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§1.日々是奇跡

   兼好法師の『徒然草』に、次のような一節がある (原文はこちら)。 ある農夫が商人と『牛を売る』契約をした。 ところが翌日の朝、商人が牛を引き取りに行くと、その牛は急死してしまっていた。 そこで人々は『牛が死ぬのが一日遅ければ牛を売れたのに、彼は大損した』と噂しあったが、 そばにいた男がそれに反対して『むしろ、農夫は得をしたのだ』と主張した。

   その理由はこうである。 命というものは本当にはかないもので、ある晩に眠れば翌朝目覚める保証はない。 この場合、もし死んだのが牛でなく農夫の方だったとしたら、 彼は自分の大切な命を失う所だった。 それなのに、実際に死んだのがたまたま牛の方だったので、彼は命が助かったのだ。 『一日の命は万金より重し、牛の値は鵞毛より軽し』つまり、 人の一日分の命の重さに比べたら、牛の値段などは吹けば飛ぶようなものである。 そのことを考えれば、彼は大もうけしたに等しいではないか?

   それに対し、人々は嘲(あざけ)って言った。 『そんな理屈は農夫でなくても誰でも同じであって、分かりきったことではないか? だから、この場合の農夫はやはり大損したのだ』と。 すると、男は更に言った『もし本当に命の大切さが分かっているのなら、 あなた方は何故、あくせくと欲望を追いかけて日々苦しむことをやめないのか? むしろ、この貴重な人生をもっと楽しむべきではないのか?』 しかし、それを聞いた人々は、ますます彼を嘲った。




   話はそこで終わっている。 『そばにいた男』の姿は恐らく、兼好法師自身に重なるだろうが、 我々にとっての問題は、以上の話から一体どんな教訓をくみ取るべきかである。 結局、男の話は一見無茶のようだが、またそこに一理あることも確かである。 つまり、命の大切さは理屈としては誰でも一応分かってはいるが、 実際にそれを身にしみて知っている人は決して多くない。 だから、もし自分の牛が死んだことを機会に、 命の貴重さに気づくことが出来たなら、農夫は大もうけしたとも言えるのだ……。

   『あくせくと欲望を追いかけるより人生を楽しめ』という兼好法師の言い分を突き詰めれば、 結局、次のようなことになるのではないかと思う。 『我々がこの宇宙の一角に生を受けた』という事実は、実は途方もない奇跡である。 仮に、その『奇跡の重さ』をエベレスト山の高さにたとえるなら、 『我々が日々追われている欲望の重さ』は、靴底の厚さのようなものである。 その時、エベレストの頂上に立ちながら、 『俺の靴底はこんなに厚いぞ』と自慢するのも愚かだが、 逆に『私の靴底はなんて薄いんだろう』と悲観して自殺するのはもっと愚かではないか? 大金持ちと乞食の差も、総理大臣と娼婦の差も所詮、その程度のものに過ぎないのだ。

   その点に気がついてしまうと、この世の中でこわいものは何もなくなる。 近年の自殺増加は実に痛ましいものがあるが、 集団的ないじめに始まり会社の倒産やリストラに至るまで、 今の社会がひどく生きにくい腐り切った世の中であることは確かである。 しかし、だからといって早まって自殺するのは何と愚かなことか……そこに気づくべきである。 『生きている』という単純な事実の真の重さに気がついたなら、 毎日太陽を拝めるということだけでも、どんなに素晴らしいことかが分かるのだ。

   その意味では、悟りとは意外に簡単なことかもしれない。 一般に、それは何かひどくつらい修行を経てやっと辿り着けるものであるように思われている。 オウム真理教の騒ぎでもそうした苦行の話が出ていた。 しかし、実際の悟りは、必ずしもそうした難行苦行とは関係のないことなのである。 むしろ、それは『毎日の一瞬々々を奇跡と感じつつ生きられるかどうか』に尽きる。 例えば、春には春の匂いをかぎ、秋には秋の風を感じることが奇跡なのだ。 或いは、あなたが今した、そのひと呼吸が既に奇跡なのである。 その意味で、道元の『日々是好日(ひびこれこうじつ)』という認識は中途半端であり、 むしろ『日々是奇跡』と言い直すべきだろう。 言わば、悟りの本質が『日々是奇跡』なのである。




   但し、そのことに気づく機会が多くないこともまた事実である。 何故なら、生きていることの真の重さに気づく為には、 自分の『死に神』と真正面から向き合うことが不可欠だからである。 例えば『死刑宣告を受けた後で生きのびる』という稀有な経験をしたドストエフスキーは、 その時、たとえ刑務所の一坪の空間の中だけで良いから、 このまま息を吸って生きていたいと感じたのだった。 或いは、伊豆大島の火山口の内側には、自殺しようとして飛び込んだ後、 必死に這い上がろうとした人々の爪痕(つめあと)が刻まれていると言われる。

   結局、我々が日常に埋没する中で考えている死とは、実は死に神の後ろ姿に過ぎないのであり、 死に神と真正面から向き合って初めて、人は生の重さに初めて気がつくのである。 例えば、あなたが癌(がん)の宣告でも受ければ即座に思い知るだろうが、 そうでもないと通常の人生でそのことに気づくチャンスは少ない。 ある人の表現によれば、その時ちょうど『人生という宴会から、 突然、自分ひとりが外へつまみだされた』ような気がしたと言う。 その意味では、自分の肉親や友人など親しい人が死んだ時が良い機会であり、 その時、地獄の虚無の扉があなたの目前に恐ろしい大口を開けるのだ。 言わば、その時はじめて死に神が牙をむき、あなたに本当の姿を見せるのである。 その死に神を、仏教用語では『無常』と呼びならわしている。 無常殺鬼(むじょうせっき)という表現もあるように、 いわゆる『無常』とは、人を殺しに来る恐ろしい鬼なのである。

   ある意味で、人間とは『目をそむける存在』である。 例えば『人間には直視出来ないものが二つある』と言われるが、 一つは太陽であり、一つは自分の死である。 その時、自分の死と向き合うのが怖い余りに、 人間は文化というものを発明したとも言えるのだ。 例えば、映画や音楽に夢中になることで、一時だけ死の恐怖を忘れようと言うわけである。 別の言い方をすると、人間は文化に浸ることで、 自分の死に神のせいぜい後ろ姿しか見ないで済むように、必死の努力をしているのである。

   その文化の中でも、特に『受け入れ難い死』をより受け入れ易くする為に、 各民族が発明し、継承・発展させて来たものが宗教に他ならない。 宗教を全面否定する共産主義には、その点がまるで分かっていない。 死の恐怖を緩和するという意味では宗教は麻薬であるとも言えるが、 それは決して『政治体制が変わり、 人々が豊かになれば無用になる』という性質のものではない。 むしろ、宗教は人間という存在に必要不可欠なものであって、 人類が存続する限り、何らかの形で永遠に受け継がれて行くはずのものなのだ。







§2.小乗的悟りと大乗的悟り

   前節では、悟りの本質が『日々是奇跡』にあると考えた。 しかし、実はそれは真の悟りというよりも、真の悟りの入り口に過ぎないと言うべきである。 つまり、日々是奇跡は確かに真の悟りを得る為に絶対不可欠な要素ではあるのだが、 大乗的な立場では、必ずしもそれ自体を最終的な悟りとは呼べないということである。

   何故なら、日々是奇跡という認識を持続することは大変に困難だからである。 その理由は、全ての生命には『刺激に慣れる』という性質があることによる。 例えば、少し温かい水に手を入れていると、最初は温かく感じるが、 すぐに何とも感じなくなるようなものである。 或いは、赤い色をじっと見ている場合も、 目は赤い色に慣らされてしまうので段々その刺激を感じにくくなり、 むしろ目を放した瞬間に補色の緑が現れる。 その意味で、全ての刺激は磨耗する。 それは、我々が生きている限り逃れがたい第一の宿命である。

   同じ様に、どんな幸福も、それが幸福と思えるのはほんのいっときのことに過ぎない。 つまり、毎日の繰り返しの中では、それはすぐに当たり前の状態となってしまうから、 どんな幸福も我々が空気の存在をありがたいとも何とも思えないのと同じ状態になる。 私の経験からすれば、そうした幸福感が持続するのは、 それを手に入れた後のせいぜい2〜3週間に過ぎず、ひと月と持つことはないのだ。 我々が再びそのありがたみに気づくのは、愚かにもそれを失った後に過ぎない。 だから『日々是奇跡』のありがたみも決して永続することはなく、 すぐに我々はそれを当たり前の事実として慣らされ、思い込まされてしまうことになる。




   全ての幸福は、命という土台に乗っている点でダルマ落としに似ている。 その意味で、日々是奇跡とは人間のあらゆる幸福の総体を代表する表現と言える。 その時、個々の幸福感が蘇(よみがえ)るのは、それを無くした後に過ぎないとしても、 死に神を直視すれば、幸福の総体としての日々是奇跡という認識に立ち帰ることはできる。 しかし実は、我々が死を直視し続けること自体にも困難があるのだ。 結局、常に自分の死に神と向き合ったまま生きられるような強い人間はいないし、 万一それをやれたとしても病気になってしまうのではないだろうか? その意味では、死に神を忘れて生きることもまた、 人間の健全さを構成する一要素と言うべきなのである。 我々の人生が日々是奇跡だけでは済まない理由がそこにある。

   実際問題として古今東西に聖人・偉人と言われる人は少なくないが、 彼らの中にも日々是奇跡という認識を持続できた人がいるかどうか疑わしいと私は思う。 彼らも一時はそうした認識に達することは出来ただろうが、 それを持続させることは同じ生身の人間である限り不可能のように思えるからである。 日本の高僧と言われる人々にしても例外ではなかっただろう。 即身成仏を達成したと言われる偉い坊主にしても、 まさにその『悟り』を持続する為に死を選ばねばならなかったのではないだろうか? その意味ではいわゆる『悟った人』は概念の中に理想化されて存在はしても、 現実の生身の人間として存在したことはないように思われる。 ただ、ここでより大切なことは、たとえ例外的にそうした聖人が存在し得たとしても、 万人の救いを目指すという大乗的な立場では余り意味がないということである。




   そうした事情の故に、我々の認識は極端に揺れ動くことになる。 今、生命の第一の宿命としての『刺激に慣れる』ことから現れる日常的な様相を、 『日々是奇跡』に対置して仮に『日々是退屈』と呼ぶことにする。 言い換えれば、死に神と向き合いつつ生きることが困難であることの結果として、 日常的には日々是奇跡どころか、むしろ日々是退屈という様相が出現する。 その意味で、我々はむしろ毎日を退屈と感じることが多くなるのだ。

   その結果、我々の認識は、時たま死に神に直面した時の『日々是奇跡』と、 日常性に埋没した時の『日々是退屈』との間で極端にブレることになる。 それは、生命の第二の宿命と言っても良いだろう。 その時、我々にとっての真の課題は、 その両者の激しい振幅の間に妥当な収束点を見いだすことであるように思われる。 より具体的に言えば、刺激を追いかけつつも、 今自分が手にしている幸福とのバランスを見失わないことが、 真の悟りに近づくことではないだろうか?

   結局、我々は生命の第一の宿命の帰結として、新たな刺激を追い求めざるを得ない。 しかし、その時、まだ手にしない物を追い求める余り、 既に手にしている宝を失うとしたら実に愚かなことである。 例えば、遊ぶ金欲しさで株やギャンブルに手を出した末、 全財産を失うような愚かな失敗は、枚挙にいとまがないだろう。 特に、兼好が言うように毎日の欲望を追いかける余りに、 命や健康の大切さを見失うなら、我々はもっと痛い目を見ることになる。




   いわゆる小乗とか大乗とか言う場合、その表現の裏にあるものは渡し船のたとえである。 つまり、仏陀の説いた教えとして伝えられる内容の一つに、次のような説話があるのだ。 此岸(六道輪廻の苦界)から彼岸(涅槃)にたどり着く為には、 その間にある悟りの川を渡る必要がある。 その時、悟りの川を渡る為には誰もが自分で自分の舟を作る必要があるが、 向こう岸に辿りついたら、その舟は捨て去らねばならないというのである。 それは結局、涅槃に至る道は孤独な修行であって、 誰にも近道はないということを諭(さと)したものだろう。

   最初に流布された小乗仏教では、一部の修行者がこうして悟りを得て彼岸に渡り、 他の者達はその僧への施しなどの善行を通じて、より良い生まれ変わりを得ると考えた。 本来、全ての生命は無限に生まれ変わりを繰り返すという輪廻の思想がその根底にあり、 現世の行いが来世の生まれ変わりの内容を決めると考えられた。 つまり、生命界には『地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上』の六つの序列があり、 全ての生き物は前世の行状により、この六道を上下して生まれ変わるのである。 そうした因果応報は仏教的道徳観の根底をなすものであったが、 他方では王族や貴族を『前世の善行の帰結』として正当化する論理にもなった。 仏陀の時代にはそうした生まれ変わり自体を苦界と考えていたので、 何とかして輪廻から離脱して涅槃に入ることが理想と考えられていた。 仏陀もその為に努力した修行者の一人だったようである。




   それに対し、後から勃興した大乗仏教では、 小数の修行者だけが彼岸に渡るという発想に満足しなかった。 むしろ、彼岸に渡る舟を大きくして、 一人の船頭(修行者)の下で多くの衆生を一緒に彼岸に渡そうと考えたのである。 その意味で、小さな舟で一人悟りの川を渡るのが小乗であり、 大きな舟で沢山の者を一度に渡すのが大乗なのである。 元々の考え方からすれば、大乗は無茶な発想であり邪道とさえ言えるかもしれない。 しかし、一部の者だけの救済に満足せず、全ての者を救おうとする発想自体は、 本来の仏陀の思想を逸脱しているとは言えないだろう。 そうした観点に立つなら『日々是奇跡』が小乗的悟りであるのに対し、 『日々是退屈との間に妥当な収束点を見い出す真の悟り』は大乗的悟りと呼び得るだろう。

   因みに、こうした仏教解釈は、詰めて行けば行くほど色々矛盾が出てくることも事実である。 仏教では現世を濁世と否定的に見なす故に、六道輪廻の生まれ変わりを苦界と考えて、 そこから逃れる涅槃を理想としたのだった。 しかし、現代では(少なくとも再び人間として生まれる限り)、 生まれ変わり自体を不幸と考える人間は少ないだろう。 多分、仏陀の時代には、生きること自体が、 今よりもずっと苦痛に満ちたものだったのに違いない。 それに比べ、現代では産業革命がもたらした物質的豊かさの恩恵などの為に、 人間としての生まれ変わりは、それほど苦痛とは感じられなくなったように思われる。 他方では、大乗仏教に特有の問題もある。 前述した『渡し船を大船に変える』という無理もその一つだが、 あくまで輪廻的な発想に立つ場合、もし全ての生き物が成仏し涅槃に入るなら、 もはや輪廻する生命は存在しなくなり、濁世としてのこの世は消滅することになる。 それもまた、少し無理な発想のように思われる。 特に、生まれ変わりを嫌うよりはむしろ期待する現代的な考え方からすれば、 それは困った事態であるに違いない。







§3.過程としての幸福と生き甲斐の内容

   前節では、生命の第一の宿命として全ての刺激が磨耗すること、 また、その帰結として我々が新たな刺激を求めざるを得ないことを述べた。 その場合、全ての生命という観点から刺激という表現を用いたが、 我々人間のような高等生物では、刺激という表現は必ずしも適当ではない。 何故なら、高等生物にとっての刺激とは、単なる熱や光といった単純な要因にとどまらず、 遥かに複雑で高度な内容を持ち得るからである。 むしろ、人間にとっての刺激という概念の総体は、 我々が通常『生き甲斐』と呼ぶものに相当すると考えられる。 或いは、それは『希望』という言葉で置き換え得るかもしれない。 そこで、以下では刺激という代わりに、生き甲斐とか希望という言葉を用いることにする。

   因みに、仏教を厳密に解釈すれば『歌舞音曲を含む全てのこだわりが成仏の妨げ』であり、 その意味で、生き甲斐や希望もまた悟りの妨げということになるかもしれない。 しかし、それはある意味で小乗的な立場であり、我々の立場は必ずしもそうではなかった。 例えば、欲望追求を一応肯定した上で『これから手に入れようとするものと、 既に持っているものとのバランスを見失わない』ことを大乗的悟りとしたのだった。 そこで、次の問題は、それを具体的にどう実現するかということになるが、 結論を先に言えば、それは正しい生き甲斐設計の問題に帰着するように思われる。 その意味で、以下では生き甲斐というものの内容を詳しく分析することにする。




   但し、生き甲斐の具体的内容に入る前に、一つ明確にすべき問題がある。 前節では『何かを手に入れた状態』を幸福と見なす限り、 そうした幸福感は決して長続きしないことを述べた。 その意味で、真の幸福が『何かを手に入れた状態』ではなく、 むしろ『何かを手に入れようと努力する過程』にあることは既に明白だろう。 それを一般化すると、真の幸福とは『何らかの希望が実現された結果』ではなく、 むしろ『何らかの希望に向かって努力する過程』であるということになる。 言い換えれば、個人の幸福は生き甲斐追求の結果でなく、過程の中にあるのだ。

   結局、幸福とは希望が実現した結果でなく、希望に向かって努力する過程である。 その意味で、幸福とは希望を実現する為の試行錯誤のことにほかならない。 具体的に言えば、それは成功と失敗の繰り返しであり、両者の一定の混合物である。 その時、余り失敗ばかりが続くと人間はやる気を失うが、 逆に成功ばかりが続いてもその感激は薄れるものである。 人がギャンブルにはまるのは、そこに一定の確率で成功と失敗が混在するからだし、 プロ野球などの応援でも、勝敗の繰り返しが人々を夢中にさせる点で似ている。 生き甲斐の追求という場合、ギャンブルや野球の応援も当然そこに含まれるが、 それ以上に、自分の人生を主体的に生きるという意味で遥かに豊かな内容を持ち得る。

   そこで、生き甲斐の内容を分析することが問題になる。 一般に、我々の生き甲斐は、大きく二つの種類に分けて考えることが出来る。 第一種の生き甲斐とは、通常『欲望』と呼ばれるものであり、 仏教用語で言えば、それは更に『物欲』『色欲』『名誉欲』の三つに分かれる。 それに対し、第二種の生き甲斐のことを今後『関係』と呼ぶが、 その内容もまた『物質関係』『感情関係』『自己関係』の三つに分かれる。




   先ず『欲望』の具体的内容は一通り知られているが、次のように整理されるだろう。 物欲とは『金で手に入るもの』への欲求のことである。 その対象には、有形の商品(家・車など)と無形のサービス(観劇・旅行など)があるが、 それらは全て金で手に入る故に、物欲は最終的には金銭欲に還元されることになる。

   色欲とは『自分の欲する異性との完全な関係』への欲求のことである。 この一文では、その問題に深く立ち入ることはしないが、 色欲を満たすことが物欲を満たすより遥かに難しいことは容易に想像が付くだろう。 何故なら、所得格差を減らせば万人の物欲が満たされることはほぼ自明だが、 色欲は相手のある問題であり、誰もが望む異性を手に入れるのは困難だからである。

   名誉欲とは『他人の注目と尊敬を集めたい』という欲求のことである。 つい最近、ネット社会が到来するまでは、 世の中は小数の『見られる者』と多数の『見る者』とに厳然と隔てられていた。 現在それが崩れつつあるとは言え、他人の注目を集めることの困難さは、 ホームページを作った経験がある者なら誰でも良く知っているはずである。 ある意味で名誉欲は、三種の欲望の中でも最も贅沢なものと言えるかもしれない。 実際、使い切れないほどの金を手に入れた大金持ちが最後に求めるのは名声であり、 彼らがその財産を使って慈善事業をしたり、政治家への道を目指す例は珍しくない。

   他方では、犯罪行為により注目を引こうとする者さえいる。 ネット社会で言えば、ウィルスを作ってまき散らし、 己の技術を誇示しようとする連中もまた、その一種である。 その場合、たとえ注目を集めることは出来ても尊敬されることは先ずないだろうが、 大銀行強盗が映画になったりする場合、一定の評価ないし尊敬がないとは言えない。 これは言わば名誉欲の歪んだ発現だが、こうした例から分かるのは、 そこまでしてでも他人から認められたいという欲求が人間にはあるということである。




   他方『関係』の具体的内容は、次のように説明される。 『物質関係』の生き甲斐とは、 我々が社会の生産活動に参加することを通じて得られる充実感のことである。 より具体的に言えば、様々な仕事を通じて社会に寄与し、 その証(あか)しとして、なにがしかの報酬を得ることである。 その場合の生産活動とは、いわゆる肉体労働だけでなく精神労働も含むものとし、 特に、女性が子供を育てることも、広い意味でここに含めて考えることにする。

   『感情関係』の生き甲斐とは、我々が他の人間との間に個人的なつながりを持ち、 互いに感情を交流することから得られる充実感のことである。 その場合、家族関係や友達関係は勿論、 地域の隣人関係や会社の人間関係も、ここに含めて考えることが出来る。

   『自己関係』の生き甲斐とは、 我々が個人的な目標の達成に努力する過程で得られる充実感のことである。 これは、いわゆる『自己実現』と言われるものと重なる部分が大きいだろう。 個人的な趣味を持ち、その練達に没頭することから生まれる充実感もその一つである。 例えば、ゴルフのハンディを上げたり、楽器演奏に上達すること、 或いは、骨董品を収集したり、特定の事にマニア的な知識を持つこと等である。 しかし、実はここには更に多様な内容が含まれ得る。 先ず、芸術家が創造したり、学者が研究したりする行為がある。 次に、特定の政治目標を実現する為に活動する政治運動や、 特定の宗教を布教する為に活動する宗教運動がある。 更に言えば、通常の仕事で一定の目標を達成しようと努力する行為もここに含め得る。

   これらの場合、賃金を得る為に行う労働との境界は区別しにくいが、 実際問題として、金銭の為の活動にも自己関係の生き甲斐が多量に含まれていると言える。 その意味で、著作権の侵害により『文学や音楽の活動が停滞する』という主張は嘘臭い。 確かに、出版や興行に関わる営利事業は停滞するかもしれないが、 真の芸術は決して金銭目当てに生み出されるものではないからである。 むしろ『アーチスト成り金』が生み出すふやけた芸術よりも、 貧困の中から生み出される芸術の方が、遥かにすぐれていることが多いのだ。

   ヨーロッパ人は、スポーツのルールを自分に都合良く作り変えるのが得意だが、 やたら著作権を振りかざす最近の風潮にも似たところがないだろうか? その場合、物作りの面で新興工業国に追い越される苦境は分かるにしても、 無闇に著作権を拡大解釈してそれを埋め合わせようとするのは筋違いのように思われる。 むしろ、全ての知的財産は最終的に無償であるべきだろう。 過去の世界はそうして発展して来たのだし、今後の人類の発展にとっても、 やたら知的財産を特許で囲い込みたがる風潮は有害であり得る。







§4.欲望と関係のバランス

   結局、個人の幸福とは生き甲斐を追求する過程であり、正しい生き甲斐設計により実現される。 その意味で、正しい生き甲斐設計を持つことが大乗的な悟りなのだった。 前節では、その生き甲斐が欲望と関係に大別されることを述べたが、 実は両者には大きな違いがある。 正しい生き甲斐設計という場合、両者の配分が重要な問題となるので、 以下では、両者の差について詳しく考察することにする。

   先ず『欲望』を追求する生き甲斐は、勝敗の範疇に属する。 例えば、誰かが金持ちになることは誰かが貧乏人になることを意味する。 つまり、誰もが同じような物を持つ限り、金持ちと貧乏人の差は生じないのであり、 金持ちしか持てないものを持つから、金持ちと言われるのである。 その意味で『金持ち』の定義は決して絶対的な豊かさにあるのでなく、 相対的な豊かさにある点に注意する必要がある。 仮に絶対的な豊かさだけで見れば、江戸時代の町民に比べ、 我々は全て大金持ちと言えるに違いない。 色欲や名誉欲も、それが勝敗の範疇に属するという点では物欲と同類である。

   結局、欲望の範疇では、勝者は敗者の存在を前提にして成立するのであり、 誰かの欲望が実現されることは、誰かの欲望が否定されることに等しい。 その結果、欲望追求が優先される社会では、利己主義が蔓延(まんえん)し、 人々の心がすさんで来ることは免れないことになる。 言い換えれば、欲望中心の社会では社会全体の幸福の総量が減るが、 それは犯罪を誘発することを通じて欲望の勝者をも脅かすことになる。 他方では、欲望追求は他人を蹴落とすことに他ならないから、 周囲の人間との関係を悪化させ、感情関係を破壊することにもなり易い。




   これに対し『関係』を追求する生き甲斐は、成否の範疇に属する。 例えば、生産活動に伴う充実感や、友達づきあいから生まれる充実感は、 決して敗者の存在を前提にしている分けではない。 つまり、関係追求では成功者の存在は失敗者の存在を前提としない。 むしろ、誰もが同時に成功者になり得るという意味で、関係は成否の範疇なのである。 その意味で、関係追求が優先される社会はより望ましい社会であり得る。

   但し、そこにも少し問題があって、 もし欲望追求を全て否定するならば、我々の生活は退屈に傾くことになるだろう。 何故なら、関係追求の生き甲斐は欲望追求の生き甲斐に比べれば遥かに薄味であり、 退屈を防ぐのに必ずしも充分とは言えないからである。 私有財産を全て否定する共産主義社会はその典型であって、 欲望の追求を無条件に否定する結果、退屈な社会となったと思われる。 だから、関係偏重の社会でもまた社会全体の幸福の総量は減ることになる。 その場合、欲望はそれを追求する者の退屈を防ぐ効果があるが、それだけではない。 何故なら、経済的発展の原動力はその多くを欲望に負っているが、 経済成長が生み出す様々な進歩は、全ての人々を刺激するからである。

   よって、ここでも真の問題は、欲望か関係かという二者択一ではなく、 両者の間に如何に妥当なバランスを見いだすかという問題になる。 食事にたとえれば、関係は主食または栄養源であり、欲望は副食または香辛料である。 つまり、欲望は刺激が強いのに比べ、それが残す充実感は必ずしも大きくないが、 関係は刺激が弱いのに比べ、それが残す充実感はむしろより大きいとも言える。 その意味で、大切なことは主食と副食の間で正しい配分を実現することである。 結局、我々の生き甲斐を、勝敗の範疇と成否の範疇に分ける時、 より良い社会を作る上で必要なことは、両者の適正な釣り合いを実現することである。 欲望追求は勝敗の範疇であり、その偏重は利己主義を強めて犯罪を増加させるが、 関係追求は成否の範疇であり、その偏重は経済停滞などを通じて退屈感が増す。 よって、社会全体の幸福を最大化する為には、 両者の最適なバランスを見いだすことが重要なのである。




   ならば、両者の最適なバランスは如何にして実現されるのか? 結局、個人の幸福は正しい生き甲斐設計により実現されるが、 正しい生き甲斐設計とは欲望と関係の正しい配分であると言える。 そして、正しい生き甲斐設計に必要なのは、個人の欲望の適正化である。 欲望への飢餓が過大になると、個人が欲望に振り回される結果、 個人の生き甲斐設計は歪められることになる。 逆に、欲望飢餓が過少でも、退屈感が強まり生き甲斐設計は歪むだろう。 だから、社会に望まれることは個人の正しい生き甲斐設計を妨げないことである。 つまり、良い社会とは個人の欲望を適正化する社会のことであって、 欲望の過大と過少を防止し、適正なレベルに制御することが大切である。

   その意味で、個人の欲望を適正化する為に必要なのは、社会的な欲望管理であり、 欲望過大による荒廃と、欲望過少による退屈を防ぐことである。 そして、そうした欲望管理の為に重要なのは、社会的な格差の適正化である。 大き過ぎる格差は、個人の欲望を刺激して欲望飢餓が過大となる。 こうして個人が欲望追求に傾くと、社会は荒廃に向かう。 逆に、小さ過ぎる格差は、個人の退屈感を増大させることになる。 こうして個人が欲望追求から遠ざけられると、経済社会は停滞に向かう。

   特に、物欲に関しては、適正な所得格差を実現する為の累進税制が必要になるが、 その為には、所得格差についての二つの歪んだ思想を克服することが不可欠である。 つまり、自由競争万能主義と共産主義とである。 一方には、累進税制を不当とする自由競争万能主義がある。 それは、個人が働いて得た所得は無条件に正当であるとして累進税制を否定する。 他方には、格差は搾取によって生じるとする共産主義がある。 例えば、社長の所得は労働者の所得をかすめ取った犯罪の結果であると主張する。 その時、両者を克服する上で必要なのは、正義とは何かを知ることであり、 特に、対等保証の正義と尊厳保証の正義との区別を理解することが大切である。 こうして我々は、倫理学という大きな課題に直面することになる。







§5.正義とは何か?

   一般に、正義とは全体幸福の実現であり、万人の生き甲斐保証である。 東洋では『民の幸福が満たされない時、天が支配者を交代させる』と考えて、 それを革命と呼んだが、西洋では『最大多数の最大幸福』の実現が正義であると主張された。 前者は古代中国の易姓革命論であり、後者は英国の功利主義哲学である。 結局、人間が社会を形成する最終目標は全体の幸福を実現すること以外にないのであって、 その意味で、洋の東西を問わず万人の幸福の実現をもって正義の源としたのだった。 そこで次に問題となるのは、それを如何に具体化するかということだが、 実は、万人の幸福という概念を具体化することはそれほど容易なことではない。 例えば、最大多数の最大幸福という場合、 『大多数の人間は幸福だが、一握りの人間は悲惨である』という状態も含むのだろうか?

   今、一つの思考実験として次のような極論を考えてみよう。 『全ての人間が幸福でない限り、この世界には存在する価値がない』。 つまり、あくまで全ての人間が例外無しに幸福であることを正義の絶対条件と考え、 それが満たされない世界は存在する意味がないという立場である。 この立場を具体化する方法として、 例えば『世界を滅ぼす核ボタンを、全ての人間が持つ』という制度が考えられる。 但し、その場合でも、実際に核ボタンを持つ者は精神病者などを除き、 充分な判断力を持つ大人に限定されると考えておく。

   その時、自分が充分不幸だと考えて自殺をはかる人間は、全世界を滅ぼす権利を持つことになる。 仮にそうした制度が実現したとすれば、 地上の人間は誰もが他人の不幸に対して今よりもずっと敏感になざるを得ないだろう。 それは全体幸福を実現する為の一つの道筋であり得るし、 『究極的な道徳』とも呼び得るかもしれない。 しかし、全体幸福を実現するという問題の難しさを考えた場合、 一人の人間の不幸とこの世界の存続とを秤(はかり)にかければ、 そうした立場はやはり現実的ではないように思われる。




   そこで次に、より現実的な発想として『幸福の分配』という観点を考えてみる。 その時、どのような分配構造が全体幸福の概念に該当(がいとう)するのだろうか? 最も簡単なモデルは『個人の幸福度を100点満点で表示する時、 その総計が最大となるような社会を理想とする』ことである。 或いは、より弱者の立場に配慮するなら『個人の幸福度を100点満点で表示する時、 その平方根の和が最大となる社会を理想とする』ことがより望ましいかもしれない。 その場合、より低い幸福度を引き上げる効果が、相対的に大きくなるからである。 しかし、こうして色々な分配構造のモデルを考えることは可能だが、 今度は『一体誰の立場でそれを評価するのか』という困難に突き当たる。 つまり、個人的な指標で考える限り、幸福の分配には自明な答えがないのである。

   それに比べ、より有効な方法は社会的な指標で考えることだろう。 例えば『犯罪発生率が最小となる社会を理想とする』立場があり得る。 前述したように、欲望飢餓が過大な社会では犯罪が増加するから、 犯罪発生率は全体幸福の良い指標となり得るのだ。 ここには更に、自殺率や引きこもり率などを加えてもよい。 或いは『経済成長率が最大となる社会を理想とする』立場があり得る。 悪平等の社会で経済が停滞するのは自明だが、 格差が過大な社会でもやはり経済成長が妨げられると考えられるからである。 例えば、近年の日本を覆う経済停滞の主要な原因の一つも、 消費税を筆頭とする貧富拡大政策にあったのではないかと私は疑っている。

   これらの指標は、全体幸福の実現を計る物差しとしては充分有用だろう。 しかし、それにしても尚、現実政治の世界で具体化するのは簡単ではない。 そこで更に浮かび上がって来るのが、 結果としての正義でなく過程としての正義を考えることである。 つまり『幸福の分配』という結果として正義を考える代わりに、 『幸福を追求するルール』という過程として正義を考えるのである。




   過程としての正義は、対等保証の正義と尊厳保証の正義に大別されるように思われる。 それを、全体幸福の実現という観点から整理すれば、次のようになる。 対等保証の正義とは、全ての人間が対等な立場で幸福を追求する為のルールである。 例えば『人々が互いの肉体に危害を加えず、互いの財産を侵害しない』ことである。 他に『互いに約束を守り、嘘をつかない』ということも大切である。 尊厳保証の正義とは、全ての人間に最小限の幸福を与える為のルールである。 それは『人間としての尊厳をもって生きる権利を全ての者に保証する』ことに他ならない。 例えば、生活保護制度や一定の割合で身障者の雇用を義務づける制度がそれに当たる。 その時、今度はこの二つの正義の間でどうバランスを取るかが問題になる。 そこで、また幾つかの例をとって考えてみよう。

   例えば、ヒトラーの『我が闘争』などを読むと、その序盤は戦記物として胸踊るかもしれないが、 全体的論調を不愉快に感じる人も多いだろう (具体例はこちら)。 それを分析してみると結局、ここでは徹頭徹尾、 強者の論理が貫かれていることに気づかされる。 つまり、そこでヒトラーが展開している論理は一面の真理ではあるから、 それを真正面から否定するのは決して容易なことではないのだ。 そのことは我々の不愉快さをますます増幅させるように思われる。 ならば、そうした不愉快さの由来は何かと考えてみるに結局、 余りに一方的な強者の論理を聞かされると、人間は不愉快になるようである。 その場合、元々強いドイツ人が何故そこまで強がる必要があるのかという疑問もわく。 しかし、第一次大戦後のドイツが置かれた窮状を考えれば、 こうした強者の論理が受け入れられた背景を理解することは不可能ではないだろう。

   しかし他方では、それと全く逆の場合があり得る。 例えば、少し前までTV放送のチャンネル数は限られていたが、 その前提の下で仮に身障者関連番組の割合を増やして行くことを考えてみる。 1%、2%、5%から更に10%、20%、50%とどんどん増やして行く時、 誰でも『もういい加減にしてくれ』と言いたくなる所があるに違いない。 つまり、余りに一方的に弱者の立場を押しつけられる時もまた、我々は不愉快になるのだ。 結局、世の中に身障者とされる人々が何%いるかは知らないが、 身障者関連番組がその比率よりある程度、大きくなるのはやむを得ないことかもしれない。 しかし、その比率をどこまでも大きくしていけば誰でも、 『私は別に身障者の為だけに生きている分けではない』と言いたくなる所があるだろう。 ただ、どの時点でそう思うかが人によって異なるだけである。 こんなことを考えるのも、最近の風潮に似たような印象を受けるからだが、 対等保証と尊厳保証のバランスは、そうした個人の感じ方の問題に帰着するように思われる。 つまり、過程としての正義では対等保証と尊厳保証のバランスが問題になるが、 その問題は結局、強者の論理や弱者の論理を不愉快と感じる我々の感じ方に行き着くのだ。 そこで次の節では、そうした感じ方の背景にある人間の本質を分析する為に、 仁と欲の二元論を導入することにする。







§6.善悪二元論から仁欲二元論へ

   キリスト教文化が支配する西洋では、世界の本質として善と悪とを立てる傾向が強い。 いわゆる善悪二元論の起源はゾロアスター教にあるとも言われるが、 それがキリスト教世界に入った後では、 『神によって代表される善』と『悪魔によって代表される悪』との対立として、 世界をとらえる発想が定着したようである。 日本では、明治維新の文明開化で西洋の多くの文物が無批判に受け入れられたが、 その影響か、現代日本でも善悪二元論的な発想は根強いように思われる。 そうした発想では、世界の本質を人間の本質に投影して、 善と悪とを人間に内在する固有の性質と考える傾向があるだろう。

   しかし、我々の立場からすれば人間の本質を構成するものは仁と欲であって、 善や悪はむしろ、そこから生じる現象に過ぎないように思われるのだ。 古代中国の思想家である孟子は、次のように性善説を主張した。 『井戸に落ちそうな赤ん坊を見れば、誰でもそれを無意識に止めようとする。 それは、人間の本質として誰もが利他的な傾向を持つ故である。』 そこで以下では、孟子の性善説にちなんで、 人間が他人を思いやる性善的傾向のことを『仁』と呼ぶことにする。 つまり、まともな人間なら持つと期待される利他的な傾向の源を『仁』と呼ぶ。 他方、古代インドの仏教においては、全ての悪の起源が欲望にあると主張された。 仏陀は、その意味で欲望が悟りを妨げると考えたが、実際問題として、 欲望に目がくらんだ人間は他人の不幸を省みずにむごいことをするものである。 家出少女を売春宿に売り飛ばして大金を手に入れるやくざを始め、 最近は珍しくもない保険金殺人など、そうした実例は無数にあるだろう。 そこで以下では、仏陀の欲望論にちなんで、 人間が他人を蹴落とそうとする性悪的傾向を『欲』と呼ぶことにする。 つまり、人間のあらゆる悪を生み出す利己的な傾向の源を『欲』と呼ぶ。

   但し、ここで一つ注意すべき問題がある。 つまり、孟子のような発想は現代から見れば余りにナイーブと言うべきであって、 例えば、最近のワルガキ共なら赤ん坊を救う代わりに逆に井戸に押し落すかもしれない。 無抵抗な小動物を虐殺するような事件が後を絶たない点からしても、 そうしたことは充分に推察の付く範囲のことである。 その場合、彼らは単に『悪そのものを楽しんでいる』かのようにも見えるが、 もしそうなら、悪の根源を欲望に限定することも困難になるだろう。 しかし、少し見方を変えるならば、実はそうした現象もまた、現代社会の 過大な欲望ストレスなどから生じた精神的な歪みに由来すると言い得るに違いない。 その意味で、こうした現象を『現代社会の病理』として本筋から隔離して扱うことにすれば、 上述した仁欲二元論は充分な普遍性を持つように思われる。 結局、人間には仁と欲とが共存しており、その内の仁が善を生み欲が悪を生むと考えられる。 先ず、全ての人間には他人と助け合おうとする傾向があり、それは人間に潜む善の源である。 次に、全ての人間には自分の欲望を追求する傾向があり、それは人間に潜む悪の源である。 こうして人間に内在する仁が善という現象を生み、人間に内在する欲が悪という現象を生む。 その意味で、人間の本質は仁と欲であって、善や悪は現象に過ぎないと言えるのだ。




   前節で述べた例に戻るなら、一方的な強者の論理を不愉快と感じる心は仁に由来し、 一方的な弱者の論理を不愉快と感じる心は欲に由来すると言える。 言い換えると、強者の論理の押しつけを不愉快と感じるのは仁の働きであり、 弱者の論理の押しつけを不愉快と感じるのは欲の働きである。 つまり、誰の心にも他人をいたわろうとする仁の働きがあるから、 あまりに一方的な強者の論理に対しては反発を感じる。 同様に、誰の心にも自分の欲望を実現しようとする欲の働きがあるから、 あまりに一方的な弱者の論理に対しては反発を感じる。

   但しその場合、各人が持つ仁と欲との割合には大きな差があり得る。 その意味では、仁や欲が生じる原因を知ることが重要な問題となるが、 欲の由来については『それは全ての生命が持つ宿命である』と言えば済むだろう。 第二節で述べたように、刺激を求めるのは全ての生命の逃れ難い宿命だからである。 それに比べ、仁の由来を知ることはずっと困難であるように思われる。 その一部は遺伝的な形質に由来するかもしれないが、 他方では生まれた後の環境や教育に依存する面も大きいだろう。 例えば『利己的な傾向が強すぎる人間は社会に適応しにくい故に、 親が教育して直す』という面があるに違いない。 つまり、兄弟の一人がお菓子を独占すれば『悪い子』として罰するようなものである。 しかし、ここではその問題に深入りすることはやめる。

   むしろ当面の問題として大切なことは、 対等保証と尊厳保証という二つの正義の間でどうバランスを取るかである。 実は、この問題にも自明な回答は存在しないが、民主主義を前提として考えるなら、 より多くの人間が満足するようにそのバランスを決めることが望ましいだろう。 つまり、より多くの者が妥当と考えるバランスの実現を社会の目標とするのである。 その意味で、二つの正義の間でバランスを取る問題は多数決に行き着くことになる。 貧富格差の問題でも『どの程度の格差が適正か』を決める自明な目安はないが、 当面の妥当な選択は、それを例えば国民投票で決めることである。 次の節では、その具体的な方法として根(こん)税制を取り上げるが、 その前にここでは、前々節で先送りした課題を片づけることにする。 つまり、二つの歪んだ思想(共産主義と自由競争万能主義)を排除することである。




   結局、自由競争で得る所得は対等保証の正義だが、必ずしも尊厳保証の正義ではない。 先ず、自由競争を前提として得られる所得は、対等保証のモラルでは正義である。 一般に、社長の巨大所得は個人の才能によるのであって、搾取の結果ではない。 つまり、自由競争だけを前提にすれば、巨大な所得格差が生じることは必然なのであり、 それは搾取という犯罪によるのではなく、あくまで個人の才能によることである。 例えば、プロスポーツ選手は巨額の所得を得るが、 それは個人の傑出した才能によるのであって、決して誰かを搾取した結果ではない。 その場合、スポーツ選手の仕事は孤立作業なので誰にも分かり易いが、 会社の仕事は共同作業なのでその点が見えにくいだけである。 そこに付け込んで搾取論を持ち込むのが共産主義の得意とするペテンだが、 それは暴力主義を正当化するという意味で決して見過ごせない問題である。 つまり『元々が奪われた物(即ち、自分の財産権を侵害されている)なら、 力ずくで奪い返すのもまた正義』ということになるから、 対等保証の不正義は尊厳保証の不正義よりもずっと暴力を正当化し易いのである。 こうして尊厳保証の不正義と対等保証の不正義とを すり替える点に共産主義のトリックがある。

   念の為、ここで共産主義の搾取論をざっとおさらいしてみよう。 生産活動において、資本は『資本A→生産財+労働力→商品→資本B』と変化する。 その時『資本B−資本A』の増分が資本家の取り分となるが、 こうして資本が増える原因は労働力の部分にのみあると主張される。 つまり『労働者が産み出した価値』が賃金として正当に支払われる代わりに、 資本家の懐に入るという理屈である。 このモデルは、競争がなく生産様式も変化しないという前提の下では正当であり得るだろう。 しかし、今日では誰でも知っている通り、実際には生産様式は日々進歩しているし、 それに対応できない企業は倒産する以外に道はないのである。 その時、異なる生産様式では『資本B−資本A』は異なる値を持ち、 種々多様な生産様式が相互に競合する関係に置かれている。 だから『資本B−資本A』という差額は、 先を読んで生産様式を更新する有能な経営者への報酬なのであって、 無能な経営者の場合、その差額は減るかむしろ負となって倒産することになるのだ。 その意味で、共産主義の搾取論は『経済社会のダイナミックな変化を理解できない、 愚かな経済学者』の戯言(たわごと)に過ぎないと言うべきである。 つまり、その論理はあくまで『無競争で生産様式が固定された状態』でのみ成り立つのだ。

   これに対し、尊厳保証のモラルからすれば巨大所得はそれ自体が不正義である。 そもそも『人間が社会を形成する目的は全体幸福の実現にある』以上、 社会活動の中で得られたどんな所得も決して無条件に正当では有りえない。 人が社会の一員として生きる限り、全体幸福の観点から制約を受けるのは必然であり、 そうした制約が嫌なら、南海の孤島で孤立して生きるしかないだろう。 特に『華美な車で、貧者の家の前を通るな』というモラルがあるように、 欲望の観点からすれば『1人の贅沢が99人を不幸にする』点に注意する必要がある。 仮にある人が隣人の10倍の所得を得たとする。 その時、当人にとって、その幸福感はひと月も持続せずに消滅するだろうが、 隣人にとっては、その格差から生まれる不幸感の重圧は永続することになるのだ。 だから、過大格差が社会全体の幸福を減らすことは議論の余地がないだろう。 その意味で、尊厳保証の観点では巨大所得はそれ自体が不正義と言えるのである。 逆に言えば『誰の目にも触れない孤島で暮らす限りどんな贅沢も許される』から、 どうしても累進税制が嫌な者は南海の孤島で暮らす道もあることになる。 しかし、それはあくまで『南海の孤立生活で巨大所得が得られれば』の話であって、 現実的にそれが不可能である点では経営者もスポーツ選手も変わりはないだろう。







§7.根税制の勧め

   徒然草に始まったこの哲学的な探究の旅もいよいよ終幕が近づいたので、 ここでは先ず今までの論理の流れをざっとおさらいしてみよう。 第一節と第二節では、真の悟りとは何かを考えた。 第一節では、悟りの本質として日々是奇跡を取り出した。 第二節では、全ての刺激が磨耗する故にその認識も持続しないことを述べ、 日々是奇跡を小乗的悟り、日々是奇跡と日々是退屈との収束点を大乗的悟りと呼んだ。 つまり、刺激を求めつつ既にある宝とのバランスを 見失わないことを真の悟りとしたのである。

   第三節と第四節では、真の悟りを実践する方法として生き甲斐論を考えた。 第三節では、大乗的悟りを具体化する為に刺激を生き甲斐と言い換えた上で、 幸福とは生き甲斐追求の過程であることを示し、その生き甲斐を欲望と関係に分けた。 第四節では、欲望と関係の違いを分析し、その適正な配分を真の悟りとした。 その意味で、大乗的な悟りとは正しい生き甲斐設計であり、個人の幸福もその中にある。 その時、社会に望まれることは個人の生き甲斐設計を歪めない為の欲望管理である。 つまり、個人の欲望飢餓を最適化する為に、社会的な格差を調整する必要がある。 特に物欲に関しては、所得格差を適正化することが大切だが、 その意味で、共産主義と自由競争万能主義が二つの障害となった。

   第五節と第六節では、社会的な格差に関して正義とは何かを考えた。 第五節では、正義とは全体幸福の実現であり万人の生き甲斐保証であることを述べた後、 その具体化として先ず『結果としての正義』の観点から個人的指標や社会的指標を議論した。 その後、現実政治に応用する上ではむしろ『過程としての正義』が重要であって、 それが更に対等保証の正義と尊厳保証の正義に二分されることを示した。 こうして問題は再び『二つの正義の最適配分』というバランス論になったが、 それは強者の論理や弱者の論理を不愉快と感じる我々の感じ方に行き着くと分かった。 第六節では、その不愉快さの由来を分析する為に仁欲二元論を導入した上で、 仁と欲のバランスには個人的な差異があることを示した。 その時『二つの正義の最適配分』を決める自明な方法は存在しない故に、 民主主義社会では、多数が満足するようにそれを決めるべきであると考えた。 つまり、より多くの者が妥当と考えるバランスの実現を社会の目標とするのである。 特に、貧富格差に関しては国民の直接投票で決めるのが望ましく、 その為の一つの具体的な方法として根(こん)税制があることを予告した。 こうした方法で最終的に正しい生き甲斐設計が実現されるという保証は必ずしもないが、 少なくとも今より望ましい社会が到来することは確かなように思われる。




   そこで以下では先ず、根税制の概要をざっと説明しよう。 現在の累進税制では所得階層を適当に区分した上で、階段状に税率を設けている。 そこから所得と税率のグラフを作ると、一つの折れ線グラフが出来上がる。 実際問題として、こうしたやり方は煩雑であるという欠点を抱えているが、 それ以上に『階段構造の決定が恣意的になり易い』ことはより大きな欠陥と言える。 その意味でむしろ望ましいのは、 恣意的な折れ線グラフを単純な関数で置き換えることである。 例えば、所得の平方根を個人の手取りとし、残りを税金とするといった考え方である。 こうした方法の利点の一つは、恣意的な税率区分を排除できることにあるが、 それ以上に、税制を簡素化できるという効果が大きい。 何故なら、一々税率表を眺めながら面倒な計算をしなくても、 簡単な数式に所得を代入すれば一発で税額が求まるからである。 その上、決定的に重要なのは、国民投票による貧富格差の決定を可能にする点である。 つまり、税の累進性を与えるパラメータを一つ決めておき、 国民投票の結果でそのパラメータを自動的に変更するのである。 例えば、3年毎の参議院選挙と同時に国民投票を行い、 『現在の貧富格差が大き過ぎるか、小さ過ぎるか』を多数決で決める。 後は、投票結果に従って事前に決めた方法でパラメータを上下させれば、 税の累進度が国民の多数意志に従って変更されることになる。

   その具体化は高等数学の問題になるが、ここでは少し簡略化して説明する。 巾乗を『**』で表す時、平方根関数は『Y=X**(1/2)』と書けるが、 (1/2)という値を(1/3)とすれば立方根、(1/4)とすれば四乗根関数となる。 実際の税制ではその値を0〜1の実数Rに拡張して『Y=X**R』を用いるが、 根税制という名の由来も平方根関数を拡張して用いる点にある。 その時、XとYの単位を例えば100万円として、Rの値を多数決で上下させると、 Rが1なら税率一定のフラット税制、Rが0なら手取り一定の悪平等税制となる。 よって、後は国民の総意により累進度を自由に変えることが出来る分けである。 無論、現実には原発やゴミ焼却場のように国民の直接投票になじまない問題も少なくない。 そうした問題は、判断に専門的知識を必要とする上、地域エゴに陥り易いからである。 それに比べ、貧富格差の決定は、最も国民投票になじむ問題の一つと言えるだろう。 何故なら、累進税制は国民全体に等しく適用されるので地域エゴの問題が生じない一方、 貧富格差の判断はまさに国民一人一人の感じ方が全てであって、 どんな専門的知識も必要としないからである。




   他方、この税制の副産物として様々な利点が考えられる。 先ず、多くの人々が投票所に行くので、参議院選挙の投票率が大幅に上昇する。 次に、少し数式を工夫すれば、子供を持つ夫婦の税額を劇的に減らすことが可能である。 それは人口増加の決定的な誘因となるから、 急激な老齢化におびえる日本社会を救うことが出来るだろう。 更には、この税制により悪名高い消費税を廃止することが出来る。 今後、財政赤字に苦しむ政府が増税する上でも、こうした税制は不可欠であるに違いない。 何故なら、国民が税金に不満を持つのは、税の多少より税の不公平にあるのであって、 貧富格差が少ない限り、税額の多少自体は余り問題にならないと思われるからである。 端的に言って、根税制では財政赤字を一部の金余りからの税金で埋め合わせることになるが、 それと同時に年金の最低保証を強化すれば、多くの国民は文句を言わないはずである。 例えば、近年の貧富拡大政策の帰結として、一方には百円ショップの繁盛があり、 他方には金余りでブランドや宝石を買いあさる風潮がある。 それをあたかも『一人の人間が両方に分裂している』かのように言うのが、 最近の間抜けな新聞論調だが、そうした嘘に惑わされるべきではないだろう。

   最後に最も重要なこととして、共産主義に最終的な引導を渡すことが出来るという利点がある。 実際問題として前世紀以来、その忌まわしい暴力主義の哲学は諸悪の根源だった。 ここでは詳しく触れないが、近年の日本を覆う停滞の真の原因も実はそこにあったのである。 その意味でも、共産主義の息の根を止めることが出来る根税制は有用なのだ。 例えば昔、安達祐実主演の『家なき子』という有名なTVドラマがあった。 その中では『貧富格差』という社会の欠陥を誰もがひとごとのように嘆いていたが、 日本が民主主義社会を標榜する以上、本来そうした嘆きは奇妙なことなのである。 ただ現実には、実際の政治システムの問題として、 貧富格差に国民の総意が反映されにくいという事情があったかもしれない。 そこに共産主義がつけ入る余地があったとも言える。 しかし、仮に根税制が採用され、貧富格差を国民の直接投票で決めるようになれば、 誰も貧富格差の問題を他人のせいには出来なくなる違いない。 その意味で、もはや共産主義の出る幕はなくなるのである。 次の節では、この根税制の詳細をもっと具体的に検討することにする。







§8.根税制の詳細

   以下の説明では、数学的な厳密さよりも分かり易さを優先した。 その意味で、数学の得意な人は、かえって煩わしく感じるかもしれない。 それは、ひとつには数学に不得手な人もいることを配慮した為だが、 ひとつには私自身が数学から長く遠ざかり、忘れたことが多い為でもある。 先ず、出発点となる平方根型の税制は、次のような数式になる。
             T(A)=A−B(A) ……Tは税額、Aは所得額、Bは手取り額
             B(A)=m√[A/m]=m{(A/m)**(1/2)} ……mは課税最低限
今、簡便の為に課税最低限をm=100万円として、 幾つかの所得額に対する手取り額を計算すると次のようになる。
             100万円……100万円×√1=100万円
             200万円……100万円×√2=142万円
             1000万円……100万円×√10=317万円
つまり、平方根型は相当きつい累進率になることが分かる。 そこで、累進率を変える為に累進係数R(0〜1の実数)を導入する。
             B(A)=m{(A/m)**R}
よって、R=1/2 で平方根税制、R=0 で悪平等税制、R=1 で定率税制となるが、 この方法ではRが1の時に税額も零になるなど、税収総額を決めることが出来ない。

   そこで次に、基準手取り率S(正の実数)を導入する。
             B(A)=Sm{(A/m)**R}
更に、課税最低限で0=T(m)=m−B(m)となるように、第二項を加える。
             B(A)=Sm{(A/m)**R}+m(1−S)
             =m+S{(A**R)(m**(1−R))−m}
その時、3種のR値についての実際の数式は次のようになる。
             R=0(悪平等税制)……B(A)=m
             R=1/2(平方根税制)……B(A)=m+S(√[Am]−m)
             R=1(定率税制)……B(A)=m+S(A−m)
あとは、Rの決定後に、所定の税収が得られるようにSを修正するものとする。 Rが0に近づく場合、mを変える操作も必要になるが、 R=1/2 で既にあれだけの累進率となる以上、その可能性は小さいだろう。

   実際の運用では、例えば三年毎の参議院選挙と同時に国民投票をやり、 その結果に従ってRの値を動かすことにする。 その時、出発点となるRの値を決める必要があるが、 それには消費税導入以前の累進税率のグラフに最も近い値を採用するのが良いだろう。 概算では、およそ R=3/4=0.75 (m=330, S=1.35)で同等の累進率となる。 便宜上、A−mを横軸にとってグラフを描くと 税額グラフ 税率グラフはこのようになる。 エクセルをお持ちの方は、これを使えばRとSを適当に変えて 税額グラフ 税率グラフを描くことも出来る。 因みに、以上で言う税率とはあくまで所得の各部分毎にかかる限界税率のことであって、 所得全体にかかる通算税率とは異なる。 そこで今、便宜的にn=1000Rとし、nを0〜1000の整数と考える。 よって、出発点はn=750 となるが、投票結果に従ってこの値に1を加減することにする。 技術的な問題として、当初はなるべく速く累進率を国民の総意に近づける必要がある。 その意味で『暫くの間は国民投票を毎年やる』というのが一つの方法である。 また『投票結果が前回と同じ場合、nに加減する値を倍に増やす』手もある。 或いは『格差過大の得票率が格差過少の得票率を5%上回る毎に、 nに加減する値を2、3と増やす』という方法も考えられる。




   後は、周辺的な問題を詰める必要がある。 第一に『家族単位の課税方式』を採用するものとする。 つまり、両親と子供・老人の扶養家族を前提にして、次のように計算する。 先ず、両親の所得を合計して、家族の総所得を求める。 その場合、妻のパート労働や、子供のアルバイトによる収入は除外しても良い。 次に、家族の総所得を次の比率で、各人に割り当てる。 両親は各々1、扶養家族は各々1/2とする。 最後に、各人に割り当てた所得に対して上述した累進税率で税額を計算し、 各人の税額を合計して家族の総税額を求める。

   ここで一つの重要な問題は、出生率の増加を促す為の動機付けである。 今、家族の総所得を割り当てる時の比率で、子供の割合を1/2から1に増やす。 こうすると、例えば親子4人家族の所得は4人分に均等分割されるから、 累進税率の性格に伴って、家族の税額は大幅に減ることになる。 つまり、子供を沢山作るほど税額が減る効果が生まれるから、 夫婦はより積極的に子供を生むようになるだろう。 ただ、これに対しては『子供を産む可能性のある若い夫婦は元々、所得が余り多くないから、 こうした減税の効果も限定的なものに過ぎない』という批判があり得るだろう。 ならば、さらなる優遇策として『子供を生んだ夫婦は、 生涯に渡って減税を受けられるようにする』のが良いかもしれない。 例えば『子供が独立した後も、子供1人当たり1/2人位の割合で、 幽霊家族数を割り当てる』といった方策が考えられる。 残された問題は『仮に子供が死んだり、夫婦が離婚したりした場合も尚、 優遇策を続けるのかどうか』という点に絞られるだろう。 その減税効果は、特に累進税率の高い金持ちにとって大きいから、 金持ちほど沢山の子供を作る必要に迫られることになる。 こうして、比較的に優秀な遺伝子を持つ金持ちの子供が増えれば、 将来的には日本人全体の水準が上がる効果も期待できるだろう。 結局『長引く不況を一掃して瀕死の日本経済を救い、共産主義の愚かな暴力主義を根絶し、 少子化問題を解決して将来への不安を取り除き、更には日本国民の知的水準を引き上げる』 という意味において、この税制は一石四鳥の起死回生策と言えるに違いない。

   その他で重要な点は以下の通りである。 第一に、消費税は廃止する。 それは根税制を導入する主要目的の一つでもあった。 第二に、配偶者控除や扶養控除は廃止する。 家族単位の課税方式では、既にその点が考慮されているからである。 第三に、サラリーマンの納税に関しては、自己申告と源泉分離の選択制とする。 その場合、税務署が忙しくなり過ぎることを避ける為には、 源泉分離方式に充分な優遇処置を付ける必要があるだろう。 第四に、上述した累進税率は、所得税だけでなく相続税にも適用するものとする。 その場合、所得税と相続税のバランスを決めるのは国会の仕事となるだろう。




   最後に断っておきたいのは、私は税制の専門家ではないということである。 よって、以上の説明はあくまで概念としての根税制の根幹を示すことに主眼があり、 その内容も実際の税制を作る上での叩き台と見なして欲しい。 その意味で、細部の修正と肉付けは、理念に賛同してくれる実務家の検討を待ちたいと思う。 他方、数学に得意な方々には、国民投票で貧富格差を決めるという意味で、 もし根関数より優れた関数をご存じなら、是非それを提案して頂きたい。 以上で『悟るとはどういうことか?』の本文を一応終了する。 長い間、つき合ってくれた方々には心からお礼を言いたい。

   実際問題として、現在の日本が抱える課題は多岐に渡っている。 しかし、その中でも税制の問題はそれが政治の根幹をなすものであることを考えれば、 世直しに於いて何を差し置いても先ず手を付けるべき所だろう。 その意味で、ここでは税制の問題を最優先したが、 他にも重要な問題が多々あることは事実である。 そこで、次回以降は幾つか語り残した緊急問題を付録としてまとめたいと思う。







◇付録1.青少年の荒廃を救う道(一)

   『衣食足って礼節を知る』という著明な格言は古代中国の管仲に由来するらしいが、 現代社会の困難な問題を解く為の第一の手がかりがこの言葉にあるように思われる。 近年、良く『物が豊かになったのに心は貧しくなった』などと言われることがあるが、 果たして、そうした言い方は本当に妥当なのだろうか!? 確かに現代日本に於いて、衣食に不自由することは先ずないし、 まして、飢餓に悩まされた時代は戦後の一時期を除けば遠い過去の記憶に過ぎない。 ところが、ホームレスを襲う青少年には『衣食足って礼節を知る』気配すら感じられないし、 物が豊かになったのに心はちっとも満たされないことが不思議に思えるかもしれない。 しかし、大量生産の時代には物欲を満たすことが容易になる反面、 人々の関心がより高度な欲望に向くようになるのは必然であるように思われる。 その結果として、我々は『心が貧しくなった』と感じるのではないだろうか!? その意味で『物が豊かになった"のに"心が貧しくなった』と言う代わりに、 私は敢えて『物が豊かになった"から"心が貧しくなった』と言いたいと思う。 そう考えると、色々な問題を解く為の糸口が見えて来るように思われるのだ。

   結局、物が貧しい時代には、人々の関心はもっぱら物を手に入れることに集中していた。 つまり、人生の主要目的が物欲を満たすことにあった分けである。 そうした時代には、一部の豊かな者たちだけがその目的を達することが出来て、 彼らは物欲を満した結果として、礼節を知ることになったかもしれない。 ところが、現代では物が豊かになったことの帰結として、 人生に於いて物欲を満たすことは比較的に容易になったのである。 その結果、人生の主要目的も、物欲からそれ以上の何かへと変化したように思われる。 こうして人々の関心全体がより高度なものにシフトする結果、 我々の欲望の対象も物欲から、それ以上の何かに移行する。 そうした我々の精神状態の結果『心が貧しくなった』ように感じられる面があるに違いない。

   以前に第3節で、生き甲斐を3種の欲望と3種の関係に分けて考えたが、 物欲が満たされた後には、主要な欲望は色欲や名誉欲に移行するように思われる。 その意味で、物欲が大方満たされた現代に於いては、色欲が前面に出て来た気がする。 言わば、欲望の重心が物欲から色欲へと移動する結果、 全体幸福の実現でも色欲が重要な要素になったと考えられるのである。 無論、根税制の所でも述べたように、物欲を満たす問題も尚残ってはいる。 しかし、昔に比べれば、その比重が確実に減って来ていることは間違いないし、 現代社会の主要な関心事が物欲から色欲へ移行していることは事実だろう。 例えば、TVドラマの大半が男女の色恋を描くのもそのせいだし、 男性向けポルノ産業の隆盛にしても同様に解釈できる。 それに対しては『同じような文化は大昔からあった』という反論もあり得るが、 その享受者が、物欲に満たされた一部の豊かな階層だけであったこともまた事実だろう。 つまり、大多数の百姓の主要な関心事は『どうやって今日の空腹を満たすか』であって、 江戸時代の水飲み百姓には到底そんな文化に接する余裕などは無かったからである。

   そうした状況を考えるなら、現代では前述した『衣食足って礼節を知る』という諺は、 例えば『色欲足って礼節を知る』とでも言い変えるべきであるように思われる。 現代の青少年問題を考える場合にも、こうした変化を無視することは出来ない。 結局、色々な意味で、この問題にさらされた未熟な青少年が荒廃するのは必然とも言える。 現代に決定的に欠けているのがそうした認識であって、 青少年を痛めつけ追い詰めているものがそこにある事は疑い得ないことである。 実は、その程度の認識は自分の青少年時代を振り返ってみれば誰にも分かるはずなのたが、 大半の大人がそのことに気づかないふりをしているのは、まことにこっけいなことである。 そうした愚かな大人こそが、実はこの荒廃の主要な責任を負っていると言えるのだ。 例えば、一部の保守政治家は『昔の教育勅語にあったような徳目を復活させることが、 青少年の荒廃を救う道である』かのように考えているらしいが、 以上のような事情を良くよく考えて見れば、それが全くの噴飯物であることは明らかだろう。 自分の若い頃をすっかり忘れた大人たちの途方もない愚かさは、 道徳教育の必要性を叫ぶ一部の哲学者たちにしても同じことである。




   その場合、現代の不幸の一因は、西洋由来の恋愛至上主義にあるように思われる。 つまり、恋愛は常に美しく、良いものであるとする考え方である。 実際問題として、男女の恋愛はとかく美しい言葉だけで語られることが多い。 しかし、世の中にそうした美しい恋愛が存在することは事実であるとしても、 そこには同時に、もう一つの必然的な闇があることを見落としてはならないだろう。 何故なら、自由恋愛(男女間の自由な色恋)とは、間違いなく弱肉強食の世界であって、 その本質は、男女が最良の配偶者を獲得しようとして争う熾烈な闘争だからである。 だから、いわゆる『恋愛至上主義』には注意が必要である。 言わば『美しい恋愛』というのは物事の一面に過ぎないのであって、 その影には残酷な弱肉強食の世界があることを忘れるべきではない。 つまり、結婚を意識するかどうかには関わり無く、自由恋愛とは、 『オスとメスとが最善の異性を得ようとして争う残酷な生存競争』なのだ。 その意味で、恋愛至上主義の限界と誤りをハッキリと認識することが大切である。

   歴史的に見るならば、自由恋愛とは無縁の制度が存在したことも事実であって、 そこでは(多分意図的に)そうした弱肉強食が抑制されていた。 例えば、親が決めた相手と結婚した時代があったし、 近代にも尚、見合い結婚が主流の時代があった。 そうした制度の下では、自由恋愛的な弱肉強食は起こりにくかっただろう。 特に、一夫一婦制を前提として婚外の性的関係をタブーとする場合、 一定の公平性が守られるから、現代のような軋轢は生じなかったに違いない。 逆に言うと、そうした制度は『自由恋愛』がもたらす軋轢(痴情のもつれ等)を 未然に防ぐ効果があり、その為に採用されていたとも言えるのだ。

   これに対し、明治以降に恋愛の美しさだけを強調する『恋愛至上主義』がもたらされた。 男女が最良の配偶者にめぐり合う為に、或いはそれ自体が人生を豊かにする要素として、 そうした自由恋愛が果たすべき役割を全て否定することはできないかもしれない。 しかし、仮に恋愛を無条件に良いものと考えるなら様々な問題が生じるだろう。 例えば『それならどうして既婚者の恋愛はいけないのか?』ということになる。 それは、近年のTVドラマが好んで取り上げるテーマであり、 最近、話題になった『年下の男』などもその一つである。 或いは『それならどうして小中学生の恋愛がいけないのか?』ということになる。 これは例えば、昔はやった『小さな恋のメロディ』という映画のテーマだった。 その場合、前者については『浮気は結婚という契約に反する』という安直な回答もあり得る。 つまり『結婚している間は互いに浮気をしない』という契約を想定する分けである。 しかし、その回答は結婚制度の存続を無言の前提として考えている分けであり、 『それなら何故、結婚制度が必要なのか?』という疑問に突き当たるだろう。 つまり、恋愛が無条件に良いものなら、 その恋愛の障害となるような結婚制度はむしろ無い方が良いのではないか!? そこまできちんと答えないと、この疑問に対する完全な回答とは言えない。 次節では、そうした疑問を手がかりにして更に話を進めることにする。







◇付録2.青少年の荒廃を救う道(二)

   結局、全体幸福の実現の為には、物欲と同時に色欲における公平が重要である。 恋愛の自由を無条件で認めることは、例えば物欲において、 累進税制を全て否定し、完全な自由競争にゆだねるのに似ている。 物欲の場合、そうした弱肉強食は最終的に全体幸福を破壊するから、 自由競争と公平とのバランスを計る為に累進税制が導入されたのである。 色欲に於いても、それと良く似た事情が存在しているのであり、 全てを競争に委ねるなら、全体幸福は実現しないに違いない。 例えば、もし結婚制度を廃止し、全てを自由競争にゆだねた場合、 権力や財力のあるものが沢山の配偶者を支配する結果になるだろう。 日本では、近世以前の時代がまさにそうだった。 しかし、それがその時代に一応機能したのは恐らく、 個人の生命さえ保証されない『飢餓と隣り合わせの時代状況』故だろう。 そうした時代には、大半の人間にとって色欲は二の次だったからである。 近代になって物質的な充足が行き渡る一方、物欲の公平もある程度保証された社会では、 色欲だけを弱肉強食に委ねれば、大きな摩擦が生じるのは必然のように思われる。

   こうして、色欲でも自由競争の制限が必要なことから、結婚制度の意味が理解されるだろう。 言わば、結婚制度の隠された狙いの一つが、そうした弱肉強食の緩和にあったであり、 色欲の公平を担保する為の一つの現実的な仕組みがいわゆる一夫一婦制度だったのである。 特に、見合い結婚を前提に婚前交渉をタブーとしていた時代には、 そうした弱肉強食は完全に抑制されていたと言えるだろう。 ところが、近代に入るとともに西洋由来の恋愛至上主義が浸透して自由恋愛が持ち込まれ、 その結果、近年は公平性の問題を無視して、なし崩し的に婚前交渉の自由化が押し進められた。 こうして、結婚制度の外側での肉体関係が容認されると共に、 結婚制度に守られてきた公平性に風穴が開き、必然的な軋轢が生じた。 例えば『結婚前でも女に不自由しない男』と『女に全く相手にされない男』との格差である。 その時、自由恋愛の下で何とか公平性を回復しようとする試みの一つが、 いわゆるフリーセックス運動だったと思われるが、結果的にそれは挫折した。 失敗の原因は恐らく、 その運動が色欲(男女関係)の本質についてのを洞察を欠いていたからだろう。

   現在それでも尚、結婚制度が維持されているのは、 かろうじて最小限の公平を確保する為であると思われる。 もし、自由恋愛をどこまでも押し進め、結婚後の自由恋愛までをも無条件に認める場合、 色欲の公平を守る最後の砦としての結婚制度も崩壊し、状況は完全な弱肉強食に陥るだろう。 その意味で、最小限の公平を守る為に結婚後の恋愛が否定されるのであり、 ここから『既婚者の自由恋愛は正義に反する』という結論が導かれる。 結局、全体幸福を実現する為には、物欲と同様に色欲の公平を計る必要があるが、 特に人々の関心が色欲に移行した現代では、それを自由競争に委ねると大きな摩擦が生じる。 その意味で、一夫一婦制度が果たしてきた役割を理解するなら、 自由恋愛も、もう一度、根底から考え直す必要があるように思われる。 つまり、結婚制度の公平を崩した婚前の肉体関係は再考の余地があるだろう。 ただ、それが大人の問題である限り、今は敢えて触れないことにする。 何故なら、大人にはそうした弱肉強食への一定の耐性があると考えられるからである。

   しかし、子供の場合にはそうは行かない。 同じ弱肉強食でも、成人した大人と未熟な子供とでは全く話が違うのである。 余りに幼い子供に自由恋愛を持ち込むことは、 未熟な人間に残酷な弱肉強食を強いることになる。 ここから『小中学生の恋愛は正義に反する』という結論が導かれる。 結局、その点の無理が、青少年の荒廃として現れているのだと思われる。 つまり、未熟な子供に性的な弱肉強食を強いることが青少年を荒廃させたのであり、 その荒廃は、自由恋愛と性交渉が低年齢化したことの必然的な帰結とも言えるだろう。 言わば、青少年の荒廃の主因は、幼い子供が自由恋愛の残酷な闘争にさらされる点にあるが、 それは人間形成の上でも無視できない問題を生み出すことになる。 近年の引きこもり問題にしても、その辺に起因する部分が少なくないに違いない。 その意味で、自由恋愛そのものの是非とは別に、 その低年齢化への歯止めを考えることが決定的に重要であるように思われる。




   突き詰めると、以上の問題は万人の色欲充足という問題につながって来る。 つまり『如何にして万人の色欲を満たすか』という方法論である。 その場合、本質的な問題は『欲望の重心が物欲から色欲に移った現代に於いては、 色欲飢餓が過大である』ことにあると思われる。 つまり、以前に第4節で述べた欲望管理の観点からすれば、 欲望刺激の大きさに比べ、欲望充足の可能性が小さ過ぎるのである。 しかし、この問題については残念ながら、私もまだ最終的な答えを得てはいない。 第3節でも述べたように、万人の物欲を満たすことは必ずしも難しくないのに比べ、 万人の色欲や名誉欲を満たす為の自明な方法はないのだった。 名声欲について言うなら『誰もが有名人になる』ことが不可能であるのは明らかだが、 色欲でも『万人の色欲を満たす方法』については、 それが存在するかどうかを含め、私は未だに知らない。 本論で色欲の問題に詳しく触れなかったのも、そうした事情があったからである。

   実を言えば、その問題の答えは誰も持っていないだろう。 結局、色欲が物欲と大きく異なる点の一つは、公平が必ずしも充足を意味しないことである。 例えば、見合い結婚を前提に婚前の肉体関係をタブーとすれば、 色欲の公平は保たれるだろうが、その時(特に男性の)色欲が充足されることはない。 その結果として、売春が不可欠な制度として残ることになるだろう。 自由恋愛と共に婚前交渉が自由化されたことの背景には、 そうした問題への配慮があったと言うことも不可能ではないかもしれない。 しかし、そうした婚前交渉の自由化は、一部の男の色欲充足には役立ったとしても、 全ての男の色欲を充足させることは無かった。 その時、その不公平さ故に、取り残された男達の不満がますます強まるのは必然であり、 それが結果的に、男と女の関係全体を歪めてしまったように思われる。 親による子殺しが増えるのも、結婚後にいわゆるDV(夫による暴力)が生ずるのも、 全ては、こうした男女関係の荒廃に起因している可能性が強い。 つまり、自由恋愛は欲望を解放する為の一つの入口であったかもしれないが、 問題は『自由恋愛の下で公平性を回復する為の出口』を誰も知らないということである。 結局、この問題が難しいのは、それが『男と女の関係が最終的にどうあるべきか』 という点に関わって来るからである。 そして『一体どういう形が可能なのか』或いは『一体どういう形が望ましいのか』 について、残念ながら社会的な見解や議論はほとんど見えないのが現状である。 つまり、古い結婚制度以外に色欲の公平を確保する道を誰も知らないことが問題なのだ。 無論、それについて意見を持つ人はいるだろうが、 それが多数派の納得を得られるものでない限り事実上、無意味である。 現代社会の子殺しやDVを考えた場合、大人の問題としても、 色欲の公平を考え直すことは急がれる課題であるように思われる。 その意味で、最終的な解決策とまでは言わずとも、より満足な制度を作る為に、 社会的な議論の盛り上がりを待ちたいと思う。

   しかし、そうした大人の問題とは別に、青少年の荒廃がここまでひどくなった以上、 何らかの緊急対策が望まれるだろう。 つまり、青少年の荒廃がその点に関わってくると認めるならば、 何とかして当面の暫定的な回答だけでも見つける必要がある。 その意味で、とりあえずやるべき緊急避難的な方策を考えることが当面の問題となる。 つまり、以上のような状況の中で、当座しのぎとして我々がなし得ることはないか ということが主要な問題意識である。 その場合、欲望充足の観点からすれば欲望解放の可能性も焦点となるが、残念ながら、 その点に関しては、今すぐ多くの人々が納得するような簡単な解決策があるとは思えない。 その意味で『万人の色欲を充足する方法』を誰も知らないという現状を考えるなら、 欲望刺激の抑制を中心に考えざるを得ないだろう。 つまり、当面の中心課題は、欲望刺激を減らすことに置かざるを得ない。 次回は、その問題を幾つかの論点に絞って見て行くことにする。







◇付録3.青少年の荒廃を救う道(三)

   前節では、青少年の荒廃をなくす上で 『自由恋愛の低年齢化』への歯止めが不可欠であることを述べた。 その意味で、以下では性教育の功罪を中心に三つの方策を議論するが、 その中でも筆頭に取り上げるべきは、いわゆる性教育の問題である。 性教育に関して常に主張されるのは、 『性的な無知や歪んだ性情報を無くす為にそれが必要だ』とする論理である つまり、第一に性交渉の低年齢化を大前提として妊娠や性病を防ぐ必要性が言われ、 第二に、世間にあふれる歪んだ性情報を正す必要性が言われる。 しかし、それは本当に必要なのか、或いは本当に有効なのか!?

   先ず、第一の論点は性交渉の低年齢化を大前提としている点にそもそも問題があり得る。 つまり、そうした低年齢化を望ましいとまで考える者は少ないとしても、 その防止が事実上不可能と見なし匙を投げている点で、その無責任さが問われるだろう。 何故なら、この点に関してはまだ『万策尽きた』とは言い難いからである。 ただ、その点を抜きにしても尚『無知による妊娠を防ぐ』という主張は、 実体を見ない議論であるように思われる。 実際問題として、今の時代に避妊などの最低限の情報を知らない子供が果たしているだろうか!? あらゆる情報が氾濫する時代に『子供はコウノトリが連れてくる』 などというおとぎ話を信じている者は小学生にも少ないに違いない。 同様の意味で、避妊について全く知らない青少年はまずいないだろうし、 そうした背景を考えるなら、改めて学校で教える必要があるかどうかは大いに疑問である。




   他方では、現実の避妊失敗が無知とは全く別の要因で起こっている点に気づくべきだろう。 例えば、最もありふれたケースとして、頽廃と自堕落の結果として起こる妊娠がある。 これは統計にも示されていることだが、最初のセックスでは避妊したのに、 繰り返されるセックスの中で避妊をしなくなる少女が少なくない。 それが何を意味するかと言えば結局、現実に男女の肉体関係が進行する中では、 どうしても複数の男を渡り歩くことになる場合が多いということであり、 その必然的な帰結として、ある種の頽廃的な心性が生まれるということである。 その結果、そうした少女は大体の場合、たばこを吸い始めることになる。 その場合、彼女たちは『たばこが体に良くない』ことを決して知らない分けではなくて、 むしろ、それを重々承知の上で吸い始めるという点が重要である。

   結局そこにあるのは、心理的頽廃から生ずるある種の投げやりで自暴自棄な態度であって、 『自分の健康などはどうでも良い』という気分である。 彼女たちが、最初は避妊するのにその後はしなくなるというのも、 事情はそれと全く同じ事であって、もはや自分の健康への配慮などは眼中にないのだ。 その意味で、この場合の避妊の失敗は単なる知識の欠如の結果というよりは、 むしろ、ある種の頽廃と自堕落の結果である点に注意する必要がある。

   或いは、たとえ知識があっても最初のセックスで避妊しないケースがある。 この場合、事情はもっと微妙で理解するのは困難かもしれないが、 結局、初めて本格的な恋愛に落ちた未熟な青少年が、状況を理性的に制御することが どれほど困難かということを考えてみればある程度、推測が付くに違いない。 つまり、たとえ知識があったにせよ、現実に恋愛感情の激流に流されてしまえば、 そんな知識は何の役にも立たないということを示しているのだ。 その意味で、この種の失敗も知識だけではどうにもならないことであり、 単なる性教育で防ぎ得る問題ではないということが分かるだろう。 つまり、ここにおいても『避妊の為には知識を与えさえすれば良い』 という単純な発想が、既に破綻していることを知るべきである。




   ならば、第二の論点はどうか? 性教育の推進論者は『歪んだ性情報が流布されている』ことを理由に、 『だから正しい性知識により、その歪みを正す必要がある』と主張する。 その場合、何をもって『歪んだ性情報』とするかが先ず問題になるが、 例えば、サドマゾアニメなどがその一例と言い得るかもしれない。 そうした不健全な情報が今の世の中に氾濫していることは否定しようがないし、 この情報化社会の中で、それらを全て抑え込むのは事実上不可能でもあるだろう。 しかし、だからと言って、全生徒に無理やり性教育を施すことが正当化されるのだろうか? そうした情報を一部の青少年が求めたり、結果的に触れたりすることは防げないにせよ、 私には、それが全員に性教育を強制する理由にはならないように思われる。 何故なら、一律の性教育は全ての青少年に一律に性的刺激を与えることになるからである。 それに比べ、一部の好奇心旺盛な青少年が歪んだ性知識に触れて刺激されるとしても、 それはある意味で自業自得というべきであり、 そうでない青少年にまで性的な刺激を強要する権利は誰にもないように思われる。

   それなら『歪んだ性知識にさらされる青少年』の問題は、どうすべきなのか!? 実を言えば、サドマゾアニメ等の歪んだ性情報はそれを求める者がいるから生じるのであり、 そもそも『正しい情報によりそれを駆逐できる』と考えるのは多分、間違いである。 結局、歪んだ性情報は精神的な荒廃の原因というよりは、むしろ結果なのである。 つまり、歪んだ性情報に触れるから青少年が荒廃したというよりも、むしろ、 青少年が荒廃した結果として、歪んだ性情報を求めるようになるのである。 その意味で、現実の性教育は歪んだ性情報を減らすよりは、むしろ増やしているに違いない。 何故なら、性教育による無用な刺激は、 早過ぎる恋愛による精神的な荒廃を促進するからであり、 その精神的な荒廃は確実に歪んだ情報を増やすからである。 歪んだ情報を本当になくす為には、大人を含めた色欲問題の根本的な解決が不可欠であり、 つまりは、過大な欲望飢餓から生じる精神的荒廃を無くすことが唯一の道だろう。 その意味では、例えば徹底的な早婚の推進が、一つの現実的な選択肢かもしれない。




   更に言うなら『性教育』なるものには、始めから明らかな限界と無理がある。 例えば、水泳教育との違いを考えて見ればよい。 水泳の教育では、先ず紙上で知識を与えた後は、必ずプールで実地に泳ぎ方を教えるだろう。 ところが、性教育では紙上で知識を与えはするものの、 誰も責任をもってその後の性行為まで手を取って教える分けではないのだ。 言わば『知識だけは教えるから後は勝手にやれ』と突き放す分けだが、 そうした無責任で中途半端なやり方が如何に残酷な結果を青少年にもたらすか、 その点にどうして気づかないのだろうか!?

   例えば、一部の『女にもてて、しかも女心を手玉に取るのが上手な少年』は、 既に中学生にしてプレイボーイ気取りであるというような噂を聞く。 それに比べ、女にもてない少年や人付き合いの下手な少年は、 そうした状況の中でただ刺激されるだけ刺激されて、放り出されることになる。 他方、そうした『早熟なプレイボーイ』に手玉に取られ、捨てられた少女もまた、 自身の深い絶望と他の少年の激しい嫉妬の視線の中で、ひとり取り残されることになる。 そうした状況が如何に現代の青少年を深く傷つけ追い詰めているか、 まだボケていない大人なら一刻も早く気付くべきなのである。

   実を言えば、同様の状況は我々の青春時代にも既にあったことなのだが、 しかし、その多くは大学生になってから以降のことだった。 ところが、私が聞き及ぶ限りでは、近年は、 そうした現象が高校生を通り越して中学生にまで波及しているという。 仮にそうであるなら、青少年がどれほど荒廃したとしても不思議ではないような気がする。 そうした『性的頽廃現象』に乗り遅れまいと、ただひたすら茶髪やピアスに没頭する青少年、 それでも何の解決にもならなくて、追い詰められ疲れ果てて街頭で地べたに座る青少年……。 それは、この絶望的な状況がいかに現代の青少年を痛め付けているかという証左なのだが、 その点に気づこうとすらしない鈍感な大人に、青少年の荒廃への責任があると言えるだろう。







◇付録4.青少年の荒廃を救う道(四)

   言わば、中途半端で無責任な性教育なるものが、その性的刺激を通じて、 青少年を早過ぎる恋愛に追い込み、男女の関係を荒廃させているのだ。 その結果『望まない妊娠と堕胎』を減らすどころか、むしろ増やしているのであり、また、 そうした荒廃が結果的に『歪んだ性情報』を減らすよりも増やしていると言えるだろう。 その意味で『性教育は不完全なものでしかあり得ない』と認めるなら、 百害あって一利なしの性教育などは一刻も早くやめるべきなのである。 こうした性教育の否定論に対しては『臭い物に蓋』などと批判する者もいる。 しかし仮に『性は汚いものではなく、臭いものとして隠すべきでもない』と主張するのなら、 その人には『手を取って性交まで教える』覚悟が本当にあるのだろうか!? もし、そこまでやる気がないなら『臭いものに蓋』などと言うのは首尾一貫性を欠くだろう。

   そもそも『性を隠す』ことは『汚職や悪事を隠す為の一時しのぎ』とは分けが違うのであり、 それを『臭い物に蓋』と表現すること自体、実は物事の本質を見ていないのである。 多分、性を隠す理由はポルノを汚いと感じる理由と同じであって、その背景にあるものは、 『生殖の手段を単なる快楽追求の手段に転じる』ことを防ぐ為の自然の摂理である。 何故なら、本来の生殖の目的からすれば、生殖から生まれる子供を育て上げる為に、 恋愛で深く結びついた『安定的な男女関係』の存在が望ましいからである。 そして、そうした安定的な関係を保証する為に『性行為を汚いものとして印象づけ、 夫婦間の特別な行為としてとっておく』という自然の戦略があったのに違いない。 無論『今や避妊法の発達により、そうした摂理は無用になった』と主張することは可能だが、 現実問題として、誰もそれを乗り越える方法を知らないのだ。 例えば『手を取って性交まで教える』ことを誰もがためらうことも、その一つである。

   結局『性を汚いものとして隠す』ことには、それなりの合理的な理由があるのであって、 『全てを白日の下にさらせば問題が解決する』分けではないという点が重要である。 つまり、悪事や汚職なら全てを暴いて公けにすれば問題の解決になるかもしれないが、 性の問題は『臭いものに蓋』と批判して公けにしても、現状では事態を悪化さけるだけなのだ。 多分それは『万人の色欲を満たす可能性』という、より根源的な問題につながる話であって、 今すぐここで結論を出せるような性質の問題ではないだろう。 その意味で、性教育を正当化する為に『臭いものに蓋』などという理屈を持ち出すのは、 はなはだしく筋違いなことなのである。 そういう分けで、少なくとも現実の青少年の荒廃を減らす為には、 性教育なるものをやめることが不可欠な第一歩であると言えるのだ。




   その上で、我々が考えるべき問題は他にもある。 具体的に言えば、我々が今すぐなすべき方策として以下のようなことが挙げられる。 第一は、マスコミによる幼年恋愛への挑発をやめさせることである。 例えば『幼稚園児や小学生の恋』などを取り上げて喜ぶTV番組を時折見かけるが、 こうして幼い恋愛をもてはやし、子供をけしかけるマスコミの責任は重大である。 何故なら、恋愛至上主義に毒されて恋愛を無条件に良いものとして祭り上げ、 幼い恋愛をけしかけるような風潮は、性的関係の低年齢化を確実に促進するからである。

   第二は、男女別学の推進である。 つまり、少なくとも妊娠の責任が取れる大学生くらいになるまでの間は、 男女の出会う機会自体を減らすことである。 『避妊の為には知識を与えさえすれば良い』という単純な発想が通用しない以上、 幼い妊娠と堕胎を減らす上では、それが唯一の有効な方策と言えるだろう。 敢えてここでは『最終的に男女共学が良いか悪いか』という議論はしない。 ただ、青少年の荒廃がここまでひどくなった現状を考えるなら、 少なくともそれを打開する為の緊急避難として、 男女別学は特効薬であると言いたいのである。 その意味で当面は、高校や中学の共学を廃止する方向に進むのが望ましいだろう。 近年は、むしろ男女別学を廃止する運動が盛んだが、 青少年の荒廃問題を考えるなら、全く間違ったことをしていると気づくべきである。

   結局の所『大人による未成年の少女の買春』を幾ら法律で禁じたところで、 恋愛至上主義が行き渡った現在、未成年の男女同士の性愛を抑止できる分けではない。 その意味で、そんな尻り抜けの法律は気休めに過ぎないし、 それで現状を変えられると思うのも愚かな幻想に過ぎない。 むしろ、幼い性愛にブレーキをかけ、望まない妊娠と堕胎を減らす上で、 男女共学の廃止こそが実際に有効な方策であると知るべきである。 そして、それは結果的に青少年の荒廃を無くす方向に働くだろう。 つまり、それで幼い性愛を抑止することが出来れば、青少年の荒廃現象が減り、 その結果、いじめや引きこもりの問題も大きく改善されるに違いない。 これは、責任ある大人が一刻も早く実行に移すべき課題であるだろう…… もし、あなたがまだ悪魔に魂を売っていないなら。






※次回のテーマ(予定)※
『◇付録5.人権と族権』
(次回は、今のところ全く未定です)

    *尚、根税制の詳細については、2ちゃんねるの
    『ニュース議論』掲示板内で行われた議論を参照して下さい。
    (私は『闇夜の鮟鱇』という名で書いています。)
        ●これで消費税をつぶそう●
        ●これで消費税をつぶそう● ★第2R★

    *また、最新情報は万有サロンの『鮟鱇の時事放談』にあります。
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        鮟鱇の時事放談(第2R)
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