少し引っかかりました。
結局、近年の洗脳社会では、男には全く覇気がなくて、
『元気がいいのは女とオカマばかり』という状況でしょ!?(^^;)
ですから、少し少年を元気づけるような作品があっても良いと思うんですが、
少年のヒーローとしてはせいぜいクレヨンしんちゃん位ですからね、
これじゃどうにもなりませんよね。(笑)
その意味でも、謀略に寄り添うみたいなナウシカの姿勢は嫌なんです。

それなら、文句無しに良かった作品は何かというと、
アニメでは、りん・たろう監督の『銀河鉄道999(1979)』が最高でしたね。
  http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD19007/comment.html
もう大分古い作品なので、映像としての美しさはそれほどでもないし、
宇宙の果てに向かってどこまで旅をしても、行き着いた所では、
ちゃぶ台の上で箸と茶碗で飯を食っていたりする点なんか笑えました。(^^;)
まあ、それが人間の想像力の限界というものなんでしょうけどね。
でも、この作品がすごいのは、その哲学の独創性なんですよね。
その意味では、真の功績は映画監督よりも、
原作者の松本零士に帰するのかもしれませんね。


昔の中国人が不老長寿の薬を求めて東海の島を目指したように、
ここでは永遠の命を求めて宇宙の果てへと旅をする分けですが、
結局、最後にたどり着いたアンドロメダで、主人公の鉄郎は、
『人間は必ず死ぬ存在だから、他人に優しくできるんだ』
ということに初めて気が付く分けでなんすね。
世界広しと言えども、こういうことを言った人は、
恐らく他にいないんじゃないでしょうか。

裏返して言うと『もし不老長寿の薬なんかを手に入れたとしたら、
人間という生き物はひどく傲慢で手のつけられない存在になるんじゃないか』
と、そういうメッセージが込められていた分けです。
結局、アニメという媒体は、ある意味で、
哲学を語るのに適しているのかもしれませんね。
つまり、その映像に生身の人間が出て来ない分だけ、
より観念的な内容を表現するのに向いているような気がするんです。

で、このテーマは私のサイトで取り上げた『悟るとはどういうことか』
という問題にも深く関わって来るように思うんですね。
何故なら『確実な死に向かって生きる存在』
としての自分のありようを深く考えた時、初めて、
他人との比較で日々あくせくして苦しんでいることの愚かさが、
ハッキリ見えて来る分けですからね。
その中で『欲望追究の為に他人を押しのける』ことの愚かさが分かれば、
もっと他人を大切にする、より良い生き方が出来るんだろうと思います。
(続く)

22 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/03/27(日) 10:16:51 [ 171.net220148175.t-com.ne.jp ]
(続き)
で、五つ星の作品が出たついでと言うわけで、この際ご参考までに、
今までに私が五つ星を付けた映画を、列記してみようかと思うんです。
無論『せめて、これくらいは全部見てから死んでください』という
自殺志願者向けのメッセージも込めている分けですが。(^^;)
その総数は、十指に余る位しかなかったと思うんですが、
幾つか忘れて、抜け落ちている可能性はあります。

先ず、日本映画では何といっても黒沢明の『羅生門(1950)』ですね。
これはまあ、私が言うまでもなく有名すぎる映画ですが、
『真実の存在の仕方』という点で実に深い問題を提起していると思います。
それから、小津安二郎の『東京物語(1953)』も良かったですが……
これは四つ星だったかもしれません。
この映画はテーマ性という点では大したことはないんですが、
何か日本の古き良き時代を映像として定着させたという功績があるでしょうね。

他方、外国映画では先ず『猿の惑星(1968)』と
『エレファントマン(1980)』ですかね。
共に、差別の問題なんかがテーマだったと思いますが……
ただ差別云々に関しては、最近の謀略分析の中で、私の見方も
少しづつ変わって来ましたから、今見たらまた別の評価になるかもしれません。
でも、猿の惑星なんか、結末を知って見ていても、
最後の自由の女神像は衝撃的でしたからね。
そう言えば、最近のリメーク版も既に録画してあるんですが……
暇がなくて、まだ見ていません。(^^;)
見た時は、また書くつもりですが……でも、
前作の印象が良すぎますからね、多分がっかりするだろうと思います。


それから、特殊な病気を題材にした『レナードの朝(1990)』は、
生きるとはどういうことかを考えさせる点で傑作だったと思います。
同様に、生きることの意味を深く考えさせるという点では、
『ネバーエンディング ストーリ(1984)』や
『コクーン(1985)』なんかも印象に残ります。
前者は外国製のアニメで虚無の問題がテーマでしたが、
後者では、また不老不死のユートピアが出て来ます。

コクーンと同じロン・ハワード作品では
人魚との恋を描いた『スプラッシュ(1984)』も印象的でしたね。
他に、近年のもので印象が強い作品としては、
サタジット・レイの『見知らぬ人(1991)』や、
テオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳(1996)』も忘れられません。

前者は哲学談義が好きな人にはお勧めですね。
やはり、インドは哲学の国です。(笑)
後者はかなり前衛的な作りで、筋を追おうとすると疲れますから、
いわゆるフィーリングで楽しむべき映画ですが、
ずっしりと重たいものが残ると思います。

23 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/04/04(月) 13:12:43 [ 149.net220148238.t-com.ne.jp ]
  ●●●覇王別姫・さらば我が愛(1993)☆☆☆−●●●

中国で京劇の俳優たちが時代の流れに翻弄されるという展開の香港映画で、
日本軍の侵略や文化大革命の混乱など色々な歴史背景が描かれます。
京劇俳優の子供時代の猛訓練や男色の話に始まって、
女形が男役の現実の女に嫉妬するという展開の前半は、
京劇に特別な思い入れがない人は、少し退屈するかもしれませんね。
ただ、終盤の文化大革命で互いに相手を裏切る所はすごかったです。(^^;)

結局の所、最後にはそのせいで女形が自殺するらしいんですが……
裏切りから相当後の事らしいので、事情がよく飲み込めませんでした。
例の『人生は琴の弦のように』の陳凱歌の作品ということで、
少し期待して見たんですけど、出来はもう一つでしたね。
やはり、前作のような明快なテーマがなかったのが大きいと思います。

で、念の為、その前作の方の説明をざっとしておこうと思うんですが、
そこでのテーマというのは結局『人間に生きる希望を与える為ならば、
嘘を付くことも許されるのか』ということだったと思います。
『琴の弦を1000本弾き切ったなら、目が見えるようになる』
という話を信じて、盲人が一生涯、努力し続けるという展開なんですが、
最後にどうなるかは、見てのお楽しみということにしておきましょうね。


で、このテーマをどう解釈するかということなんですけど……
私は、ここには共産主義への痛烈な皮肉が込められているように感じました。
つまり、共産主義の場合も『革命を起こして私有財産を廃止すれば、
理想社会が来る』とかいう夢を語る分けでしょ!?
で、仮にその夢が真っ赤な嘘であるにせよ、共産主義を信じて生きる連中は、
その為に一生を捧げて生きれば、それなりに幸せな人生になる分けですよね。

盲人の場合は結局、1000本の弦を弾ききって結果を知るわけですが、
共産主義の場合は、その結果を知らずに死ぬことも多いですからね、
そうなると、まことに幸せな人生とも言えるんじゃないでしょうか。
私に言わせれば、それは全く、はた迷惑な人生である分けですけどね。
つまり、奴らは自分の『絶対的に正しい理想』の為なら、
他人に暴力を振るっても構わないと思っている分けですが、
暴力を振るわれる方は、たまったもんじゃありませんよね。
その点で、共産主義はオーム真理教と良く似ていると思います。

私からすれば、そんな理想が嘘っぱちに過ぎないことは
もうとっくに結論が出ていることだろうと思うんですが、
残念ながら、世界には今尚それを信じるロボット連中が大量にいて、
そいつらが世界を牛耳っているというか……例の悪魔(ユダヤ主義)が、
そいつらを使って世界を奴隷支配している分けなんですね。


そうした状況を考えると『人間に生きる希望を与える為なら、
嘘を付いても構わないのか』という問いは極めて現代的だろうと思うんです。
まあ、共産主義以外に希望がないというなら話はまた別ですが、
実際にはそうではないですからね。

因みに、この映画の冒頭シーンなどでは、
安物の塩ビ製の幕が使われていたりして少しがっかりしますが……
これを作った頃(1991年)は、中国もまだまだ貧しかったんでしょうね。
でも、黒沢の羅生門にしても余り金を使っている節はないですし、
映画の価値というものは、かける金とは関係ないんじゃないでしょうか。

それよりも、この映画の見所の一つは中国奥地の滝の風景なんですね。
黄河の源流地帯らしいですが、広い中国には桂林なんかとは別に、
まだこんな絶景があったのかとびっくりしました。
この風景だけでも、一見する価値のある映画だろうと思います。

24 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/04/09(土) 09:30:39 [ 110.net220148246.t-com.ne.jp ]
  ■追記■
前回、ひとつ書き落としたことがありました。(^^;)
つまり、題名にもなっている『覇王別姫』に関してなんですが、
無論、これには有名な四面楚歌の逸話がある分けですよね。
垓下の戦いで漢の劉邦が楚の軍隊を包囲した時に、一計を案じて、
わざと包囲した漢軍に楚の国の民謡を歌わせる分けです。

それを聞いた楚王の項羽は『自軍が既に漢に投降した』
と思い込んで自決するという展開でしたよね。
それで『孤立無援で周り中が敵ばかり』という
私みたいな状況(笑)を日本では四面楚歌と言う分けです。

でも……昔、この話を聞いて以来ずっとひっかかってる疑問なんですが、
仮に、この計略が見抜かれて失敗していたとしたら、
果たして、楚王にはまだ勝ち目があったんでしょうかね!?
この話の面白さが際立っているばっかりに、
その辺の実体的な分析は、おろそかにされているんでしょうか。


で、最後の場面に例の有名なせりふがあるわけです。
  http://marute.co.jp/~hiroaki/ginnei/gaikanouta/gaikanouta.htm
  力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う。時に利有らず、騅(すい)逝かず。
  騅の逝かざるを奈何(いかん)すべき。虞(ぐ)や虞や若(なんじ)を奈何せん。
  (かって私の兵力は山をも突き通し、私の気迫は世界をも覆うほどであった。
  しかし、今や形勢不利となり、私の乗馬・騅も動こうとはしない。
  騅が動こうとしないのに、私は一体どうしたら良いだろう。
  虞姫よ虞姫よ、私の愛するお前を一体どうしたら良いだろう。)

この場面で『乗馬の騅が動かない』という点を、日本では、
『攻めるにしても逃げるにしても、疲れ果てた馬が言うことを聞かない』
つまり『自分が乗った状態で馬が動かない』と解釈していたと思うんです。
ところが、この映画の中で演じられる京劇では、
『自分は自決する覚悟ができたが、愛馬だけは助けてやりたい。
その為に、馬の尻を叩くのだが馬も自分を慕って動こうとしない』
という風に解釈していたんですよね。

確かに『時に利有らず、騅(すい)逝かず』という前からのつながりからすると、
日本流の解釈の方が自然のようにも思えます。でも、
本家の中国人がそう言うのなら、やはりそっちが正しいのかもしれませんね。
と言うのも『虞や虞や若を奈何せん』という後ろへのつながりからすると、
京劇流の解釈の方が自然だし、この詩全体の味わいも深くなるんですよね。
つまり、項羽は虞姫の命も助けたいと思う分けですが、
結局は、彼女もまた項羽に殉じて自ら死を選ぶ分けですから、
『愛馬も愛人も共に項羽に殉じた』という物語になるんですよね。
皆さんは、いかがお考えでしょうか。(^^;)

25 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/04/12(火) 13:17:06 [ 50.net220148230.t-com.ne.jp ]
  ●●●ジャンヌ・ダルク(1999)☆☆☆−●●●

暫く前にTVドラマ版か何かの『ジャンヌ・ダルク』を見たような気がしますが、
それがかなり歴史に忠実な作りだったのに比べると、この映画は、
リュック・ベッソン監督の解釈が入った部分が相当大きいようですね。
その場合、特にキリスト教の教理とか信仰に関わる部分があるので、
キリスト教になじみの薄い日本人には少し難し過ぎる気がしました。
その意味で、実を言うと私にも、この映画の内容は、
もう一つ良く分からなかった所が多いので、
映画の解釈については、今回はパスすることにしました。(^^;)
まあ、スペクタクルの部分以外は、日本人が見ても余り面白くないでょうね。

ただ、そうした点からすると、今回見たような日本語吹き替え版は
実は、少し困ることがあるんですよね。つまり、日本語に訳す人自身が、
物語の内容を十分に理解しているとは限らない分けですから、
その日本語訳も相当いい加減なものになりがちなんですね。
これが、字幕版の場合なら『不審に思った点は自分で、
元の英語を聞きなおして調べる』という手もあるんですが、
吹き替え版だと、その点ちょっと手の打ちようがないんですよね。

まあ、私も英語版の内容を全て聞き取れる分けではありませんが、
映画によっては、相当いい加減な訳があることも事実なんです。
その場合、こうした字幕や吹き替えの日本語というのは、
新たに放送する時は、その都度作り替えるみたいなんですね。
ですから、ストーリーが難解な映画の場合なんか、
最初のTV放送よりも、何年か後の再放送や再々放送の時の方が、
解釈がより進んで、分かり易い訳になることも珍しくないようですね。


実は、そうした映画の中の誤訳ということで、
一つ具体例を挙げておこうと思ったんですけど……
その映画の題名をどうしても思い出せなくて、
改めて調べ直すのに失敗しました。(^^;)

確か外国製のサスペンス映画で、車のトランクに死体を入れるんですが、
翻訳がおかしい為に死体の数が合わなくなっちゃうというか、
そんな感じだったと思うんですが……何しろハッキリと覚えていません。
もし、分かったらその時にまた書くつもりですが、もしどなたか
思い当たる方がいらっしゃいましたら、是非教えて下さいませ。m(_ _)m


ついでに言うと、映画の字幕の付け方でも気になる事があるんですね。
つまり、疑問形のせりふでは、その後半を省略して
『△△と?』なんて訳すのが一種の定型になってるみたいですけど、
私にはどうも、あれが気になって仕方ないんですよね。(^^;)

せりふの字幕が画面からはみ出してしまうとかね、
どうしてもやむを得ない事情があるというなら話は別ですが、
そうではなくて画面には十分に余裕があるのに、それが当然みたいに
ああいう略し方をされると、ひどく嫌な気がするんです。
実際問題としても、次のせりふを聞くまでは
その正確な意味が分からなくなる分けですし、
余り多用するのは考え物ではないでしょうか。

26 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/04/14(木) 10:43:46 [ 6.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●冬の運動会(TVドラマ)☆☆☆−●●●

これは今年の正月にやっていた向田邦子原作のドラマですが、
映画を見慣れていて、たまにTVドラマなんかを見る時に感じる、
この何とも言えない気安さは一体、何なんでしょうかね。(笑)
まあ、私の評価では山田太一とか、この間、
自殺した野沢尚あたりの一流所と比べると、
向田邦子という脚本家はあくまで二流だと思います。
(因みに、今回の彼女はあくまで原作者で、脚本家は田渕久美子でした。)

この作品にしても『祖父・父・息子の三代の各々が、
隠れ家としての疑似家族を持っている』という設定自体、
全く不自然で説得力がないですからね、そういう点が二流なんですよね。
不自然な設定と言えば、連続ドラマでも『男と女で心が入れ代わる』とか、
『若い男女が偶然一つ屋根の下で暮らすはめになる』とか、
その手の安直な設定が多過ぎますが……やはり、
脚本家の鉱脈が枯渇してるんでしょうかね!?


まあ、たとえ不自然な設定でも、その中でキチンと人間を描けさえすれば、
それなりに心温まるドラマにはなる分けですよね。
少なくとも娯楽作品としては、それで十分とも言えますから、
その意味で、このドラマも一応、三つ星が付く分けです。

ただ、妙な既視感がありましたから、ひょっとすると、
前に同じ作品を別の演出で見たことがあったのかもしれませんね。
私の主義として、同じものはなるべくパスすることにしてるんですが。(^^;)
だって、人生短いのに、見るべき作品は山ほどある分けですからね。

実は、映画でも時々似たような失敗があるんですよね、
一度見たのに、忘れてまた録画したりして……。(^^;)
それも、見始めてすぐに気付けばまだ良いんですけど、
見終わってから気付いたりすることがあるんですね。
段々記憶力が減退しているのかな、と我ながら少し寂しくなります。(笑)


でも、特に引きこもりの人なんか『疑似家族でも良いから、
居心地よく過ごせる家族が欲しいな』なんて思う人は多いでしょうね。
そう言えば、暫く前に『寂しい一人暮らしの年寄り向けに、
疑似家族を有料で派遣する』なんて商売がありましたっけね。
あれ以来、余り耳にしませんから、多分もうつぶれたんでしょうね。

実際問題として、疑似家族と一日過ごすだけで、
万単位の金がかかる分けですからね、
経済観念のある人には、ちょっと手を出せない贅沢でしょうね。
それに、疑似家族と一日過ごした後の虚しさは、
前よりも更にひどくなるような気がしませんか!?

ちょっと考えてみるだけでも、私なんかゾッとしますが……。
まあ、明日自殺するとかいう人が、一日だけ楽しく過ごそうというなら、
また話は別かもしれませんけどね。
とにかく今の日本は、どこもかしこもロボットばっかりで、
何とも寂しい世の中だと思います。

27 名前: ナスネダゴニャ 投稿日: 2005/04/17(日) 15:33:39 [ ZH080233.ppp.dion.ne.jp ]
ちょっとよく分からないので とりあえずここにカキコ★
こんにちは 始めまして ナスネダゴニャです。
私は浅学非才なので、パソコンという形態に半知半解で御座います
ですから、始めは 物事を了解せず彼方のHPから、
いろんなところに飛んでいまして、拝見するのは
当然彼方のレスが多いわけですけれど
 その彼方の叙述は賢そうに見えました、ひとつのレスに対して
思ったことを述べてあるレスは 私には少し長めであるなと感じ
けれど、それだけ、長くしなければ本当のことに近いものであるのが上手く
伝わらないということを思い丁寧な方だけれど、相手は
そんな答えは聞いて無いだろうと なぜならそれが
本当のことだとしても 相手は真実ということよりも
自分の境涯について、ただ、了解して欲しいケースが多いから

ここから分かったのは 多分孤独を好み そして活動的であり
食事よりも 今のこの状況を変えることに
専念している感じであり そして人々が本当のことに気づくこと
を必要としていないという事を知らない真面目な人であるみたいな。 
ということは 自分以外の他人を知らない完璧
主義者かなと 単純に思いました。好きなものは 恐らく
真実の言葉であり 傷を負ったとしてもそれに耐えうることに
準備の出来ている人であると  
それから、名前を拝見して (世の中はよく分からないことに
躍らされて みぎにも左にも逃げ道が無いけれど 自分は
その正体を知っている)ということを勝手に読み取ってみました。

28 名前: ナスネダゴニャ 投稿日: 2005/04/17(日) 15:34:35 [ ZH080233.ppp.dion.ne.jp ]
ここから分かったのは 多分孤独を好み そして活動的であり
食事よりも 今のこの状況を変えることに
専念している感じであり そして人々が本当のことに気づくこと
を必要としていないという事を知らない真面目な人であるみたいな。 
ということは 自分以外の他人を知らない完璧
主義者かなと 単純に思いました。好きなものは 恐らく
真実の言葉であり 傷を負ったとしてもそれに耐えうることに
準備の出来ている人であると  
それから、名前を拝見して (世の中はよく分からないことに
躍らされて みぎにも左にも逃げ道が無いけれど 自分は
その正体を知っている)ということを勝手に読み取ってみました。
実際 彼方は服装かなんかでそれをお試しになったご様子で
けれど、私が驚いたのはそれを確認しようとした彼方の行動でした
それは、恐らく 確認しなくても 言葉の端を辿ればそうであることが
分かりますし、確認したという行動にでたということは、
そこから推察するに
彼方は自分を痛めつけることで 暗闇を確認し
自分の正しさを確認すること
に鮟鱇の明かりの強さを今よりおおきくしよう
としているように そう見えました、
それが行動を起こした所以でないかと私は
感じました、

29 名前: ナスネダゴニャ 投稿日: 2005/04/17(日) 15:36:30 [ ZH080233.ppp.dion.ne.jp ]
そういう得手勝手な了見で
ただもう個人的にしゃべってますが、

ただこのとき私が思ったのは
この人には本当のことを言って通じる人だなぁと思ったのです。
人々は(日本の文化は本当のことが表に出ることを嫌いますから)
私はその逆なので...
 彼方は厳しい人です それから、優しい人です
彼方にどう思われても構いませんが ←いえい子供
私の浅い見解では、(日本風に謙虚に対応)
彼方はその考えを持って 常に政治などに首を突っ込むべでは
と考えますが 先日はなされたように 政治家は民衆をうまく丸め込み
お腹を肥やしている人が多く、そして、民衆のほうも
それに甘んじて 弱さや教育考えないということ 気候
よその国をよく知らないということから
革命がおきません
そして、越えることの出来ない身分があり
その身分の前では老若男女とわず、目に見えて理不尽なことでも
群れ社会では 懸念するべき問題はやはりそうならざる終えず、
もし彼方が自分の考えを叙述したとしても
痛いぐらいご存知のように彼方は犠牲者になるんだろうなと。
 そうです私たちはやりたいことが沢山あるんです。
けれど、彼方は苦痛にも世間の穴が見えてしまいます、
日本は自殺大国だそうです、そんなのは教育のあり方を見れば一目瞭然
芥川龍之介賞は優秀であると歌われ 
国(その時勢のトップの人)に忠実な
命を投げ出す人がこの国では今も昔も変わらず正しい事で
優秀で褒められるべき存在を認められるべきものであると

けれど、40代半ばの人は蓄膿症になり自殺は減ることはなく
自分の周りに何か富んできて始めて 物事に対処しようとするような程度
の 民衆レベルに私たちは身をおいているような気がします

夏目漱石は自殺を選ぶものは優秀であり聡いとかいてあります
アホです。 国や名誉の為に命を投げ出すのが賢いわけがない
賢いのは群れの中で自分を知り 自分相応の身分の中で
自分が十分のびのびと息できる場所を見つけられた人
では...私の場合群れで生きるという価値観よりも
生きるということを観点にをおいてますからこうなりますが

見解にいたった訳は 他人は退屈がって聞きはしないでしょう

人々は怒号された大きな声についていってしまって、
時々涎のような会話に混ざっている
本音には関心が無く。

自分よりも より弱く見えるものたちは、こちらで案じてやるほどに
本当は弱くはないもので。むしろ私たちの立場を選択した人間よりも
よほど、したたかなこともあるとまぁ。
こんなこと云々、、、

ナスネダゴニャという意味を知りたがる彼方は
人を知り 操作することを好む人間ですか?

30 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/04/19(火) 10:02:17 [ 8.net220148245.t-com.ne.jp ]
  >ナスネダゴニャという意味を知りたがる彼方は
  >人を知り 操作することを好む人間ですか?
あのう……『人を知る』はともかく、
『人を操作する』という表現はどうなんでしょうかね。
結局『人間を操作する』というのは、例えば
『共産主義が暴力を使って個人を無理やりに洗脳し、
上から降って来る命令に絶対服従させる』
というような場合に当てはまる表現でしょ!?

それに対し『志を同じくする者同士が一つの目的に向かって協力する』
ような場合は『誰が誰を操作する』とは言わないんじゃないですか!?
私の場合『今の世の中が悪いのはこうこう、こういう理由によるのだ』
と明らかにし、更には『それを直す為にはこういう道筋があるのだ
(例えば、根税制もその一つですが)』という所まで
ハッキリ言っている分けですからね。
後は、賛同者が現れるのを待つのみなんです。

まあ『現代社会の大人は、大半が洗脳されたロボットである』
ということは、私が常々言ってる通りですから、
そうした賛同者がすぐに現れるとは私も始めから期待してません。
ですから、今後ものんびり・じっくりやるのみですけどね、
ただ、一度動き出したら、その後の展開は早いんじゃないですか?
つまり、謀略風船に穴が開けば、一気にしぼむと思いますからね、
その意味で奴らは、一時も安閑としては、いられないだろうと思います。


それから、このスレッドはあくまで映画や演劇について、
議論する為の場所ですので、書く場所に迷った場合は是非、
無差別級の方に記入して下さるようにお願いします。m(_ _)m
  無差別級
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/l10

31 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/04/23(土) 10:02:00 [ 204.net220148244.t-com.ne.jp ]
  ●●●A.I.(2001)☆☆☆●●●

世間で騒がれた映画は、ついつい録画してしまうんですが……
ちょっと時間の無駄でしたかね!?
あるフランス人も言ってましたけど、
『ハリウッド映画というのは、見ればそれなりに面白いが、
別に見なくても困らない』というものが多いんですよね。
これなんか、その典型ではないかと思いました。

確かに金をかけて丁寧に作ってあるので、
娯楽作品としては立派ですし、退屈もしませんけど、
後に何が残るかというと何にも残らないんですよね。
それ辺が如何にも、スピルバーグ映画という感じでした。
強いて印象に残る点を言えば、機械人間を演じた少年のいたいけな表情が、
母性本能をそそるということ位でしょうか。

最近の日本では既に犬型や猫型の癒しロボットが作られていますが、
ここでは人間の子供型の癒しロボットが出来たという設定なんですね。
で、その機械人間に『ある母親の子供』という意識を刷り込んだものの
人間の都合で扱い切れなくなって捨てに行く分けです。


『犬や猫のペットを扱い切れなくなって捨てるのは日本人だけで、
米国人はそんな無責任なことはせず安楽死させるんだ』
なんていう話を昔聞いたことがありますが……
少なくともこの母親の場合、日本人と全く一緒ですよね。

結局、ロボットとして解体するのが忍びなくてコッソリ逃がしてやる分けです。
あの手の比較文化論は、あまり鵜呑みにしない方が利口かもしれませんね。
海外放浪なんかしてみると良く分かりますが、
宗教や民族が違っても、人間なんてそんなに変わるもんじゃないんです。

で、取り残された少年は、何とか生き延びて自分もピノキオみたいに、
本物の人間になろうと努力するわけです。
こんな展開に一体どんな落ちをつけるんだろうと、
後半はそればっかり気にして見てましたけど、
最後は『何とか無理やり落ちを付けた』という感じでしたね。(^^;)

32 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/05/02(月) 11:11:12 [ 218.net220148232.t-com.ne.jp ]
  ●●●夏祭浪花鑑(2004・平成中村座NY公演)☆☆☆●●●

私がこの演目を最初に見たのは、文楽だったんですね。
その時は、クライマックスの義父殺しの場面だけだったんですが、
陰惨な殺しの場面と華やかな夏祭との対比が実に印象的でした。
その後、歌舞伎でも幾つか見ましたけど、いくら殺しを強調する為とは言え、
まるでゾンビみたいに『どんなに殺しても死なない』
みたいな描き方に多少、不自然さを感じました。(^^;)
今回のビデオは『いわゆるコクーン歌舞伎の引っ越し公演』
といった感じで、ひょっとすると衛星生中継だったのかもしれません。

コクーン歌舞伎というのは、中村勘九郎(現在は勘三郎)一座が、
例の串田和美を演出に呼んでやっている公演らしいですが、
何か本来の歌舞伎を換骨奪胎したみたいな内容なんですね。
ですから、本物の文楽や歌舞伎とは舞台装置や演出が相当違うんですが、
それ自体は特に違和感を感じさせない作りになってますから、
最初にコクーン歌舞伎から入ると、
本物の歌舞伎を見てあまりの違いにびっくりします。(^^;)

その意味で、私としては歌舞伎初心者には余り勧められないんですが、
まあ、それを切っ掛けに歌舞伎に興味を持つ人がいるなら、
それはそれで構わないのかもしれませんね。
因みに、今回の演出では最後にニューヨーク市警まで出て来ますから、
本来の歌舞伎と間違える心配は、先ずないでしょうけどね。


で、最初にその前半を見た印象としては、もう一つ納得が行きませんでした。
というのも『忠義の為に妻が自分の顔に焼けひばしを当てる』なんて所は、
現代の日本人が見ても少なからず抵抗がありますからね、
外人には尚更、分からないだろうと思ったんです。
その意味で、何故こんな演目をわざわざ持って行ったのか不可解なんですが……
まあ、向こうから呼ばれたらしいですから、それは仕方がないんでしょうかね。

ただ、そうなると、この公演は >>15 で触れた『HANA-BI』と同様に、
『日本人の異様さ・野蛮さ・非情さを宣伝する為のほめ殺し』
の線で理解すべきなんじゃないかという気すらしました。
でもまあ、その後、例の義父殺しの場面以下になると、
さすがに大分盛り上がって来て、最後は拍手喝采でしたからね。
その限りでは、まあまあ一応の成功を収めたとは言えるんでしょうね。
因みに、私からすると、クライマックスの義父殺しの場面で見所となるべき、
『義父殺しの陰惨さと祭りの華やかさのコントラスト』という点では、
今回の演出には少しもの足りなさを感じました。

というのも、本来の演出だと、殺しの場面と重なるように、
祭りの神輿とそれをかつぐ人々が近づいて来る分けですが、
ここでは『殺しの場面から一転して、祭り人が乱入してくる』
という感じで、同時進行の対比が薄かったからなんです。
それから、最後の所で『芝居の中に現実が侵入して来る』という演出も、
今となっては余りにありふれていて、ちょっと陳腐でしたね。
まあ、幕切れでニューヨーク市警まで一緒になって、
土下座するなんて所は愉快だったですけど。(^^;)

33 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/05/07(土) 12:37:03 [ 79.net220148227.t-com.ne.jp ]
  ●●●攻殻機動隊(1995)☆☆☆−●●●

これまた、外国で有名なアニメらしいですが……
大方は『AKIRA』と似たような出来でしたね。
今度はAI(人工知能)が活躍する話で、
その人工知能が自分の存在理由に悩んだ末、最後には、
別の人工知能と融合して子孫(!?)を残すみたいな展開でした。
まあ色々趣向を凝らしてはいるようですけど『結局の所、
何を言いたいのか分からない』という点を含め、前出と同じです。

ただ、この作品で一つ気になったのは、
前出の男女が中性的なのに比べ、やたら女の裸が出て来ることで……
それは一応、機械人間という設定になってますけど、
視覚的には生身の女と何も変わりませんからね。
欲望のはけ口が保障されている分けでもないのに、こんなのを見せられて、
刺激されるだけ刺激される若い男は大変だろうと思いました。
いわゆる有害図書ならぬ有害映像とでも言うんでしょうか、
青少年の健全育成委員会あたりが沢山、文句を言いそうですね。(^^;)

結局、表現の自由とか何とか言い出せば難しい話になるわけですが、
そうした自由を言う以上、同時に大きな義務を負う分けですよね。
ですから極論すれば、こうした『有害な作品群』を世に送り出す者たちは、
例えば、幼児刺殺の氏家やハンマー少年に代表される青少年の荒廃に対し、
最終的に何%かの責任を負っていると言っても過言ではないでしょうね。
その意味で、この手の作品群を制作する者たちは、少なくとも、
そこまでの責任を負う覚悟を持ってやって欲しい気がします。

34 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/05/09(月) 10:21:40 [ 70.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●木曜組曲(2001)☆☆☆●●●

その題名から、フランス映画か何かと思って録画したんでしたかね!?
まあ、内容的に見れば、グルメやインテリアに凝っていたりする点で、
似たような感じの映画だったかもしれません。
ある女流小説家の変死をめぐって、
女5人だけで展開する推理とサスペンスのドラマでしたが、
一応コクのある仕上がりになっていたので星三つですね。

この篠原哲雄という監督について少し調べてみたんですが……
以前に見た『はつ恋』という作品は、あまりにひどい出来でしたね。
最後まで付き合う忍耐強さでは誰にも負けない(笑)つもりの私なんですが、
あの映画だけは最初の10分ぐらい見てパスしました。(^^;)
あれに比べると、この作品は一定のレベルに達してますから、
長足の進歩と言えるかもしれませんね。


ただ一つ気になったのが、煙草を小道具に使っている点でした。
世の中ではこれだけ煙草の害が騒がれて、
あちこちで禁煙が広がっているというのに、
何故かドラマや映画の世界では煙草を吸う人物が良く出て来ますよね。
まあ一説によると、俳優に演技を付ける時に、
煙草がないと間が持たないとか言う話があるらしいですが、
それじゃあ、禁煙してる俳優は仕事にあぶれちゃうわけですかね!?

俳優も両手のやり場に困ることがあるらしいですが、
そうした手持ち無沙汰の解消には、煙草が便利だとか言いますよね。
まあ、外人風に両手を広げる動作(shrug)を、
日本人がまねするのも実に厭味ですし、
あれに比べれば遥かにましかもしれませんが……
煙草にばかり頼るのは、やはり安直であるような気がします。

そうしたものに頼らないとキチンと演技出来ないとすれば、
それは俳優の技量が不足しているせいかもしれませんよね。
因みに、例のshrugという動作は、正確には、
『外人風』ではなく『アングロサクソン風』と言うべきなんですよね。
実際問題として、フランス人は決してやりませんものね。
嘘だと思ったら、フランス映画を良く観察してみて下さい。(^^;)

35 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/05/12(木) 09:55:57 [ 186.net220148238.t-com.ne.jp ]
  ●●●ナニワ金融道6(TVドラマ)☆☆☆+●●●

今年の正月にやった第六話ですが、このシリーズは中々秀逸ですよね。
少なくとも、あの無責任な『夜逃げ屋本舗』
なんかに比べたら、はるかに増しだろうと思います。
そのナニワには昔、井原西鶴という人がいて『金が仇(かたき)の世の中』
とか言ってましたが、最近の日本はまさに『金が仇の世の中』ですね。(^^;)

毎回、サラ金や町金の内情を余す所なく、赤裸々に暴いてますから、
一般大衆に高利貸しの恐さを教育する効果は絶大だろうと思うんですが、
それにしては、相変わらずサラ金が繁盛し続けているのが不思議ですよね。
一体、こんなドラマを見せられて尚、
あえてサラ金に行く奴が本当にいるんでしょうか!?
私にはちょっと信じ難いことですが……。

今回は特に『ミズモレックス』というネズミ請を登場させてましたが、
その内容も迫真でしたね。実を言うと、私もずっと昔に危うく、
似たようなインチキ商法にはめられそうになった経験があるんですが、
確かに、沢山の人々を集めて集団催眠にかける手口は、
まさにあんな雰囲気で、あの通りでしたね。


但し……この原作者の青木勇二という漫画家がちょっと困った人で、
いわゆる『共産主義おじさん』なんですね。
独学で共産主義をかじったのか、新聞などでは良く、
『資本主義の搾取』論を振り回し、共産主義礼賛をやってました。
まあ、私に言わせれば、ごく幼稚な論理展開でしたからね、
いつかキチンとその間違いを指摘しようと思っていたんですが……
先に死なれちゃいました。(^^;)

ただ、こうして表立って共産主義を唱える人というのは、
少なくとも洗脳された赤犬ではない分けですからね、ある意味で、
たちの悪い赤犬に比べたら、はるかに扱い易いんですね。
(洗脳された赤犬は、表面的には洗脳以前の政治的立場を墨守しますから、
その言動だけでは、決して洗脳されたことが分からないようになってます。)
しかも、青木氏は特定の組織との関係もないようでしたから、
いわゆる広告塔としての表側の共産主義の一員でも無い分けですよね。

結局、こういう自然発生的な共産主義シンパは、
『一般大衆に共産主義を宣伝する』という意味で、
ユダヤ主義にとっては極めて便利な存在なんでしょうね。
ですから『邪魔にならない限りは、あえて適当に泳がせておく』
ということがあるように思います。
でも……余りサラ金を叩かれても困るということで、
最後には消されたのかもしれませんね。(-_-;)

36 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/05/17(火) 13:07:58 [ 86.net220148171.t-com.ne.jp ]
  ●●●パピヨン(1973)☆☆☆−●●●

これまた古目のフランス映画で、その名に聞き覚えがあって録画したんですが、
やはり古い映画は駄目なんでしょうか、満足感としてはもう一つでした。
胸に蝶の入れ墨がある男が島流しになった末に脱走するという展開で、
実際にあった話が元になっているようです。
監督のフランクリン・J・シャフナーは、
前に少し触れた『猿の惑星』を作った人でもありますが、
その意味では、原作や制作国がフランスであるとは言え、
いわゆるフランス映画という感じではないかもしれませんね。

似たような脱獄映画としては『アルカトラスからの脱出』
というのもありましたが……結局、この手の映画は題材として
幾ら面白くても、例の『見なくても困らない映画』の範疇ですからね。
私にして見れば、何か時間を無駄にしたような気分になった分けです。
単なる娯楽映画という意味で言っても、最近は技術の進歩がすごいですからね、
同じ時間をつぶすのなら、古い映画より新しい映画を見るのが正解でしょうね。
結局、映画というものも一般には古くなるほど価値が減るのは争えない事実で、
ただ『そのごく一部に、古くなっても真価を失わない映画がある』
ということなんでしょうね。

37 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/05/27(金) 13:15:02 [ 84.net220148169.t-com.ne.jp ]
  ●●●再桜遇清水(2004年4月・こんぴら歌舞伎)☆☆☆●●●

これは去年の5月に録画した作品ですから、もう一年も前なんですね。
中々暇がないとは言え、我ながら困ったものだと思います。(^^;)
ところで、歌舞伎の題名はいつも読むのに一苦労しますよね。
この場合『さいかいざくらみそめのきよみず』と読むそうですが、
こうした無茶な当て字も、歌舞伎文化の一部と言うべきなんでしょう。

こんぴら歌舞伎というのは四国にある重要文化財の芝居小屋・
金丸座を使って中村吉右衛門が始めたシリーズらしいです。
この作品は、その最初の上演に当たって作った新作歌舞伎で、
今回は20年ぶりの再演だったそうです。
『江戸時代の小屋の暗さを前提にして歌舞伎を見直す』というのが、
当初からの狙い目だったようですが、真っ暗な小屋の中で、
幽霊を出したりするのが、この作品でも一つの目玉になっていました。


物語は、北条時政の娘である桜姫をめぐる恋の鞘当てが中心で、
『桜姫に横恋慕した胤長(たねなが)という男が、
恋人の千葉之助清玄(きよはる)を陥れる』という陰謀話に、
昔、鎌倉にあった新清水寺の破戒僧・清玄(せいげん)が絡むという展開でした。
その場合『清玄という名前の読み方の差で誤解が生じる』なんていう所は、
江戸時代にはあり得ない、如何にも現代的な趣向でしょうね。

ただ、それ以外は新作歌舞伎にありがちな安っぽさがなくて、
江戸時代の作品と言われても分からない位の作りでした。
但し……歌舞伎を中心にやっている市川団十郎なんかと比べると、
この中村吉右衛門のようにTVに出過ぎている役者の場合は、
どうしても『一応、歌舞伎もやってます』
みたいに見えてしまうのが損ですよね。(^^;)
因みに、実際に金丸座で観劇した人の印象記がここにありますので、
興味のある方はどうぞ。
  http://www5e.biglobe.ne.jp/~freddy/watching73.htm


もう一つ、この作品と並演で『羽衣』という歌舞伎舞踊があったんですが、
こちらは能で有名な『羽衣』を歌舞伎に仕立て直した作品でした。
その場合、能の演出が象徴に徹しているのに比べ、
歌舞伎の演出はかなり写実的なのが一つの特徴でしょうね。
ですから、江戸時代の人が『天女』というものに対して、
一体どんなイメージを抱いていたのかというようなことは、
能よりも歌舞伎を見た方が良く分かるように思いました。
もっとも、この作品自体はやはり新作のようですが。(^^;)

ただ、私にはまだ日本舞踊というものが良く分からないので、
歌舞伎舞踊についての論評は当面パスしようと思います。
結局、現代人から見ると『日舞の方が洋舞より難解である』
ということが言えるような気がするんですね。
その意味で、洋舞の古典から前衛までを十分に理解した上で、
改めて日本舞踊というものを見直したら、
その真価が何か分かるのではないかと考えている分けです。

似たようなことで言うと、現代の日本人が、
仏教とか茶道のような日本固有の文化について知ろうとする場合にも、
日本人が書いたものを日本語で読むよりは、外人が書いたものや、
日本人が外人向けに英語で書いたものを読んだ方が良く分かるし、
むしろ手っとり早いということがありますよね。
結局、その背景には日本人の説明下手という事情があるように思います。
古来、日本人は言葉で説明するよりも『師匠を見て盗め』
みたいなやり方をして来ましたからね、まあ仕方がないんでしょうか。

38 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/06/04(土) 13:10:00 [ 81.net220148236.t-com.ne.jp ]
  ●●●泥の河(1981)☆☆☆●●●

これは結構、名の知れた映画らしくて、それでとったと思いますが、
小栗康平という監督のデビュー作のようですね。
終戦から間もない時期の大阪が舞台になっていて、その意味では
『山の郵便配達』の中国に負けず劣らず貧しい時代の話ですから、
これまた、癒し系に入れても良いような気がしました。

ただ、廓船なんていう少し怪しげなものが出て来ますから、
あまり、青少年向けではないような気もしますが……
それでも『戦後の日本がこんなに貧しい状態から出発したんだ』
ということは、しっかりと頭に入れておいて良いことだろうと思います。

39 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/07/01(金) 09:32:37 [ 34.net059085049.t-com.ne.jp ]
  ●●●極付幡随長兵衛(歌舞伎)☆☆☆-●●●

時代劇映画なんかではお馴染みの幡随院長兵衛の話ですけど、
歌舞伎の場合は、どういう分けか幡随院の院が抜けるみたいですね。
一体どうしてそうなるのかと少し不思議だったんですけど……
実は、歌舞伎では幡随院と書いても『ばんずい』と読むらしいですね。(^^;)
ということは、つまり例の江戸っ子訛りという奴で、
読みが『ばんずいいん→ばんずいん→ばんずい』と変化したのに合わせて、
表記の方も後から『幡随』に変えたんでしょうかね。

それはともかく話の内容は『旗本奴と町奴の間に争いが起こった時、
旗本から呼びつけられた長兵衛が死を覚悟して
単身で水野の屋敷に乗り込む』という展開でした。
その意味では『これから一体どうなるんだろう』とハラハラさせる分けですが……
結果的にはそのまま殺されてしまう分けですからね、
物語としては何の意外性もない展開で、少しもの足りませんでした。


これは江戸初期の実話に基づいて河竹黙阿弥が、
明治になってから作った歌舞伎らしいですが、とすると、
当時の東京を闊歩していた薩長の連中に対する当てつけだったんでしょうかね。
この場合の旗本奴も江戸に出て来た田舎侍で、顰蹙をかっていたらしいですからね。

  http://www003.upp.so-net.ne.jp/sei0720/kabuki/banzui.html
  当時の旗本奴は戦国の気風の残る中、
  譜代大名との差別に不満を持つ外様大名が
  糸鬢、脛丸出し、六法振りの異様な風体で町を横行し、
  男伊達を競い、江戸市中の顰蹙をかっていたとか。
ただ、この頃は江戸もまだまだ田舎だったでしょうから、必ずしも、
都会人 vs.田舎者という対比は当てはまらないかもしれませんが、
少なくとも、よそものが大きな顔をしているという点では共通しますよね。


それにしても、幾ら『切り捨て御免』が当然の時代とは言え、
相手を呼びつけておいて殺す、というのは如何にも無茶ですよね。
物語では長兵衛が最初から死を覚悟していたかのように描いてますけど、
本当の所はどうなんでしょうか。
わざわざ子分達に棺桶をもって迎えにこさせたなんて話が本当なら、
むしろ、相手を牽制する狙いがあったような気もしますが……。

ただ『命は一代、名は末代』という長兵衛の台詞は、説得力がありましたね。
つまり『どんなに命を惜しんだところで、人生の長さは知れているが、
不名誉な生き方をすれば、その恥は末代にまで伝わる』という分けですね。
この場合も、こんな策略で長兵衛を殺した水野十郎左衛門の方が、
かえって後世に悪名をさらす結果になっている分けですからね。

40 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/07/09(土) 16:14:09 [ 11.net059085046.t-com.ne.jp ]
  ●●●猿の惑星(2001)☆☆☆●●●

例のリメーク版をやっと見ました。(^^;)
但し、正確にはリメークでなく、リイマジネーションだそうです。
さすがに技術的に見れば、すごい進歩があるようですけど、
内容的にはやはり、元作を凌駕する出来にはほど遠いですね。
今回の作品も一応、猿対人間の差別問題を中心に据えてはいますが、
結局の所、凡百のアクション映画の域を出ないように思いました。

前作では『宇宙の果てで辿り付いた惑星が、
実は核戦争で文明が滅びた後の地球だった』という趣向で、
あっと言わせた分けですけど、その点、今回はどうなんでしょうか。
最初にたどり着いた惑星は、今回は地球ではないのかと、
当初は思ったんですが……『最後に戻った地球が猿に支配されていた』
という展開からすると、どうやらそうではないようですね。


つまり『米国の国会議事堂と向かい合うリンカーンの石像が、
猿の顔になっていた』というのが今回の落ちだったわけですよね。
因みに、元の石像では、例えばこんな写真があります。
  http://www.juen.ac.jp/shakai/beinichi/theme/cyu/img/p071_2.jpg
ということはつまり、最初に行った惑星が実は過去の地球であって、
『未来の人間が、訓練された猿を過去の地球に送りこんだ結果、
そこでは猿が人間を支配する社会が出現した』というわけでしょうね。

『その結果、人類の歴史全体が書き換えられてしまい、
その後の歴史の主体が人間から猿に入れ代わったのだ』
と解釈するしかないように思いました。
そうでないと猿が幾ら進化するとしても、
『現在のワシントン市の風景やらリンカーンの銅像やらが
そっくりそのまま出現する』という状況は説明がつきませんからね。


とすると、これはSF映画に良くある『タイムマシーンによる介入で、
歴史が書き換わる』という物語に過ぎない分けですね。
その意味で『核戦争で滅びた地球』という設定が持つ
文明批評的な意味合いは失われた、と言えるんじゃないでしょうか。
但し……ここまで考えた後で、ネット調べをやった所、
とんでもないデータを見つけました。
つまり、最初に行った惑星には月が二つあったというんですよね。
そうでしたかね……私は気がつきませんでしたけど。(^^;)

とすると、以上の解釈は少し無理が出て来るかもしれません。
ただ、そうやって詰めて行くと、
この映画はどっちみち矛盾だらけみたいですからね。
単なる娯楽映画で、余り意味のない詮索をしても仕方がないような気がします。
興味がある方は、自分で当たってみて下さい。(^^;)
  http://www2.gol.com/users/thori/ape/kotch01.html
  『猿の惑星(ティム・バートン版)』の結末に関する当サイトの見解

41 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/07/18(月) 12:20:32 [ 44.net220148169.t-com.ne.jp ]
  ●●●胡蝶(観世流)☆☆☆-●●●

確か、能を取り上げるのはこれが最初でしたね。
同じ古典芸能でも、歌舞伎や文楽に比べ、能は一段と難解かもしれません。
つまり文楽なら、あの『はらわたをよじる』ような物語の展開に、
身を任せれば十分ですし、歌舞伎なら、その豪華な衣装と、
派手な所作を堪能すれば良い分けですが、
能の場合は何といっても、とっつきにくいのが難点でしょうね。

その言葉も一段と難解な分けですが、ただその点では、
大半に字幕が付く分、歌舞伎や文楽より楽な面もあります。
そのほとんどは韻文ですが、漢字の読み方なんかも相当、天のじゃくで、
普通は訓読みする所が音読みになったり、その逆だったりするわけです。
その中でも特に、和歌などでおなじみの掛け言葉が多用されますから、
ゆっくりした展開の中では、それを味わうのも一つの決め手でしょうね。


能では良く、序破急とか言いますが、
序盤はのんびりした進行の中で、物語の背景が説明されます。
これは歌舞伎や文楽も同じですけど、全て理解しようなどとは思わず、
『半分も分かればいいや』という感じで気楽に聞いていれば、
大体どんな話か位の見当はつきますよね。

中盤の破では、何かが起こって物語が動き始めます。
能面のかもし出す一種独特の雰囲気にひたりつつ、
『江戸時代の侍はこんな劇を見ながら、一体何を考えていたんだろう』
なんて想像をめぐらすのも一興かもしれませんね。

終盤の急では、囃子方の音楽もシテの舞いも
一気にテンポが上がって、クライマックスに向かいます。
良い能の場合は、ここで演者(シテ)が一種のハイな状態になって、
ある種の陶酔とカタルシスとが生み出される分けですが、
そこに能という演劇の醍醐味があるように思います。


ただ、実際には、そうしたカタルシスを生み出す能というのは、
残念ながら多くはないようですね。
一般に能の演目というのは五つ位に分けられていて、
『神能・修羅能・髷物・雑能・切能』などとなるらしいですが、
私の考えでは、最も能らしい能というか、能の本質というのは、
二番目の修羅能にあるんじゃないかと思うんです。

そこでは例えば無念の死を遂げた人物の亡霊が現れ、
演者に取りついて自分の思いを物語るという展開になるわけですが、
序破急の進行の中で、その亡霊の思いが十分に語られ、
演者の舞として表現されることにより亡霊の怨念が浄化されると、
全ては夢幻のようにサッと消え去って、一幕の舞台が終わる分けです。

こうした劇を演じたり見たりすることで、江戸時代の侍は、
自分たちの先祖が殺生によって生み出したに違いない、
多くの亡霊たちを供養しようとしたのかもしれませんね。
その意味では、正月に良くやる祝祭能みたいなものは面白みに欠けますし、
同時代人が描かれる雑能もつまらないものが多いように思います。
(ただ同じ雑能でも、暫く前のTVドラマにも使われた『善知鳥(うとう)』
なんかは、殺生の罪を描いていて中々見応えがありましたが……。)


その意味で困るのは近年、NHKでやる演目が雑能が中心で、
どういうわけか修羅能をほとんどやらないことなんですね。
私としては二番目物の修羅能を沢山見たい所なんですが……
それで最近は、能を見る機会が少なくなっているような気もします。
もしNHKに影響力を行使できる人がいたら是非、何とかして下さい。(^^;)

前置きが長くなりましたが、今回の胡蝶という作品は三番目物で、
名所見物の為に都に出てきた吉野の僧の所に、
梅の花を恋う蝶が出現するという展開でした。
『蝶が舞う季節にはもう梅は咲いていない』という分けで、
蝶の精が梅の花を恋い焦がれているということらしいですね。
そこへ『胡蝶の夢』という荘子の例の有名な話を絡めたりする分けですが……
何といってもカタルシスを生み出すには弱過ぎる設定ですよね。
その意味で評価は☆☆☆-になりました。

因みに能では、こうした場合、説明を省く為に、
演者の冠に蝶が付いていたりするわけです。
場合によっては、それが龍だったり魚だったりするわけですからね、
ある意味で、非常に分かり易いですよね。(^^;)

42 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/07/19(火) 10:53:56 [ 45.net059086102.t-com.ne.jp ]
  ●●●シュレック(2001)☆☆☆-●●●

アメリカ製のアニメですが、ディズニーとは別物らしいですね。
そのせいかどうかは知りませんが、内容的にもう一つでした。
つまりその……アニメというのは結局、夢を売るのが商売でしょ!?
それなのに、この映画では醜い怪物が主人公で、しかも
良くある話とは逆に、美しい姫が醜い怪物に戻るという展開ですからね。
いくらパロディーとは言え、ちょっと夢が無さすぎる気がしました。

他方で気になったのが、日本語吹き替え版の声優に、
有名な芸能人(浜田雅功)を使っていたことなんですね。これは恐らく、
そうした話題作りを通じて映画を宣伝しようということなんでしょうけど、
知っている奴が声優をやっていると、映画を見ている最中に、
その声優の顔がチラチラ浮かんで来て、どうにも興ざめなんですよね。(^^;)

そういう点は配給する側も十分、分かってるんじゃないかと思いますが、
映画の宣伝がうまくいって人集めさえできれば、後は、
観客の興ざめなんかどうでも良いという分けなんでしょうかね!?
もしそうなら随分、観客を馬鹿にした話ではないでしょうか。
私の考えでは、やはりアニメの声優として、
広く顔を知られた人は使うべきではないと思います。

43 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/07/31(日) 11:53:49 [ 222.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●ジュディッタ(2003年8月メルビッシュ音楽祭)☆☆☆+●●●

オペラを取り上げるのも、これが初めてでしたね。
でも音楽好きにとって、やはりオペラはこたえられません。(^^;)
私の場合、オペラを聞く前にその音楽を十分聞き込む主義なんですが、
最近、録音システムを再構築する雑用でごたついていて、それで
音楽を聞きこなすのが間に合わなくて、暫く遠ざかっていた分けです。

その意味では、オペラは『一粒で二度おいしい』というか……
先ず音楽として楽しんだ後で、オペラとして二度楽しもうと言う分けですね。
実際問題として難解な音楽もありますし、オペラの場合は、
音楽に不案内なまま見ても余り面白くないですからね。

ただ、今回の作品は標準的なオペラというよりは、
かなり軽歌劇に近い内容であるような印象を受けました。
『レハール』という人はワルツ『金と銀』で有名というか……
ほとんどの人はそれしか知らない、という作曲家でしょうね。(^^;)


でも、これは間違いなく、彼の代表作の一つだろうと思います。
実際、その音楽は決して悪くなくて、
ベルディの出来の悪い作品なんかに比べれば遥かにましという気がしました。
更に言うと、ワグナーみたいな深淵で難解な音楽とは違って
その甘ったるい音楽は、かなり分かり易いですから、
これからオペラに入門しようという人にとっても最適でしょうね。

(因みにベルディという人は、随分沢山のオペラを残しているようですが、
案外つまらない作品が多いんですね。(^^;)その意味では、
代表作を4〜5本――例えば『アイーダ』『リゴレット』『トロバトーレ』
それに『トスカ』位を見ておけば十分ではないかと思います。)

その意味では、どっちかと言えばミュージカルに近い作品で、
中に出て来るバレエなんかも、ミュージカルのダンスに影響されてましたね。
物語の舞台はスペインのアンダルシアらしいんですけど、
その音楽は余りスペイン的ではありませんでした。
歌い方としては、イタリア風のベルカントに近い感じですが、
曲想はあくまで、オーストリア風と言うべきなんでしょうね。


暫く前に、第一次大戦後のウィーン会議をパロディーにした
『会議は踊る』という映画を見たんですけど、
何か、現在のミュージカルの元祖という感じがしましたね。
その点では、このオペラも似たような印象なんですが、
両方ともオーストリア製だからでしょうかね!?
(今調べたら『会議は踊る』はドイツ製作らしいです。(^^;))

物語は、年寄りと結婚した若い娘ジュディッタが
軍隊の将校と恋に落ち、モロッコに渡った末、
結局は気の多さがたたって、その恋人にも捨てられるという展開でした。
ハッピーエンドでない点が、もう一つメジャーになれない理由でしょうか。

メルビッシュは、ハンガリー国境近くの湖畔にあるオーストリアの町で、
その湖に面した野外劇場で毎年、音楽祭をやっているらしいですね。
湖畔の風に吹かれながら、バカンスの一日を
こういうオペラを見て過ごすというのは、
日本人には及びもつかない贅沢であるように感じました。

44 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/01(月) 11:10:27 [ 245.net220148235.t-com.ne.jp ]
  ■訂正■

またまた、つまらないミスをやりましたね。(^^;)
ベルディの代表作を並べた所で『トスカ』と書いたのは『椿姫』の間違いでした。
因みに『トスカ』はプッチーニの作品ですよね。

ついでに、このスレッドで見つけた間違いを直して置きます。
先ず、>>20 の所に漢字変換のミスがありますね。
  『むしろ可能性があるのは、色々な口実を儲けて、結果的に』は
  『むしろ可能性があるのは、色々な口実を設けて、結果的に』の間違いでした。
それから、>>21 の所では仮名使いのミスがありました。
  『ということに初めて気が付く分けでなんすね。』は
  『ということに初めて気が付く分けなんですね。』の間違いでした。
こんなミスは他にもありそうですけど、取りあえず気付いた所だけです。(^^;)

45 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/02(火) 09:56:54 [ 185.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●ザ・リング(2002)☆☆☆●●●

こうクソ暑い夏ともなると、やはりどうしても、
ホラー映画で涼みたくなるようですね。(^^;)
これは日本版のリングをアメリカでリメイクしたものですが、
可もなく不可もなしという程度の出来でしょうか!?
全体に『金をかけないB級映画』の作りですし、
アメリカの住宅は日本家屋に比べて陰が少ないですから、
日本的な陰鬱さを表現するのにも不利かもしれませんね。

日本版とは色々と設定を変えた所が少なくないようですが、
結末も『自分の息子を救う為に、呪いのビデオのコピーをとる』
という所で終わっていて尻切れトンボみたいでしたね。
日本版では確か松島菜々子の演じる母親が、
そのビデオを息子の祖父母に見せようと覚悟して、
暗雲漂う道を車で突っ走って行くという幕切れが印象的だったんですが……。

たとえ自分の息子を救う為でも、その具体的な代償として、
祖父母を用意するという点がアメリカ人には受け入れられないんでしょうか。
日本では、老い先の短い祖父母が孫の身代わりに命を差し出す位は、
別にそれほど異様な事とは受け取られませんよね。


他方、暫く前から少し気になっていることなんですが、
西欧人は日本の映画をそのまま受け入れるのに比べて、
米国人は何故か『全てを自己流に作り直さなければ気がすまない』
というのが私にとっては不可解というか興味深い現象なんですよね。

例えば『Shall we Dance?』にしてもそうでしょ!?
一体どうしてこういう差が生まれるのか、
どなたか良いアイデアがあったら教えて下さい。(^^;)

一つの考え方としては、米国人の方が商魂たくましいから、
『日本製の映画をリメイクし、それをまた日本に逆輸出して
一儲けしようという魂胆があるんだ』という解釈も出来ますが……
それだけでは無いような気もするんですよね。

46 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/03(水) 11:31:00 [ 64.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●オーケストラ リハーサル(1979)☆☆●●●

フェリーニ映画の一つで結構、有名らしいので見たんですが……
何か時間を無駄にした気分でしたね。(^^;)
結局、映画に限らず、この手の前衛作品というのは
成功するのはほんの一握りで、大半は失敗策なんじゃないですか!?

その意味で、いわゆる前衛芸術とのつき合い方は難しいですよね。
無論、作者にすれば血のにじむような苦労があるんでしょうけど、
観賞する我々からすると、一々彼らの実験にはつき合い切れないというか……
とにかく人生は有限ですからね、本当の傑作だけを見たいと思う分けですね。

台詞(せりふ)を無秩序に重ねつつ、人生の諸相を浮かび上がらせるというのが、
フェリーニの手法らしいですが、この作品にもそんな趣(おもむき)があります。
その場合、音楽、特にオーケストラに興味がある人なら、
個々の楽器の個性を語る内容などもあって飽きないかもしれませんけど、
そうでない人はきっと退屈する作品だろうと思いました。

47 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/06(土) 09:55:57 [ 231.net059085050.t-com.ne.jp ]
  ●●●ルル(2002年10月チューリヒ歌劇場)☆☆●●●

偶然、二件続けて前衛芸術を見てしまった感じですね。(^^;)
これはオペラ作品ですが、前に書いた『ジュディッタ』とは
対極に位置づけられるべき内容であるように思いました。
つまり、本来のオペラは貴族の気晴らしの為に作られたような物が多くて、
内容的にも余り深刻なものはなく、単純に楽しめるように出来ている分けです。

それでも、ベルディやプッチーニあたりになると、
結構、重たいテーマが取り上げられたりする分けですが、
ただ、この辺までのいわゆる歌劇と呼ばれるものは、
沢山の独立した歌がつながって一つの作品を構成している分けです。
例えば、一曲3分の歌を数十件つないて二時間にしたような感じですかね。

それに比べ、ワグナーの楽劇以降は、もはや、
『どこからどこまでが一つの歌』と区別できない構造になっていて、
言わば、オペラ全体が一つながりの音楽な分けですね。
その意味で、ダラダラと切れ目なしに続く音楽は、ある意味で、
ひどく捉えどころがないですから、それを聞きこなすも大変なんですね。(^^;)


このオペラは、音楽スレッドでも取り上げた例のベルクの作品で
そうした楽劇の構造を踏襲した上で、更に無調という分けですからね、
当然、もっと難解になる分けですが……
純粋に音楽的に見て、成功しているとは言い難いように思いました。
他方では、これは西洋オペラの一つの終着点であり、言い換えると、
オペラの墓場(笑)とも言えるんじゃないでしょうか。

実際問題として、こんな作品はとても『夏のバカンスの息抜き』
として気楽に見られるような代物ではありませんからね。
その意味で『ジュディッタ』とは正反対という分けです。
因みに、こういう前衛オペラともなると、オペラ歌手にしても、
裸に近い格好でポルノ俳優まがいの演技をさせられる分けですからね、
『楽ではないだろうなあ』という印象を受けました。(^^;)
そう言えば、少し前に見たリヒアルト・シュトラウスのオペラ
『サロメ』なんかにも相当、きわどい演技がありましたね。

『ルル』といえば日本では風邪薬(笑)のことですが、
ここでは悪女の名前で、次々と男を破滅に追い込み、
最後は切り裂きジャックに殺される、という役回りな分けです。
この切り裂きジャックというのは実在の犯罪者らしいですが、
1888年頃の事件と言いますから、もう随分昔の話ですよね。
  切り裂きジャック(Jack The Ripper)の事件とは
  http://www13.ocn.ne.jp/~uk_fan/jpage/library/lb_q004.htm


で結局、このオペラのテーマとして一体、
何を訴えたかったのかということですが……強いて言えば、
現代における性の不毛ということでしょうかね!?
つまり、女の肉体には決して刃物が付いている分けではありませんが、
その振る舞いが男たちの心をズタズタに切り裂くことがある分けで、
その報酬として、逆に女が男(切り裂きジャック)によって、
今度は本物の刃物でズタズタに切り裂かれるというわけですね。

こうした問題は、現代日本における夫による暴力とか、
親による子殺しの問題につながっているとも言えるでしょうね。
ただ、この手の『娼婦を惨殺する文化』というのは、
キリスト教国に特有の現象であるような気もします。
例えば、米国における近年の犯罪を見ても、
娼婦を惨殺するという例は珍しくないんですね。

やはり、娼婦を悪と見なすキリスト教文化の影響が強いんでしょうか。
歌舞伎では、娼婦(花魁)を身請けして妻にするという展開も、
決して珍しくありませんし『お前の母親は娼婦だ』と言っても、
日本ではそれほどのインパクトはありませんが、
欧米では最大級の侮辱になるようですからね。

48 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/09(火) 11:39:17 [ 130.net059085048.t-com.ne.jp ]
  ●●●かもめ(2004年10月マールイ劇場の東京公演)☆☆☆●●●

チェホフの演劇では以前に『三人姉妹』について少し触れましたね。
チェホフの4大戯曲という言い方があるかどうか知りませんが、
この作品は私にとって『桜の園』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』
に続く最後の作品になりました。

今回は本場の俳優と舞台装置ということで、さすがに重厚な作りでしたが、
何故か、もう一つ物足りないという印象が残ったんですよね。
他の作品に比べテーマが明快でないせいかとも思ったんですが……
実は以前の作品は全て、日本の俳優が日本語で演じていたんですね。

本場の俳優がロシア語で演じる場合、映画同様の字幕が下に付きますが、
何と言ってもその分量が実際の台詞の五分の一位しかないんですね。
チェホフの演劇は台詞劇の要素が強いと思いますが、
そのセリフの大半がカットされてしまうとなると、
やはり欲求不満に陥るのは不可避ではないでしょうか。


ストーリーの中心は『女優とその息子がいて、息子が思いを寄せる娘が、
女優の友達の小説家に惹かれている』という展開ですね。
結局、娘は小説家を追いかけてモスクワへ行き、そこで一応、
女優になる分けですが、その小説家には捨てられて不幸になる分けです。

その頃には息子の方も物書きとして名が売れ始めていて、
それで、戻って来た娘に改めて言い寄る分けですが……
娘は捨てられても尚、小説家への思いを振り切り難くて、
プロポーズした息子は、失恋して自殺するという結末でした。

全体にいくつもの『満たされぬ片思い』が描かれていて、ある意味で、
性の不毛というテーマは、前回の『ルル』と共通しているかもしれませんね。
ただ、今までの作品で社会性の強い問題が描かれていたのに比べると、
この作品の『恋の不毛』というテーマは非常に私小説的で、
チェホフの作品としては異色作という印象を受けました。


それでも通俗小説なんかに比べれば、遥かに格調高く、
そうした『恋の不毛』が描かれる分けですが……
その場合『かもめ』という題名は自由への憧れと同時に、
破滅をも象徴しているんでしょうか。
息子がカモメを撃ち殺すという挿話もありましたしね。

そう言えば、例の人類初の女性宇宙飛行士として有名なテレシコワが、
宇宙で最初に発した言葉が『私はカモメ』だったですね。
この場合のカモメは単なるコールサインに過ぎないという話もありますが、
宇宙への飛翔は『自由への憧れ』の極致とも言えますからね。

でも、それが破滅と裏腹であるとすると、
一体どういうことになるんでしょうか……。
あくまで一般論として言えば
『希望と絶望は紙一重』ということでしょうかね。(^^;)

49 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/15(月) 12:56:00 [ 156.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●奴の小万(2004年5月国立大劇場の前進座公演)☆☆☆●●●

この前進座・歌舞伎という奴は、今まで私が見た限りにおいて、
例の『偽歌舞伎』の発信源の一つという気がしていたので、
私としては『どうにもいただけない』という印象だったんですね。
この公演にしても、特に前半なんか『華がない』というか、
何か貧乏くさい感じが付きまとって最悪(一つ星)でした。
その帰結として、どうも前進座の歌舞伎は何か『歌舞伎というものを
田舎芝居に引きずり下ろそうとしている』かのような印象を受ける分けですね。

前進座というと、言わずと知れた共産党系の劇団で、
一時は色々と物議を醸したようですね。
  前進座事件
  http://www.miike-coalmine.net/data/koe/zenshinza.html
(結局、この頃の日本はまだまだ健全で、
共産主義に対する抵抗力があったと言うべきなんでしょうね。
今では、もはや完全にそうした抵抗力を失い、
共産主義謀略のなすがままに操られているわけですが……。)

そうした背景を考えるなら、こうした田舎臭さにしても、
『日本の文化をつぶそうとするユダヤ主義の工作があるんじゃないか』
とまで私なんかは、ついつい疑ってしまう分けなんですね。(^^;)
そうした事も含め、私としては色々と複雑な思いもある分けですが……
以下では、原則的に歌舞伎に絞った話をしようと思います。
因みに『奴の小万(やっこのこまん)』というのはあくまで通称で、正式な名は、
『褄模様沖津白浪(つまもようおきつしらなみ)』と言うそうです。


で、問題はそうした『華のなさ』の原因なんですが、当初は、
いわゆる松竹歌舞伎のようなスターシステムがないせいかとも考えたんです。
でも、その点からすると例の猿之助歌舞伎にしたって、
決して世襲制のスターシステムに頼っている分けではないんですね。
それでも、決してこんなに『華がない』感じはしませんから、
原因をスターシステムだけに求めるのは無理だろうと思うんです。
ひとつには舞台装置や衣装の安っぽさがあるのかもしれませんが、
それ以上に問題なのは、演技の方法論として
新劇的リアリズムを持ち込む傾向があることではないでしょうか。

例えば『俊寛』を演出する時の話なんかにそれを感じました。
『俊寛が後進に自分の夢を託す』なんていう解釈は如何にも新劇的ですからね。
もう一つ挙げれば、佐倉惣五郎の話を扱った『佐倉義民伝』も同様でしたね。
他方では、妙に大衆にこびる演出も安っぽさの一因ではないでしょうか。
もっとも、大衆にこび過ぎるという点では、以前に書いた
『極付幡随長兵衛』の公演も似たようなものでしたけどね。
つまり、これは確か『團菊祭五月大歌舞伎』という公演の一部でしたが、
そのアトラクションで、歌舞伎役者がミニスカートをはいて
チアリーディングかなんかをやっていたのには白けました。(-_-;)

まあこの辺になると『そもそも歌舞伎とは何か』という話になる分けですが……
例えばオペラの場合、確固たる独立した存在として音楽がありますから、
その他はどう変えても構わない分けですよね。
つまり、ワグナーの『さまよえるオランダ人』であれば、
舞台装置や衣装や演出をどんなに変えようが、その音楽が鳴っている限り、
誰が見ても『さまよえるオランダ人』である分けです。


それに比べ、歌舞伎の音楽にはそれほどの独立性はありませんから、
一定の約束事を破る場合は、もはや歌舞伎とは呼べないでしょうね。
その場合、通常は定められた衣装や舞台装置をそのまま踏襲しますが、
『コクーン歌舞伎』なんかでは、そこを大幅に変えますからね。
歌舞伎の本質を構成する約束事としては、むしろ、女形の存在とか
見栄や六方のような型に求めるべきかもしれませんね。

その上で、豪華な衣装や舞台装置を交えて役者が生み出す様式美が、
歌舞伎の命ではないかと思いますが……
そこを一歩間違えて華を失うと、歌舞伎というものは、
たちまち『単なる田舎芝居』に堕してしまう危険がある分けですね。
但し、この作品の場合は何といっても原作者があの鶴屋南北ですからね。
それが何故か演じられないまま放置されていたのを、
前進座が昭和になって初演したんだそうです。

そのせいか、さすがに後半に入ると物語本来の力によって、
歌舞伎の世界に引き込まれてしまいました。
女同士の鞘当てから、子万の死に至るあたりの
どろどろした展開が、さすがに南北という感じですね。(^^;)
因みに、この演目に続いて、もう一つ『供奴』という舞踊があったんですが、
この踊りが大変に高度で、ちょっとした見ものでした。
これは、日本舞踊の一つの極致と言って良いかもしれませんね。

50 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/16(火) 10:42:18 [ 213.net220148232.t-com.ne.jp ]
  ●●●マイライフ アズ ア ドッグ(1985)☆☆☆−●●●

その名が印象に残っていたんですが、特に賞は取ってないみたいですね。
『犬としての人生』なんて一体、何事かと思う分けですが、
内容からすれば、少し奇をてらった名前でしょうね。
少年が母と死別したり、性に目覚めたりするという自伝的物語ですが、
スウェーデン流のちょっとエッチな映画という点を除けば、
余り見所のない作品だろうと思いました。

広い意味では、こういうのも『有害映像』になるんでしょうかね。
でも、あんな北の方の国の人間が南洋みたいな所まで
出稼ぎに行くのが珍しくないらしいのは、少し意外でした。
ある意味で、太陽の乏しい国だからこそ、
逆に太陽のあふれた国に憧れて、
そういう所に行くのかもしれませんね。(^^;)

51 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/17(水) 09:41:45 [ 67.net059085042.t-com.ne.jp ]
  ●●●戦場のピアニスト(2002)☆☆☆●●●

前に似たような名で『船上のピアニスト』というのを見た気がしましたが……
改めて調べ直した所では『海の上のピアニスト(1999)』でした。(^^;)
でも、何かと紛らわしいですから、
こういう語呂合わせみたいなことはやめて欲しいですよね。
原題はこっちが『The Pianist』前のが『THE LEGEND OF 1900』と、
全く違う分けですからね。

監督はロマン・ポランスキーで、ポーランドのユダヤ人迫害の話ですが、
まあ、映画の造りとしてはしっかりしているんでしょうね。
題材が題材ですし、退屈はしませんでした。
でも……ユダヤ人迫害の話は、後から後から、
これでもかという位に見せられますよね。
結局『ユダヤ人が如何にひどい目にあったか』ということを、
宣伝したい奴がいるわけでしょうね。


全てがユダヤ支配の世の中ですから、そういう映画が幾ら多くても、
別に驚くには当たらないと思いますが、それに比べると、
日本人は宣伝が本当に下手ですね。
例えば日本人は、もっと原爆被害のことを宣伝すべきではないんですか!?
私なんか、あの二つの原爆はアウシュビッツの腹いせに
ユダヤ人が落させたんだろうと疑ってる口ですからね。

その意味では、原爆で殺された人々の怨念を表現するのに、
能という形式は最適じゃないかと思うわけですが、
残念ながら『原爆能』を作ったという話は余り聞きませんよね。
そういう能は一つ二つというより、半ダース位あっても良いと思うんですが……
戦後の日本人は一体何をやっていたんだろうか、という気がします。

52 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/23(火) 11:11:48 [ 52.net220148174.t-com.ne.jp ]
  ●●●あの子を探して(1999)☆☆☆−●●●

ベネチア映画祭で金獅子賞(グランプリ)を取ったらしいですが、
これは例の張芸謀監督の作品です。(^^;)
でも『上海ルージュ』なんかより、ずっと新しい作品なのに、
何故か描かれる内容は、ひどく貧しい山村の話なんですよね。
21世紀も近いのに、まだこんなに貧しい所があるのかと驚きましたが、
或いは少し時代を逆上った話なんでしょうか。

その意味では、最新型の四輪駆動車と、
周囲の農民の貧しさとの落差が非常に印象的でした。
例えば、一缶のコカコーラを多人数で一口づつ飲む場面がありますが、
米国との合作映画なので、ここには宣伝も入ってるんでしょうかね。

最初は少し退屈ですが、中盤のバス代稼ぎの所なんか、
いわゆる『総合的学習』のお手本という感じがしました。(^^;)
最近の日本では、その『総合的学習』で苦労する教師もいるようですが、
ここの話は『ちょっと出来過ぎ』という印象もありますから、
まあ、映画的な創作もあるんでしょうね。


でも、終盤に入ると話の展開にちょっと無理を感じました。
13才の少女が代用教員をやるという設定自体が、
日本ではちょっと想像できませんが、
その彼女が結局ヒッチハイクで町にたどり着いた末に、
『善意と情熱と根性だけで、ただひたすら行方不明の生徒を探す』
という所が、いくらなんでも無茶苦茶という気がするんですよね。

一歩間違えば生徒も代用教員も、のたれ死にするんじゃないか、
とハラハラさせられますが、或いは、日本に比べれば、
中国社会はまだまだ人情が厚く、治安も良いということなんでしょうか。
でも最終的には『TVが取り上げてくれたお蔭で、全てめでたしめでたし』
という分けですからね、如何にも安直という印象を免れませんよね。

大体、生徒は家が貧しいから学校をやめて出稼ぎに行ったわけでしょ!?
それを、どういういきさつがあったにせよ、単なる一教員が出しゃばって
連れ戻したとして、一体どういう未来があるのかということですよね。
そうした多くの不自然さを『マスコミのお蔭で寄付が集まって、
全て解決しました』という展開でごまかしたという感じなんですね。
その意味で、星三つにマイナスがつく分けです。


こうしたマスコミの使い方は >>16 の『あなたに降る夢』とも共通しますが、
この場合は、むしろ『未開社会とマスコミとの出会い』という意味で、
以前に見た『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)』
という歌舞伎との比較が面白いでしょうね。
これは、河竹黙阿弥が明治になってから作ったという異色の作品ですが、
時代転換期の躍動感を伝えている点で、第一級の資料だろうと思います。

その中で、最後に『新聞報道で寄付が集まった』ことが、
『水天宮様の御利益』ということになっている分けですよね。
今から見ると結構笑えますが……結局、未開社会の人々の目には、
マスコミというものが魔法のように見えるのかもしれませんね。

言い方を変えると未開社会の人間には我々のような
『マスコミへの免疫』が無いと言うべきなんでしょうか。
我々は既に『マスコミにお願いして物事が解決する位なら、
何も苦労はしない』ということを知り過ぎてますからね。(^^;)

53 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/29(月) 11:37:12 [ 202.net220148234.t-com.ne.jp ]
  ●●●内外詣(金剛流)☆☆☆−●●●

能に興味がある方は御存じと思いますが、能には5つの流派がありまして、
観世流・宝生流・金春流・金剛流・喜多流と別れる分けですね。
その場合、他の4流派が東京に本拠を構えているのに対し、
この金剛流だけは何故か京都にとどまっているそうですね。
そのせいかどうか、金剛流の能には一種独特の風格があって、
私は、特に気に入っています。

この演目は今年の元旦にやっていたのを録画したんですが……
ということは例の祝祭能の一種ですから、余り期待はできませんよね。(^^;)
『内外詣(うちともうで)』というのは、金剛流だけに伝わる特殊な演目で、
『京都から参拝に来た天皇の勅旨を迎えて、伊勢神宮の神官達が神事を行う』
という、舞いが中心の作品のようですが、『内外』というのは、
それぞれ伊勢神宮の内宮と外宮を意味するそうです。

中盤で、能面を付けた巫女が舞うあたりは何の変哲もないんですが、
終盤に神官が舞う所では、少しギョッとさせられました。
何か八咫(やた)烏か何かのくちばしみたいな金色の被り物をして舞うのが、
ひどく異様な印象を与えるんですが……
実は、これは獅子舞だと言いますから、獅子の表象らしいですね。
正月ですから、いわゆる魔除けとしての意味あいもあるんでしょうか。
この獅子舞いの迫力だけで、☆☆から☆☆☆−に格上げです。(^^;)

54 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/31(水) 11:49:38 [ 78.net059086101.t-com.ne.jp ]
  ●●●浮草物語(1934)☆☆●●●(1/2)

これは戦前に作られた無声映画で、小津安二郎作品の一つですが……
『まあ、この程度の映画なら、わざわざ無声映画に付き合うまでもないだろう』
という意味で二つ星にしました。(^^;)
小津作品を正式に取り上げるのはこれが最初だと思いますが、
実を言うと、同じ脚本で戦後に作られた映画があるんですよね。
そっちの題名は『浮草(1959)』と言ったと思います。

そのリメーク版の『浮草』は小津の三つ目のカラー作品だったようですが、
その構図や色使いなどに小津の才能が良く出ていたと思います。
ただ、私にとってむしろ印象的だったのは、この辺からの小津作品が、
『戦後のギラギラした欲望』を反映し始めるように思えたことなんです。
というのも、例の『東京物語』を含め、その前後の小津作品には、
一種の清澄さが支配しているのが、非常に好ましかったからなんですね。

それに比べ、この映画では画面に色が着くのと並行するかのように、
もう一つの色(欲望)の方も、表面化して来るんですよね。
例えば、女の股ぐらに手を突っ込んで陰毛を抜き取るみたいな
嫌らしいというか下司な描写もありましたしね。


物語としては『旅芸人の親方がある地方に馴染みの女を持っていて、
その女に生ませた息子が既に二十歳になっている』という設定なんですね。
で、親方は一座にいる女優を今の情婦としているらしいんですが、
この情婦がその女に嫉妬した末、配下の女優をけしかけて、
親方の息子に言い寄らせるという展開になる分けです。

結局、その二人の恋は本物になってしまい、
親方にばれて痴話騒動が起こる分けですが、
その騒動の過程で、何も知らされていなかった息子は、
『おじさん』として付き合っていた親方が
実は、自分の本当の父親だったと知る分けですね。

リメーク版の方では『息子が真実を知って苦しんだ末に、
父を許して和解する』という展開が詳しく描かれていて、
『戦後良くあった親子再会という人情物の元祖は、
小津映画だったのか』と思った分けですが、
この無声版では、その辺はさらっと流してましたね。


で、その『浮草』が無声映画のリメークであると知って以来、
私としては元の映画が少し気になっていたんです。
というのも、例のギラギラした欲望が戦後特有のものなら、
戦前の無声映画は一体どうなっていたんだろうということですよね。
で今回、分かったのは、似たようなどろどろした欲望描写は、
戦前にもあったんだなあということでした。

結局、敗戦から暫くの間は、国全体が荒廃して皆が貧しかった分けですし、
全ては『灰とあきらめ』の中から始まってますから、
欲望と欲望のぶつかり合いみたいなことは起こるべくもない分けですよね。
他方、戦争中は戦争中で『贅沢は敵だ』みたいな雰囲気があった分けで、
ここでも、生の欲望同士が衝突することは少なかったんでしょうね。

その点、1934年と言えばまだ日米開戦には間がある時期ですから、
こんな映画も作られたんだろうと思います。
逆に言うと、私が小津映画の特徴と考えていたあの清澄さは、
戦中・戦後の一時期のものと考えるべきなのかもしれませんね。

55 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/08/31(水) 11:55:09 [ 78.net059086101.t-com.ne.jp ]
  ●●●浮草物語(1934)☆☆●●●(2/2)

ところで、この映画で息子役を演じている『三井秀男』という俳優なんですが、
もし戦後まで生きていたなら、我々が知らないはずはないと思うんですが……
この人も、きっとあの戦争で戦死したんじゃないでしょうか。
(実は、後から調べて気付いたんですが、ひょっとすると、この人の場合は、
戦死したのでなく、戦後に『三井弘次』と改名したのかもしれません。(^^;))

それで思い出したんですが、これも小津のサイレント映画で、
『大人の見る絵本 生れてはみたけれど(1932)』というのがあるんですね。
これは中々の傑作で、私は四つ星を付けたんですが、
その中に二人の少年が出て来るんです。
その内の一人はこの『浮草物語』にも出ている突貫小僧という少年ですが、
もう一人が『菅原秀雄』という名前らしいんですね。

で前者は、どこにでも良くいる『でくの坊』(失礼(^^;))という感じですが、
ほんの暫く前に亡くなったというニュースがありましたね。
それに比べ、後者は大変に利発そうな少年で『戦後も生きていたなら、
きっと大物になったに違いない』と思わせる風貌なんですよね。
それで気になって、後から色々とネット調べをやったんですが……
結局、戦後の足跡は全く見つかりませんでした。(-_-;)


ということは『この人もやはり、あの戦争で殺されたんだろうな』
と思われて、私としては非常に寂しい思いをしました。
まあ、三島由紀夫があんな風に自決したことも、
戦後日本にとっての損失であるとは言えるんでしょうけど、
私にとっては、この『菅原秀雄』さんの方がもっと惜しい気がしたんですよね。
多分その年代からすれば、徴兵されて戦死した可能性が大きいんでしょうね。
もし、この方のその後の消息を御存じの方がいらっしゃいましたら、
是非々々教えて下さいませ。m(_ _)m

戦争というのは残酷と言うべきか、ユダヤ主義に消されたと言うべきか……
三島由紀夫の自決の場合は、やはり洗脳圧迫が背景にあるように思いますから、
全ては共産主義による奴隷制度がもたらす害悪に含め得るでしょうね。
その点では皆さんも、もうすぐ来る『911選挙』で、
共産主義者には決してだまされないようにしましょうね。(*^^)v
奴らは嘘が本当にうまいというか……
全てを知っている私ですら時々、うっかり騙されそうになる位ですからね。

結局、共産主義は表と裏で正反対の動きをすると思えばいい分けで、
つまり、表が反対している時は、裏で推進している分けです。
例えば、表が戦争反対を叫んでいる時は、裏で戦争を画策しているし、
表が格差拡大に反対している時は、裏で格差拡大を推進しているんですね。
実際問題として今の政治家の多くは、共産主義に洗脳された犬ですし、
そいつらを共産主義を使って操作し、社会全体を大嘘で支配するのが、
ユダヤ主義の『永遠不変の汚いやり口』なんですよね。


その場合、共産主義の連中は大嘘で国民を欺いているつもりでしょうが、
実の所は、自分達がユダヤ主義によって欺かれている分けなんですね。
その意味で、どうにも度し難いというか、救い難い馬鹿どもですよね。
まあ、巧妙と言えば実に巧妙な仕組みがあるわけですが……
その点では、ユダヤ主義に目の敵にされている北朝鮮の方が、
余程ましと言えるんじゃないでしょうか。

もっとも……『意図的に嘘をついている』のは、奴らの内の一割未満で、
大半の連中は『自分たちの組織が犯している犯罪については
何も知らされないまま操作されている』んじゃないかと思います。
その意味で、共産主義者にとっては『無知こそが最大の財産』なんですね。
まあ、このサイトのアクセス数があと二桁か三桁位あがれば、
その辺の事情は大幅に変わるんでしょうけどね。(^^;)

56 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/09/04(日) 09:41:24 [ 175.net220148247.t-com.ne.jp ]
  ●●●タウリスのイフィゲニア(2001年チューリヒ歌劇場)☆☆●●●

これはグルック作のフランス語オペラですが、これとよく似た名で
『アウリスのイフィゲニア』という奴は、全くの別物らしいですね。(^^;)
グルックという人は、バッハとハイドンの中間に生まれていますが、
この作品なんかも、いわゆるバロックオペラに含めて良いんでしょうか。
で、そのバロックオペラなんですが、音楽的にもう一つ魅力が少ない上、
ストーリーもギリシャ神話に題材を取ったりしていて、難解というか
現代オペラとはまた別の意味で『取っつきにくい』作品が多いですね。

この人のオペラとしては以前に見た『オルフェオとエウリディーチェ』
の方が有名ですが、これまたギリシャ神話ですからね。
今回のオペラにしても、その筋は何か分けが分かりませんが、
西洋人はこうした物語からも、何か寓話的な教訓を読み取るんでしょうか。
もっとも、ギリシャ神話とオペラの関係は因縁浅からぬ物があって、
そもそもオペラというものは、ギリシャ悲劇のセリフを歌にすることから
始まったらしいですね。
  オペラとギリシア神話
  http://mitleid.cool.ne.jp/greek.htm

因みに、同じギリシャ神話を題材としたオペラでも、
リヒアルト・シュトラウスの『ナスソス島のアリアドネ』は最高でした。
この場合、ギリシャ神話は劇中劇みたいな扱いの喜劇ですが、
何と言っても音楽が素晴らしいですからね。
結局、今まで私が見たオペラ作品の中でのベスト3は、
この『ナスソス島のアリアドネ』とプロコフィエフの『修道院の結婚』
そして、モーツァルトの『ドンジョバンニ』になると思います。
(但し、ワグナーは一応、別格として除外してますが……。)
最後の奴は確か、戦後間もない時期にフルトベングラーが指揮したという、
曰く付きの作品でした。

57 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/09/06(火) 09:27:42 [ 225.net220148237.t-com.ne.jp ]
  ●●●呪怨(2000)☆☆☆−●●●

9月になっても暑いので、またまた納涼用にホラーを見たんですが、
これまた米国でリメイクされて有名になった作品ですね。
でもどうなんでしょうか……確かに怖がらせるだけ怖がらせますし、
効果音の使い方などに独創的な点が見られるのは事実なんですが、
最後まで何の解決も落ちもないというのが、最大のネックですよね。

その意味では『これが五回シリーズの導入篇である』
とかいうのなら話は分かりますが、TVシリーズならともかく映画の場合、
そんな導入篇だけで金を取るとしたら、随分ふざけた話ではないでしょうか。
という分けで、独立した作品としての完成度からすると☆☆ですが、
まあ、一応ホラーとしては成功していて、
退屈はしないという意味で☆☆☆−にしました。

58 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/09/13(火) 11:18:01 [ 134.net059085047.t-com.ne.jp ]
  ●●●加賀騒動(1953)☆☆●●●

モノクロの古い時代劇ですが、録画状態が悪かったのか、
元の音声が悪いのか知りませんが、声が聞き取りにくくて苦労しました。
そもそも、なんでこんな古い時代劇を見るのかというと、私の場合、
歌舞伎に描かれる物語の背景を知りたいという事情があるんですよね。
その意味で、必ずしもお勧めの映画という分けではありません。(^^;)

以前にも『曽我兄弟 富士の夜襲(1956)』というのを見たことがありますが、
歌舞伎の場合、日本三代仇討ちというのがあるんですね。
時代順に並べると『曽我兄弟』『荒木又右衛門』『赤穂浪士』となりますが、
その中でも特に曽我兄弟の仇討ちは、歌舞伎の理解に不可欠のようですね。
というのも歌舞伎では、ありとあらゆる所に曽我兄弟が顔を出すからなんです。

結局の所、この事件は武士が台頭して以来の日本人の心性を、
深いところで代表していて、そうした心性の典型として扱われるようですね。
実際に映画を見た印象としては、それほどすごい事件とも思えないんですが、
何と言っても『日本史上、最初の仇討ち』という位置づけになる為に、
こんなにも有名になったんでしょうか。


似たような意味で、歌舞伎で扱われる物語は、
その殆どが映画化されているみたいですね。
ある意味で、劇映画の種が尽きた時には便利な在庫だったのかもしれません。
ですから、歌舞伎の予習として関連映画を見ておくのも一法ですよね。

この加賀騒動にしても、歌舞伎ではいろんな所に出て来るみたいです。
例えば、私はまだ見ていませんが
『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』は、
この話の時代を移し替えた作品らしいですね。

私が加賀騒動に興味を持ったのは、むしろ猿之助歌舞伎の
『盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)』で、
加賀鳶(大名火消し)と町火消しとの喧嘩が出て来たからなんですね。
この映画の発端でもそれが描かれていますが、
残念ながら、全体的な関連性は余りありませんでした。


で、この映画の内容なんですが全体の構図からすると、
大槻伝蔵を善人として描いているのが不自然な感じでした。
『自分の恋人を藩主の吉徳に奪われ、立身出世だけを目指す鬼と化した男が、
家老にまで出世した後、藩主の死期にその嫡子宗辰との面会を拒否する』
という展開が事実なら『恋人を使って色仕掛けで出世を手に入れ、
更には、恋人が生んだ藩主の子(実は自分の子)を藩主の座に付ける為に、
吉徳の毒殺を図った』という解釈の方がスッキリしますからね。

但し、真相はそんなに単純ではないのかもしれません。
当初、この事件は『主君毒殺の陰謀』として講談に仕立てられたようで、
『加賀見山旧錦絵』も大体その線で作られているようですが、
後世の歴史家はむしろ、そうした毒殺説を疑っているみたいですね。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E9%A8%92%E5%8B%95
  現在では、吉徳、吉辰の死に事件性はなく、
  重熙・浄珠院毒殺未遂事件は守旧派の中心人物であった前田直躬による
  大槻派一掃のための狂言犯罪であったと考えられている。
その点、この映画では元の講談の構図を踏襲しつつ、
そうした後世の大槻善人説を持ち込んだものだから、
少し無理が生じているのかもしれませんね。(^^;)

59 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/09/22(木) 11:31:58 [ 116.net059085049.t-com.ne.jp ]
  ●●●赤鬼・タイ語版(2004年9月シアターコクーン公演)☆☆☆●●●

この舞台を作った野田秀樹という演出家は、例の軽薄短小の全盛時代に
一世を風靡したというか、色々と騒がれていた分けですね。
ですから私としては、この人もどうせ軽薄短小なんだろうと思って、
今までは少し敬遠していたんですが……今回初めてビデオを見ました。(^^;)
その点では『"いつわり"は真実を産む為の"つわり"である』みたいな、
言葉遊びがやはり目に付きましたけど、
心配したほどの軽薄短小ではなかったようです。

この赤鬼という作品は日本語版の他にタイ語版と英語版が作られていて、
BSではその三つをまとめて放映していたんですが、
とても全部見る暇はないと思って、このタイ語版のみを録画しました。
で、その内容なんですが、中々一筋縄では行かない作品ですね。
冒頭では『外部者に開かれた心』を持つ人と持たない人の対比があって、
例の『日本における第二の開国』を煽動するみたいな
奴隷新聞の論調のお先棒担ぎかなと嫌な予感がしたんですね。(-_-;)


で、その点について書き始めるとまたまた長くなるんですが……
結局、問題の核心は『人間を透明な存在に帰着させようとする』
ユダヤ主義の戦略にあるんじゃないかというのが私の考えです。
その件については、またいつか機会を改めて詳しく書くつもりですが、
今の時点で言える事は、結局『第二の開国』などと言う場合、
最終目標として『日本という名の多民族地域』にしたいのかどうか、
という点をハッキリさせる必要がある、ということですね。
  http://aaaazzzz.webcrow.jp/omake/shouhizei_2r.htm#336
奴隷マスコミとしては、その最終的な将来像をわざとぼかしつつ、
結果的にドロナワでそういう状況に持ち込みたいらしいですからね。

で、こういう事を言うとすぐ『偏狭な国家主義』だとか決めつけて、
勝ち誇ったような顔をするのが奴らの常套手段なんですが……
そうした攻撃に対処する為に最善の方法は恐らく、奴らの上を行くような
更に極端な寛容をぶつけることではないかと思います。
例えば『あなたがそんなに寛容な人間だと言うのなら、
どうして、ホームレスを毎晩食事に呼んでやらないんだ』とか、
逆に問い詰めてやれば良いわけですよね。
結局、無限の寛容などということは、そもそも不可能であって、
『誰にもそれなりの許容限界があるのだ』ということを明確にすれば、
こうしたユダヤ主義の論理に対する十分な毒消しになると思うんです。


ちょっと脱線しましたが……この劇は中盤から終盤になると、
また少し色合いが変わってきます。
中盤では、言葉の通じない赤鬼と村人とが互いの言葉を習得する過程が
描かれますが……この辺は種子島を始め歴史上にはあり触れたことですよね。
で、そうした出会いには、幸せなものと同時に不幸なものもある分けですから、
村人が最終的に赤鬼を処刑しようとすること自体、
簡単に断罪することはできないだろうと思います。

例えば、『1492 コロンブス(1992)』という映画に良く描かれてましたが、
アメリカ大陸に西洋人が入植する過程でも、
散々血なまぐさいことがあった分けですよね。
つまり、外来者が単なる人の良い友人であるとは限らない分けで
侵略者や支配者として来ることも多い分けですから、
そうした村人の反応は決して不可解なのものではないし、
現代的な視点からそれを排外主義と非難するのは筋違いだろうと思います。


まあ、この劇ではそうした判断は全て観客に投げ出して、
最終章に突入する分けですが、
最後に控えているのが、例の人肉食問題なんですね。
その件では、以前に『ひかりごけ(1992)』という映画に関して、
自殺関係の板で一通り書いたことがありました。
  http://aaaazzzz.webcrow.jp/omake/Kb100/iitaihoudai-plain400-799.htm#415
これも、寛容・不寛容の問題と同様に容易には結論の出ない問題で、
ここでも、作者は問題を観客に投げかけているに過ぎないんですが……
その意味では『だからどうなんだ』という不満が残る作品でしたね。(^^;)

因みに、ひとつ目についた演出として『複数の人間が同時に揺れる』
みたいな動きがありましたが、これは京劇(又は崑劇!?)のパクリでしょうか。
以前に見た作品で、確か『朱買臣休妻』という名前だったと思いますが、
『人々が小舟に乗り込んだ状態』を表現するのに、
『乗った人々が一緒に揺れるように動く』というのがありましたからね。

60 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/09/25(日) 10:14:33 [ 3.net059085045.t-com.ne.jp ]
  ●●●ダンス ウィズ ウルブズ(1990)☆☆☆+●●●

暫く前に色々騒がれていた作品なので録画したんですが、
これは4時間版という特大バージョンで、全て見るのが一苦労でしたね。(^^;)
見る前の予想としては、どうせ『白人とインディアンの和解』とか、
きれいごとを描くんだろうと思って余り期待はしていなかったんですが……
結果的には予想以上の出来で、三つ星に+が付きました。

結局、この映画の独創的な点は、米国開拓の歴史を
完全にインディアンの側から描いたという点にあるでしょうね。
そのストーリーが一体どこまで史実に基づいているのかは良く知りませんが、
実際問題として、出て来る白人の多くは悪人ですから、
観客はインディアンの側に感情移入するように強いられる分けです。

これは全くの偶然ですが、ちょうど前回『赤鬼』で述べたような
『原住民と侵入者の出会い』の好例とも言えますね。
監督が主演のケビン・コスナーというのも少し以外でしたが……
例のクリント・イーストウッドなんかより、
監督としての才能はあるかもしれません。(^^;)

61 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/10/06(木) 09:57:18 [ 107.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ●●●ラ シルフィード(2004年7月パリ・ガルニエ宮)☆☆☆●●●

パリの旧オペラ座(ガルニエ宮)と言えば何といってもバレエのメッカですが、
この建物は建築物として見ても圧倒的にすごい出来ですよね。
パリというのは、その全体が芸術作品みたいな街ですけど、
そうした中でもこの壮麗な建物は、ひときわ異彩を放っていると思います。
そもそも、日本人には建築音痴が少なくないようですが、
これはパリでも必見の建物の一つですから、
もしパリを訪れる機会があったなら、
是非じっくりと見物して、目の肥やしにして欲しいですね。(^^;)
  http://blog.pivoine.daa.jp/images/DSC_3465.jpg

さて、それで問題の『ラ・シルフィード』なんですが、
この作品は、近代バレエの元祖みたいな存在らしいですね。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%82%A8
ここでは、それを最初の公演時に近い様子で再現したようですから、
何となく時代がかったせいがしたのはそのせいかもしれません。
チャイコフスキーの3大バレエ(眠れる森の美女・クルミ割人形・白鳥の湖)
なんかに比べると、何と言っても音楽的な中身が薄いのが難点ですけど、
踊りのテクニックの素晴らしさは、やはり本場という感じですね。(*^^)v

物語の舞台はイギリスのスコットランド地方で、
婚約者のいる青年がふと出会った妖精と恋をするという展開ですね。
それで、結婚式の当日に婚約者を置き去りにして、
妖精を追いかけて森に行ってしまう分けですが……
結局は、魔女に操られてその妖精を殺してしまう結果になります。
他方、置き去りにした婚約者は別の青年と結婚してしまうという分けで、
うっかり浮気した男は、あぶはち取らずの報いを受けるという結末ですね。
まあ大した話ではないですけど、男の浮気をいさめる教訓話でしょうかね。
因みに、スコットランドが舞台ともなると、女性と同様に、
男性もスカートを履いているというのがユニークな点だろうと思います。(^^;)

62 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/10/19(水) 10:21:02 [ 18.net220148227.t-com.ne.jp ]
  ●●●三人姉妹(2001年11月パリ・シャトレ座)☆☆☆−●●●

三人姉妹と言っても、これは例のチェホフの戯曲をオペラ化したもので、
初演が1998年と言いますから当然、実験的な前衛作品になりますよね。
作曲家も『ペーテル・エトヴェシュ』と言う耳慣れないハンガリー人で、
内容は例の無調ですが……音楽的には、もう一つでしょうね。
つまり、それだけ独立してでも聞きたいという程の代物ではありません。

シャトレ座というと、例の旧オペラ座なんかに比べれば、
一つ格落ちという扱いの作品が上演されることが多いようですが、
それでも何と言ってもパリですから、
日本の基準から見たら相当なハイレベルですよね。(^^;)
因みに、この作品には沢山の日本人や日系人が関わっているようですが、
日本とハンガリーの合作という感じだったんでしょうか。


先ず、その登場人物の衣装や化粧に驚かされました。
中国風でもあり平安朝風でもありという印象ですが……
実は、これを担当したのが山口小夜子という日本人なんですね。
こうして歌手たちが東洋風の着物を着ている上に、
歌舞伎の隈取りみたいな化粧をしている分けですが、
実は三人の姉妹を含め、登場人物全員が男性歌手だそうですから、
その意味でも、かなり歌舞伎を意識しているみたいですね。(^^;)

そして、演出が天児牛大(あまがつうしお)という日本の前衛舞踊家なんですが、
舞台の端につり下げられた天秤は、この人のトレードマークらしいですね。
  http://www.sankaijuku.com/amagatsu_j.htm
他方、この演出では指揮者が二人いるんですが、
その内の一人がまた、ケントナガノという日系アメリカ人でした。
更にネット上を色々あさると、こんな舞台裏の余談もありました。
  http://www.colare.jp/rareko/semimaru/vol14.html


で、問題の内容なんですけど、元の物語を換骨奪胎したという感じで、
例の『自分達の今の苦しみは、後世の人の喜びの為にある』
という中心テーマとなるセリフを、冒頭に持って来ていましたね。
後は、三人の登場人物の視点で、同じ時間を三度繰り返す構成で、
先ず一つ目は、末妹の奪い合いから決闘になるというエピソード、
次は、三姉妹の兄が教授になりそこねて市会議員をしているという話、
そして三つ目は、次妹が軍人と浮気しそうになった末、
最終的には軍隊の移動であきらめるという展開でした。

結局の所、演出や衣装のお膳立てが斬新なのに比べると、
再構成された物語の訴求力がもう一つという所でしたね。
冒頭には、良寛の漢詩なんかも出て来てびっくりしますが……
これは後からのビデオ編集で付け加えたものなんでしょうか。
因みに、このチェホフの三人姉妹という戯曲では、
他にも、林光(はやしひかる)が作ったオペラがあり、
更には、バレエ作品もあるようですね。

63 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/10/26(水) 12:59:13 [ 240.net059086100.t-com.ne.jp ]
  ●●●地下室のメロディー(1963仏)☆☆☆●●●(1/2)

アラン・ドロンとジャン・ギャバンなんて言うと、
戦後の一時期には一世を風靡した組み合わせで、
フランス映画界では英雄みたいな存在ですよね。(^^;)
それで、この映画の名前も良く人口に膾炙していたので、
ちょっと見てみようかと思った分けです。

まあ古い白黒映画ですし、CG映画全盛のこの時代に
今さら古典的ギャング映画をみても仕方ないような気もしたんですが、
何と言ってもフランス映画のイキというか、
いわゆるエスプリを感じさせる出来ではありましたね。
ですから、サスペンス好きの人は見ておいて損はないだろうと思います。


この手の犯罪映画は皆『フィルムノワール』と言うのかと思ったんですが、
狭義のそれには『男を堕落させる運命の女』が必要なようですね。(^^;)
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
ならば、いわゆる戦後のヌーベル・バーグという奴かと思うと、
そうでもなくて、当時の流行とは一線を画していたようですね。

このアンリ・ベルヌイユという監督はトルコ生まれらしいですが、
本当にトルコ人なんでしょうか、その名前はフランス風ですが……。
  http://www.hochi.co.jp/html/whatday/what/10/1015.htm
因みに、ヌーベル・バーグというのは仏語で『新しい波』という意味ですが、
日本語の新派、英語のニュー・ウェーブ、ポルトガル語のボッサ・ノーバ、
これらが全て同じ意味のようですから、結構ややこしいですよね。(^^;)

64 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/10/26(水) 13:01:32 [ 240.net059086100.t-com.ne.jp ]
  ●●●地下室のメロディー(1963仏)☆☆☆●●●(2/2)

ところで私個人としては、欧米でこうした犯罪映画がはやり始めた背景として、
歌舞伎の影響があったんじゃないかと昔から少し疑っているんですが……
真相はどうなんでしょうかね!? 実際問題として『白波五人男』を始め、
歌舞伎では犯罪者を英雄として描くことが、ごく普通な分けですよね。
特に『三人吉三』なんてヤクザのゆすりたかりみたいのが主要テーマですから、
銀座のど真ん中の歌舞伎座でこんな芝居をやっていたりすると、
『暴力団のゆすりたかりを奨励しているのか』と錯覚を覚えますよね。(^^;)

で『何故、歌舞伎はそうなのか』ということが大問題なわけですが、
私の考えでは、江戸時代の圧倒的な貧富格差が見逃せないと思うんです。
つまり、現代のような法人税も累進所得税もない時代には、
商人なんか儲け放題に儲けていた分けですね。
その結果、そこから生じる余りに巨大な所得格差に対し、
江戸の町民が割り切れない気持ちを抱くのは必然だったろうと思うんです。

でその一つの帰結として、犯罪者に転落する庶民も多かったはずですが、
歌舞伎の『十六夜清心』は、そうした『悪が生まれる契機』を
鮮やかに描き出していたと思います。しかし、そうした人殺しはともかく、
『ゆすりたかりで、大金持ちの商人から金をくすねる』程度の行為には、
江戸の庶民はそれほど大きな罪悪感を持たなかったんじゃないでしょうか。


つまり、金持ちの土蔵から盗み出して、貧しい人々に配るという
鼠小僧のような義賊が横行する一方では、
その手のゆすりたかりによる『小判の強奪』も、
『富の再分配に不可欠の必要悪』と見なされていた可能性がありますよね。
例えば、同じ歌舞伎の『髪結新三』なんて、出て来る奴は悪人ばかりで、
まるで長屋全体でゆすりたかりをやってるみたいなもんですからね。(^^;)

無論、どんな義賊でも捕まれば、当時は獄門首でしょうが、
だからこそ、そこまで覚悟した上で犯罪を行う悪人達を、
一種の英雄と見なす風潮があったんじゃないでしょうか。
その意味で、江戸時代ほど大げさな貧富格差はなく、
刑罰もそれほど過酷ではない現代においては、
ヤクザのゆすりたかりと三人吉三のゆすりたかりを
同列に見なすのは公平ではないだろうと思いますが……
それにしても『過大な貧富格差が犯罪を誘発する』
というのは時代を越えた真理ではないでしょうか。


再び映画に話を戻しますと、刑務所で知り合った仲間同士が、
出所後の強盗を計画する分けですが、現代の状況の中で、
この手の犯罪を面白おかしく描くとなると
やはり、すこし抵抗がありますよね。
まあ、この映画では人を傷つけずにスマートな強盗をやる分けですが、
強盗が血を見ずに終わる可能性は必ずしも大きくない分けですからね。

つい最近、マブチモーター社長宅の強盗殺人事件で二人が逮捕されましたが、
何とこの連中も、刑務所の中で次の犯罪計画を練っていたらしいですね。
これは、何とも由々しき事態ではないでしょうか。というのも、
刑務所という所は犯罪者を更生させる為の施設であるはずでしょ!?
それが逆に、次の犯罪を準備する為の温床になっているとしたら、
一体なんの為にあるのか、分からなくなりますからね。(-_-;)

65 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/11/06(日) 09:54:34 [ 165.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ●●●テンダのベアトリーチェ(2002年1月チューリヒ歌劇場)☆☆●●●

今まで取り上げたオペラは、前衛かバロックか或いは軽歌劇という分けで、
中々標準的な作品にたどり着きませんね。(^^;)
その責任の半分は私にあるとしても、残り半分はNHKにあるでしょうね。
つまり、私は一度見たものは原則的にパスしてしまう関係で、
どうしても、ありふれた作品は脱落しやすい分けですが、それ以前に、
最近のNHKがろくな作品を取り上げないという問題がある分けですね。

例えば、スラブ・オペラなんて、
すごいのがゴロゴロあるのに、ほとんどやりませんものね。
その意味では、今回は辛うじて標準的な作品になったかもしれませんが、
でも、ベリーニなんて作曲家自体マイナーな存在ですし、
このオペラもハッキリ言って、とても名作とは言えませんからね。
音楽的には中身が薄く退屈な上に、
物語としても余り面白みがありませんでした。


荒筋は、政略結婚で領地付きの未亡人と結婚したミラノ公爵が、
他に好きな女が出来て、妻と別れる為に妻の浮気を探るという展開ですね。
それで、公爵が狙っている女は別の男を愛していて、
その男が実は公爵の妻が好きという分けですから、
良くある三角関係ならぬ、四角関係なんですね。(^^;)

でその男が妻に肩入れし、反乱を仕組んで捕まった末、
拷問で『妻も共犯である』と嘘の自白をした結果、
両方とも処刑されてしまうということになります。
それで結局、無実の妻は神を信じて死んで行く、
というただそれだけの話ですからね。
『だから何なんだ』という気分になりますよね。(-_-;)

66 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/11/08(火) 11:38:05 [ 140.net059085050.t-com.ne.jp ]
  ●●●初恋の来た道(2000米中)☆☆☆+●●●

またまた張芸某作品ですが……疲れた時の息抜きには、
ついつい中国映画を見たくなるようですね。(^^;)
結局、貧しい時代の庶民の素朴な生き方を見ていると、
何かホッとするというか、いわゆる癒し効果があるんではないでしょうか。

この映画は、主人公の父母が出会って恋愛をし、一緒になるまでの経緯と、
その父が死んだ時に、母が何とかして伝統的な葬式を出そうとして
苦心する経緯と、その二つの話を組み合わせた物語でした。
テーマとしては何も目新しいことはないんですが、
夫婦の年輪と愛情の蓄積を感じさせる点で、良くできた映画だと思います。

一つユニークなのは、カラーと白黒の組み合わせ方ですね。
つまり、普通は現在の出来事をカラーで描き、
過去の回想を白黒で表現することが多い分けですが、
この映画ではそれが丁度、逆さまになっていました。

それから小学校の周辺の風景とかが、以前に紹介した
『あの子を探して』と良く似た感じなんですが……
ひょっとすると、資金を節約する為に、
一つのセットで映画を二つ作ったのかもしれませんね。(^^;)

67 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/11/13(日) 10:20:22 [ 28.net220148247.t-com.ne.jp ]
  ■訂正■

前回、監督の名前で凡ミスがありました。
『張芸某』は『張芸謀』でしたね。(^^;)

68 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/11/20(日) 09:31:25 [ 162.net220148175.t-com.ne.jp ]
  ●●●ソフィーの世界(1999ノルウェイ)☆☆●●●

ハッキリ言ってがっかりしました。
何か原作の小説の方が先に有名になり、それを映画化したみたいですが、
少なくとも、この映画に関しては見るに値しませんね。
確か、子供向けの哲学紹介とか言う触れ込みだったと思いますが、
結局、この映画でやっていることは西洋の歴史を概観しつつ、
哲学のほんの表面を撫でているだけという感じです。

何かもう少し哲学的思考を刺激する内容があるかと期待していたんですが、
その点では前に紹介した『見知らぬ人』には到底及びませんね。
まあ、子供向けだからそれが当然という考え方もあり得ますが……
私の経験からすると、たとえ子供向けでも、本当に良い映画には、
大人が見ても得るものがあるはずなんですね。
それから『世界史と言えば即ち西洋史』『哲学と言えば即ち西洋哲学』と
当然のように決め込んでいる西洋人の発想がもろに出ている気がして、
その点でも、余り良い気はしませんでした。

でも……映画で二つ星というのは、大損したような気分ですね。
つまり、人生の貴重な時間を無駄に費やしたというか、
大切な時間をどぶに捨てたような気がして、
ひどく虚しい気持ちになる分けです。(-_-;)
これが同じ二つ星でも、オペラや歌舞伎の場合だと、
演目には限りがありますから『どうせ一度は見るだろう』
と諦めもつくんですが、映画となると無数にありますからね。
できれば、つまらない映画は見ずに済ませたいんですよね。(^^;)

69 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/11/26(土) 10:17:05 [ 170.net059085049.t-com.ne.jp ]
  ●●●『義経千本桜』より二場(2005年7月国立劇場)☆☆☆●●●

NHKの歌舞伎観賞教室という奴は毎年やってるようですが、
今年は、三大狂言の一つと言われる演目からの抜粋でした。
私は既に、仮名手本忠臣蔵と菅原伝授手習鑑はほぼ全体を見ましたけど、
この義経千本桜については、まだ断片しか見たことがないんですね。
これらはどれも、全体を上演すると10時間もかかるとか言いますから、
中々通し上演はやってくれないんですよね。(^^;)

それで、今回もいわゆる『みどり』と言う奴で、
有名な場面のみを抜粋して上演していたようですが、
前半が『川連法眼館の場』、後半が『蔵王堂花矢倉の場』でした。
因みに、一応『歌舞伎鑑賞教室』ですから、その合間には、
初心者向けに早変わりのからくり等を丁寧に説明していましたが……
こんな断片だけでは、作品としての評価は出来ませんよね。(^^;)
でも、一応退屈はしなかったので三つ星です。

70 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/11/28(月) 10:53:30 [ 75.net220148234.t-com.ne.jp ]
  ●●●流れる(1956年)☆☆☆−●●●

1956年と言えば、あの大戦が終わってやっと10年位の頃で、
いわゆる高度成長の始まる前ですから、時代背景としては、
以前に書いた『泥の河』と重なる時期かもしれませんね。
それに比べると貧しさは、それほど際立っていませんが、
この作品は斜陽の芸者置屋の話で、モノクロ映画でした。
今から考えると芸者置屋なんて、もはや過去の遺物という感じですが、
この頃はまだ、戦前の風俗が色濃く残っていたということでしょうか。

でも『こんなに美人ばかり揃っていたなら、
斜陽になんかなる分けがない』という気もしますが……
そこはそれ、映画やドラマの永遠の宿命という奴でしょうね。(^^;)
つまり、役者というものは原則的に美男・美女がなる分けですから、
その辺はどうしても嘘になる分けですよね。
これは例の成瀬巳喜男特集でやっていた作品の一つですが、
『日本にもこんな時代があった』という感じで眺める分には、
退屈はしないでしょうけど、まあ大した映画ではありませんね。

71 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/12/08(木) 09:56:21 [ 111.net059085052.t-com.ne.jp ]
  ●●●明日に向かって撃て!(1969)☆☆☆−●●●

少し前に『地下室のメロディー』というフランス映画を取り上げましたが、
これもまた犯罪者映画で、今度はアメリカ版です。
この時代には、この手の映画がはやりだったんでしょうか、
地下室のメロディーは1963年ですが、すぐ後の1967年には、
ボニーとクライドの二人組でこれまた有名な
『俺たちに明日はない』という自動車泥棒の映画がありましたね。

そして、その二年後にこの映画という分けですが、
これはブッチ・キャシディとサンダンス・キッドという
実在の銀行強盗がモデルらしいですね。
この後、更に10年後には『新・明日に向かって撃て!』という
主人公たちの若き日々を描いた続編が作られた位ですから、
この映画では興行的に相当儲けたんでしょうね。(^^;)


地下室のメロディーなんかに比べると、
少しチャラチャラした描き方が気になりますが、
何と言ってもロバート・レッドフォードと
ポール・ニューマンという二大スターの共演ですからね。
まあ、退屈はさせませんよね。

後半は、米国で追い詰められた彼らが南米のボリビアに渡る話なんですが、
そこで使われているダバダバ・コーラスが印象的でした。
音楽担当はバート・バカラックですが、全て彼の作曲なんでしょうかね。

因みに、こうした哀愁を帯びた南米的ダバダバコーラスでは、
何と言っても、ブエノスアイレス・オーチョが印象に残ります。
オーチョは8の意味で、8人のコーラスグループだったと思いますが、
その素晴らしく洗練されたハーモニーは必聴にあたいしますから、
音楽好きの方は是非、探して聞いて見ては如何でしょうか。

72 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/12/11(日) 10:31:15 [ 138.net059085055.t-com.ne.jp ]
  ●●●いくつかの夜(2005年TVドラマ)☆☆☆+●●●

いつも『TVを見る暇がない』とか言ってる私ですが、
山田太一さんの作品だけは、必ず録画して見ることにしています。(^^;)
これは今年の夏ごろにTBSで放送されたドラマですが、
短めですし、彼の作品の中ではまあ軽い方でしょうね。

緒方拳の演じる老人がふとしたことから若い女性(鶴田真由)と出会って云々
という出だしは、安直な連続ドラマなんかを少し連想しましたが……
老人自身に『おとぎ話みたいだ』と言われてしまうと、
強引に納得させられた感じでしょうかね。(^^;)

で、実はその女性がセクハラ等でトラウマを持つことが分かって、
二人の間に一時の交流が生まれるものの、最終的には
女性が若い恋人を見つけて来て、結婚するという無難な結末でした。

これも癒し系というか、病んだ時代の一服の清涼剤という印象ですが、
山田太一ドラマの中で流れるこの不思議な時間は一体何なんでしょうね。
そこで描かれるのは、決してきれいごとでは済まない社会の中で
傷付きながら生きる人間同士の穏やかで懐かしいふれあいなんですね。
だから疲れた時に見ると、ホッとするのではないでしょうか。

73 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/12/18(日) 09:38:41 [ 139.net220148174.t-com.ne.jp ]
  ●●●ハリー・ポッターと賢者の石(2001)☆☆☆●●●

例の有名なシリーズの第一作をやっと見ましたが……
言わば、昨今のCG技術の発展は、
こうした魔法の世界を描くには最適だったという分けでしょうね。
ただ、原作の小説にしろ、その映画化にしろ、
宣伝のやり方というか、その商業主義は相当あざといですよね。
最近はもう、第三作を上演しているようですが。

結局、ミーハーさん達は、こういうのに引っかけられて
どんどん金を搾り取られるという分けなんでしょうか。(^^;)
ある意味で、私みたいな金欠病患者(笑)が生きて行くコツは、
『この手の商業主義に如何に乗せられないで過ごすか』
という点にあるように思います。

この問題は、また機会があったら書こうと思うんですが、
言わば、商業主義が差し出すものを丸飲みするから金がかかるんであって、
それを少しひねって使えば、金なんか全然いらないんですよね。
つまり、連中が『こう使いなさい』と言って差し出す商品を、
その意図通りに使っていれば、どんどん金がなくなって当然ですが、
そこでちょっと頭をひねって、彼らの意図と全く別の使い方をすると、
案外、金は減らないという分けなんです。


例えば、映画の場合で言うと、他人より数年遅れで見れば良いわけで、
流行の最先端を追いかけるなんて、ミーハーがやることですよね。
インテリはむしろ『自分が流行を作り出すんだ』という意気込みで
生きれていれば、ほとんど金なんかかかりませんものね。(*^^)v

で、問題の映画の内容なんですが、さすがに盛り沢山というか、
サービス満点ですから、金持ちの暇つぶしには最適でしょうね。
実は、第二作も既に録画してしまったんですが……
ある意味で、これは例の『見なくても困らない』映画の典型ですし、
大人が見ても、もう一つという感じですからね。(^^;)

まあ青少年にとっては、冒険小説と似たようなものでしょうかね。
ただ、冒険小説を読む時は挿し絵位しかありませんから、
後は自分で空想をたくましくするしかない分けですが、
映画の場合、こうして全てのイメージを押しつけられてしまうと、
想像力を働かす余地が全くない、という点が少し寂しい気がします。
その結果、人間の想像力というものがどんどん衰退してしまう場合、
将来的には、何か文明的損失を産む可能性があるのではないでしょうか。

74 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/12/25(日) 10:15:48 [ 16.net220148224.t-com.ne.jp ]
  ●●●トスカ(2001仏独伊英)☆☆☆−●●●(1/2)

有名なオペラの映画化なので『どんな作りか』
と気にして見たんですが……大した出来ではありませんでしたね。
オペラの上演では、いわゆる『演奏会形式』というのがあって、
その場合『オーケストラと歌手をステージに並べ
音楽だけを再現する』というやり方をするんですが、
この映画はそれをベースにして、映像を張り付けたという感じでした。

つまり、映像での歌手は言わば口パクで合わせているみたいでしたし、
特に、内心を吐露するセリフでは、敢えて口を動かさない場面もありました。
他方、その内容にしても、オペラの忠実な再現というよりは、
かなり編集されていたような印象を受けましたね。
まあ、私が舞台形式のトスカを見たのは、もうかなり前のことで、
細部は忘れてしまったので、ハッキリしたことは言えませんが。

で後は、このオペラ自体の話になるんですが、
プッチーニの時代は、ある意味でオペラの頂点ですよね。
つまり、この作品も『貴族の気晴らし』
なんていうレベルはもうとっくに通り越していて
例えば、拷問のシーンなんかが出て来る分けです。
その意味で、トスカというオペラは『数あるオペラの中でも、
最もドラマチックな作品の一つ』と言えるかもしれませんね。


ただ、終盤の展開で『取引が成立しても、双方が約束を守らない』という所は、
ひどく不毛な感じがして、最初に見た時も後味が悪かったのを覚えています。
つまり『相手が悪人なら約束を守る必要がない』みたいな発想が、
いかにもユダヤ的であるように感じられたんです。
結局、約束を破る(嘘を付く)という行為は言葉の否定に他なりませんが、
それは究極的に『人間を動物におとしめる』ことにしかならないんですね。
何故なら、人間と動物の最大の差は言葉を持つかどうかにある分けですから、
その言葉を否定すれば『人間が動物に戻るしかない』のは当然の理ですよね。

口ではひたすら嘘を言いつつ、黙々といじめ・嫌がらせ・迫害をやるのが、
ユダヤ主義と、それに操られる共産主義(修正主義)の手口なんですが、
そうなると、もはや言葉というものは意味を持ちませんからね。
後は暴力沙汰しか残らないわけです。
つまり、相手が参るまで嫌がらせを続けて洗脳する、というやり口ですから、
その過程で、ありとあらゆる暴力が起こる可能性がある分けです。
例えば、分けの分からない通り魔事件なんかもその典型ですよね。

たまたま、その相手が親だったりした場合、タリウムを盛ったり、
金属バットで殴り殺したりということにもなるでしょうね。
つまり、私の経験からすれば、そうしたことが起こっても、
ちっとも不思議ではないということなんです。
ただ、こうした事件の真相は、奴隷新聞を幾ら読んでも分かりませんよね。
というのも、真相を覆い隠すことこそ、奴隷マスコミの役割なんですから。
結局、奴隷新聞は、今の社会の赤犬支配を永続する為の装置であって、
言わば『奴隷の奴隷による奴隷の為の新聞』なんですよね。(-_-;)


実は二十世紀に起こった様々な大虐殺も、
そうした洗脳支配の帰結なんですね。
私の英文サイトで詳しく書きましたけど、
カンボジアの大虐殺なんかはその典型ですし、
アウシュビッツの虐殺にしても似たようなものではないでしょうか。
  http://aaaazzzz.webcrow.jp/english/simple/eibun.htm

ついでに、もう一つ言うと『反省しない嘘つきに対しては、
人間は幾らでも残酷に振る舞える』ということがあるんですね。
結局、嘘は人間社会の成立基盤を根底から覆す行為であるが故に、
『人間社会を維持するという究極の目的の為に、人間の遺伝子の中には
そういう残虐性が組み込まれている』とも言えるんじゃないでしょうか。
つまり、一時の嘘は決して珍しくないし、必要悪である場合すらありますが、
そうした嘘をどこまでもつき通して、反省すらしない者に対しては、
残虐な暴力がふるわれることになるんでしょうね。

そういう風に考えると、初めて『アウシュビッツ』みたいな、
我々の理解を越えた残虐性も、キチンと理解できるような気がするんです。
その点では最近、イランの大統領が『アウシュビッツは存在しなかった』
とか言ってますが、私はそれを言う連中を信用しないことにしています。
(まあ、その顔からしても、かなり臭いですけどね。(-_-;))
結局、そうした発言で一番得をするのは、ユダヤ主義なんですよね。
何故なら、この手の発言は、その度に大変な反響を引き起しますから、
結果的に『ユダヤ人の惨劇』なるものを繰り返し繰り返し、
世界中に只で宣伝することが出来る分けなんです。

75 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/12/25(日) 10:20:25 [ 16.net220148224.t-com.ne.jp ]
  ●●●トスカ(2001仏独伊英)☆☆☆−●●●(2/2)

その点では『南京虐殺はなかった』という発言も全く良く似ていますよね。
それは結果的に、南京虐殺を宣伝することにしかならないし、
この場合は、それに加えて『日本人は反省していない』とか言って、
日本叩きが繰り返され、我々はうんざりさせられる分けです。

ですから、時事放談でも書きましたけど、むしろ大切な事は
『あったかどうか』でなく『何故おこったか』を議論することなんですね。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1069408696.html#15
南京虐殺では通州事件を引き合いに出しましたが、アウシュビッツでは、
『反省しない嘘つきに対しては、人間は幾らでも残虐になれる』
という教訓を想起する必要があると思います。

もう一つ似たようなことで言うと最近、国内の裁判で、
赤犬どもが、どこかのマンションでビラを配ったという事件があって、
それが有罪かどうかと騒いでますけどね。
私に言わせれば、ビラを配ること自体は全く問題ないんじゃないですか!?


むしろ問題なのは、奴らのような犯罪者(他人の人権を守る気が全くない連中)
を街中に放置している点にあるのであって、
こいつらはどんどん捕まえて、刑務所に放り込むべきなんですよね。
その上で、ビラをまきたければ、せいぜい
刑務所の中で好きなだけまいたらいいんですよ。(笑)
結局、大切なのは『分の悪い所で戦うな』ということなんです。

またまた大幅に脱線してしまったようですが……(^^;)
一つトスカで興味深いのは、ナポレオンの位置づけなんですね。
つまり、そこでは、イタリアに攻め込んだナポレオン軍と
その同調者が善玉、逆にそれを防ごうとする守旧派が悪玉として描かれます。
結局、この時点ではまだまだナポレオンは
『フランス啓蒙主義の伝道者』のように見なされていて、
イタリアでも解放軍みたいに受け取られていたようですね。

これに比べ、同じオペラでもプロコフィエフの『戦争と平和』あたりになると、
ロシアに攻め込んで来るナポレオン軍は終始、残虐な侵略者として描かれます。
ナポレオンの評価は、時代と共に大きく変わるということなんでしょうね。
これは有名な逸話ですが、ベートーベンも当初はナポレオンの崇拝者で、
彼の第三交響曲『英雄』はナポレオンに捧げられた分けですが、
その後、彼に幻滅したベートーベンはそれを取り消したわけですね。


で、以下はネタバレになるので要注意です。(^^;)
守旧派の首領であるローマの警視総監・スカルピアという男は
『神様が作りたもうた快楽なら、全て自分が味わい尽くす権利がある』
とかほざいて、トスカを自分のものにしようとたくらむ悪玉な分けですが……
前半では、嫉妬に狂ったトスカを利用して政敵の隠れ家を探りあてようとし、
後半では彼女の恋人を拷問して、トスカに政敵の居場所を言わせた後、
更に『恋人の命を取るか、貞操を捨てるか』とトスカに迫る分けです。
これは女にとっては究極の選択と言えるでしょうね。

で、結局、二人の間に取引が成立し、トスカが相手の要求に従う代わりに、
恋人の処刑は空砲でごまかすということになり、
トスカと恋人が逃走する為の偽の通行証まで作らせます。
ところが、トスカは隙を見てスカルピアを刺し殺すという形で約束を破り、
他方、そのスカルピアも『空砲でごまかすふりをして、実際は実弾をこめる』
という指示を出していた事が分かるわけですね。

最後に恋人の死を知ったトスカは、追い詰められて飛び降り自殺する前に、
『スカルピアよ、神の前で会おう』と叫ぶ分けですが……
結局、全ての善悪は神の前で決着をつけよう、という分けでしょうね。
キリスト教徒からすれば当然の発想かもしれませんが、何とも苦い結末です。
その点、プッチーニの音楽はどこまでも甘ったるいばかりで……
こういう苦い展開には、むしろ無調音楽の方がふさわしいような気がしました。

76 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2005/12/28(水) 19:01:57 [ 230.net059086103.t-com.ne.jp ]
  ●●●アカシアの道(2001)☆●●●

うーん……こういう映画はもう、反面教師として利用するしかないでしょうね。
いわゆる『失われた10年』を象徴するような駄目映画でした。
何が駄目かというとですね、テーマは惚け老人の重たい内容ですし、
俳優陣も立派な人々が揃っている分けですが、
何と言っても、その寒々とした風景が最悪なんですね。

結局、松岡錠司という監督は、北野武や森田芳光なんかと同類で、
先に取り上げた山田太一の暖かさとは、対極に位置づけられるでしょうね。
最近の日本は、少なくとも経済的には大分元気が出て来たようですが、
TVの連続ドラマなんかを見ても、まだまだ似たようなのが多いですし、
文化状況としては尚、寒々とした不毛さから抜け出ていないように思います。


特に前半は、最悪でしたね。
結局、我々がドラマに感動する理由というのは、
その中で人並み以上に一生懸命に生きている人が、
挫折してひどい目にあったりするからなんですね。
ところが、この主人公みたいに、いい加減に生きている人の場合、
たとえどんな目に遇おうが『それ見たことか』
と自業自得にしか思えない分けですよね。(-_-;)

例えば、昔の男とズルズル肉体関係を持ったり、
たとえぼけ始めているとはいえ、母親の財布から無断で金を抜き取ったり、
という所が相当いい加減ですよね。
(まあ、この母親にしても、かなりの駄目人間かもしれませんが……。)
結局、これは二流監督の常でしょうが、
『世の中の最新流行』みたいな低俗な社会風潮を取り込んで、
事足れりと満足してしまうような安直さが、最大の問題ではないでしょうか。

77 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/01(日) 10:55:33 [ 195.net059086103.t-com.ne.jp ]
  ●●●醍醐寺薪歌舞伎(2005年4月)☆☆●●●

近年は、薪能というのが流行りであちこちで良くやってますけど、
薪歌舞伎というのは、さすがに珍しいですよね。
放映された内容は三部構成みたいでした。
最初は『由縁の春醍醐桜』という新作舞踊でしたが、
坊主の読経を伴奏に踊る所なんか、ユニークでしょうね。(^^;)

次に、真言宗醍醐寺派の声明というのが披露されましたが、
まあ、これは時々お寺さんで聞こえる『声楽』みたいなもんですね。
邦楽の起源だとか言ってましたが……専門家はともかく、
素人が聞いても余り面白みはないかもしれません。
西洋人の場合、キリスト教のグレゴリオ聖歌なんかとの比較で、
興味を持つのかもしれませんね。

最後に、有名な『勧進帳』が演じられましたが、
こういう定番は、やはり歌舞伎座あたりでやらないと
華やかさに欠けてつまらないように感じました。
この醍醐寺という寺は『古都京都の文化財』の一部として
世界遺産にも登録されているそうですが、この薪歌舞伎は
そのことの宣伝も兼ねた催しだったみたいですね。

78 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/02(月) 10:30:01 [ 226.net220148225.t-com.ne.jp ]
  ●●●死の都(2001年4月ライン国立歌劇場)☆☆☆−●●●

コルンゴルトという人はハリウッド映画の作曲家らしいですが、
それがオペラも作っていたという分けでしょうかね。
音楽的にはワグナーの亜流という感じで、それほどの魅力はありません。
物語の内容も『死んだ妻に執着する男が、
似た容貌の娼婦にのめりこんで振り回される』
という展開で、もう一つ面白くありませんでした。

ただ、この劇の舞台となっているブリュージュというのが、
私にとっては忘れられない町なんですね。
このオペラの台本の名が『死都ブリュージュ』とか言うらしいですが、
私の印象からすると死都なんてとんでも無いですね。(-_-;)
運河がはりめぐらされた実に美しい水の都で、
誰でも、うっとり夢見心地に陥るのは必定だろうと思います。

あのう、日本人がヨーロッパ旅行をする場合、
定番として必ず、パリやローマを訪れると思うんですが、
実を言うと、こうした街は余り日本人向きではないと思うんですね。
というのも、パリやローマというのはまさに芸術の都ですが、
いわゆる芸術という奴は一般に『見てすぐ分かる』
という分けには中々行かないものなんですよね。
つまり、芸術を理解するには一定の時間が必要な分けです。


ですから、仮に駆け足旅行でパリやローマを回った場合、
『ヨーロッパの名所を見て来たぞ!』という箔は付くでしょうし、
一定の達成感はあるでしょうけど、
真の意味での満足感という意味では、疑問符が付くように思います。
こういう都市を真に理解しようと思ったなら、最低数カ月位は滞在して、
じっくりルーブル美術館を見物するとか、そういうやり方が必要でしょうね。

そうした観点からすると、日本人が好むのはむしろ、いわゆる観光であって、
良い景色・風景に浸るということだと思うんですね。
その意味で、日本人向きだと思うヨーロッパの都市が、
私が知る限りで少なくとも三つ位ありました。
一つはイギリスのロンドン、一つはポルトガルのリスボン、
そして、もう一つがこのベルギーのブルージュなんですね。


ロンドンに行った時は、ニューヨークから飛んだんですが、
ニューヨークというのは全く季節感が無い街ですから、
ロンドンに着いた途端『あーきーーっ』って感じでしたね。(^^;)
で、この街には何とも言えない不思議な暖かさがあって、
もう、足を棒にして、隅から隅まで歩き回ったのを覚えています。
ロンドンに観光に来てバスなんか使う奴は、
馬鹿じゃないかと思いましたけどね。
あらゆる街角に風情があって、
一歩あるく毎に違う風景が見えて来るわけですからね。

ロンドンは一度も来たことが無いのに、既視感のある不思議な街でしたが、
リスボンはそれとは正反対の印象で、
この街では自分が完全な異邦人になったような気がしました。
これは後から考えたことですが……ひょっとするとリスボンの街には
何か、日本の安土桃山文化と通ずる要素があるのかもしれませんね。
あの時代に日本に入り込んだポルトガル文化の香りが
日本文化の中にはどこかに残っていて、リスボンを訪れると、
長い時間と距離を隔てて、それに再会した気がするんではないでしょうか。

そして、このブリュージュなんですが……これは文句無しに美しい町でした。
運河を囲む家々に花々が咲き乱れている光景は、まさに絵のようでしたね。
ただ、その帰り道で隣のゲントによって『拷問の博物館』を見たものだから、
せっかくのうっとり気分が台無しになったのを覚えています。
ロンドン塔にも似たようなものがあったと思いますが、
この手の博物館はあまり見ない方がいいようですね。(^^;)
ただひたすら気が滅入って、ゲッソリするだけですから。

79 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/04(水) 12:21:00 [ 229.net220148238.t-com.ne.jp ]
  ●●●小林サッカー(2001)☆☆☆●●●

香港映画を見たのは久しぶりでした。(^^;)
一時期、色々と騒がれていた作品ですが……
私もこの手の徹底的に馬鹿馬鹿しい映画は、決して嫌いではありません。
作品の造り自体は、基本的に日本の劇画の影響が強いように感じましたが、
カンフーとサッカーを結びつけるというアイデアは悪くないですよね。

一時に比べると、最近の香港映画は余り元気がないそうですが、
それでも、この映画には色々なアイデアがあふれていて、
『香港映画もまだまだ捨てたもんじゃない』という気がしました。
例えば冒頭では、禿げ頭でいきなり笑わせてくれますしね。(^^;)
少なくとも、ハリウッド映画なんかを見飽きた目には、
香港映画には、特有の活気と文法とがあって新鮮に映りますよね。
こうしたアイデアには、イギリス人スタッフの力もあるんでしょうか。

以前には『ムトゥ 踊るマハラジャ』というインド映画を見ましたが、
同じアジア映画でもサタジット・レイや張芸謀のような
芸術指向の作品とは別に、この手の娯楽指向の作品が、
もう少し日本に入って来ても良いですよね。
日本国内における洋画配給がアメリカ一辺倒になるよりは、
その方が、日本文化の厚みと巾が増すだろうと思うんです。


ただ、その点からすると、香港映画には特有の汚さがあって、
日本人には受け入れられ難いというネックがありますよね。
或いは、余りにえげつない表現があって……これに関しては、
関西人よりも、気取りやの関東人の方が抵抗感が強いでしょうね。
他方、映画の文法という点で言うと、香港映画の場合、米国よりは、
日本に近いと思うんですが、それでも日本とは大分違いますね。

例えば、喜劇映画の傑作で『ミスター・ブー』というのがありましたよね。
あの中で『ニワトリを調理しようとしてTVの料理番組を付けていると、
誰かが体操番組に切り替えてしまうので、ミスター・ブーはそれに釣られて、
ニワトリの手足を動かす体操を始める』という所がありましたが……
これには私も笑い過ぎて息が出来ず、呼吸困難に陥りました。(^^;)

日本のお笑いでは、こうした場合、必ず
『チャネルを切り替えた奴を捕まえて来てとっちめる』
というオチが付くはずなんですが……
この映画ではそのままさらりと終わり、
次のシーンになってしまうんですよね。


ですから、何か肩すかしを食らったような気分になる分けですが、
今回の小林サッカーも合わせて考えると、香港映画には、
『起承転結を付ける』という意識が薄いのかもしれませんね。
単なるお笑い映画と違って、こうした劇画的アクション映画では、
そうした脈絡のなさがマイナスに働いているように感じました。

ついでに言うと、主人公の恋人(ヴィッキー・チャオ)が、
美人に変身する(!?)はずの所で、化粧が余りにひどかったですね。
これは意図してやったのかもしれませんが……やはり変身すべき所では、
もっとキチンと変身させないと、インパクトが弱くなりますよね。

それから、この映画でゴールキーパーをやった俳優(チェン・グォクン)は、
あのブルース・リーにそっくりでしたね。(*^^)v
『帰って来たブルース・リー』なんていう映画を作ったら、
きっと人気が出るんじゃないかと思いました。

80 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/06(金) 12:21:01 [ 183.net220148225.t-com.ne.jp ]
  ●●●恋におちたシェイクスピア(98米)☆☆☆−●●●

これは何か、実話に近いというより、
『ロミオとジュリエット』の話の展開に強引にこじつけて、
シェイクスピアの恋物語をでっち上げたという感じでしょうかね。
余りに馬鹿くさいと言うか……ある意味で、
シェイクスピアをおとしめる狙いすらあるように感じました。

大体、恋人の女性が髭を付けただけで、
同一人物と気付かないなんて、まるで現実感がないですしね。
でも、若いころのシェイクスピアって本当に
イチローみたいな顔をしていたんでしょうかね!?(^^;)

ただ一つ、非常に興味深かったのは、この頃は英国でも
女優というものが禁じられていて、男が演じていたという点ですね。
結局『女は女が演じなければならない』という演劇的リアリズムに立つ限り、
女優という職業は一生食いっぱぐれる心配がない分けですよね。


で、そうなると……つまり、女性が経済的に自立できる環境では、
必然的に男女の関係が乱れて、世の中の風紀を乱すという分けでしょうね。
それを為政者が嫌って女優を禁じたという歴史的事例が、
洋の東西を問わないという事実は、大変面白いと思います。

最近、どこの先進国も少子化では苦労していますが、結局、
その最大の要因は、女性の自立に伴う性の乱れなのかもしれませんね。
それを『女性が自立して働く為の託児施設が足りないのが少子化の原因だ』
とか奴隷新聞が言うのは、全く逆立ちした議論のような気がしますが……
この辺にも、ユダヤ主義の謀略を感じてしまう今日この頃です。(-_-;)

無論、なら昔に逆戻りすれば良いのかというと、
問題はそれほど単純ではないと思いますが……
少なくとも、本当の原因を正確につかんでいない限り、
少子化への正しい処方箋は出て来ないんじゃないでしょうか。

81 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/08(日) 11:23:22 [ 194.net059085045.t-com.ne.jp ]
  ●●●風に乗って無の世界へ(2004年6月チューリッヒ歌劇場)☆☆●●●

バッハの無伴奏チェロ組曲に振りを付けたバレー作品でしたが、
こういうのも、いわゆる前衛舞踊の部類に入るんでしょうね。
チューリッヒというとスイスのドイツ語圏ですから、
やはり、ドイツ文化の影響がつよいんでしょうか、
何か『肉体による幾何学』という印象で、
部分的には器械体操を連想させるようなところもありました。
さすがに、宙返りはやりませんでしたけどね。

でも、こういう無機的な踊りともなると、もはや性差は意味がないというか、
一体、男女の区別は必要なんだろうかという気になりました。
つまり、全て男、或いは全て女でも構わないんじゃないかと言うことですね。
それでも、男女が一対になって踊る、いわゆるパドドゥがありましたが、
そうなると逆に『若くて健康な男女が、
裸に近い格好でこんな風に絡み合って踊る場合、
いくら芸術とは言え、ムラムラして来ることはないのかなあ』
なんて余計な心配をしていまいました。(^^;)

まあ、そんなことを考えるのも、少し退屈したせいなんですが、
最後の所が少し良かった以外、振り付けは月並みに感じました。
結局、こういう前衛舞踊で何の物語性もない場合、
音楽と踊りだけで1時間以上もたせるというのは難しいんでしょうけど、
それでも退屈するのは、あくまで演出家の才能の問題なんでしょうかね。
無論、私の理解力が及ばなかった可能性もありますが。(^^;)
その中では、中国人(多分)の女性ダンサーの表現力が抜群に見えましたが、
中国人は特別に体が柔らかいせいがあるのかもしれませんね。

82 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/10(火) 10:05:46 [ 61.net220148238.t-com.ne.jp ]
  ●●●熊野(2005年1月NHK能楽鑑賞会・観世流)☆☆☆●●●

これは平家物語にも出て来る平家の頭領・平の宗盛の逸話を元にした作品で、
能では『熊野・松風は米の飯』とか言って結構有名な演目らしいですね。
熊野と書いて『ゆや』と読ませる分けですが、熊はユウとも読みますから、
これは音読みの『ユウヤ』から来ているんでしょうか。
もっとも、喜多流では『湯谷』と書くそうですけどね。

宗盛の愛人である熊野という遊女が『母親が危篤になったので、
東国の故郷に帰らせてくれ』と嘆願しますが、中々許されません。
結局、清水寺の花見に同行させられますが、
その席で彼女が詠んだ和歌に宗盛が感動し、帰郷を許されるという話でした。

  いかにせむ 都の春も 惜しけれど 馴れし東(あずま)の 花や散るらむ
という歌ですが、こういう風に『優れた和歌が良い結果を生む』
という話を、歌徳説話と言う分けですね。
時代は平の清盛が死に、次男の宗盛が跡目を継いだ頃で、
源平の戦乱へと突入する前夜の話でした。


平家物語では、一の谷の戦いで生け捕りになった平重衡が鎌倉に送られる途中、
池田の宿の長者の娘が和歌の名手であることを知り、いぶかったので、
『彼女は以前に宗盛に仕えたことがあり、老母が重病の時に、
こういう歌を詠んで帰郷を許されたのだ』という話をして聞かせる
という風に、間接的に語られますが、
こうした歌徳説話の挿入が、物語に厚みを与える分けですね。

能の演目としては、私のお気に入りの修羅物ではなく、
髷物(三番目物)でしたが……幸い退屈はしませんでした。
実は昔、NHKラジオの古典購読で平家物語の全文を聞いて以来、
この能のことがずっと気になっていたせいかもしれません。
死者の亡霊が出て来ないので、私としては少し不満なんですけどね。(^^;)

83 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/12(木) 13:26:12 [ 108.net220148229.t-com.ne.jp ]
  ●●●レ・ボレアード(2003年4月パリ・オペラ座)☆☆●●●

これは、バロック・オペラとしては二つ目でしたかね。
でも元々、面白みの少ないバロック・オペラの中においても、
この作品は音楽といい物語といい、取り分け退屈でした。(^^;)
ラモーの音楽は『アバリスが人々を目覚めさせる』シーンの所位が、
辛うじて聞くに耐えるレベルでしょうね。

物語は『アルフィーズという女王には、別の恋人アバリスがいるのに、
国の掟により、その夫選びは由緒ある血筋の二人の王子に限定されている』
という言わば、西洋版『義理と人情の板挟み』みたいな話でした。
これまた、何かギリシャ神話が元になっている話らしくて、
アポロンとかエロスとか、聞き覚えのある神々の名前が出て来ますが、
まあ、劇の展開としても退屈ですね。


それでも、やはり『ガルニエ宮でやる以上は、
ただでは終わらない』という所でしょうかね。
最大の見所は、劇の各所に挿入されるバレエでした。
中々才気を感じさせる個性的な振り付けで、
手首の関節を多用する点なんか、日本で暫く前に流行していた、
例のパラパラを連想させる所がありました。
ひょっとするとこの振り付け家は、
あのパラパラからヒントを得たのかもしれませんね。(^^;)

それから、演出上のどんな意図があるのかしれませんけど、
この作品では、ダンサー達が思い思いの下着姿で踊るんですよね。
こういうのは、いわゆる下着フェチの人には
たまらないかもしれませんね。(^^;)
そう言えば『マイライフ アズ ア ドッグ』
に出て来た爺さんも下着フェチでしたよね。

84 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/17(火) 10:30:37 [ 226.net059086097.t-com.ne.jp ]
  ●●●西遊記・三打白骨精(2004年6月東京芸術劇場)☆☆●●●

京劇を正式に取り上げるのは、これが始めてでしたかね。(^^;)
この演目は前にも見たような気がするんですが……
何しろ、西遊記物は色んな作品が沢山あってハッキリしません。
で、今回の作品なんですが、子供向けを意識したせいなのか、
余り関心しない出来でした。
結局、これは京劇俳優を使って日本人が再構成した作品のようですが、
どうせ京劇を見るなら、こんなまがいものよりも、
やはり本場の劇団が来日公演した作品を見た方が良いですね。

もっとも、中国には『古典を継承保存する』という意識はないらしくて、
京劇と言ってもあくまで、現代劇の扱いらしいですね。
ですから『何が正統か』という判断は簡単ではないようですが、
少なくとも、引っ越し公演の方がもっと風格があったように思います。
ただ……京劇には物語として深みのある作品が少ないせいか、
4〜5本も見ると飽きてしまうのが難点でしょうね。

この物語は三蔵法師と三人の弟子が妖怪と戦うという話で、
妖怪は『三蔵法師の肉を食らうと不老長寿になれる』というので、
何とかして騙して、その肉を食おうとする分けです。
でも……そもそも妖怪に寿命なんてあったんでしょうかね。(^^;)
三打白骨精という題名は、白骨が化けた妖怪を
孫悟空が三度退治するということから来ているようです。


京劇で面白いのは例えば、女優の歩き方ですね。
全く上下動のない歩き方をしますから、足が見えないと、
まるで、雲の上を滑って行くような感じがするんですね。
こういうのは、見た目以上にエネルギーを使うのではないでしょうか。
それから、京劇特有の約束事として、
房の付いた一本の棒だけで馬を表現するというのがありますね。
他にも、木靴とか頭に付けた雉の羽根の使い方などに
京劇特有のものがあります。

そう、それから私が一つ面白いと思う点ですが、
どういう分けか中国人は旗を立てるのが好きですね。(^^;)
今回の作品にはありませんでしたけど、偉い将軍なんかは、
背中に沢山の旗を背負って出て来るのが通例です。
旗を立てるのが好きという点では、日本にも、
谷岡ヤスジみたいのがいましたけどね。(^^;)
京劇では、雑技団でお馴染みのアクロバットも沢山、出て来ますが、
その中でも旗を振り回す演技は定番になっているようです。

85 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/01/30(月) 13:16:27 [ 96.net220148245.t-com.ne.jp ]
  ●●●老人と海(1958)☆☆☆☆●●●

ヘミングウェイの有名な小説の映画化で、さすがに重厚な造りでした。
本当は☆☆☆+位の出来かもしれませんが……
ここの所ずっと4つ星以上がなかったので、少しおまけですかね!?(^^;)
因みに、インテリ乞食は暇なもんですから(笑)ずっと以前に、
これまたNHKラジオの『原書購読』というのに親しんでいた頃、
この作品も聞いたような気がするんですが……ハッキリ覚えてません。

私のように余り文学作品を読む暇が無いという人の場合は、
こうした映画で代用するというのも一つの手ではないでしょうか。
私はまだ半分位しか見てませんけど、シェークスピアの戯曲なんかも、
大体が映画化されているみたいですからね。
無論、例のチェホフみたいに舞台作品として放映される場合は、
それを録画して見る手もありますね。


物語は、キューバの年老いた漁師が一本釣りで大魚と格闘するという話で、
帰り道では、せっかく捕まえたその獲物を鮫に奪われるという展開でした。
その老人の生き様を、友人の少年との心の交流を交えて描いた作品ですね。
ただ、一つ気になったのは主人公の老人が生白い肌をしていることでした。
いわゆる『海に生きる男』というのは例外なく、もっと日焼けして
赤銅色の肌をしているものではないんでしょうかね。

この放映は字幕方式でしたけど、さすがに元が文学作品ですから、
その英語は聞きごたえがありますし、英語の勉強にも最適でしょうね。
因みに、1999年にはアニメ版の『老人と海』も作られたようです。
それから、この映画の監督のジョー・スタージェスという人は、
ガッツ石松さんで有名な(笑)『OK牧場の決闘』とか、
黒沢明の『七人の侍』をリメークした『荒野の七人』を作った人ですよね。

86 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/02/05(日) 12:23:58 [ 180.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●鬼一法眼三略巻・菊畑(2004年・歌舞伎座)☆☆☆−●●●

『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』と読みます。
何か源義経の物語を元にした五段からなる文楽作品があって、
その三段目がこの『菊畑』だそうですが……
まあ、どうということもない内容ですね。

調べて見た所、実は以前に見た『一条大蔵譚』というのが、
同じ物語の四段目だったみたいです。(^^;)
その『一条大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』にしても、
余りに通俗的で、好きになれなかったのを覚えています。

87 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/02/10(金) 20:50:21 [ 86.net220148247.t-com.ne.jp ]
  ●●●天衣紛上野初花・河内山(2004年・歌舞伎座)☆☆☆+●●●

この『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』は、
上述作品と一緒に放映されたものですが……こうして続けて見ると、
脚本の力の差というものを如実に感じさせられますね。(^^;)
つまり、前作は文耕堂と長谷川千四の合作と言われるのに対し、
こちらは例の河竹黙阿弥の作品である分けですが、
いわゆるドラマツルギー(作劇術)の優劣が良く分かります。

大名家に奉公に出した娘を殿様が妾(めかけ)にしようとするので、
町人の親は何とかして娘を取り戻そうとするのですが、
そこで河内山宗俊というインチキ坊主が活躍する分けです。
宮様の使いの僧に化けて屋敷に乗り込み、直談判に及ぶという展開で、
観客は『いつ正体がばれるか』と冷や冷やしながら釘付けになる分けですね。
荒筋はこちらにありました。
  http://www5e.biglobe.ne.jp/~freddy/watching48.htm


河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)というのは、
いわゆる天保六花撰の一人として実在した人物のようです。
まあ、この手の詐欺師は現代にも珍しくなくて、
つい最近も『有栖川識仁』なんてのがいましたよね。(^^;)
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H15/1510/1510095arisugawa.html

大抵の人間は、立派な外見や権威にはコロリと騙さるようですから、
こういう話の種は永遠に尽きないのだろうと思います。
ただ、この場合の河内山宗俊は、単なる詐欺師である以上に、
民衆の気持ちを代弁する英雄でもあった分けで、
『悪逆無道の大名の鼻をあかす』というその痛快な振る舞いに、
当時の江戸町民は拍手喝采を送った分けでしょうね。(*^^)v

88 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/02/24(金) 12:55:00 [ 52.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ●●●UMOJA(2003年7月Bunkamuraオーチャードホール)☆☆☆●●●(1/2)

今回は南アフリカ製のミュージカルですが、
UMOJAというのは『団結』という意味らしいですね。
団結なんて言うと日本では、労働組合を連想させてダサイ感じですが……
ここでは例の人種隔離政策が一つの焦点になっていて、
それと戦った黒人の団結という意味があるようです。

でも、私が見て面白かったのは、そうした近代文明との衝突よりも
それ以前の、黒人社会が近代文明と出会う前の土俗的文化ですね。
ここには、アジアともヨーロッパとも全く違う文化があって、
『世界は広いな』という印象を受けました。(^^;)

成人するまで、女性はおっぱい出しっ放しみたいだし、
色気ムンムンの踊りも強烈ですしね。
鳥の鳴き声みたいな奇声とか、戦士のダンスとかは、
昔のアメリカ映画か何かで見たような気もしますが……
あれは何だったでしょうかね。


それに比べ、文明と接してから後の、
安物の化繊のシャツなんかに身を包んだ彼らは面白みに欠けます。
その音楽や踊りにしても、それほど高度ではありませんし……
まあ、ミュージカルというのは、元々こんなものかもしれませんけどね。
その意味で、文明化以前の歌と踊りの方が遥かに魅力的に思えたんですが、
似たような現象が、実はアフロ・ロックなんかでもあるんですよね。

世間では『アース・ウィンド・アンド・ファイア』なんかが有名ですが、
私からすると、彼らの音楽は妙にアメリカナイズされていて、
もう一つ面白くないと思う分けですね。
私が知る限りで言うと『オシビサ』というグループがいましたが、
彼らの『アクア・ハバ』なんていう曲は、
アフリカの生の息吹を感じさせて、むしろ好ましかったです。

因みに、ロックと言うと、どうしても英米系が中心になりますが、
一時期のロック全盛時代には、世界中にロック文化が花開いて、
『ロックを聴くだけで世界旅行が出来る』みたいな雰囲気がありましたよね。
その場合、イタリアのロックでも上と似たような事情がありました。


つまり、世間でもっぱら有名なのは『PFM(Premiata Forneria Marconi)』
というバンドでしたけど、こういう英語で歌うグループは、
私からすると、アメリカナイズされて中身が薄い感じがしましたね。
それよりは、むしろイタリア語で歌う『イ・プー』の方が、
いかにもイタリア的な開放感が充満していて、私は遥かに好きでした。

ロックによる世界旅行という点で、もう一つ例を挙げると、
スペインの『カルメン』というグループも素晴らしかったですね。
スペインというと、ラテン音楽のイメージと重なるせいか、
どうしても通俗的という先入観が先に立つ分けですが、
彼らの音楽には、そこを突き抜けたすごさがありました。
例えば『ブレイリアス』というアルバムの『宇宙の血と砂』なんて、
そのギタープレイは、ちょっとかっこよすぎですかね!?(^^;)

その点、最近のロック番組なんかを聞いていると、やたらと
あれがかっこいいの、これがかっこいいのいう話ばかりで、
私なんかは、ちょっと食傷ぎみなんですけどね。
結局、私のモットーとしては『かっこよさばかり追求する所に真実は無い』
と思う分けで……その意味では、私の今までの人生にしても、むしろ
『如何に格好悪く生きるか』がテーマみたいなもんでしたからね。(^^;)

89 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/02/24(金) 12:56:31 [ 52.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ●●●UMOJA(2003年7月Bunkamuraオーチャードホール)☆☆☆●●●(2/2)

因みに、そういうかっこよさの追求とはまた別の意味で、
もう一つ私が嫌いなのが自己陶酔という奴なんですが……これは、
フォーク歌手なんかに良くありがちで結構、鼻につくんですよね。(-_-;)
ロックとフォークは『音楽において専ら情念を追求する』という点において、
『音の美しさを中心に追求する』ジャズとは全く異なる分けですが、
ロックとフォークの本質的な差は、その情念を外に向かって爆発させるか、
それとも内に向かって沈潜させるか、という所にあると思います。
で、ロックの場合、その激しさ故に自己陶酔に浸る余裕は余り無いんですが、
フォークの場合どうしても、そうした自己陶酔が目につき易いようですね。

似たようなことで言うと、フジテレビの女性アナウンサーには、
妙に鼻にかかった甘ったれた声を出す人が多いですけど、
これも一種の自己陶酔ではないんでしょうかね。
男女の共同参画云々もいいですけど、その前提条件として、
女性がもっとキチンと自立することが不可欠ではないんでしょうか。
ああいう甘ったれた声を出すのは、何かまだ乳離れしていないというか、
自立にはほど遠いような印象を受けますよね。


その意味では、女子大生なんか、もう立派な大人だろうと思うのに、
彼女たちに対して『女の子』なんて表現する人が結構いるのは、
どうも引っかかりますよね。
この場合、そうした乳離れしていない女性に迎合する為に、
男どもが使うことが多いような気もしますけどね。

そうした言葉づかいの点から言うと、自分のことを『ぼく』と呼んだり、
同級生の男子を『くん』づけて呼ぶ少女たちも目につきますが、
何か妙に色気付いている感じで、はたから見て余り良い印象じゃないですね。
結局、この手の自己陶酔というのは、きちんと自立して、
自分の目の前の現実としっかり向き合っていない証拠ではないんでしょうか。
またまた、大幅に脱線してしまいましたかね!?(^^;)

90 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/02/26(日) 11:35:58 [ 89.net220148170.t-com.ne.jp ]
  ●●●祇園囃子(2005.9/24・TV朝日)☆☆☆●●●

これは倉本聡脚本のTVドラマでしたが、まあまあの出来ですかね。
産業スパイ事件に絡んで罠にはめられ、日本を捨てた男がいて、
彼が『祇園の芸子に生ませた自分の娘』の存在を知らないという展開でした。
結局、話の核心は日本人が大好きな、例の『親子再会劇』ですよね。(^^;)
例によって丁寧に作ってあるので、退屈はしませんでしたが、
テーマとして、特に新味はありませんでした。

91 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/03/03(金) 13:40:41 [ 235.net220148224.t-com.ne.jp ]
  ●●●スター・ウォーズ E2/クローンの攻撃(2002)☆☆☆●●●

久々に見たハリウッド映画ですが、
例によって金のかかった宇宙活劇でした。(^^;)
でもまあ、気晴らしにはなるかもしれませんけど、
内容的には、どうということも無いストーリーですね。
ファンタジーとして見ても、水中種族なんかが出て来た
前作のE1/ファントム・メナスの方が良く出来ていたように思います。

ただ、この手のハリウッド大作は、
その時代の米国人の精神構造と絡めて論じられることも多い分けで、
この場合、例の9/11の余韻がまだ冷めやらぬ頃だったんでしょうね。
例えば『主人公の一人が、母親を殺されたことの仕返しに、
相手の一族を子供まで含めて皆殺しにする』なんていう過剰復讐は、
例の対アフガン・テロ戦争を想起させるところがありました。

結局、キリスト教では『目には目を』という限定復讐の倫理を否定し、
代わりに『敵を愛せ』とか『右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ』とか、
復讐禁止の戒律を持ち込んだ分けですが……もし、それが結果的に、
『限定復讐の倫理さえ踏み外す』ような行為を招いているのだとすれば、
何とも皮肉な現象と言うべきではないでしょうか。
例のヒトラーなんかにしても『ドイツ兵が一人殺されたら、
レジスタンスを10人殺せ』みたいなやり方をした分けですしね。


因みに、SFとして見た場合、R2-D2なんていう樽型のロボットは、
ソニーやホンダが最近、作っている現代のロボットと比べても、
今や、相当の時代遅れという感じがしますね。(^^;)
まあ、この辺は1977年頃のアイデアを引き継いでいる分けですから、
致し方ない分けでしょうけどね。

他方、このシリーズでは、人間以外にも色々と
不思議な形をした知的生物が登場するのが一つの見所ですよね。
でも……本当の事を言うと、私は、もし仮に遠い宇宙に
人間以外の知的生物が存在したとしても、こんな突飛な形ではなく、
案外、人間と似たような姿をしているような気がするんですけどね。

というのも『本来は全く別の系統の生き物なのに、
同じ環境の中で進化すると、結果的に全く似た姿になる』という例が、
地球上では珍しくないからなんですね。
その意味で『少なくとも人間と共存できるような環境の中で、
人間同様に高度の知的進化を遂げた生物がいるとすれば、
彼らは結果的に人間とさほど違わない姿をしているんじゃないか』
というのが私の推測なんですが……皆さんは、どうお考えでしょうか?

92 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/03/09(木) 12:33:28 [ 133.net059086099.t-com.ne.jp ]
  ●●●ヘンゼルとグレーテル(1998年12月カーディフ劇場)☆☆☆●●●

これは、フンパーディンク作曲のオペラでした。
元の話は例のグリム童話ですから一応、子供向けですが、
音楽的にもそれほどの内容はありませんね。
特に『ワグナー以降のドイツオペラを代表する』なんていう評価は、
いくらなんでも褒め過ぎだろうと思います。
それを言うなら、リヒアルト・シュトラウスの方が
遥かに上に来るはずですしね。

ただ、話の冒頭で表現される飢えた家族の状況などには、
色々と考えさせられることが多かったです。
現代の我々は、本当の飢餓というものを知らぬまま一生を終える分けですが、
『飢えは魂を食い尽くす』なんていう表現には、
飢餓というものの恐ろしさの一端を感じさせるものがありました。
もっとも……母親役の歌手が良くいる、でっぷり太った女性なので、
『一体どこが飢えてるのか』と場違いな感じもしましたけどね。(*^^)v


で、近くの森には子供を食用にする恐ろしい魔女がいるという分けですが、
ここには、昔の人肉食が反映しているという説もあるようです。
宮沢賢治の『注文の多い料理店』なんていう作品も、
こういう童話に触発された部分があるのかもしれませんね。

その意味で、この悪夢のような物語には、
大自然が持つ過酷な摂理としての『弱肉強食』を感じさせる所があります。
実際問題としても、その魔女は焼き殺されてしまう分けですから、
相当残酷な話ではありますね。

残酷と言えば、このオペラで使われた映像の一つに、丸焼きにした子豚の頭で、
鼻先をクサビ型に切り込んだのが並んでいる光景がありました。
これなんか、ちょっと見には、
『子豚が口を開けて話している』ような感じで可愛いんですけど……
見慣れない日本人には、見れば見るほど残酷な感じもしますよね。(-_-;)

93 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/03/10(金) 10:18:01 [ 163.net059085050.t-com.ne.jp ]
  ●●●葵上(2005年4月愛宕山薪能・喜多流)☆☆☆−●●●

去年の春、愛宕山のNHK放送局跡でやった薪能の演目の一つですが、
折からの風に、散り残った桜の花がハラハラと舞って、
中々風情のある舞台装置ではありました。(*^^)v
で、この作品は源氏物語に題材を取った能ですが、
これまた雑能ですからね、余り良い点は付きませんね。

ここでは一応、亡霊(一条御息所)が出るには出るんですが……
フィクションの亡霊ともなると、からきし迫力がなくて駄目ですね。
結局、能のすごみを生かす為には、フィクションでは力不足というか、
登場する怨霊が実在した人物の怨念を背負っていないと、
能として力を持ちえないように思いました。

94 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/03/15(水) 11:22:52 [ 92.net059085053.t-com.ne.jp ]
  ●●●着信アリ(2004)☆☆☆−●●●

色々と沢山ため込んだビデオテープを整理する都合で、
意に反し、まだ寒いのにホラーを見るハメになりました。(^^;)
で、その内容ですが『リング』のビデオテープの代わりに、
今度は携帯電話を使おうという分けですから、
まあ、典型的な『二匹目の泥鰌(どじょう)』狙いでしょうね。

その場合『現代的な文明の利器をホラーの小道具として用いる』
という発想自体は悪くないと思いますけど、
ホラーを作る以上は、起承転結をきちんとしてくれないと困りますよね。
その意味では、何とか結末を付けようとする意志がある点で、
『呪怨』よりは増しかもしれませんが、実際の結末の不十分さは
『リング』の出来に及びませんでした。

特に、あのTV中継のシーンは解せませんね。
呪いを解く為の番組を作ると言っておきながら、実際は
『呪いによる殺人を実況中継する』みたいな調子になる無責任さは、
もうひとつ説得力が薄いですし、
その実況中継が生み出したはずの波紋が一体どうなったのかも、
キチンと説明されていませんしね。

95 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/03/31(金) 13:57:29 [ 245.net220148168.t-com.ne.jp ]
  ●●●レ・ミゼラブル(1997)☆☆☆−●●●

これは、ビクトル・ユーゴーの有名な小説『ああ無情』の映画化ですが、
例のgoo映画サイトで捜すと同名映画が沢山あってびっくりしました。(^^;)
特に、前年の1996年に作られたフランス映画があって、
そっちは『ああ無情』に想を得た全く別の物語みたいですね。

で、今回見たのはアメリカ映画ですが、その内容はもう一つでした。
実を言うと、元の小説はいつか暇があったら読もうと思っていたんですが、
この映画を見て、その気を無くしました。(^^;)
まあ、映画から原作を評価してはいけないのかもしれませんが、
その展開は、かなり通俗的ですからね。


例えば、主人公につきまとう悪役の人間像に説得力がありませんでした。
『元犯罪者や元娼婦は幸せになってはいけない』みたいな価値観で、
しつこく追いかける警官という設定自体、余り納得行きませんが、
その同じ人間が最後には自殺する、という結末も全く不自然ですよね。
悪人なら悪人なりの価値観で、
最後まで生き抜くのが普通ではないんでしょうか。

そもそも『脱走犯が市長になる』なんていう展開は
日本では想像も付きませんね。
そういう話は例えば広大なアメリカなら、まだあり得る気がしますが、
当時のフランスにも、似たような状況があったんでしょうか。


ビクトル・ユーゴーの作品としては、他にも
『ノートルダムのせむし男』(ノートルダム・ド・パリ)が有名ですが、
実は、ベルディのオペラ『リゴレット』も、
ユーゴーの『逸楽の王』が原作なんだそうですね。
今回の調べで、始めて知りました。(^^;)

96 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/04/10(月) 12:18:32 [ 158.net059085050.t-com.ne.jp ]
  ●●●魚屋宗五郎(2004年・歌舞伎座)☆☆☆●●●

映像では何の録画かキチンと表示されませんでしたが、内容からすると
『十一代目市川海老蔵襲名披露五月大歌舞伎』の演目の一つみたいですね。
この場合『魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)』というのは通称で、
正式には『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』
という難しい名前のようです。(^^;)

で、内容的にも、元の作品の全体が演じられることは
ほとんどないらしくて、今回もサワリの部分だけでした。
例の河竹黙阿弥の作品ですし、主人公がどなりこむ展開に、
胸のすくような結末を期待して見ていたんですが……
結果的には、竜頭蛇尾みたいで出来はもう一つでしたね。
まあ、全体を見ないと本当の評価は無理なのかもしれませんが。


物語は、殿様の妾(めかけ)として差し出した宗五郎の妹が、
不義密通の罪で斬り捨て御免となるんですが、
実はそれが濡れ衣だったという分けですからね。
例の河内山宗俊の例なんかと比べれば、
もっと強硬な態度に出ても良いと思ったんですが、
結果的には、殿様から弔問金と二人扶持をいただくということで、
丸く納まってしまう分けですね。

実は、宗五郎には妹を差し出す見返りとして金を貰った弱みがあり、
その上、当時の殿様と町民の力関係を考えると、
これ以上の強い出方は所詮、無理だったのかもしれません。
でも、濡れ衣を着せた悪人は後から処分されたという話ですから、
その辺の描き方をもう一工夫すれば、
もっと納得の行く結末になったような気もします。
まあ、明治になって作られた作品ですから、
黙阿弥の筆も少しにぶったんでしょうかね。


ところで、新皿屋敷と言う以上、元の皿屋敷がある分けですが、
実は日本には昔から、皿屋敷物という怪談話があって、
その中でも特に『播州皿屋敷』と『番町皿屋敷』が有名らしいですね。
更に言うと、それを元にした落語の『皿屋敷』というのもあって、
上方落語では『播州』、江戸落語では『番町』と決まっているそうです。

因みに、歌舞伎の方では、岡本綺堂作の『番町皿屋敷』が有名で、
私も既に見ましたけど……これは全然、駄目でしたね。
こういう明治以降に作られた新作歌舞伎に関しては、
暫く前にも『偽歌舞伎』として批判しましたけど、
結局、今から見ると、その古さが歴然としてる分けですよね。
それに比べ江戸歌舞伎の方が、むしろ古さを感じさせないというのは、
さすがと言うか……やはり、本物の持つ強みなんでしょうね。

97 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/04/17(月) 09:28:32 [ 66.net220148226.t-com.ne.jp ]
  ●●●ザ・フォー・シーズンズ(カナダ・ナショナル・バレエ)☆☆☆●●●

ビバルディの『四季』に振りを付けたものですが、
これまた例のカナダ・ナショナル・バレエの作品でした。
そのせいか前作同様に、TV用に画像を加工してましたけど……
あるいは、こういうやり方がカナダ流なんでしょうかね。
背景の映写幕に別の踊りを映し出して、合成したりしてますが、
この手の加工は、やはり私の好みではありません。

他方では、バレエ特有の衣装は敢えて使わず、普段着姿で踊ってました。
特に男は、ズボンとワイシャツ姿でしたが、
こういうのもまた、カナダ流なのかもしれませんね。
それでも、前作ほどに安っぽい感じがしなかったのは、
踊りのレベルも装置の格調も、前作より高かったせいでしょうか。
但し、振り付け自体には、特に見るべきものはありませんでした。

98 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/04/30(日) 11:33:40 [ 51.net220148172.t-com.ne.jp ]
  ●●●お早う(1959)☆☆☆●●●

久々に見た小津映画でした。
今回は、戦後日本がちょうど高度成長に突入する頃の話で、
例によって、庶民の日常風景を淡々と描いてますね。
(もっとも1959年と言えば、以前に触れた『浮草』と同じ年ですが、
その意味では、両者の落差は非常に興味深いと思います。)

例えば、町内会費の紛失が引き起こす隣近所の波紋とか、
テレビを見に隣家にもぐりこむ子供をめぐる騒動とか、
当時の日常生活が良く分かりますよね。
現在と比べれば本当につつましい生活なのに、
皆がそれなりに充実した人生を生きている点を見れば、
『豊かさと幸せは比例しない』ということが理解できると思います。


特に、この時代には、テレビや洗濯機があることが豊かさの象徴で、
『それらを手にいれるのが、どんなに嬉しいことだったのか』
ということが良く描かれていますね。
他方では、西洋寝間着(パジャマ)を着る人々が現れて、
それが色々に揶揄(やゆ)されていました。

そう言えば昔、アプレ・ゲールという言葉がありましたが、
この手の人々も、その『アプレ』に入ったんでしょうかね!?
今ではとうに死語ですが、フランス語で『戦後』を意味する言葉で、
戦争に負けた日本人が進駐した米兵にへつらう現象とか、
米国の頽廃的な文化に毒された若者などを指すようですね。


他方、この映画では『屁をいかに良い音で鳴らすか』
という話が、一つのエピソードとして全体を貫いています。
その意味で『屁を良く鳴らす為には、軽石の粉を飲むと良い』
という情報などもあって大変、参考になりました。(どこが!?(笑))

それに関し、下痢の少年が困ったことになるという話もありました。
俗に言う『屁が出ずに実が出た』という奴ですが、音楽用語では、
これを『ヘ長調からミ短調に転調した』と言います。(*^^)v

99 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/05/05(金) 10:04:41 [ 69.net220148224.t-com.ne.jp ]
  ●●●世界の中心で愛を叫ぶ(2004)☆●●●

暫く前に大分騒がれていた日本映画なので、
気になって見たんですが……やはり時間の無駄でしたかね!?
結局、既に使い古された『お涙頂戴』の白血病ものに、
多少、新しい衣を付けて送り出したという感じでしょうけど、
こんなミーハー映画で涙を流すほど、私もやわではありません。

台風のもたらす非日常を描く点では『台風クラブ』というのがありましたし、
ガラス越しのキスシーンは『また逢う日まで』の焼き直しですしね。
まあ、通常の評価なら☆☆☆−か☆☆程度でしょうが、
ただ『高校生がセックスするのは当たり前』
みたいな価値観で描いている点が引っかかりました。


実を言うと、これは丁度今、書きかけている時事放談の
『米国のデモに思うこと』(仮題)で、詳しく触れている問題なので、
ちょっと順序が逆さになってしまった感じですが、
まさにそういう価値観こそが、今の子供達を壊している元凶な分けでしょ!?

その意味で『この手の映画の制作者は、現代の青少年の荒廃に対し、
決定的な責任を負っている』と、私なんかは思う分けですけどね。
無論、現代では、そうした価値観が結構ありふれていて、その意味で、
この映画の制作者にも、余り悪気はなかったのかもしれませんが……
だからこそ、敢えて猛省を促す意味で一つ星にしました。

100 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/05/16(火) 11:01:03 [ 226.net220148229.t-com.ne.jp ]
  ●●●ラ・ベル(2001年12月モンテカルロ・バレエ)☆☆☆☆●●●

チャイコフスキーの音楽がもとになっているようですが、
例の『眠れる森の美女』とは一応、別物なんでしょうかね。
音楽的にはその『眠れる森の美女』に
『ロミオとジュリエット』を混ぜて使っていたようです。
因みに、日本語では『眠れる森の美女』と長ったらしい名ですが、
英語では単に『Sleeping Beauty(眠れる美女)』ですから、
仏語では『La Belle(美女)』であってもおかしくないですよね。
チャイコフスキーが作った本来の曲名において、
ロシア語の方は一体どうなっているんでしょうか。

前半は、オモチャというかサーカスみたいな衣装が印象的なので、
青少年向けを意識した作品かと思いましたが、実はそうではないようです。
後半になると、主人公のラ・ベルが全裸に近いスケスケ衣装で踊りますからね、
青少年にはちょっと刺激が強過ぎます。(^^;)
この手のえぐい衣装は『欲望まみれのカジノ』
との関係で理解すべきなのかもしれませんね。


他方では、そのオモチャみたいな演出にしても、
モナコというお国柄を反映しているような気がしました。
御存じの方も多いとは思いますが、モナコ公国というのは、
南仏にある独立国で、F1レースのモナコ・グランプリとか、
この小国の一区画としてのモンテカルロにあるカジノが有名ですよね。
実を言うとヨーロッパには、この手の小国家が珍しくなくて、
例えば、アンドラとかサンマリノとか、あちこちにある分けです。

で、モナコというのは、それらの中でも特別に小さい国で、
海岸に突き出た岩みたいなのが一つ国家なんですね。
その上に王宮と庭園があって、その付け根の斜面にある街までを含めて
モナコという国をなしていたと思います。
  http://ja.wikipedia.org/upload/5/55/MonacoLibreDeDroits.jpg
でも、言葉はフランス語ですし、私が訪れた当時は通貨もフランでしたから、
実質的には、フランスの一部みたいな感じでしたね。


歴史的な経緯を良く知らない日本人から見ると、
こうした国々が国家と称して存在することに一体どんな意味があるのか、
よく分かりませんが……或いは、これもユダヤ謀略絡みなんでしょうか。
そう言えば、例のバチカンにしてもローマ市内の独立国ですしね。
ともかく、国自体が箱庭みたいな印象ですからね、バレエの演出にしても、
こんなオモチャみたいな造りになるのではないでしょうか。

ただ、文化的にもフランスの一部という感じですから、
チャイコフスキーの名曲に乗せて演じられた、
作品自体の出来は中々のものでした。
特に、独奏バイオリンの甘美な調べに合わせて
恋に落ちた王子とラ・ベルが踊るパドドゥのあたりから、
終盤にかけての盛り上がりは見応えがあったので四つ星にしました。

101 名前: あつこ 投稿日: 2006/05/18(木) 09:25:38 [ p5253-ipad210funabasi.chiba.ocn.ne.jp ]
ブエノスアイレス・オーチョと検索してみるとこちらが出て来ました
NHKFMで楽しみながら聞いていた番組で紹介され確かテープに録音したはず…
他にファン・ガブリエルはレコードを持っていましたが行方知れず…
でもガブリエルの歌はネットで視聴できますね
ブエノスアイレス・オーチョの清らかな音楽を聞きたいですね
どなたかCDお持ちの方がいらっしゃいましたらご連絡して下さいね

102 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/05/18(木) 13:50:52 [ 161.net059085045.t-com.ne.jp ]
そうですか、ブエノスアイレス・オーチョがお好きですか。
あれを書いたのは、確か >>71 の所でしたが……でも、
こういう繊細な音楽が好きな女性は、きっと美人さんでしょうね。(^^;)
とすると、あつこさんは、ビル・エバンスやオスカー・ピーターソンも、
当然お好みではないかと思いますが、そうした音楽の話題は、
『三度の飯より、音楽が好き! 』の方でも沢山書いていますので、
もし、よろしかったら、そちらもどうぞ。(*^^)v
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1072067188/

103 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/06/26(月) 10:33:00 [ 223.net220148170.t-com.ne.jp ]
  ●●●小原御幸(2005年7月)☆☆☆●●●

観世座第六回公演の演目ということらしいですが、
実は、主役のシテを観世流でなく、喜多流の演者が客演していたようです。
物語は、壇の浦の合戦で海中に身を投じた安徳天皇の死に様を、
生き残った実母の建礼門院から、後白河法王が聞き出すという構成でした。

この作品は能としても大曲で、一時間半位かかったようですし、
平家物語を題材にしている点からすれば、
もっと迫力があっても良いはずなんですが……
ここでも怨霊が登場しないのが、最大のネックでしょうね。

ですから、私の評価でも余り高い点は付きませんでした。
能の分類としては、三番目物(鬘物)になるようですが、
亡霊ではなく、実際にその場を見た生き証人が語る分けですから、
能としての迫力が出るはずはありませんよね。


前に『葵の上』の所で『フィクションの亡霊は迫力がなくて駄目』
と書きましたけど、たとえ、こういう歴史物であっても、
生き証人が語るのでは結局、同じことになるようです。
ある意味で、能の本質は『イタコ』に近いんじゃないでしょうか。

つまり、過去の亡霊を演者が舞台上に引きずり出すという点に、
能特有の凄味も魅力もあるんじゃないかと私は思う分けです。
それがフィクションの亡霊では、イタコだって呼び出せませんし、
まして、生き証人の語りでは、能本来の訴求力は生まれませんよね。

因みに、物語では後白河法王が大原の建礼門院を訪ねる分けですが、
何故、大原御幸でなく小原御幸というのかと気になって調べてみた所、
実は、喜多流だけが小原御幸で、他の四流派は大原御幸と言うそうです。
読みは共に『おはらごこう』なので、音に引きずられたんだろうと思いますが、
今回は喜多流の演者が客演したので、その顔を立てた分けでしょうね。

104 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/07/07(金) 19:28:07 [ 131.net059085052.t-com.ne.jp ]
  ●●●ニュルンベルグのマイスタージンガー(2001年12月)☆☆☆☆●●●

これはニューヨークのメトロポリタン・オペラの作品ですが、
とうとう、ワグナーまでたどり着いたという感じですかね。(^^;)
このオペラはその前奏曲が大変に有名で、
クラシック・ファンなら知らない人はないという曲ですけど、
何しろ、オペラ本体は五時間もかかる長丁場ですからね、
毎日一時間づつ見ても五日もかかって、見終えるまでがひと苦労でした。

物語の内容としては、どちらかと言うと『貴族の気晴らし』向けという、
旧来のオペラに近い、他愛のない話ですね。
金細工職人が娘のエヴァを歌合戦の勝者に与えるという設定ですが、
オノ・ヨーコみたいなフェミニストなら、
『女は物じゃない』とか怒り出す所ではないでしょうか。(^^;)
それで、求婚者に善玉と悪玉がいて結局、善玉が勝利するという話でした。

でも、この娘役の歌手が、どうみても40がらみのおばさんなんですね。
そこがオペラの苦しい所かもしれませんが……その意味では、
『歌舞伎とオペラはアップで映さない方が良い』のかもしれません。(-_-;)
『たとえ神聖ローマ帝国は滅びても、マイスターによってドイツの芸術は残る』
とかいう終末の合唱も大変に時代ががってましたが……
時代背景としては16世紀のニュルンベルグが舞台で、
主人公のハンス・ザックスという人は実在した人物のようです。


歌の芸術性を職人が担っているという点がも一つピンと来ませんけど、
『当時のニュルンベルクは手工業が発達し、各手工業の代表者たちが
芸術(歌唱)に携わり、マイスタージンガーと呼ばれていた』そうです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC#.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.82.B9.E3.82.BF.E3.83.BC.E6.AD.8C.E6.9B.B2.E3.81.A8.E3.81.AF

音楽的に見ると、既に楽劇に一歩足を踏み入れた感じでしょうか。
例えば『さまよえるオランダ人』なんかは、
まだ旧来オペラの構造を脱していませんが、
劇の展開の他愛なさ等は、むしろこっちの方が古さを感じさせますね。
でも、音楽的な中身は充実していたので、四つ星にしました。

(改めて調べ直してみた所、作られた順序としては
『オランダ人→トリスタン→マイスター』となるようですから、
この作品はかなり後期に作られた本格的な楽劇のようですね。
その意味で、音楽的構造の新しさは当然ですが、重厚なトリスタンの後で、
息抜きとして、こういう軽い喜劇を作ったんでしょうか。)


ワグナーのオペラも、もう半分以上見た気がしますが、その中で言うと、
私の評価では、何と言っても『ワルキューレ』がベストですね。
いわゆる指輪四部作の第二作目ですが、その『ワルキューレ』の中でも、
最高のクライマックスは、有名な『ワルキューレの騎行』なんかより、
第一幕の終盤20分間位の音楽にあるように思いました。

例のだらだらと続く楽劇の構造からして
『どこからどこまで』と明確に区切るのは難しいんですが、
第一幕の終盤20分位に渡る部分、つまり、主人公のジークムントが
トネリコの木に刺さった剣を抜き取る所から後の、
ジークムントとジークリンデが恋に落ちるあたりの音楽が最高ですね。
この辺の音楽の高揚感は『後期ロマン派の一つの到達点を示す金字塔』
と言っても過言ではないと思います。

ただ、この二人は実の兄妹であるという設定ですから、
いくら神の世界とは言え、近親相姦になる分けですよね。
その点が少し引っかかって、ワグナーの音楽世界に完全に没入するのを、
妨げられた気がするのが唯一の難点でした。(因みにトネリコという木は、
例の野球のバットに使われるアオダモの親戚だそうです。)


その次に来るのは『トリスタンとイゾルデ』でしょうね。
これも濃厚なロマンチシズムにあふれた傑作でした。
そして、今回の作品や『さまよえるオランダ人』は、
それに続く第三グループという所でしょうか。

ところで、ニューヨーク発の作品ともなると、どうしても
ユダヤ臭い顔があちこちにチラつくのが私の神経に触るんですが、例えば、
ダヴィッド役のマシュー・ポレンザーニなんか典型的なユダヤ顔ですね。
指揮者のジェームズ・レヴァインの顔は、
ジャバ・ザ・ハットそっくりですが、これもユダヤ系ではないでしょうか。

因みに、スターウォーズのジャバ・ザ・ハットに
良く似ているという意味では、以前には、
ドイツのコール首相(当時)なんかが目につきましたね。(^^;)
無論、この場合はユダヤ系ではないでしょうけどね。

105 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/07/09(日) 20:50:36 [ 181.net220148247.t-com.ne.jp ]
  ●●●浮雲(1955)☆☆☆●●●

この手の不倫ドラマは、どうも私の好みではないので、
本来なら『☆☆☆−』位にしたかった所ですが……
さすがに、成瀬巳喜男監督の代表作と言われるだけあって、
人間が良く描れていたので、三つ星にしました。
戦後のうらぶれた時代の、うらぶれた男女関係がテーマですが、
恐らく林芙美子の原作の力が、かなり寄与しているんでしょうね。
この映画は、たまたま今回の入院を挟む形で前・後半を見たので、
大分印象が薄れてしまいましたが。

近親者に暴行されていた娘が全てを忘れる為に、
日本軍が占領中の仏印に渡るんですが、お決まりのコースとして、
そこで妻帯者の男と出会い、恋に落ちる分けです。
でも、戦争が終わって日本に戻ると、男は妻のもとに帰ってしまい、
捨てられた彼女はやむなく、米兵相手の娼婦として身を立てますが、
浮気な男との腐れ縁は、その後もズルズル続くという展開ですね。
その中で、彼女を暴行した例の男とも復縁したりするんですが、
その男がインチキな新興宗教を始めて、しこたま儲ける所なんか、
いかにもありそうな話で面白かったです。

で結局、色々あった末に彼女は病気になり、最後は、
浮気男に見取られる形で屋久島で死ぬ、という結末になります。
結果的には、恋敵が皆先に死んでしまうので、何となく
二人の恋が成就したみたいなハッピーエンドになる分けですが、
その辺はちょっと都合が良すぎるような気がしました。
こうした映画がフランスなどで高く評価されることの背景には、
旧植民地の仏印が彼らの郷愁を誘うという要因もあるんでしょうね。
その意味で、彼らの評価は少し差し引いて考えた方が良いと思います。

106 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/07/12(水) 11:33:04 [ 185.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●ノイズ(1999)☆☆☆−●●●

これは、B級のサイコ・ホラーという奴でしょうね。
その点は十分理解した上で録画したつもりなんですが……
やはり、少し時間を無駄にしたような気分になりました。(^^;)

スペースシャトルの船外活動中、連絡が途絶えた宇宙飛行士二人に、
実は宇宙人がとりついていたという設定で、
『同じ人物が、既に元の人物ではない』という怖さですね。
その辺の設定や展開はあり触れていて、特に独創性はありませんが、
まあ、暇つぶしに見るには十分面白いと思います。

因みに、この映画を録画したのは2004年10月30日とかなり前でしたが、
途中に臨時ニュースが入ってました。
例の『香田証生さんの遺体発見か』という騒ぎで、
映画の途中に二度も中断が入ったので、ひどく興を削がれましたが、
まあ『大した映画でなくて助かった』という所でしょうかね。

でも……最近は映画の中より、むしろ現実の方が怖い気がしませんか?
この時の首切りビデオも、気になって後から一応入手してはみたんですが……
怖くて正視できない気がして、私はまだキチンと見ていません。(-_-;)

107 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/07/13(木) 19:51:10 [ 87.net059085047.t-com.ne.jp ]
  ●●●春日龍神(観世流)☆☆☆−●●●

これまた、今年の正月にやっていた作品なので祝祭能の一種ですかね。
明恵上人が仏教を学ぶ為に中国・インドへ渡ることを思い立ち、
春日大社に参詣すると、神官がそれを引き止めてやめさせるという展開で、
猿沢の池に住む龍神が出て来て、釈迦の説法や入滅の様子を再現します。
要するに『既に必要なものは全て日本にある』という分けでしょうね。
いわゆる神仏習合の歴史を想起させる点では中々興味深い内容ですが、
まあ、能としての面白みは少ないので三つ星マイナスにしました。

108 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/07/15(土) 18:56:18 [ 22.net059086101.t-com.ne.jp ]
  ●●●兵士の物語(田中泯 砂に踊る)☆☆☆●●●

田中泯(みん)という人は結構有名な前衛舞踊家らしいですね。
ストラビンスキーの音楽に振りを付けたようですが……
いわゆる舞踊という先入観で見ると、はぐらかされるかもしれません。
ただ、ここで語られている物語の内容はしごくまっとうで、
その問題意識は、和文サイトの『悟るとはどういうことか?』
で私が述べた事ともかなり重なる部分があるように思います。
これまた、今年の正月(三日)に放映された作品でした。
  http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0103.html#20060103004

戦い疲れて故郷へ帰る兵士を、途中で悪魔が誘惑し、
彼のバイオリン(音楽)と悪魔の本を交換するのですが、
その本には未来のことがなんでも書いてあり、
明日の株価や為替も分かるので、結果的に彼は大富豪になります。
但し、それと同時に彼は故郷の人々とは別の時間を生きることになり、
人々からは彼の姿が見えなくなる、ということらしいですね。
で最後には『不幸な王女を救う為に、金ではなく音楽が必要だ』と知って、
彼は悪魔から音楽を取り返し、王女と結婚して幸せになるのでした。

で、ここから得られる教訓なんですけど……結局、
『例の【一日の命は万金より重し、牛の値は鵞毛より軽し】という、
ごく単純な真実に気付くまでの間、人間というものは、
無駄な苦しみを苦しむ宿命にある』ということではないでしょうか。
この映像を見ながら私がずっと考えていたのは、そんなことでした。
因みに、この物語はロシアの民話が元になっているようですが、
その内容は『ロシア版浦島太郎』みたいな話らしいですね。
ここのサイトに、その荒筋と解説がありました。
  http://sound.jp/galleriawind/heishi.html
  http://sound.jp/galleriawind/heishisaite_html/kaisetsu01.html

109 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/07/22(土) 14:09:06 [ 211.net220148236.t-com.ne.jp ]
  ●●●拝啓天皇陛下様(1963)☆☆☆+●●●

これは、いわゆる軍隊喜劇という奴らしいですね。
例のトラさん映画で名を馳せた渥美清が主演して、
前回の大戦を背景とする話が展開しますが……
皆さん若いのにびっくりしました。(^^;)

まあ、それは当たりまえと言えば当たり前の話で、
その意味では、小津映画の俳優なんてもっと若いはずなんですが……
何しろ、その辺の俳優ともなると我々の年代には馴染みが薄いので、
そもそも比較対象となる残像がない分けですよね。

それに比べると、この辺の俳優は渥美清にしろ左幸子にしろ、
まだまだ強烈な残像が残ってますから、
その若い頃の姿が何とも新鮮に映る分けでしょうね。


ただ、反戦意識が尚、根強かったこの時代に、
どういう問題意識でこんな軍隊喜劇を作ったのかというのが、
私にとって一つの興味の焦点だったんですが、
完全なノンポリ映画というべきなんでしょうか。

一通り、戦争の悲惨さを伺わせる映像はありますが、
何しろ主人公は、軍隊を天国みたいに考えていて、
戦争が終わりそうな雲行きになると、
天皇に直訴して軍隊に残ろうと考えるような奴ですからね。

それで結局、あれだけ多数が死んだ戦争であるにも関わらず、
主人公とその友達は、無傷で生還するという分けですからね、
ここでも、ちょっと都合よすぎないかという気はしますが……
まあ、たまたま生き残った者の話ということなんでしょうかね。


ただ、実際問題として、当時の貧しい農民出身の者にとっては、
日常の重労働と比べれば、軍隊の訓練もさほどきつくはない上に、
三度の飯の心配もないという分けで『都市生活者にはつらい軍隊も、
彼らには結構、居心地のよい所だった』という話は戦後、良く聞きましたから、
それをネタに一本映画を作ったという所でしょうか。

それでも、我々戦後生まれの人間にとっては、
軍隊生活というものの実相を知る上で、中々興味深いものがあると思いました。
前に引用したサイト『軍隊まんだら』などとも合わせて観賞すると、
当時の日本軍の内情がある程度、立体的に分かるのではないでしょうか。
  ★軍隊まんだら★     
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1070068634/5

その場合、ひとつ注目すべきことは、戦争になると
必然的に貧富格差が縮まるということですよね。
結局、徴兵制では全ての国民が命を投げ出して戦う分けですから、
一部の人間だけがぜいたくをして良い思いをしているような社会では、
国民一丸となって戦争を戦うことは出来ないということなんでしょうか。
日本の相続税にしても、戦費調達の為に作られた歴史がありますからね。
でも……戦争にならないと貧富格差を縮めることが出来ないのだとしたら、
何とも愚かしいというか、悲しい気がしませんか?

110 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/07/29(土) 13:41:05 [ 199.net220148239.t-com.ne.jp ]
  ●●●オネーギンの恋文(1999)☆☆☆−●●●

この映画は、チャイコフスキーのオペラ『エウゲニ・オネーギン』
と同じ物語で、プーシキンの小説がもとになっているようですね。
でも、既にオペラで見た物語を後から映画で見直しても
ただただ、味気ないだけのように感じました。(^^;)
まあ、チャイコフスキーのオペラが叙情性にあふれた
中々の秀作だったせいもあるでしょうけどね。

一つ気になるのは、近年のイギリス映画というか洋画では、
妙に下品な描写を持ち込むことがはやりみたいな事ですね。
最近、取り上げた『ノイズ』にしても、
かなり露骨なセックス描写がありましたが、
この作品でも、ロシア貴族の頽廃を描く狙いなのか、
エロい漫画が出て来ました。

でも……そういうのを見たい時は、
それ専用のアダルトビデオが幾らでもある分けでしょ!?
ですから、ごく普通の映画に、敢えて下品さを持ち込むというのは、
全く有害無益で無用なことだろう、と私なんかは思う分けですけどね。
芸術志向の高尚な気分の時に、わざわざその気分を害したくないですものね。


物語は、独身の若い女性に言い寄られた厭世的な貴族が、
その時はキッパリ断ってしまうんですが、色々あった後、
結婚して立派な奥様におさまった彼女を見て、改めて恋い焦がれた末、
結局、その思いがかなわずに自殺するという話でした。
もっとも、この映画では最後に自殺する部分は省略されていたようですが。

愚かしいと言えば余りに愚かしい男の話ですが、
でも、それは人間の普遍的な愚かさでも有りますからね。
つまり、幸せが手に届く所にある時は、その価値に気付かないままやり過ごし、
その幸せが手が届かない所に行って始めて、その価値に気付くという奴ですね。
言い換えるなら、簡単に手に入るものには何のありがたみも見いだせず、
簡単に手に入らないとなると急に欲しくなる、という人間の性(さが)ですよね。

ただ、仮にこれが西欧の話なら『まだ男に気がある彼女は、
夫を捨てて男の所に走り、最後には結局、捨てられて不幸になる』
というような、ありふれた展開が思い浮かびますけど、
その点、ロシア人というのは生真面目というか、しっかりしてますね。
彼女の場合も『一度、夫に操を立てた以上、もはや、
昔の男に目を向けることはしない』という分けですが、それは多分、
彼女にとっても一番正しくて賢い選択と言えるのではないでしょうか。

111 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/05(土) 09:40:04 [ 101.net059085042.t-com.ne.jp ]
  ●●●定家(観世流)☆☆☆−●●●

『定家』は『さだいえ』と読みますが、
この作品は『和歌の世界で著明な藤原定家が、
これまた有名歌人の式子内親王と恋仲にあった』
という俗説を元に作られた能でした。
両人は共に百人一首にも名を連ねていますから、
まあ御存じない方の方が少ないでしょうね。

でも、定家が1162年生まれであるのに対し、
式子内親王は1151年頃の生まれと言われますから、
10才も年上の女性との恋というのは当時としては不自然で、
『こうだったら面白いのではないか』と
後の人が考え出したフィクションだろうと考えられているようです。

物語は『式子内親王に対する定家の執心故に、
彼女の墓には定家葛(ていかかづら)という蔦葛がまとわりついていて、
その為に彼女の霊は苦しめられ、成仏できないでいる』という設定で、
ある僧が回向して定家の執心を解き、内親王の霊を救ってやると、
彼女は報恩の舞を舞って消えて行くという展開でした。


この能は髷物(三番目物)で、2時間もかかる大作ですが、
特に面白みのない話なので、少し退屈したというべきか、
さすがの私も解説なんぞを聞いてしまいました。(^^;)
でも……能にしろ歌舞伎にしろ、解説を聞きつつ見るなんていうやり方は、
何と言っても最悪であるということを今回、改めて再認識しました。
結局、解説を聞くことによって雑学は身に付くかもしれませんが、
作品そのものの観賞からは遥かに遠ざかってしまう分けですね。

やはり、古典と向き合う時は、自分の感性だけを信じて、
何の夾雑物もはさまず、まっさらの気持ちで見るのが最善だろうと思います。
解説付きで見ても良いのは、せいぜい『一度見終えた後、
内容を確認しつつもう一度見直したい』という時ぐらいでしょうけど、
大体そんな暇はありませんからね。(^^;)
厳密に言えば、こんな文章だって読まない方が良いわけですが(笑)……
でも、最初に何らかの興味を持ち、取っかかりをつかむという意味では、
多少ともお役に立てるのではないかと思っている分けです。

この能の場合、昔の人は新古今和歌集などに精通していて、
二人の和歌が引用されるのを楽しみながら見ていたんでしょうね。
実は私の場合も、その和歌の出所を確認しようとして、
ついつい解説を聞き始めてしまったのでした。
でもまあ、例によって髷物ですから元々大きな期待は持てませんし、
この作品の評価もせいぜい☆☆☆−でしょうね。

112 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/08(火) 11:55:15 [ 31.net220148230.t-com.ne.jp ]
  ●●●ラ・バヤデール(1999年5月ジュネーブ大劇場バレエ)☆☆☆+●●●(1/2)

この作品はバレエの世界ではかなり有名な演目らしいですが、
その内容はインドを舞台とする物語だったようですね。
まあインドと言えば、西洋人にとってはアラビアンナイトなどと同様に、
異国趣味(エキゾチシズム)の世界でしょうね。
逆に日本人にとっては、インド文化は仏教を通じて馴染み深いせいか、
どことなく親しみ易さを感じさせる所があります。

バヤデール(Bayadere)とは、仏語でヒンズー教の舞姫を指す言葉ですが、
その舞姫ニキヤと勇敢な戦士ソロルとの悲恋の物語が
いかにもインド的な舞台装置の中で展開します。
でも……元の話を事前に知っていないと、バレエの振り付けだけから、
物語の荒筋を理解するのは至難のようですね。
この放送では一応、最初に字幕による説明が付きましたが、
それでも良く分からない部分が多かったです。

次のサイトには別の演出(ベルリン国立バレエ)に関する荒筋がありますが、
今回の演出とはかなり趣が違ってますね。
  http://www.nbs.or.jp/stages/berlin/perform01.html
今回は最初に駅の場面があって、そこでソロルとニキヤが出会うと、
二人の赤い糸というか、宿命的な関係が暗示される分けです。
この駅は繰り返される人生の旅、即ち輪廻を示す比喩のようですが、
最後に再び駅が出て来て、来世では二人が幸せに結ばれるようですね。


物語は、大僧正(大バラモン)がニキヤに一目惚れする一方、
ソロルがマハラジャの娘ガムザッティと婚約するハメになるという分けで、
二人の恋に両側から邪魔が入るという、良くあるパターンで始まります。
で、ガムザッティがニキヤに嫉妬して毒蛇入りの花籠を渡すと、
毒蛇にかまれたニキヤは、大僧正が差し出す解毒剤を拒絶して死ぬ
という展開になります。

一つの注目点は、覚者(行者)という全体の舞台回しを仕切る男の存在で、
この男が人物を逆さ落としにすると、その人物は死んだことになるようです。
で、ニキヤが死んだ後も、この覚者がソロルを影の王国に導き、
来世で待つニキヤの幻影を見せるので、
ソロルはガムザッティとの結婚を拒絶しますが……時、既に遅くというか、
彼はニキヤを裏切ったことで神の怒りに触れ、結局は死ぬようです。
こうして、最後は例の駅の場面で終わる分けですね。

まあ、最初に音楽だけ聞いた時は相当退屈に感じましたが、
実際に映像を見てみるとそれほどでも無かったのは、やはり、
振り付けの完成度の高さによる部分が大きいんでしょうね。
インド風の踊りは、ヨガを連想させる所もありました。
この作品で振り付けの原形を作ったのは
マリウス・プティパという有名な人のようですが、
この演出では、どれ位残されていたんでしょうか。
因みに、作曲は『ドン・キホーテ』や『パキータ』と同じレオン・ミンクスで、
ミンクスと言えば航空母艦……いや、あれはミンスクでしたね。(^^;)

113 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/08(火) 11:56:05 [ 31.net220148230.t-com.ne.jp ]
  ●●●ラ・バヤデール(1999年5月ジュネーブ大劇場バレエ)☆☆☆+●●●(2/2)

で、話は少し脱線しますが、一つ興味を引かれたのが、
覚者がはいているインド風のズボンでした。
多分、これは四角の布を裁断せず、そのまま使っているんでしょうね。
で、思い出すのは昔の放浪でソルトレイク・シティーを訪れた時のことです。
ソルトレイク・シティーと言えば、言わずと知れたユタ州の州都で
モルモン教の総本山がある町ですよね。

ソルトレイクという名は『塩湖』に由来しますが、あの辺はすごいですね。
行けども行けども塩の海……一面に雪のように白く塩が積もっていて、
そこを貫く高速道路をグレイハウンドという高速バスでぶっ飛ばすわけですが、
丸三日ぐらい走ってもまだ抜けなかったように思います。
きっと、この辺の住人は塩には不自由しないでしょうね。(^^;)
でも、こういうスケールの大きな世界にいると、もう日本みたいな狭い島国で、
チマチマと暮らしていることがアホ臭くなって来るのは事実でした。

それから、脱線ついでに言うと、アメリカの高速バスもすごいですね。
日本の長距離バスの場合、運転は全体的におとなしいですが、
アメリカの長距離バスは時速200km位出しますからね。
のろのろ走ってる乗用車やトラックなんか、
どんどん追い越して行く分けで、何とも痛快でダイナミックでした。


で、問題のソルトレイク・シティなんですが、
その町の中心にはモルモン教の総本山がある分けです。
http://www.hcn.zaq.ne.jp/ody/nisenikki/temple_square.jpg
その寺院の天蓋に描かれた絵に、雲に乗った現代人と古代人が並んでいて、
現代人は背広みたいな着物を着てるのに対し、
古代人は何やら白い衣をまとっていました。
そのコントラストが非常に面白かったんですが、
その時に感じたのは『現代人と違って古代人にとって、
着物を作るのに、一枚の布を裁断するということは
惜しくてできなかったのだろう』ということですね。

というのも、現代でもモロッコあたりを旅すると驚きますが、そこではまだ、
子供たちが糸を一本づつ手で紡いで縒り合わせて作っている分けですね。
ですから、一本の糸を作るだけで気の遠くなるような作業がある分けで、
一本の糸が我々には想像の出来ないような貴重品である分けです。
で、布を作るには、その糸を更に手作業の機織り機に通して織る分けですから、
一枚の布と言うものがどれほどの貴重品かが良く分かりますよね。
そうしてやっと作った一枚の布ですから『それを身にまとう為に、
裁断する』なんていう発想はハナからあるはずがないんです。

早い話、日本の着物にしたって反物を縫い合わせてあるだけですから、
糸を抜けば再び元の反物に戻る分けですよね。
近代になって、糸も布も全て機械が作ってくれるようになったので、
我々は惜しげも無く、布を裁断して使うようになった分けですが……
こういう事を考えると、
『我々が如何に贅沢で恵まれた時代に暮らしているか』ということを、
たった一枚の布を通して実感することが出来るのではないでしょうか。

114 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/10(木) 20:02:29 [ 105.net220148232.t-com.ne.jp ]
  ●●●踊る大捜査線 THE MOVIE 2(2003)☆☆☆−●●●

これは去年の正月にとった映画ですから、もう相当前ですね。(^^;)
余り肩がこらずに気楽に見られる作品ですが、
日本がまだ不況にあえいでいた当時としては、
まあまあ健闘していた部類なんでしょうね。
でも、小泉今日子が異常犯罪者を演じていた前作と比べると、
やはり、全体的な出来の悪さは争えないようです。
いかりや長介さんは、この頃既に病魔にとりつかれていたようですが、
その彼にしても、前作の方がずっと良い味を出していましたしね。

115 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/11(金) 12:14:04 [ 47.net220148231.t-com.ne.jp ]
  ●●●曽我梅菊念力弦(2006年正月国立大劇場)☆☆●●●

これは、今年の正月に放映された作品で国立大劇場からの実況中継でしたが、
終幕が時間に入らずカットされた件を含め、あちこち脱落が多く
何か半端なものを見せられた気分で、録画したのは失敗でしたかね。
題名は『そがきょうだいおもいのはりゆみ』と読むようですが、
元は鶴屋南北が作った作品を約150年振りに復元上演したそうです。

幾つかの話を取って付けたみたいな構成は、
南北作品としては珍しくないようですが、
当時、正月には必ずやる約束の曽我兄弟の話に『おその六三郎』
『おはん長右衛門』という二つの心中話が加わるだけで、
何か散漫な印象を受けました。

次のサイトには実際に劇場で見た方のかなり辛口の批評がありますが、
全体を見た人が言うことですから、多分間違いないんでしょうね。
  http://blog.so-net.ne.jp/theater-angel/2006-01-18
  これは誕生した経緯が経緯なので仕方ないんですが、
  正直な話、駄作としか言いようがないでしょう。
  けっして残っていくような芝居ではありません。国立劇場の使命として、
  こうした取り組みを続けなければならないのは十分承知していますが、
  つきあわされる観客も大変なのです。

116 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/12(土) 11:42:45 [ 60.net059085055.t-com.ne.jp ]
  ●●●アメリア(2005年11月放映)☆☆●●●

今回の作品は、音楽だけ聞いた時は『結構いいかな』と思ったんですが……
映像を見たら、かえってガッカリでしたね。(^^;)
『ベルベット・アンダーグラウンド時代のルー・リードの詩に、
デビッド・ラングという人が新たに音楽を付けなおし、
そこへ、エドアール・ロックが振り付けをした』という現代舞踊でした。

ルー・リードと言えば、ニューヨークの頽廃を具現したような音楽が、
非常に印象的なロック歌手ですが、
私が聞き知っているその時代より前に、彼が所属していたのが、
ベルベット・アンダーグラウンドというグループだったらしいですね。
最近、少し聞いた感じだとルー・リードの世界そのまんまでしたけどね。(^^;)


で問題の振り付けですが、やたら機械的でせわしないだけの踊りで、
サッパリ面白くありませんでした。
トウシューズを履いてる所だけはバレエ風ですが、完全な前衛舞踊ですね。
でも、これは舞踊に限らないことですけど『近年の前衛芸術家の中で、
これから何百年か後にミケランジェロやダビンチと
並び称せられるような大家がいるか』というと、相当疑わしいでしょうね。
結局、ユダヤ支配の世界では全ての才能が枯渇する宿命なんでしょうか。

これもカナダ製作のせいか、例の映像的加工が多用されていましたが、
印象に残ったのは女性ダンサーの上半身スケスケの衣装だけでした。(^^;)
現代の男女関係を表現したという触れ込みですが……
背広姿の男に対し、裸に近い女を配するという点では、
例のフランス印象派で物議を醸したマネの絵みたいでもありますね。
  草上の昼食
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3a/Edouard_Manet_024.jpg

117 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/13(日) 12:28:58 [ 136.net220148244.t-com.ne.jp ]
  ●●●父ありき(1942)☆☆☆●●●

久々の小津映画ですが、1942年と言えば何と言っても
真珠湾攻撃の翌年ですよね。あの戦争で沸き立つような時代に、
それに背を向けるかのように、こんな淡々とした映画を作ったのは、
彼なりの反戦の意志表示なんでしょうか。

父子家庭における親子の情愛がテーマですが、例によって、
平凡な日本人の生きざまが丁寧に描かれています。
教師である父親は、自分が引率した修学旅行で生徒が事故死したのを悔いて、
キッパリと教師から身を引いてしまうような気骨ある人間で、
若き日の笠智衆が演じていました。

その父親を慕って、一緒に暮らそうとする息子を佐野周二が演じていますが、
現代から見ると、両者の関係は少し薄気味悪い位の感じですね。(^^;)
つまり、その『何も男同士がそんなにベタベタとくっついて、
一緒に暮らす必要はないんじゃないか』という気もした分けですが……
まあ、これだけ親殺し・子殺しがはびこる時代だから尚更、
意外な感じがするんでしょうか。


この時代には、同じ日本家屋の中でも男は洋服、女は着物と
着るものが別れているようなのも興味深いですが……
社会に出て働く男の方が、女よりも時代を先取りしていたというか、
時代の変革に付いていくのに忙しかったのかもしれませんね。

でも、旧制中学の同窓会の様子なんか、ちょっと不気味ですね。
男しかいないのは当然としても、子持ちの同窓生が先生たちを招いて、
粛々と宴会をやっていますが、当時はこれも娯楽の一部だったんでしょうか。
まあここでも、ある時代の日本人像がこうして切り取られ、
映像として残された分けですけどね。

因みに、このフィルムは画像や音声が相当ひどくて、
特に、セリフは半分も聞き取れないような状態でした。
その場合、まあ画像は仕方ないと思うんですが、セリフに関しては、
どうして、字幕を付けようとしないんでしょうか。
字幕は外国映画専用と考えているとしたら、NHKは頭が固いですね。


ひとつ興味深かったのは、
転職しようとする息子をいさめる父の言葉でした。
『つらいような仕事でなければやりがいはないぞ』
というのは、確かに普遍の真理でしょうね。

次のサイトに、その詳しい引用がありました。
  http://www.tatsuru.com/diary/2004/04.01.html
  それは仕事だ。つらいこともある。
  一苦一楽あり、錬磨し、錬極まって
  福をなすものはその福をはじめて久しだ。
  つらいような仕事でなければやりがいはないぞ。
  それをやりとげてこそ、『その福久し』だ。

この『一苦一楽あり云々』という格言は、
中国古典の『菜根譚(さいこんたん)』に由来するようです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9C%E6%A0%B9%E8%AD%9A
『ひとつの物事を苦労してやり遂げた時の幸福感だけが、
本物の幸福感として長続きする』という意味でしょうか。
原文はここにありました。
  http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/saikon/saikon_d.htm#53

118 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/17(木) 11:11:21 [ 152.net220148224.t-com.ne.jp ]
  ●●●活きる(1994)☆☆☆+●●●

またまた張芸謀作品ですが、中国の監督は描くべきことが沢山あって、
大変というか……或いは、むしろ幸福と言うべきなんでしょうかね。
これまた、中国近代史を背景とする中々重たいテーマですが、
歴史の流れに翻弄される庶民の姿が良く描かれていました。

最初は、金持ちのバカ息子が博打で身を持ち崩し、
全財産を失うという、ありふれた展開で始まります。
ところが、その後、国共内戦に巻き込まれた末、共産主義の世の中になると、
彼から博打で家屋敷を奪った男は資産家として処刑されてしまいますが、
逆に、無一文になって特技の影絵で食いつないでいた彼は命拾いする、
という皮肉な結果になります。
まさに、中国の故事『塞翁が馬』を地で行くような話ですね。(^^;)

以上が1940年代の話として展開した後、
次の50年代は、いわゆる大躍進という奴ですね。
国家的な鉄鋼増産を人海戦術によって推進するという話で、
歴史的にはこの計画は大失敗に終わったようですが、
ここでは、主人公の息子が事故死するという話になります。


そして1960年代に入ると、今度は文化大革命ですね。
紅衛兵がいばり散らすこの時代に、主人公は
大躍進時代にも守り通した影絵の道具を失うことになります。
他方では、病院にちゃんとした医者がいなくなってしまった為に、
主人公の娘は、出産時の大量出血で命を落してしまいます。

こうして最後は、息子と娘を失った老夫婦が孫と暮らす所で終わりますが、
これほど体制に翻弄される人生というのも珍しいでしょうね。
その意味では、戦後の暮らしぶりは日本人の方が
遥かに幸せだったと言えるのではないでしょうか。

ただ、逆に言うと『長いものには巻かれろ、強いものには逆らうな』
みたいな、見事なまでに大勢順応的な中国人の性癖も目につきましたね。
まあ、その辺には『二度に渡る長い異民族支配の歴史を経て、
漢人が身につけた処世術』という悲しい側面があるように思います。

119 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/24(木) 10:59:56 [ 177.net220148236.t-com.ne.jp ]
  ●●●俊寛(2005年7月放映)☆☆●●●(1/2)

これは、去年7/31日の教育TVで『新口村』と一緒に放映された作品で、
平家物語で有名な俊寛の悲劇を歌舞伎にしたものとして大変有名ですが……
実を言うと私にとって、この物語は最初から失敗しているんですね。(^^;)
と言うのはつまり、ずっと昔にNHKラジオ第二放送の『古典購読』で、
平家物語の全文購読をやっていたんですが、それを聞いて以来、
私は、この俊寛という人物を余り好きになれないんですね。

というのも、俊寛は散々清盛の世話になっておきながら、
首謀者として清盛に弓を引く反乱を鹿ヶ谷で画策した末に、
その陰謀が事前に発覚し、島に流されたという経緯がある分けです。
本来なら処刑されても文句を言えない立場なのに島流しで済んだのは、
俊寛が上皇の隠し子だった為であるという説もあったように記憶します。

それで、流刑後何年かして鬼界島に御赦免船が来た時、
その赦免状には一緒に流された二人の名前はあるのに、
俊寛の名だけは無かったということで、彼は失意のどん底に陥ります。
その結果、彼は去り行く御赦免船を追いかけつつ地団駄を踏み、
足を引きずって叫ぶという醜態を演じる分けですね。


まあ、それを気の毒とか可哀相とか見る人もいるでしょうけど、
私からすれば『やるだけのことをやっておきながら、
如何にも往生際が悪いんじゃないか』としか思えなかった分けです。
ひょっとすると、この一件は俊寛に対する清盛の憎しみから出た策略で、
『敢えて他の二人を赦免し、俊寛だけは置き去りにする』ことにより、
彼に精神的拷問を加えようとする意図があったんじゃないでしょうか。

その場合ひとつの考え方として、天皇中心史観からすれば、
『俊寛の行為は、あくまで天皇側に立った計略である』という意味で、
それが無条件に肯定されてしまう、という構図があるかもしれませんね。
でも……もし日本史全体を天皇中心史観で解釈しようと試みるなら、
如何にも無理があるし、余り創造的とは言えないんじゃないでしょうか。

例えば、同じ古典購読でやっていた『平治物語』では、
知多半島の豪族が平治の乱に敗れて落ち延びる源義朝を暗殺しますが、
この豪族は後に、息子の源頼朝の復讐心から虐殺される分けですね。
でも、ここでの豪族の行為にしても、天皇中心史観からすれば、
『賊軍の長を討ち取る』という全く正当な行為だった分けですよね。


因みに、この義朝が落ち延びて行く過程というのが、
その手段といい経路といい、奇想天外で実に面白いんですよね。
暇と興味のある方は是非、平治物語を読んでみると良いと思います。

追手をまく為、道なき雪山を踏み越えたり、小舟で河を下ったりして、
ついには、知多半島から海路で鎌倉に脱出しようと試みるわけです。
ところが、そこで頼りにした豪族は『逃走用の舟を用意する』とか言って、
義朝を待たせておいて、隙を見て入浴中の義朝を風呂場で殺す分けですね。

ただ、その後の歴史の皮肉で、頼朝側が天皇側の命を受け、
平家を打つという展開になる中、再び天皇側に立って
頼朝の為に働いた豪族は、利用するだけ利用された末に、
頼朝の命令で虐殺される、という無残な最期を迎える分けです。

120 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/24(木) 11:02:23 [ 177.net220148236.t-com.ne.jp ]
  ●●●俊寛(2005年7月放映)☆☆●●●(2/2)

で、また少し脱線になりますが、私の考えでは、
どうも頼朝の変死には、この豪族の関係者が
関わっているんじゃないかという気がする分けですね。
実際、彼らには頼朝を殺す充分過ぎる動機がありますし、
他にも、それを示唆する事実があるからなんです。

というのは、頼朝の死は公には落馬事故ということになってるようですが、
鎌倉幕府が公的に編纂したと言われる史書『吾妻鏡』では、
その周辺の記録が、そっくり削除されているそうですね。
で、それをやった犯人が、どうやら徳川家康らしいんですが、
例の古典購読では、解説者が『頼朝の死の顛末は頼朝にとって不名誉だから、
家康が頼朝の為に削除したんだろう』とか言っていたと思います。

でも、私からすると、ここはもっと適切な解釈が
出来るんじゃないかと思った分けですね。
というのも、徳川家康は三河の出身で、
例の知多半島は目と鼻の先でしょ!?
ですから、家康と例の豪族の間には、
何らかの血縁関係があってもおかしくないですよね。


で、仮にそれが事実だとすると、
家康は頼朝の名誉の為などではなく、まさに自分自身の名誉の為に、
その歴史記録を削除する必要があったんじゃないでしょうか。
というのも、自分の血縁者が頼朝を暗殺したのだとすると、
武家の頭領の家康としては相当、不名誉なことでしょうからね。

さて、それで話を本線に戻しますが、歌舞伎という芝居は
あることないことをでっち上げるのが大得意な分けですね。(^^;)
(但し、この俊寛も元は文楽作品で、原作者は大近松らしいですが。)
例えば、その典型が仮名手本忠臣蔵ですが、歌舞伎での話の展開は、
我々が映画などを通じて見知っている物語とは驚くほど違いますよね。

浅野匠守が刃傷に及ぶ原因として、映画やTVドラマでは、
『真っ正直な彼が吉良上野介への賄賂を渋ったことから、
上野介に散々の嫌がらせをされた末に、ついには切れて刀を抜く』
というのが通例で、恐らく歴史の事実もこちらに近いんでしょうね。


ところが、歌舞伎の方では『高師直が塩冶判官の妻に横恋慕して、
色々ちょっかいを出す』というのが事の発端になっているわけですね。
或いは、五段目のおかる・勘平の物語なんかにしても、
『一体どこからそんな話が出て来るんだ』という感じですからね。(^^;)

で、問題の俊寛の物語にしても、歌舞伎では『実は俊寛には、
途中までの赦免状が出ていたのだが、別の人間を助ける為に、
敢えて自分が島に残ることにした』という自己犠牲の美談に化けてますね。

でも、そうなると、最後の足摺の場面は解釈が難しいでしょうね。
自分が覚悟の上で残ったのなら、そこまで狼狽するのはおかしいですものね。
そんな分けで、歌舞伎の俊寛は、この糞坊主を無理やり美談の主、
悲劇の主人公に仕立て上げようとしているようにしか見えないのでした。

121 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/27(日) 10:17:07 [ 233.net059085045.t-com.ne.jp ]
  ●●●KAZAHANA(2005年2月新国立劇場・中劇場)☆☆☆●●●

これは日本の前衛舞踊家、勅使川原三郎の作品でした。
先ずその音楽を聞いた時は、ミュージック・コンクレートらしき部分で、
高圧電線のバリバリうなるような音が印象的でしたが、
これはニール・グリフィスという人の作曲らしいですね。
舞台上では、電線が横ではなく縦方向に張られたような様子でしたが、
それは時として、牢獄の鉄格子のようでもありました。

他方、その振り付けでは『東洋と西洋の落差』を考えさせられますね。
結局、西洋の前衛舞踊の場合、どうしても、
『肉体に言葉を語らせる』といった印象が強いですが、
東洋の場合は『肉体に情念を語らせる』みたいになりますね。
ここでの振り付けも『肉体の叫び、ないしは呻き』といった雰囲気で、
言わば、もがき苦しむ魂を肉体で表現したという所でしょうか。
その動きも、太極拳やヨガがベースのようですが、そこへ、
痙攣したような動きや、アメーバみたいな動きが加わった感じですね。

或いは、両者の差は踊りと舞いの差にあると言って良いかもしれません。
一説によれば、舞踊という時の『踊り』は重心が上下して跳びはねる動き、
『舞い』は上下動の少ない水平の動きを言うらしいですけどね。
その点からすると、西洋の舞踊は跳び跳ねる動きが多いのに比べ、
東洋の舞踊は水平の動きが多く、日本舞踊なんかはその典型ですよね。
ここでの振り付けも、大体が足をしっかり地に付けた動きが中心で、
飛び跳ねる部分は余りありませんでした。で結局、音楽の緊張感もあって、
最後まで退屈せずに見られたので、三つ星にしました。(^^;)

122 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/08/30(水) 09:36:39 [ 48.net220148244.t-com.ne.jp ]
  ●●●終わりに見た街(終戦60周年特別企画)☆☆☆+●●●

久々の山田太一作品ですが、これは去年12月に再放送された分ですから、
クリスマスのコマーシャルが入ってましたね。(^^;)
平和な家族が突然、戦争中の日本にタイムスリップするという話で、
平和惚けにカツを入れるような最後の落ちも、中々良く出来ていたと思います。

例の『猿の惑星』の落ちを少し連想させるところもありますが、
『終わりに見た街』という題名が良く効いてますね。
それで☆☆☆+にしたんですけど……後から調べた所、
これは1982年に色々賞を取ったドラマのリメークだそうで、
ちょっとガッカリでした。


実を言うと、1982年頃は私も色々あって、
とてもテレビなんて見ていられる境遇には無かったんですね。
ですから音楽にしても、この前後に流行した曲とか、
デビューしたバンドなどは皆、穴みたいに抜けてます。

で、何故ガッカリしたのかというと、少し説明が難しいんですが……
結局、既に公の評価が確立している作品を今更、私が褒めてみても、
何か無駄というか徒労のような気がする分けなんでしょうね。(^^;)
ですから、別にそのことで作品自体の価値が下がる分けではありません。

123 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/03(日) 10:37:06 [ 82.net220148232.t-com.ne.jp ]
  ●●●恋の骨折り損(1999)☆☆☆●●●

シェークスピア作品を正式に取り上げるのはこれが始めてでしたかね。
シェークスピアの戯曲も、もう半分くらいは見た気がしますが、
私個人の好みからすると『ロミオとジュリエット』がベストですね。
二人の出会いから悲劇的な死に至るまでの、
緻密な物語の構成が素晴らしいと思います。

その意味では『心中天の網島』を悲劇の東の横綱とすれば、
『ロミオとジュリエット』は西の横綱と言えるのではないでしょうか。
世間で一番評価の高い『ハムレット』については、
何がそんなにすごいのか、私にはもう一つピンと来ません。(^^;)


さて、この物語は四組の男女カップルが繰り広げる他愛のない話ですが、
例によって『さすがにシェークスピア』とうならせるような
人生洞察の深いセリフもありますね。
そのシェークスピアとアメリカ風の軽薄さを組み合わせた感じでしょうか、
この映画は米英合作で、ミュージカル仕立てになってました。

『恋ほど素敵な商売はない』とか、やたら有名な曲が出て来ますけど、
あちこちからかき集めたミュージカルの名曲集といった所でしょうかね。
例えば『チーク・トゥ・チーク』なんかは、
オスカー・ピーターソンの名演奏が耳に残りますが、
元は1935年のトップハットという映画で使われた曲のようです。

舞台はスペイン北部(今のバスク地方)にあったナバール王国で、
本来の時代背景は作品が書かれた時代より少し前の十六世紀頃のようですが、
この映画では、第二次大戦前後の話に置き換えられていました。
国王が宮廷を女人禁制にして、友人3人と共に学問に励む誓いを立てますが、
その後、フランス王女の一行が訪問すると、たちまち恋に落ちてしまい、
さっそく、その誓いを破るという展開ですね。


で、四人の男たちがそれぞれの彼女に言い寄るドタバタ喜劇になりますが、
結局は、王女の父親が死亡した為に一行は帰国することになります。
その結果、彼女たちは、それぞれの男たちに一年間の禁欲生活を命じ、
『その間に心が変わらなければ、改めて恋の申し込みを受けましょう』
と言って去っていく、というだけのドラマでした。

その点では『恋の骨折り損』という題名はもう一つピンときませんね。
『口説いてすぐに落す』というプレイボーイ的な意味では、
確かに『骨折り損』でしょうが、本気で恋をするつもりなら、
まだ結果が出ていない段階で『骨折り損』と言うのは早計ですからね。

ストーリーとしても、もう一つもの足りませんけど、
実はこれが書かれた頃、疫病で町の劇場が閉鎖されてしまった為に、
この作品は貴族の私的な場で上演する目的で作られたようですね。
ですから、貴族向けの高踏的な作品になっていて、
物語の内容自体より、韻を踏んだ言葉遊びに重点があるみたいです。

124 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/04(月) 11:51:31 [ 175.net220148173.t-com.ne.jp ]
  ●●●箱根霊験誓仇討(2004年12月・京都南座)☆☆☆−●●●

これは『十一代目市川海老蔵襲名披露吉例顔見世興行』として、
京都南座で行われた公演の録画だったようです。
箱根霊験誓仇討(はこねれいげんちかいのあだうち)と読みますが、
実は、元の題を『箱根霊験躄仇討(はこねれいけんいざりのあだうち)』
というそうです。ここでも、例のつまらない言葉狩りに遠慮して、
こんな言い換えをしたようですが……その分、検索で苦労しますね。(-_-;)

二場だけの抜粋を見た限りでは、どうということもない内容でした。
ある武士の夫婦が兄の仇討ちを志すのですが、
その途中で夫の足が立たなくなるという悲劇に見舞われます。
それで、仇には出会ったものの、返り討ちみたいになって、
結局は、妻を仇の愛人として差し出す代りに、
夫とその母の命を助けてもらうという展開になる分けですね。

それでも、夫の意を酌んだ妻は、
相手の隙を見て仇討ちを試みますが、逆に殺されてしまいます。
ところが、死んだ妻が亡霊になって箱根権現の滝に飛び込み、
権現の助力を請うた結果、夫の不具が直って、
勇躍、仇討ちに向かうという所までで終わりでした。


『殺された人間の亡霊が滝に飛び込む』というのも妙ですけど、
歌舞伎でのストーリーは、元の話とは大分違うみたいですね。
  http://www.town.tanagura.fukushima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020003&WIT_oid=icityv2_003::Contents::1222
一つ言えるのは、現代とは大違いで、
昔の人は信仰が厚かったということでしょうね。

歌舞伎には、この手の『信心によって御利益を得る』
という話をドラマ仕立てにした作品が珍しくないようです。
その中でも、特に有名なのが『壷坂霊験記』ですが……
実は、今調べた所、この作品は明治になって作られたようですね。(^^;)
  http://www.shimonaka-za.com/storys/tubosaka-01.htm

ついでに、同時放映の『身替座禅』について一言。
この作品も結構有名ですが、ハッキリ言って駄作でしょうね。
やはり、明治に入ってから作られたものらしいですが、
初演が1910年と言いますから、もう明治も末の頃ですよね。


これは、ある意味で歌舞伎の悪食を象徴しているように思います。
悪食(あくじき)という意味はつまり、前にも書いたと思いますが、
歌舞伎の場合、売れさえすれば(興行として成立する限り)、
ありとあらゆる要素を取り込む傾向がある、ということですね。

この場合、狂言の『花子(なはご)』を歌舞伎に仕立て直したようで、
確かに、大衆受けするだろうということは良く分かります。
でも、伝統歌舞伎の演目としての価値は少ないでしょうね。
それを言うと『歌舞伎は元々、大衆芸能だったんじゃないか』
という反論も出そうですが……いくら大衆芸能とは言っても、
例えば、少なくとも水飲み百姓には手の届かない贅沢ですよね。

結局、江戸時代に歌舞伎を楽しむ余裕のあった人々というのは、やはり、
大店(おおだな)の旦那とか、裕福な町人が中心ではなかったんでしょうか。
その意味では、それなりの見識を持つ人々が多かったはずですから、
現代のミーハーとは大違いでしょうね。
その点からすれば『現代から見ても、江戸時代に作られた作品の方が、
普遍性がある』という事は、決して偶然ではないだろうと思います。

125 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/09(土) 11:10:40 [ 102.net059085054.t-com.ne.jp ]
  ●●●ムーン・ウォーター(2000年4月ニースのスタジオ録画)☆☆☆●●●

これはクラウド・ゲイト・ダンス・シアターという台湾の舞踊団の作品ですが、
さすがに本場だけあって、太極拳の影響が色濃いですね。
中国人特有の、柔らかくしなやかな身のこなしが印象に残りました。
装置は、下に簡単な模様を描いた舞台があって、
終盤になると、そこに薄く水が張りめぐらされたみたいですね。
鏡に映ると、まるでサファイアか何かの鉱石の断面を磨いたようでした。

でも、前回のKAZAHANAも含めると、舞踊作品としては、
これで三作続けて『上半身スケスケ衣装』ですからね。
そんなことを気にするのは邪道かもしれませんけど、
どうしても目が余計な方に行ってしまいがちで困ります。(^^;)
こういう手法は、最近の舞踊界では世界的な流行なんでしょうか。

前衛舞踊家の立場では、肉体の線を隠す衣装は全て邪魔者という分けで、
理想は全裸で踊るということなんでしょうかね。
NHKあたりでは、それも出来ないということで、
こんな中途半端なスケスケ衣装になるんでしょうか。
もっとも、ずっと前に見たイリ・キリアンの作品では、
女性が完全なトップレス姿で踊っていてギョッとさせられましたが。


でも、肉体の線を生かすということだけなら、
別に全裸やスケスケでなくても、衣装はどうにでもなるはずでしょ!?
私なんかは、こうした点にどうしても『世界を不幸に陥れようとする
ユダヤ主義の悪意』を感じてしまう分けなんですけどね。
結局、今の世界には、この手の悪意が
あらゆる所に満ち満ちているように思います。

もう一つ、気になった事で言うと、
音楽がバッハの無伴奏チェロ組曲なんですね。
その六つある組曲は、パブロ・カザルスが取り上げて以来、
やたら有名になりましたが、私としては少し食傷気味なんですね。

無論、大バッハの作品ですし、悪い音楽ではないんですが、
いくらなんでも今更、陳腐すぎるんじゃないかと思いました。
因みに、演目の名前ですが、同じ漢字文化圏ですからね、
ムーン・ウォーターより『水月』の方が端的で良いでしょうね。
舞踊団の名前も、漢字では『雲門舞集』と書いていたと思います。

126 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/15(金) 09:27:56 [ 247.net220148173.t-com.ne.jp ]
  ●●●忠臣蔵外伝 四谷怪談(1994)☆☆☆●●●

歌舞伎の予習のつもりで録画したんですけど、何か出て来る俳優、
出て来る俳優、私の嫌いな奴ばかりという感じで、少し失敗した気分でした。
大石内蔵助役の津川雅彦、伊右衛門役の佐藤浩市、喜兵衛役の石橋蓮司と、
皆、目つきの悪い悪人面ばかりですからね。(-_-;)

で結局、この鶴谷南北作の物語は、
忠臣蔵四十七士の落ちこぼれの話だったようですね。
遊女のお岩と親しくなった赤穂家の侍・伊右衛門に、
吉良方の侍の娘・お梅が惚れ込んだ末、
伊右衛門とお岩の中を裂こうとして、
顔が崩れる毒薬をお岩に盛るという陰惨な展開になります。

結局、お岩は絶望して死んでしまう一方、
赤穂藩の取り潰しで浪人となった伊右衛門は、
吉良方に取り入り、浪人の身分から脱出しようと試みる分けです。
ところが、伊右衛門とお梅の祝言の席に、お岩の亡霊が復讐に現れ、
目をくらまされた伊右衛門はお梅を切り殺すという話でした。


深作欣二監督による映像は、絢爛豪華たる元禄の美を再現していますが、
他方では、ここでも裸が気になりました。
高岡早紀のおっぱいが大きいことは良く分かりましたけど、
『裸とセックスがないと映画じゃない』みたいな風潮はどうなんでしょうかね。

少し前には、外国映画の下品さを批判したばかりですけど、
良くよく考えて見ると、娯楽映画にやたら裸を持ち込むのは、
むしろ、日本映画の方が先輩だったかもしれませんね。

結局、戦後に隆盛を究めた日本の映画産業が、
後から登場したTVに押されて斜陽化して行った時、
当時の日本映画界を支配していた、いわゆる五社体制の各社は、
TVでは放映しにくい大人向けの裸を娯楽映画に持ち込むことで、
一部の大人ファンを劇場に引き止めようとした分けでしょうね。


その結果、男性観客へのサービスとして、
この手の映画では、必ず女の裸を出すことが定番となり、
ある意味で『女優を如何に脱がすか』ということが、
監督の力量の一つみたいに見なされた時代があった分けですね。
深作監督なんかもその一人ではなかったかと思います。

でも、映画作りの焦点がそういう方向に流れてしまったことは、
日本映画にとって、果たして幸福なことだったんでしょうか。
何故なら、その結果、女性の映画ファンが日本映画から遠ざかり、
健全な家族映画が消滅してしまう事態を招いた分けですからね。

でも今や、アダルトビデオの定着により、
そうした方面の需要は、立派に(!?)独立した分けですから、
芸術を志向する映画なら、裸に頼らずに
観客を集める努力をすべき時代になったのではないでしょうか。
無論、それは口で言うほど簡単なことではないでしょうけどね。

127 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/16(土) 10:52:34 [ 154.net220148174.t-com.ne.jp ]
  ●●●ハリー・ポッターと秘密の部屋(2002年)☆☆●●●

例のシリーズの第2作ですが、今回は少し退屈しました。
結局、この手の魔法使いものというのは
『あれが出来るのに、どうしてこれが出来ないんだ』
みたいな突っ込みを入れたくなる点が、無数にある分けですね。(^^;)

仮に、その魔法なるものが万能なら『全ゆる問題は始めから解決済み』
とも言える分けで、そもそも、どんな物語も成立し得ないでしょうね。
ですから、この手の物語では『その魔法にどういう限界を設けるか』
が本質的に重要で、作者もその点で苦労するのかもしれませんね。


ただ、例によってアメリカ人は、感情の葛藤を描出するのが下手ですからね。
『単に悪玉と善玉が出て来て、悪い奴が成敗されてめでたしめでたし』
みたいな単純な善悪二元論に、どうしても陥りがちなんですね。

でもそうなると、同じ子供向け作品とはいえ、宮崎アニメなどとは違って、
大人の観賞には到底、耐え得ない代物になってしまう分けです。
その意味で、この作品も大人が見て余り面白いものではないでしょうね。
因みに、前回 >>73 で『最近はもう、第三作を上演している云々』
と書きましたが、あれは第四作のミスでした。m(_ _)m

128 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/17(日) 10:37:32 [ 212.net220148233.t-com.ne.jp ]
  ●●●玄象(観世流)☆☆☆−●●●

これは去年の正月にやった能で、玄象(げんじょう)と読みますが、
観世流以外の流派では絃上と書くようですから、
能も色々とややこしいですね。(^^;)

いわゆる琵琶という楽器には、中国渡来の名器が三つあって、
それぞれ玄象・青山・獅子丸と言うそうですが、
この能の題名も、それに由来しているようです。

能と琵琶に関する蘊蓄(うんちく)に興味のある方は、
ここに面白い話がありますので、読んでみてはいいがでしょうか。
  http://www.asahi-net.or.jp/~zb5y-wd/gennjyou.html


話は、藤村師長(もろなが)という琵琶の名手が
その奥義を究める為に中国に渡ろうとするのを、
村上天皇の亡霊が引き止めるという展開でしたが、荒筋としては、
以前に >>107 で書いた『春日龍神』と良く似てますよね。

あの場合、明恵上人という僧が仏教を学ぶ為に中国・インドへ渡ろうとして、
春日大社の神官に引き止められた分けですが、
この頃から既に、外国の文化的な影響から離脱しようとする
国粋主義的な胎動があったのかもしれませんね。

能の五分類で言うと、この玄象や春日龍神は
五番目物の切能に入るようですが、
例によって、私個人の好みからすると
もうひとつ面白みに欠けるので☆☆☆−にしました。

129 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/18(月) 09:54:55 [ 143.net220148174.t-com.ne.jp ]
  ●●●オルフェオ(2002年2月バルセロナ・リセウ劇場)☆☆●●●

久々のバロック・オペラですが、これはモンテベルディの作品で、
ギリシャ神話で有名な『オルフェオとエウリディーチェ』の物語でした。
音楽的には聞きどころがほとんどなくて、ひたすら退屈な作品ですが、
筋の展開も、ただ荒筋をなぞるだけで緊張感の欠けたものですからね。
こんな写実的な演出をされると、とても付き合いきれない気がしました。

私の場合、今までは、普通のオペラで余りに奇抜な演出をされた場合に、
『もう少し写実的にやってくれないかな』と、
抵抗を感じることも多かったんですけどね。
こういうのを見せられると逆に『演出や舞台装置で
もう一工夫してくれないと、とても見るに耐えないな』
という気分になりました。(^^;)

因みに、以前にも >>56 でちょっと触れましたが、この物語では、
むしろ、グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』の方が有名で、
特にその間奏曲『精霊たちの踊り』は、
音楽ファンなら誰でも知っている曲ですよね。
私が見た映像ですと、そちらの方がずっと簡素で象徴的な演出でした。


物語の展開も、グルックの方では冥界での話に焦点が絞られていて、
確か、結末もハッピーエンドに変えられていたと思います。
まあ、モンテベルディの作品は1607年の作、
グルックの作品は1762年初演と150年以上の開きがあるようですから、
同じバロックオペラと言っても、時代的な落差は小さくないでしょうね。

それから、この物語ではもう一つ、オッフェンバック作曲の
『地獄のオルフェ』という有名なオペレッタがあるようですね。
私はまだ見てませんが、例の『カステラ一番、電話は二番……』という
文明堂カステラのコマーシャルで有名な曲が出て来る奴です。(^^;)

ところで、バルセロナと言えばパリやローマとはまた別の意味で、
芸術の都で、例のサグラーダ・ファミリアの街でもありましたね。
ですから、このリセウ劇場の内装なども随分と個性的な印象を受けました。
この街は、スペイン北東部のカタロニア地方の首都で、
カタロニアと言えば、例のカザルスを始め、ピカソ・ダリなど、
沢山の芸術家を排出しているので有名な所でもある分けです。


因みに、また少し脱線しますけど、同じスペインとは言っても、
このカタロニアやその西方にあるバスクは、大分雰囲気が違いますね。
いわゆるスペインというと、我々にとって馴染み深いのは、
闘牛とかフラメンコとか、なにやら血の臭いのする文化ですけど、
この二つの地方は民族的にも大分違うらしく、血の臭いは余りしません。

文化的に言うと、カタロニアはむしろ北イタリアに近い印象ですね。
実は、教会の看板か何かでつづりを見た時、
最初『イタリア語が書いてある』と勘違いしたんですが、
それがカタロニア語だったんですね。
或いは、北イタリア〜南フランス〜カタロニアというひとつながりの地域は、
文化的な共通性があるのかもしれません。

逆に、血の臭いのする文化という点では、何と言っても
南のアンダルシア地方がその中心のようですね。
セビリア・コルドバ・グラナダと有名な観光都市が連なる所ですが、
私がポルトガルの南端を回ってアンダルシアに入った時には、
典型的なスペインの匂いがしてきて、ワクワクしたのを覚えています。(^^;)

130 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/23(土) 10:53:25 [ 211.net059085049.t-com.ne.jp ]
  ●●●化粧師(2001)☆☆☆−●●●

この題名は、化粧師(けわいし)と読むそうですが、
何十年も生きて来て、始めて聞く言葉ですからね、
先ず、そこで引っ掛かっちゃいましたね。(^^;)
広辞苑にも化粧(けわい)という読みはありますが、
『化粧師』はありませんでした。
ネットで調べると、江戸時代には実際にあった職業らしく、
元となった石ノ森章太郎の同名漫画も、江戸時代の話のようです。

今は女性ならだれでも化粧品を持っていて、
自分で化粧するのが当たり前という時代ですが、
そんな余裕が無かった頃は、化粧というのは
『特別の時にするぜいたく』だったんでしょうかね。
ですから『女性に化粧をして金を取る』という、
こんな商売が成立したのかもしれません。
まあ現代でも一部の芸能人向けには、メーク・アップ・アーティストとか、
スタイリストといった職業があるようですけどね。


この映画では大正時代の話に置き換えられいて、そうした化粧師の男と、
彼に惚れて弟子入りを目指す少女や、女優志願の少女が出て来ます。
でも……結局の所、何を言いたいのか良く分かりませんでした。
イプセンの戯曲『人形の家』が出て来て、女性解放運動をにおわせたり、
スラム街の取り壊し騒動で、正義がどうたら言っていたりする点は、
なにやら左翼運動的な感じもしますけどね。

映像の美しさは特筆に値しますが、こういうのは監督と
カメラマンとで、一体どっちの功績が大きいんでしょうか。
ただ、化粧そのものについて言うなら、
例えば菅野美穂の場合なんか、化粧師が厚化粧をした後よりも、
素に近い元の顔の方が、ずっと美人で素敵に見えましたからね。
化粧というのも中々難しいようですね。(^^;)

131 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/24(日) 10:44:32 [ 73.net059086102.t-com.ne.jp ]
  ●●●翼よ!あれが巴里の灯だ(1956)☆☆☆●●●

やたら有名な映画なので気になって見たんですが、
まあ、それほどのこともない内容でした。(^^;)
ある意味で『80日間世界一周』とも少し似ていますが、
『飛行機による大西洋無着陸横断』という冒険飛行に対し、
当時、賞金が出されていたらしいですね。

で、このリンドバーグ以外にも何組かの挑戦者がいたようですが、
彼らによる先陣争いが盛り上がり、失敗による死者も出る中で、
この主人公が最初の成功者となるまでの経緯が映像化されています。
例えば、堀江青年による太平洋の単身ヨット横断という快挙に、
日本中が興奮したように、当時の世界は、
リンドバーグの成功に喝采を送ったようですね。


ただ……この成功の後、飛行機はもっぱら、
戦争の道具として発展した歴史があり、
日本の零戦などもその延長線上にあるわけですね。
そうしたことを考えると、少し複雑な気持ちになりした。

問題の飛行自体は単調な部分が多く、映像にはなりにくいようで、
その間に沢山の回想シーンが挿入されていますが、
終盤、翼への着氷で一度はあきらめかけるあたりから一転して、
パリ到着に至るクライマクスは、中々良くできたサスペンスでした。
『セントルイスの精神』という名の飛行機を駆ってフランスに渡る行為には、
フランスに対するアメリカ人のあこがれも投影されているんでしょうね。

132 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/09/27(水) 13:56:01 [ 146.net059086101.t-com.ne.jp ]
  ●●●遊行柳(宝生流)☆☆●●●

これは西行法師の逸話で有名な遊行柳に材をとった能でした。その荒筋は……
「一遍上人の教えを広める為に諸国を遊行する僧侶が白河の関に差しかかると、
老人が現れて彼を『朽木の柳』へと案内します。
そこには古塚の上に柳の老木がありましたが、老人は、
昔、西行がここで詠んだという歌を紹介して姿を消します。

その晩、僧侶が古塚のそばで仮寝をしていると、
柳の精が現れ、自分はさっき道案内をした老人だと告げます。
柳の精は柳にまつわる話をし、念仏の功徳をたたえる舞を舞ってみせますが、
僧侶がふと目覚めると、夜明けの風に朽木の柳が吹かれているだけでした。」
この作品の詳しいデータは、次のサイトにありました。
  http://www.syuneikai.net/yugyoyanagi.htm

こうして改めて内容をたどると、それなりに情緒深いものもありますが……
同じ霊でも怨霊でないと、能としては弱いということなんでしょうかね。
2時間といえば、能では大作の部類に入る分けですが、
私は途中から眠くなって、見終えるまでが一苦労でした。(^^;)
因みに、例の五分類では、この能は三番目物の鬘物に入るようです。


まあ、西行への思い入れが特に強い人は別かもしれませんけど、
そうでない人にとって、この作品は相当退屈なんじゃないでしょうか。
因みに私の評価だと、西行は歌人としてはあくまで二流ですからね、
その意味で、退屈を免れなかったのかもしれません。

結局、あの松尾芭蕉が放浪漂泊詩人の先覚として焦点を当てて以来、
この西行は少し過大評価されている、というのが私の見方です。
同じ新古今の歌人で言うなら、私は藤原良経の方が遥かに好きですし、
彼の場合は、逆に過少評価されているんじゃないかとさえ思います。

例えば、新古今集の冒頭を飾る次の一首もそうですが、
彼の読みぶりは堂々として、スケールの大きいものが多いですからね。
  み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春は来にけり
  (吉野の里では、しばらく前まで山もかすむ程に白雪が降っていたが、
  今や同じ山に春霞みがかかっており、この古びた里にも春が来たようだ。)

133 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/01(日) 12:57:53 [ 3.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●アンティゴネ(2004年ク・ナウカ)☆☆☆●●●

『アンティゴネ』と言えば、ソフォクレス作の有名なギリシャ悲劇ですが、
これは2004年10月19日に東京国立博物館前の特設舞台で行われた公演でした。
あいにく、本降りの雨が降りしきる中での上演となったようですが……
この劇の内容からすれば、むしろその方がふさわしかったかもしれませんね。
ク・ナウカとはロシア語で『科学へ』という意味らしいですが、
宮城聰という演出家が1990年に立ち上げた前衛劇団の名前のようです。

で、問題の劇の内容ですが……
今までの私は、いわゆる『義理と人情の板挟み』なんていうのは、
日本固有の現象かと思っていたんですが、このドラマは、
ギリシャ版『義理と人情の板挟み』というところかもしれませんね。(^^;)
結局、そのテーマは人類普遍の問題であるということなんでしょうか。

物語は、父親殺しで有名な例のオイディプス王が追放された後の話で、
彼と自分の母親との間に生まれた二人の息子がテーベの王権を争った末、
弟が外国の武力に頼って攻め込んで来ます。
それで結局、外国軍は撃退されるのですが、
その過程で兄弟は刺し違えて共に死んでしまいます。
実際の劇は、この時点から始まる分けです。


で、その後に王権を継いだクレオンは、
『国を裏切った弟を弔ってはいけない』と国民におふれを出す分けですね。
具体的には『その遺骸を鳥や獣が食うに任せろ』という分けですが……
今でも、チベットあたりでは鳥葬とか言う風習があって、
『遺骸を鳥に食わせることにより、死者は天国に旅立つことが出来る』
と考えるらしいですから、民族により死者の弔い方は様々ですね。(^^;)
ただ、一国の為政者からすれば、国家の裏切り者に対し、
正式な葬儀を禁じるのは、しごく当然の判断ではないでしょうか。

ところが、刺し違えた兄弟には二人の妹たちがいて、
その内、年上のアンティゴネは『肉親を弔うという神の掟は、
地上の掟に優先する』と考え、新国王の命令を拒否してまでも、
兄の弔いを出して、逍遥と死に赴く分けですね。
神の掟とは言いますが、ここでも事実上『肉親を弔う』という人情が、
『国家の命令に従う』という義理と衝突している分けです。

この劇では、アンティゴネの婚約者で、新王の息子でもあるハイモンが、
彼女の弁護を買って出て、父と論争するという場面が一つの見所のようです。
その結果、新王は少し妥協して直接の処刑は避ける分けですが、
彼女は暗い洞窟に閉じ込められ、緩慢な死を迎えるという結末でした。
ギリシャ悲劇というと、何かもっと特異なものかと思っていましたが、
この劇に関する限り、かなり常識的というか平凡とも言える内容でしたね。

134 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/03(火) 12:30:22 [ 147.net059085040.t-com.ne.jp ]
  ●●●舞姫(1988)☆☆☆●●●

篠田正浩監督の作品ということで録画したんですが、
実を言うと、以前にメルマガ紹介でちょっと書きましたように、
私個人としては、森鴎外や夏目漱石には余り興味がないんですね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1070069570/7
その点で、この映画も予期した以上のものではありませんでしたが、
まあ、退屈はしなかったので三つ星にしました。

この物語の原作を全て読んだことがあったかどうか記憶にないんですけど、
結局、私が受けた印象としては、この小説は、
『ドイツ人の女を捨てたことに対する森鴎外の言い訳』
以上のものにはなっていないということですね。
ですから『だから何なんだ』という気分になる分けです。

少し見方を変えるなら、この作品は『開国後の日本人が
西洋流の恋愛至上主義にかぶれて行く一過程』とも言えるでしょうね。
森鴎外や夏目漱石は、そうした風潮の先駆だろうと思いますが、
その意味で私には、彼らが『野蛮人がいきがっている』
くらいにしか見えない分けなんですね。(-_-;)

135 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/07(土) 13:38:25 [ 236.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●砲艦サンパブロ(1966)☆☆☆+●●●(1/4)

原題の『The Sand Pebbles』(砂でできた小石たち)
というのが振るってますね。(笑)
これは当然、サンパブロ(San Pablo)という艦名のもじりですが、
この船は何か米西戦争でアメリカがスペインからぶんどった戦利品で、
ひどくおんぼろだったので、水兵たちが自嘲してそう呼んだんでしょうね。

物語は1920年台の中国の話で、楊子江沿岸の長沙に派遣された米国の艦船が、
中国の排外運動の嵐の中、トラブルに巻き込まれて行くという話でした。
最近の歴史解釈騒動では、何かと日本ばかり悪者にされる傾向にありますが、
『少し歴史を逆上って、中国で一体何が起こっていたかを客観的に眺めたら、
より公平な見方が出来るんじゃないか』という興味で録画したわけです。

当時、列強が進出して中国を分割支配する中で、
アメリカ人と中国人がどういう出会い方をしたかということを含め、
色々と興味深い状況が、この映像から読み取れると思います。
米国側の主人公を演じたスティーブ・マックィーンに対し、
中国側の主人公を演じているのがマコという日系アメリカ人の俳優ですが、
彼はつい最近、死去したというニュースがあったばかりでしたね。


前半は、売春街に行った米兵たちが新入りの中国娘をめぐって、
醜い奪い合いを演じるという話で始まりますが、例によって、
ここでも善玉と悪玉の対決というお決まりの構図になってますね。(^^;)
他方、排外運動の渦の中、サンパブロ号で働いていた中国人の一人が、
共産党軍に捕まってしまい『敵に協力する裏切り者』として、
なぶり殺しにされるという展開になります。
この辺の残酷さは、封建時代から受け継がれた慣習なんでしょうかね。
その時、彼を一人前にしようと訓練して来たソルトレーク出身の主人公が、
それを見かねて、彼を銃撃して殺すという苦い結末で終わります。

後半は、南京に入った北伐軍が暴虐を働いて米英が砲撃を始める事態になり、
アメリカ本国からは『上海に向かえ』という命令がサンパブロ号に来ますが、
艦長は敢えてそれを無視し、独断で内陸にいる宣教師たちを救出に向かいます。
その途上、阻止線を張る中国の小舟群を粉砕したサンパブロ号は、
何とか目的地には辿り付くものの、肝心の宣教師たちからは、
救出を拒否されるというチグハグな結果になります。
結局、あくまで宗教家としての理想主義から布教する立場では、
中国人を武力で制圧するやり方は受け入れられない、ということでしょうね。

で、救出に行った水兵たちは中国軍に包囲されてしまい、
例の宣教師もあっさり殺されてしまうことになりますが……
実は、ここには主人公が思いを寄せている知り合いの女性がいて、
主人公は、彼女を逃がしてくれるように頼むと、
水兵たちが命からがら脱出する時に、
その犠牲になって自分は死ぬ、という美談で終わっていました。


この物語から得られる教訓は様々あると思いますが、
今回はキリスト教の布教活動という所に焦点を当ててみたいと思います。
というのも、今までユダヤ主義に関して色々書いてきましたが、
一つ重要なポイントが抜けていたからなんですね。
つまり、共産主義以前の支配装置は何だったのかという点なんです。

と言うのも、私は今まで『ユダヤ主義が世界を支配する道具として、
共産主義(修正主義)がその主力を担っている』と言って来たわけですが、
鋭い方は既に矛盾に気付いていらっしゃるかもしれませんね。
何故なら一方では、ユダヤ主義は戦争によって世界を操っていると言い、
二つの世界大戦は勿論、それ以前の植民地支配にも言及したからです。

更に言うなら『三度飯』では『ユダヤの謀略は千年単位である』
という表現すら使った分けですが……
その場合、一つ覚悟しておかねばならないのは、こうした分析は、
時代を逆上れば逆上るほど、実証が困難になるということですね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1072067188/15
その意味で『私の話は時代が古くなれば古くなるほど、仮説という色彩が
強まらざるを得ない』という点に留意して欲しいと思います。

136 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/07(土) 13:40:54 [ 236.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●砲艦サンパブロ(1966)☆☆☆+●●●(2/4)

さて、それで問題の核心は『ユダヤ主義の謀略というものが、
時間的に一体どこまで逆上れるか』ということになる分けですね。
例えば、ユダヤ謀略の本体としてシオニズムを言う立場がありますが、
でも、シオニズムの歴史なんて、まだ110年にも足りない分けでしょ!?
となると、それが仮にユダヤ支配の一側面であったにせよ、
決して全てではないと言わざるを得ない分けですね。
その意味で、私はシオニズムという言い方を敢えて避けている分けです。

でも……それと全く同じことは共産主義についても言えますよね。
つまり、マルクスが共産党宣言を出したのは1848年ですから、
共産主義の歴史もせいぜい、160年に満たない分けです。
となると、例えば『米国の領土拡張にユダヤ主義の工作があった』
なんて書いた件も、共産主義では説明できないのは明らかですよね。
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1123461002/38

こうなると『共産主義の登場以前に、
ユダヤ支配の主力を担っていたのは一体何か』
という事が問題になる分けですが、その意味で有名なのは、
フリーメイソンを筆頭とする秘密結社の話でしょうね。
しかし、ここでも『その手の秘密結社がユダヤ支配の一側面であったにせよ、
全てではないだろう』というのが私の見解です。
そんなものだけで、世界を自在に操れる分けがないからですね。


で『共産主義以前に、それに代わり得るユダヤ支配の源泉は何か』
という点から私が思い至ったのが、キリスト教なんですね。
というのも、共産主義とキリスト教との間には、
歴史的に見て、非常に興味深い類似点があるからなんです。
その最大のものは、どっちの組織も歴史的に分裂した経緯があり、
しかも、その過程が非常に良く似ているということですね。

つまり、ある時点で分派活動が生じると、血みどろの抗争が始まり、
その結果、一方は巨大な勢力のまま残りますが、他方は、
ちりぢりに分裂して行って、やっと流血が収まるという展開ですよね。
私たちの世代は、新左翼の血みどろの闘争過程を良く知っていますが、
最初、日本共産党が修正主義に転じ(表面的に)暴力革命を放棄した後、
それを批判する連中がいわゆる新左翼として独立した分けですね。
ところが、その新左翼なるものは、その後、次々に分裂し、
その中で、暴力的な抗争を繰り返しつつ衰退して行った分けです。


似たような歴史がキリスト教にもあるんですね。
つまり、いわゆる宗教改革というものがあって、
免罪符を筆頭とするカトリック教団の腐敗を批判する者たちが、
独立しようとした分けですが、その過程で起こった宗教戦争の悲惨さは、
世界史を少しでもかじった者なら、誰でもよく知ってるはずですよね。
で、この場合も、一方のカトリックは巨大な勢力として残りましたが、
プロテスタントの方は、御存じの通り四分五裂の状況になっている分けです。

こうした類似に関しては『組織というものは皆、そういうものだ』
という反論もありそうですが、果たしてそうでしょうか!?
例えば同じ宗教で見た場合、
仏教にはカトリックのような存在はありませんよね!?
つまり、仏教の分派活動でも多少の抗争はあったかもしれませんが、
キリスト教ほどの大規模な流血があったという話は余り聞きませんし、
また、カトリックのような巨大組織が生き残ることも無かった分けです。
キリスト教のもう一方の旗頭であるギリシャ正教にしても、
それを一つの宗教と見なすなら仏教同様、巨大な中核組織はないですからね。

137 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/07(土) 13:43:29 [ 236.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●砲艦サンパブロ(1966)☆☆☆+●●●(3/4)

で次の問題は、こうした流血の構造をどう解釈するかなんですが、
私が思うに『カトリックも共産主義もユダヤ支配の道具である』
と考えると、全てのことがうまく説明が付く分けですね。
つまり、両方の組織とも本来の設立目的がある分けですが、
それを操る連中の隠された意図は、それとは全く別であるということです。

で、どっちの組織も絶対服従的な構造がある中で、
ユダヤ主義は命令を通じて、世界支配に利用する分けですが、
その意図が組織本来のものとは別物である以上、時々
命令と下部組織の意識との間で矛盾が生じるのは、不可避でしょうね。

そこで、その命令に疑問を持った連中は独立して分派活動を始める分けですが、
ユダヤ主義の立場からすれば、それは到底認められないですからね。
分派を叩きつぶそうとしてありとあらゆることをやる分けで、
そこから血みどろの抗争が生じるのは必然なんですね。


例えば、各分派の中に自分のスパイを送り込んで色々工作しますから、
分派組織は更に次々と分裂し、次第に弱体化して行きます。
最終的には、それらの分派も洗脳されてユダヤ主義の奴隷となり、
その時点で血みどろの抗争は終わるわけです。
こうして最後には、ユダヤ主義の本体が巨大組織として残り、
分派した組織もそれなりに細々と生き残るという形になる分けですね。

これに対しては『キリスト教はむしろ、ユダヤ人を裏切り者として
迫害して来た歴史があるんじゃないか』という反論があるでしょうね。
ユダの裏切りに関しては、暫く前にも『パッション』
とかいう映画があって色々と物議を醸していたようですけどね。
  http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD36952/index.html

その意味では、むしろ『キリスト教は常にユダヤ人の敵だったのだ』
というのが通説だろうと思います。でも、私に言わせれば、それこそ
『ユダヤ主義にとっての絶好の隠れ蓑』だったんじゃないですか!?
つまり、ユダヤ主義の謀略に気付く人が時々現れ、
反ユダヤ運動が盛り上がってユダヤ人迫害が起こる度に、ユダヤ主義は、
その迫害を『宗教的憎悪によるもの』としてすり替えることにより、
みずからの謀略を隠蔽して来たんだろうと思います。


で、話を少し映画の方に引き戻しますが、ユダヤ主義の最大の目的は、
パレスチナに自分たちの国を作り上げることにあっただろうと思います。
その意味で、ローマン・カトリックという手段を手に入れたユダヤ主義は、
先ず十字軍というものを組織し直接、中東を武力制覇しようとした分けです。

ところが何度やっても、それはうまく行かなかったわけですね。
で結局、十字軍が失敗した後、今度はマルコポーロがもたらした情報から、
『東方にはキリスト教の協力者がいる』という話が出て来る分けですね。
その辺の詳細は良く知りませんが、ともかく西から攻めて駄目なら、
中東より更に東の勢力と同盟し、挟み打ちにしようと考えたんでしょうね。

で『その為には、地球を逆に回ってアジアに行く方が近道だ』
ということになり、ここから大航海時代が始まるわけですね。
で、最初はスペインやポルトガルというカトリックの従順な息子たちが、
西への冒険航海を始める分けですが……米大陸を発見し、
様々な財宝が手に入ると『これは美味しい』という分けで、
先ずはオランダ、更にはイギリス・フランスという新教の勢力が参入し、
今度は植民地の奪い合いという様相になる分けですね。

138 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/07(土) 13:48:29 [ 236.net059086096.t-com.ne.jp ]
  ●●●砲艦サンパブロ(1966)☆☆☆+●●●(4/4)

で、結果的には植民地分割の終着点として、
西側世界はバレスチナを包囲する形となり、
最終的には第一次世界大戦によって、
イギリスがパレスチナの支配権を手に入れる分けです。
そして第二次大戦を介して、ついにイスラエル建国に至る分けですが……
もう、ここまで来ると植民地は用済みですからね。
今度は共産主義などを使って、反植民地主義の大宣伝を始めた分けでしょうね。

そういう歴史を考えると『キリスト教の布教が植民地化の先兵だった』
と言う通説の意味が良く理解できるんじゃないでしょうか。
つまり、大航海から植民地主義へという展開自体が、
ユダヤ主義の戦略によってもたらされたものであると考えるなら、
ユダヤ支配の力の源泉であるキリスト教が、
植民地化の先兵としての役割を果たすのは当然の帰結でしょ!?
つまり『仮に、個々の宣教師たちの善意は疑えないとしても、
新教・旧教を含めたキリスト教勢力が実質的に、
植民地化の推進力になった』という歴史的事実は、
この点から理解できるということです。


その意味で、この映画における中国人の排外主義は当然だと思いますし、
善意一点張りの例の宣教師があっさり殺されてしまうのも、
歴史の流れの中では必然ではないでしょうか。
結局、キリスト教に改宗させて奴隷化した後は、
ユダヤ主義が自由に操れるわけですからね。
日本でもキリスト教の侵入では相当、血みどろの抵抗がありましたが、
それが最終的に鎖国に至るのも『キリスト教を通じた謀略支配への抵抗』
という側面があったのではないかと私は考えています。

その場合、カトリックによる支配の本質というのは、
例の懺悔という仕組みにあるでしょうね。
信者は神の代理人としての神父に全てを告白して救われる分けですが、
神父はその秘密を絶対にもらしてはならないという決まりがある分けです。
でも……仮に、その秘密の主要なものが全てバチカンに集められ、
それをユダヤ主義が知り得るとするなら、
ユダヤ主義は世界を操作する為に、その秘密を自在に活用できる分けですね。
その意味で、カトリック信仰の国々はユダヤ主義のきつい支配下にある分けで、
そうした国が色々な意味で発展を阻害されるのは不可避だろうと思います。

社会学では『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
という本をやたら持ち上げる風潮があるようですが、
私に言わせれば、マックス・ウェーバーなんてクソですよね。
実際問題として、資本主義が新教固有の産物なら、日本を始め、
最近の中国やインドの資本主義をどう説明する分けですか!?
旧教の国々の発展が新教の国々に比べ遅れがちなのは、
けっして『プロテスタントの倫理』に欠けるからではなく、むしろ、
カトリックがユダヤ支配の最も有効な道具であることに由来すると思います。


似たようなことで言うと、中世という時代の評価にしてもそうですね。
私に言わせるなら、西欧中世が『停滞の時代』だったのは、それが、
『ユダヤ主義がカトリックを通じて西欧を一元支配した時代』だからです。
その点からするなら、最近のEU(ヨーロッパ連合)も良く似てますよね。
ですから、私はこれを『第二の中世』と呼びたいと思います。
何故なら、それが意味するものは『ユダヤ主義が今度は
共産主義を通じて西欧を一元支配する時代』に他ならないからです。
その意味で、もしこのまま行けば、西欧は長い停滞の時代に入るでしょうね。
日本では、バカな連中が『アジアにもEUのような経済統合が必要だ』
とか言ってますけど、そういう猿まねは駄目だという以上に、
それが最終的にはユダヤ支配による停滞に至るということを知るべきですね。

最後になりましたが……映画の結末で主人公が
『本当は米国にいるべき自分が、どうしてここにいのるか』
と自問自答していましたが、イラク戦争でも
例の捕虜虐待で処罰された女性兵士が似たようなことを言ってましたね。
つまり、リンディー・イングランド二等兵ですが、質問に答える形で、
『自分がイラクに来たのが間違いだった』とか言っていたと思います。
実を言うと、この映画はそもそもベトナム戦争批判として作られたようですが、
結局、ベトナム戦争もイラク戦争も、本質的にはこの映画と同じことで、
『いるべきでない場所にどうして米国人がいるのか』という点に尽きますよね。
それは『ユダヤ主義の道具として徹底的にこき使われる
米国人』の哀しみとも言えるのではないでしょうか。

139 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/09(月) 11:06:30 [ 62.net059085055.t-com.ne.jp ]
  ■前回の訂正と補足■

前回のような長い文章になると、どうしてもミスが出易いですね。(^^;)
先ず、第一点は >>137 の末尾近くで、次のように書いた所です。
  先ずはオランダ、更にはイギリス・フランスという新教の勢力が参入し、
  今度は植民地の奪い合いという様相になる分けですね。

言うまでもなくフランスはカトリック教国ですし、
英国国教会にしても厳密には新教ではなく、
その典礼や儀式は、むしろ旧教に近いらしいですからね。
だからこそ、例の清教徒たちはアメリカに逃げ出した分けですね。
ですから、ここは『新教の勢力が参入し』を
『新教を含む勢力が参入し』と直したいと思います。

それから、>>138 の後半では、
  >>カトリックがユダヤ支配の最も有効な道具である
と書きましたが、ここも『共産主義の登場までは、
カトリックがユダヤ主義の最も有効な道具であった』
と直す必要があります。


まあ、今の時点でも『カトリックがプロテスタントより、
有効な支配手段である』のは間違いないでしょうけど、
ただ、世界共通の現象として、今や多くの国々では、
宗教への信仰心が徐々に薄れつつある分けですね。

で、そうなると日曜毎に教会に通うみたいな人も減って来ますから、
懺悔で秘密を手に入れることも難しくなりますよね。
その結果、ユダヤ主義の支配手段としても、
宗教は徐々に無力化して行くことが避けられない分けです。
それに比べると、共産主義の支配力は強力ですよね。

何しろ、宗教への勧誘はあくまで説得による分けですが、
共産主義の場合は、例の物理的・精神的な迫害により、
無理やり洗脳する分けですからね。(-_-;)
こうしたあくどい支配手段から人類が逃れられる日は、
一体いつか来るんでしょうか。

140 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/10(火) 09:49:20 [ 53.net220148169.t-com.ne.jp ]
  ●●●日向嶋景清(2005年11月歌舞伎座)☆☆☆−●●●

これは今年3月に放映されたものですが、
以前に >>37 で書いた『再桜遇清水』と同じ系列の作品らしいですね。
つまり、中村吉右衛門が松貫四の名前で書き下ろした新作歌舞伎で、
その翌年に同じこんぴら歌舞伎で初演された作品のようですが、
この映像は、その後に東京の歌舞伎で再演されたものの録画のようです。

題名は『日向嶋景清(ひにむかうしまのかげきよ)』と読みますが、文楽作品の
『嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)』が元になったそうです。
景清と言えば、平家物語の錣引き(しころびき)の逸話が有名ですが、
その勇猛果敢さから悪七兵衛(あくしちびょうえ)の異名でも知られますね。
景清ものとしては、大近松が書いた文楽作品の『出世景清』が名高いですが、
この作品はその後日談のようです。


頼朝への復讐に失敗した後、
両眼をつぶして日向の国の小島で隠遁している景清の所へ、
実の娘で幼い頃に生き別れた糸滝が、
父親への会いたさ一心で船に乗ってやって来ます。

それを知った景清は、別人のふりをして
『景清は既に飢え死にした』と嘘をつきますが……
彼が素直に会おうとしないのは『合戦の足手まといになる』として、
まだ幼い娘を捨てた時から、親子の縁を切ったつもりでいた為のようです。
でも、その嘘は付近の里人の証言によって、すぐにばれてしまいます。

娘は実際は、自分の身を遊女に売った金を父に届けに来たわけですが、
それを言い出せずにいると、付き添いの女衒(ぜげん)佐治太夫は、
彼女が大百姓へ嫁入りしたと嘘を言って、財布と文箱を手渡そうとします。
ところが、景清は武家の娘が百姓の嫁になったことに怒り出し、
二人を追い返します。でも……縁を切って合おうともしなかったのに、
ここでそんなに怒るのは、少し辻褄が合わない気もしますね。(^^;)


仕方なく、女衒はさっき景清の正体を教えてくれた二人の里人に、
財布と文箱を預けて去って行きますが、里人が文箱を明けると、
そこには娘が身を売った事情が書いてある分けです。
それを聞いた景清は半狂乱になって、船を呼び返そうとしますが……
この辺は例の『俊寛』を彷彿(ほうふつ)とさせる所ですね。

その時、里人たちは実は自分たちが鎌倉からの目付け役であったことを明かし、
『景清が頼朝に降伏すれば糸滝も景清も救われる』と説得するので、結局、
景清も折れ、頼朝に従うことを決意して鎌倉へ向かうという結末でした。
何か『景清を味方に付ける為に、頼朝側がひと芝居打った』
とも解釈できる内容ですが、話の展開としては、もう一つ迫力に欠けますね。
でも、退屈はしなかったので☆☆☆−にしました。

141 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/11(水) 11:53:38 [ 238.net220148229.t-com.ne.jp ]
  ●●●アドリアーナ・ルクヴルール(2000年ミラノ・スカラ座)☆☆☆−●●●

これはチレーアという人のオペラですが、余り耳慣れない作曲家ですね。
1866年生まれと言いますから、シベリウスやリヒアルト・シュトラウスと
同世代のようですが、内容的には典型的なイタリア・オペラでした。
でも、音楽としての魅力はもう一つですし、
劇の内容も平板ですから☆☆☆−にしました。

フランスの由緒ある劇団『コメディー・フランセーズ』で
女優をしている主人公のアドリアーナ・ルクヴルールが、
ザクセン伯爵をめぐって、ある貴婦人と三角関係になるという話ですが、
結局は、貴婦人が仕掛けた罠で毒殺されるという月並みな話でした。
もっとも……実際の物語は遥かに複雑のようですね。(^^;)
オペラのせりふだけでは、詳細は分かりませんでしたが。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%B4%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AB

でも、この貴族婦人というのが夫のいる身で、
三角関係とは言っても、一方は不倫な分けですからね。
まあ、その夫も愛人を囲っている分けですから、
当時のフランスの状況が読み取れますが……
同じ毒殺物なら、以前に取り上げたバレエ作品の
『ラ・バヤデール』の方がドラマとしてずっと優れていたと思います。

142 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/16(月) 12:00:08 [ 128.net059085055.t-com.ne.jp ]
  ●●●レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ(1976)☆☆☆●●●(1/3)

レッド・ツェッペリンといえば、言うまでもなく、
ロックの世界では、いわゆるヘビメタの元祖ですよね。(^^;)
因みに、私個人とロックとのつき合いというのは、
ベッタリ密着していたというよりは、
大体が、横目でチラチラ眺めていた口なんですね。

例えば、ビートルズなんかにしても、
最初に彼らを知ったのは、何かのパペットの伴奏みたいな形で
『アイウォナホールドユアハンド(抱きしめたい)』が流れる映像でした。
その時点では『何かすごいバンドが出て来たな』とは思ったんですが、
積極的に追いかけることも無く、そのままになってしまい、
その音楽を本格的に聞き始めたのは、もう彼らが解散してしまった後で、
その総集編みたいなものをFMで聞いてからですからね。

このツェッペリンにしても『いわゆるヒット・チャートで、
ビートルズが独占していたトップの座を初めて奪った』ということで、
ロック・ファンの間では、前から相当騒がれていたようですが、
私がその音楽を最初に聞いたのは7枚目のアルバムでした。
でも、その『プレゼンス』というのが中々の出来でしたね。


『メロディらしきメロディは、ほとんど何もないにも関わらず、どうして、
これだけの訴求力があるのか』というのが少し不思議な位ですね。
もっとも、実の所を言うと、本当のロックらしいロックというのは、
余り甘ったるいメロディーが付いてちゃいけないんですよね。
その点で、尾崎豊なんかまでをロックと称するのは見当違いで、それは
例えば『港町ブルース』が本来の意味のブルースでないのと同様です。(^^;)

こうしたポピュラー系のバンドが『その音楽的な展開の中のある時点で、
一定のレベルを突き抜け、芸術の域に達する』ということが
時たまある分けですが、この『プレゼンス』もその一例でしょうね。
例によって、私は彼らの音楽の全てを聞いた分けではありませんが、
恐らく、これは彼らが残した最高傑作だろうと思います。

因みに、その芸術の域に達するという点からすると、いわゆる
プログレ(プログレッシブ・ロック)には沢山ありますが、
私の好みからすると、キング・クリムゾンを筆頭に、
イエス、ELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)、
プロコル・ハルム、そして以前にも触れたイ・プーあたりでしょうね。
世間的にはピンク・フロイドも有名ですが、私は余り好きではありません。


ロックに馴染みの薄い方の為に断って置きますと、
レッド・ツェッペリンという名は『Led Zeppelin』ですからね、
『赤いツェッペリン』ではなく『鉛のツェッペリン』なんです。
(但し、鉛の正確なつづりはleadなんですが、
米国人がリードと読むのを嫌って、わざわざledに変えたそうです。)
当然、例の飛行船のイメージが元になっているんでしょうけど、
その音楽自体、何やら鉛のような光沢を放ってる感じですからね。
そこからヘビー・メタルという名称も生まれたんだろうと思います。

元々、ロックはソフト・ハード・ボップなどと分類できますが、
ビートルズは、それらの要素を全て持ってますから、すごいですよね。
少し脱線しますが……ビートルズというバンドが日本に(或いは世界に)
及ぼした影響は、二重構造になってる分けですね。
つまり、最初のデビューがもたらした衝撃は、
いわゆるグループ・サウンズという形だった分けです。
ですから、色んな国でそれが模倣されましたが、
当初は商業主義が前面に出たのが特徴です。

その結果、この時点でのバンドは皆、動物の名前を付けたんですね。
というのも、元々がビートル(かぶとむし)ですからね、それを模倣する側も
『何か動物の名前にしなくちゃいけない』と思ったんでしょうね。
例えば、日本のタイガーズが好例ですし、米国のモンキーズもそうでした。
モンキーズなんかは確か、レコード会社が各楽器のメンバーを
あちこちからかき集めてでっち上げた、典型的な商業主義バンドでしたよね。

143 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/16(月) 12:03:01 [ 128.net059085055.t-com.ne.jp ]
  ●●●レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ(1976)☆☆☆●●●(2/3)

その第一の衝撃波が去った後、暫くして第二派が来た分けですか、
今度はシンガーズ・ソング・ライターという形でした。
つまり、それまで音楽を作るという行為は、
ごく一部の特殊な才能を持つ人だけに許された特権と思われていて、
普通の人が音楽を作るなんていうことは、思いも寄らなかった分けです。
その意味で、例えば今でも演歌がそうであるように、
歌手と作曲家というものは厳然と区別されていた分けです。

ところが、ビートルズの面々は『自分達の音楽を、
自分たち自身で作る』ということを易々と始めた分けで、
それを見て多くの人々は『そうか自分で作曲してもいいんだ』
と気がついたみたいでしたね。そうは言っても、無論
才能の優劣というものが当然ありますが……それにしても、
『作曲という行為が、ごく一部の特権階層のものではなくなった』
というのは大きな変革だったように思います。

そこから日本のフォーク・ブームも始まったようなもんですよね。
結局、ビートルズは、ある意味でフォーク的な部分も持ってる分けですね。
例えば、井上陽水が好きだという『ブラック・バード』にしても、
それが入ったアルバムなんか、ほとんどフォークと区別がつきませんものね。
で、本来のロックの方でも、商業主義とは全く別の所から、
新しい波が始まった分けです。


因みに、ロックという名前の由来も考えてみると色々面白いですね。
一番最初は『ロックンロール・ア・ヒルビリー』とか言ったんですね。
それを略して『ロカビリー』とも言う分けですが、
それが発展して『ロックンロール』になり、
そこから更に発展したのが『ロック』なわけですから、
いわば、進化するほどに名前が短くなる分けですね。(^^;)

で、日本のロックもこの段階では例の頭脳警察とか四人囃子とか、
色々あったんですが、ひとつハッキリした特徴は、この時点では、
バンド名が日本語で、歌詞も日本語で歌うということですね。
それが、ロックが衰退する頃になると逆に英語に戻ったりするわけですが、
結局、英語やカタカナがはびこる根本的な原因というのは、
国内における文化的生産力が衰退することにあるようですね。
というのも文化が生み出される時には、必ず、
それに伴って、言葉が生み出されるからなんです。

ですから、国内で文化を生み出す力が衰え、その結果として、
外国の文化が流入し、国内を席巻するようになると、
必然的にカタカナ言葉がはびこる結果になる分けです。
その意味では、フランスあたりでも大分前から英語がはびこりだして、
『純粋なフランス語を守れ』とか騒いでるようですが、
そうした『言葉の侵略』の背景にあるものは、やはり何と言っても、
その国の文化的な衰退である、という点に注意すべきだろうと思います。
そして、その文化的衰退の背後にあるのが、例の洗脳支配な分けですが……。


で、話をロックに戻しますと、ヘビー・ロックの代表格として、例えば、
ユーライア・ヒープとかレナード・スキナードなんてのがいたわけですが、
そのヘビーの中でも特に、金属的な光沢の音を持つバンドをヘビー・メタル、
略してヘビメタと呼んだ分けでしょうね。
例の『プレゼンス』なんかを聞いてみれば、
その意味は一目瞭然ではないでしょうか。
但し、これはあくまでも私個人の見解で、例のwikipediaでは、
『ヘビー・メタル=重金属』という理解をしてますね。

ただ、このレッド・ツェッペリンあたりは、いわば
『ロック全盛期の最後尾』を飾るバンドと言うべきでしょうね。
それ以降のロックは、もはや真の意味の生産力を失って、
ただ過去の遺産を食いつぶすだけになったようです。
最近のFMで『アイアン・メイデン』とかいうのを聞きましたけど、
名前はおどろおどろしいですが、内容的には過去の模倣の域を出てませんね。
因みにアイアン・メイデン(鉄の処女)というのは、
中世ヨーロッパの拷問の道具ですから、余りぞっとしませんよね。(^^;)
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E3%81%AE%E5%87%A6%E5%A5%B3

もっとも、暫く前にちらっと聞いた『ナイト・ウィッシュ』は、
男女混成というユニークな構成の北欧バンドですが、中々のレベルでした。
ですから、まだまだ私の聞き落としがある可能性がありますし、
例の『ナイン・インチ・ネイルズ』なんかを考えても、ひょっとすると、
近年はまた少し、新しい胎動が生まれつつあるのかもしれません。

144 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/16(月) 12:05:40 [ 128.net059085055.t-com.ne.jp ]
  ●●●レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ(1976)☆☆☆●●●(3/3)

何かロックの歴史みたいな話になってしまいましたが……
これは本当は『三度飯』の方で書くべき内容でしたかね。(^^;)
で改めて、話を『プレゼンス』に戻しますが、
その徹底的に暴力的な音は、ストレス解消には最適でしょうね。
ですから私は、カセットの表裏に、この『プレゼンス』と、
エンジェルのデビュー・アルバム『エンジェル』を入れて、
むかついた時には良く聞いていました。

因みに、この『エンジェル』も圧倒的な迫力ですが、
彼らはこれ以降も結構、作品を出しているようですね。
今回、改めて調べ直して知りましたが……。
  http://rock.princess.cc/rock-2/angel.html
ただ、これらは共に、いわゆる『うるさい音楽』の典型ですからね。
普通のステレオで充分な音量で聞こうとすると、
相当なはた迷惑になります。(^^;)
ですから、カーステレオとかそれなりの環境にない場合は、
ヘッドホンで聞くしかないでしょうね。

他方、この『プレゼンス』を録音したのがドイツのミュンヘンなんですが、
その音づくりからして、ドイツ人の耳というのはさすがだと思いました。
因みに、この後に出た『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』は
ストックホルム録音だそうですね。これまた中々の優れ物ですが、
ここには、北欧音楽の影響があるのかもしれません。
いわば『プレゼンス』を鉛の光沢とすると、今度は磨かれた金属の表面に、
極彩色の風景が映し出しされたみたいな印象を受けました。


そういう分けで、その音楽は良く聞いていたんですけど、
メンバーの顔は勿論、名前も良く知らなくて、
それが気になっていたので、この映画を録画した分けですが……
やはり、ロックは家で聞く方が良いかもしれませんね。(^^;)
特に、この映画の序盤に出て来る映像は、ちょっと気味悪かったです。

何か、麻薬でラリッてるみたいな青ざめた顔が大写しになりますが、
これはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでのライブですから、
当時のアメリカの風潮としてはまあ、そんなものなんでしょうかね。
他方、その曲目も私の好みからすると、もう一つでした。
この公演が行われたのは、五枚目のアルバム『聖なる館』
を出した後のようですから、まあそれも仕方ないんでしょうか。

実を言うと、私がロックのコンサートというものを見たのは、
後にも先にも、たった一回だけなんですよね。
それは、例のロッド・スチュアートの武道館コンサートでしたが……
その時も『ロックなんてものは家で聞く方が良い』と痛感しました。


因みに、その時、確か右手の二階席にいたと思いますが、
一緒に連れて行った友達が途中で退屈して、
手に持ったコーヒーの紙コップを下に放り投げたんですね。
あれで着物を汚した人が少なからずいたんじゃないかと思いますが……
念の為、この場を借りてお詫びしたいと思います。m(_ _)m
日本の刑法ではもう時効でしょうけどね。(^^;)

結局、今はどうか知りませんが、当時の外タレの日本公演というのは、
『曲作りが行き詰まった時の最後の稼ぎ場』みたいな扱いでしたからね。
その意味で、仕方なかった面もあるでしょうね。
ビートルズにしても、日本に来た当時は相当、煮詰まっていた感じで、
演奏した曲はノリがもう一つでしたよね。
ただ彼らの場合は、その後のインド旅行などにも刺激されて、
更に一段深い境地に達する分けですが……。

で今回、初めて四人のメンバーの顔と名前を知った分けですが、
何と言っても、ギタリストのジミー・ペイジが印象的でした。
いかにも女にもてそうなやさ男ですから、
『これなら女性ファンが失神するのも当然』という気がしました。(^^;)
『水のしたたるような色気』という意味では、ポール・マッカートニーや
頭脳警察のパンタにも通ずるものがありますが、
ロック・ギタリストには何か、共通のオーラがあるのかもしれませんね。

145 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/19(木) 11:00:01 [ 167.net059085044.t-com.ne.jp ]
  ●●●残菊物語(1939)☆☆☆●●●

つい最近やっていた溝口健二特集の一つですが、
この時代としては当然ながら、白黒映画です。
芸道ものとか言うそうですが、歌舞伎役者の尾上菊之助が、
どさ回りの苦労をして立派な役者に成長するという物語でした。

五代目菊五郎には跡継ぎがいなかったので、
そこの養子として入ったのが菊之助なんですが、
彼の実弟の乳母として実家にいた『お徳』さんは、
彼の芸を親身に批判してくれる良き理解者でした。

その結果として、二人はいつか恋仲になりますが、
『身分違いの結婚は芸道の邪魔になる』という分けで、
養父はそれを許さず、お徳さんを追い出してしまいます。
それに反発した彼も結局、勘当されて家を飛び出しますが、
お徳さんには再会できぬまま、関西歌舞伎の大御所、
尾上多見蔵を頼って大阪に下ります。


そこでも芽が出ずに苦労している頃、
お徳さんが訪ねて来て、二人はようやく夫婦になりますが、
今度は頼りにしていた多見蔵が死んでしまいます。
そこで、二人は更に地方のどさ回りを強いられますが、
その苦労がたたったか、お徳さんは肺病をやんでしまいます。

その時、菊之助の将来を案じた彼女は、
彼の親友だった中村福助に頼み込み、自分が身を引く代りに、
彼を東京の舞台に呼び戻してくれるように手配します。
何も知らない菊五郎は、無理やり彼女と引き離されて東京に向かい、
その結果、大成功をおさめますが、晴れの大阪でのデビューの当日、
重病のお徳さんが死の床にあると知らされる分けです。

この時には義父の菊五郎も二人の仲を許すので、結局、
二人は一時の再会を果たしますが、彼が初舞台を踏んでいる間に、
彼女は息を引き取ってしまう、という悲しい結末でした。
歌舞伎界のしきたりとして、大阪や博多の公演では
『船乗り込み』というのがあるそうですが、
この映画のクライマックスでも、それが見せ場になってますね。


まあ、ドラマとしてはそれほど大した内容ではありせんし、
お徳さんのような『男に尽くして、耐え忍ぶ女』というのも、
現代では、もはやシーラカンスに近い存在ですからね。(^^;)
でも、この手のドラマが日本人は大好きのようで、
この物語は、その後も繰り返し映画化されているようです。

この映画で菊五郎を演じた花柳章太郎は、
どことなく現代の18代目勘三郎にも似ていますが、
お徳さん役の森赫子(かくこ)と言い、
我々には余り馴染みのない俳優ですね。

他方、この溝口監督というのが大変な完璧主義者で、
あらゆる細部にこだわるので『ごてケン』と呼ばれたそうです。
ただ、彼の作品として、私は既に『雨月物語』や
『西鶴一代女』を見たはずなんですが、
余り強烈な印象が残っていない点からすると、
私の中の評価としては、もう一つと言うべきなんでしょうね。

146 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/21(土) 10:31:30 [ 15.net059085040.t-com.ne.jp ]
  ●●●OKUNI(2004年8月世田谷パブリックシアター)☆☆●●●

これは暫く前の歌舞伎生誕400周年に因んで作られた芝居の一つで、
出雲の阿国の生涯をドラマ仕立てにしたものですが、出来はもう一つでした。
例の市川猿之助一座の二十一世紀歌舞伎組が演じているので、
いわばスーパー歌舞伎の亜流という感じでもありますが、
何と言ってもドラマ性が物足りないですね。
結局、ほとんど何も分かっていない人物をドラマにする分けですから、
あとは『創作によって如何にでっち上げるか』が勝負なんでしょうけど、
その点で、江戸時代の名人たちには遠く及ばないということでしょうか。

ネット上を探すと、こんな辛口の批評もありました。  
  http://www.vata-net.com/enter/mce.html
  長い物語の一部分を切り抜いて演じるのは歌舞伎もそうなのであるが、
  歌舞伎を観る時のように「そういうもの」と
  納得して見る事ができなかったのよね。
  これつまり、「深く作り込まれた長い芝居の中の一幕」と
  「長い話を短く作ってそれ以上のものではない芝居」の差だと思うのさ。
  ハショリ感が非常にある。軽く思える。

暫く前には、狂言師の野村万之丞が演出した『復元・阿国歌舞伎』
というのも放映してましたが、これはもっと下らなかったですね。
検索してみると、この阿国をテーマとする作品は他にも色々あって、
ミュージカルの「阿国(OKUNI)」が一番古手なんでしょうか。
同じ猿之助一座が玉三郎を主演に迎えて上演した
『阿国歌舞伎夢華(おくにかぶきゆめのはなやぎ)』
いうのもありましたが、この作品とは一応別物のようです。
しかし、近年の阿国ブームは、ちょっと異様な感じがしますね。
皆さん、テーマを捜すのに苦労しているのかもしれませんが、
こうしたブームの後追いは、少し安直であるような気がしました。

147 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/23(月) 12:38:06 [ 81.net220148237.t-com.ne.jp ]
  ●●●ウリッセの帰還(2002年チューリヒ歌劇場)☆●●●

これまたモンテベルディのバロック・オペラでしたが、
今回は余りに退屈がひどかったので、敢えて一つ星にしました。(-_-;)
結局、オペラというものは、その性格からして元々冗長なものですが、
普通は、音楽の魅力がそれを上回って余りあるわけですね。
ところが、この作品のように、その音楽がどうしようもなく退屈な場合には、
こんな風に、ただただ冗長さだけが際立ってしまうのは必然な分けです。

ストーリー展開にしても、ただ荒筋を辿るだけという点で、
前に取り上げた『オルフェオ』と全く同様でした。
まあ、当時の人々が私と同じように退屈したのかどうかは良く知りませんが、
ひとつ言えるのは、現代の我々のように中身の濃い音楽を聞き慣れていると、
結果的に、過去の音楽は中身が薄く聞こえるという事情があるでしょうね。
その意味で、文化に関しても『進歩』ということを語り得るのかもしれません。

因みに、今回の調べで知ったんですが前回の『オルフェオ』、
今回の『ウリッセの帰還』そして『ポッペアの戴冠』の三つのオペラを
モンテベルディの三大傑作と言うんだそうですね。
実は、私は既に『ポッペアの戴冠』も見ているので、
その三大傑作なるものを全て見たことになる分けですが……
まあ『何を持って傑作と呼ぶか』はあくまで個人の主観によるにせよ、
この三つを三大傑作と言われても、私としては途方にくれてしまいますね。

ただ、最初に見た『ポッペアの戴冠』はそれほど退屈しませんでした。
この場合、音楽はともかく『ローマ皇帝ネロを批判した哲学者のセネカが、
皇帝に自決を命じられる』という、かなりドラマチックな展開ですからね。
『不祥事を起こした大名が将軍に切腹を命じられる』のと同様なことが、
西洋でもあったんだという意外さがありましたし、ネロやセネカ自体、
歴史上の有名人物で、色々と興味が尽きなかったということも言えますね。
このオペラの荒筋はここにありました。
  http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/monteverdi_poppea.html


今回のドラマは、ギリシャ神話のトロイ戦争の後日談で、
ギリシャの勇将ウリッセの帰国にまつわる話でした。
ウリッセというのは、ギリシャ語ではオデュッセウスですが、
英語で言うと『ユリシーズ』ですから、
例の映画『ユリシーズの瞳』でも引用された人物ですよね。

その場合、wikipediaにも書いてありましたが、
西洋では『オデュッセイ』というこの物語の名前が、
普通名詞の『放浪の旅』という意味でも用いられる分けですね。
その意味で『2001年宇宙の旅』という映画の原題は、
『2001: A Space Odyssey』だった分けですが、その点からすると
『ユリシーズ』という名前にも、放浪者という含意があるんでしょうね。

さて、その物語ですが、トロイ戦争でギリシャ軍が勝利した後、
ウリッセは帰国しようとしますが、
自分の息子を彼に殺されたトロイの守護神ポセイドンは、
それを恨んで、彼の帰国を妨害するという展開になります。
その結果、帰国を阻まれた彼が10年もの間
あちこちをさまよっている間に、祖国では彼は死んだものと思われ、
彼の貞節な妻に沢山の求婚者が言い寄ります。

しかし、妻はどこまでも求婚をはねつけ、最後はウリッセが帰還して、
二人は幸せな再会を果たすという結末ですが……
その前に、ウリッセが求婚者を全て殺してしまうという点が、
いかにも古代的な荒っぽさを感じさせる所ではないかと思います。(^^;)
それまでの間にも、ウリッセが乞食に変装したりと色々あるわけですが、
まあ、それほど面白い話ではありませんよね。
より詳しい荒筋はここにありますので、興味のある方はどうぞ。
  http://blog.mag2.com/m/log/0000052300/75551076?page=2

148 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/27(金) 12:38:31 [ 13.net059085050.t-com.ne.jp ]
  ●●●山椒大夫(1954)☆☆☆+●●●(1/2)

これまた溝口健二作品ですが、今まで見た中ではベストかもしれませんね。
原作は例の森鴎外の小説ですが、更にその元になる話として、
『説教節』の『さんせう大夫』というのがあるようです。
両者の違いについては、メルマガ紹介でも引用した
例の『歌舞伎素人講釈』のサイトに面白い分析がありました。

  http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi10.htm
  説教の「さんせう大夫」と、これを近代的視点から捉えなおした
  森鴎外の「山椒大夫」を比べて見ますと、すぐに分かる大きな違いは、
  鴎外本では、厨子王が山椒大夫と和解して、
  山椒大夫は奴隷にしてこき使っていた人々を
  開放するという結末になっていることです。

  この部分は説教では、
  厨子王は山椒大夫の首を竹鋸で息子の三郎に引かせる
  という刑罰を与えるという非情な場面になっています。
  「ひと引きひいては千僧供養(せんぞうくよう)、
  ふた引きひいては万僧供養(まんぞうくよう)、えいさらえいと、
  引くほどに、百に余りて六つのとき、首は前にぞ引き落とす」


何とも残酷な描写ですが……ここにその史跡のデータがありました。
  http://www.hanga-cobo.jp/wakatuki/mei03.htm
  名作の舞台を歩く 日本海望む丘に「首挽松」
この映画での描き方は、山椒大夫は『和解して奴婢を解放する』代りに、
追放処分になる分けですから、両者の間を取ったという感じでしょうかね。
他にもこんな比較サイトがありましたが……まだ作りかけみたいです。(^^;)
  http://www2m.biglobe.ne.jp/~momotaro/talk/localstory/compare1.htm
  根掘り葉掘り Story 安寿と厨子王物語 安寿の行方

さて、物語は『貧農に優しくする父親が、上司の命令に逆らって遠流となり、
取り残された母子が父親を追って旅に出る』という所から始まります。
その旅の途中、人買いに騙されて別々の小舟に乗せられ、
母親と兄妹が生き別れになる、という筋書きはお馴染みですよね。
(因みに、元は姉と弟ですが、この映画では兄と妹に変えられたようです。)

その結果、奴隷として売られた兄妹は山椒大夫の下で、
過酷な労働に従事させられますが、妹は兄の脱出を助けて死に、
兄は何とか都に出て認められ、国司となって舞い戻ります。
その時、父同様に貧農に優しい彼は、奴隷解放みたいなことを
任地でやりますが、その代償に自分の官職を失ってしまいます。
その後、佐渡に渡った彼は、やっとのことで
盲目になった母親を捜し当てる、という結末ですが、
何といっても母子再会のこの場面が、最大の見せ場ですよね。


この作品全体を貫く基調は、貧農擁護の正義感で、
その点では、かなり左翼的な印象も受けますが、
その辺も多分、森鴎外の原作とは違うんでしょうね。
ネット上で捜すと、こんな評価がありましたが、私も大方同感です。
  http://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/80cb3a18f06388e8dfe1f25527351741
  丹後国の国司となった平正通(厨子王)が、
  山椒太夫の奴隷を解放するシーンの演説もすごい共産主義思想宣伝。
  そして、解放された奴隷たちは屋敷で、飲めや歌えの大騒ぎ。
  自由になった庶民というものは、こうしたものなのか。

更に、こんな意見もありましたが、こういう歴史的な視点を
きちんと押さえて置くことは、非常に大切なことだろうと思います。
  http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=136291
  胡坐 投稿者: 篭瀬山 投稿日: 2006-02-14 21:20:55
  演出が観念的すぎる。
  奴婢の解放が善とされるのは現代的な価値観からすればその通りだが、
  当時はそれを偽善とする倫理があったはずで、
  その中に現代的な善が生まれたという過程がわからない。

  あるいは10年の奴婢生活で父の教えを忘れた厨子王には、
  それを裏付けるだけの時間と体験があったはずだが、
  それを感じさせるものがない。
  10年の奴婢生活にもかかわらず父の教えを忘れなかった安寿にも、
  それ裏付けるだけの時間と体験があったはずだが、それは描かれない。
  したがって、あまり地に足の着いた倫理に見えない。

149 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/27(金) 12:39:54 [ 13.net059085050.t-com.ne.jp ]
  ●●●山椒大夫(1954)☆☆☆+●●●(2/2)

因みに、今回の検索では大分苦労しましたが、
一つの原因は『太夫』と『大夫』の混乱にあったようです。
例えば、私のPCでは『たゆう』を変換しても『太夫』しか出ず、
『たいふ』を変換して初めて『大夫』となる分けですね。
ですから当初、goo映画や青空文庫で『山椒太夫』を検索した時、
全く何も出ないので、どちらもデータがないのかと思い込みましたが……
大分後になって『山椒大夫』なら両方出ると気付いた次第です。(-_-;)

そこで、一体どっちが正しいのかとgoogleで検索してみた所、
『森鴎外 山椒大夫』35100件  『溝口健二 山椒大夫』21900件
『森鴎外 山椒太夫』13500件  『溝口健二 山椒太夫』596件
ですから、大夫の方が太夫よりも優勢ですが、この程度の差では、
必ずしも『どちらが間違い』と言い切れるレベルではありませんよね。
結局『たゆう』という言葉の漢字表記が、
きちんと統一されていない点に問題があるようです。


ところで、ネットの利用法の一つとして、
英作文でも、この手が使えるということを御存じでしょうか。
というのは、つまり、英語の文章を書いてる時に『果たして、
どっちの表現が正しいのかな』と迷う時がありますよね。
そういう時は、両方の表現についてネット上で検索して見る分けです。
(但し、表現の文字列全体を""括弧でくくることを忘れないようにね。(^^;))

その場合のポイントは、検索して同じ表現が出たからといって、
決して、そこで安心してはいけないということですね。
というのも、誰でも似たような所で、似たような間違いを犯しますから、
全く同じ表現が出ないということは、むしろまれなんです。

その意味で、 もし検索結果が数十〜数百件のレベルなら、
むしろ、それは誤用であると判断した方が良いと思います。
正しい表現なら大体、数万〜数百万件という数が出ますから、
それで『間違っていない』と確信できる分けですね。
数十〜数百件の場合、良く見ると、そのurlは日本を始め、
英語を母国語としない国であることが多いです。(^^;)

150 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/28(土) 10:57:15 [ 177.net059085054.t-com.ne.jp ]
  ■まとめて訂正■

最後にまとめて、目についたミスを直しておきます。
上段がミス、下段がその訂正です。m(_ _)m

>>25
『まあ、スペクタクルの部分以外は、日本人が見ても余り面白くないでょうね。』
『まあ、スペクタクルの部分以外は、日本人が見ても余り面白くないでしょうね。』

>>60
『監督が主演のケビン・コスナーというのも少し以外でしたが……』
『監督が主演のケビン・コスナーというのも少し意外でしたが……』

>>139
  >>カトリックがユダヤ支配の最も有効な道具である
と書きましたが、
  カトリックがユダヤ支配の最も有効な道具である
と書きましたが、

>>141
でも、この貴族婦人というのが夫のいる身で、
でも、この貴婦人というのが夫のいる身で、

151 名前: 闇夜の鮟鱇★ 投稿日: 2006/10/28(土) 11:13:48 [ 177.net059085054.t-com.ne.jp ]
  ■スレッド切り替えのお知らせ■

万有サロン『私のビデオ評』は、新しいスレッドに切り替わりました。
  私のビデオ評(第2R)
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1162001315/



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